三、
その声は、吐息混じりの力ないものだったけれど、思っていたよりはるかに高くて、物音ひとつしないうちの中に、はっきりと響きわたった。
「話がしたい」
ぼくが閉じかけたドアの向こうから、声が、途切れ途切れに続いた。
「わたしが怖いなら、こうして、扉を挟んだままで、構わない。あなたと少し、話がしたい。……わたしの言っていることが、分かるか?」
うちに不審者がいることが確定して、戦慄して、逃げようとした矢先、相手に引き止められるという非常事態だ。ぼくは、もうどうしたら正解なのか分からなくなってしまった。
それで、なにも考えずに、ただ、おそるおそる、
「分かります」
と応じた。
「返事をしてくれて、ありがとう。……逃げないで、わたしの質問に、答えてくれるか?」
「……、はい」
「ありがとう」
声の主は、重ねて礼を述べ、苦しそうにひと呼吸してから、ぼくにこう問うた。
「……あなたは、わたしを、殺すために、ここにいるのか?」
正直、急になに言ってるんだろう、と思った。むしろこっちがそう聞きたい。
「あの、ここは、その、ぼくのうちです。ここに住んでるんです」ぼくはまず、大前提を伝えた。「あと、ひと殺しは、ちょっと……やりたくないです」
当然ながらそう答えると、
「……そうか」
ぴんと張りつめていた場の空気が、ほんの少し、変わった気がした。
「では、もうひとつだけ、答えて欲しい。……ここは、なんという国だ?」
「国?」
またもやおかしなことを言い出すので、ぼくはいささか困惑したけれど、相手の話に合わせて、つとめて端的に答えた。「……日本、です」
「ニホン……。そうか。……そうか……」
繰り返し、
それから、ふーっ、という長いため息のあとで、金属がかち合う音がして、ドア越しに、声の主の脚が見えるようになった。どうやら、その場に寝転がったらしい。
「突然、怖い思いをさせて、すまなかった」
そう
「あなたに、危害を加えるつもりは、ない。……どうか、安心して欲しい」
ぼくは、ここまでのやりとりを総合して、このひと、酔っ払ってるんじゃないか、と思いはじめた。きっと、朝うちを出るとき、どこかの窓を閉め忘れたところへ、泥酔したこのひとが偶然通りかかって、なんとなく中に入りたくなって、入って、ご丁寧に窓を閉じて鍵までかけたのだろう。多少でき過ぎた話だけれど、酔っ払いに理屈なんか通用しない。
そう考えると合点がいくし、言われるまでもなく、今度こそ完全に安心だ。
ほどよくからだの力が抜けて、ちょっと思いやりのきもちすら湧いてきたところで、ぼくは一歩前に踏み出して、顔だけ、ドアの向こうへ出してみた。
声の主は、だらんと大の字になって、床に横たわっている。
こちらを襲う気がないのは確かなようだったので、いよいよ寝室の中に足を踏み入れ、おもむろに声の主へ近づいて、その姿を見下ろした。
全身、中世ヨーロッパの兵士が装備するような
相変わらず、息をするのがつらそうで、呼吸の度に肩を上下させている。
そして、ひどい臭いがした。お酢みたいに刺激的な甘酸っぱいガスに、丸一日履いた靴下の悪臭を煮詰めて混ぜたような、顔をしかめたくなる臭いが鼻をつく。おそらく、何日もからだを洗っていないに違いない。
ぼくが視界に入ったのか、声の主、鎧のひとは、少しだけ首を動かして、顔をこちらに向けると、かすかに表情をゆるめ、微笑もうとした、ように見えた。
「やっと、ここまで来てくれた……」
そう言って細めた目の瞳の色に、ぼくは一瞬、どきりとした。髪と同じ、血のような赤色だったのだ。カラーコンタクトまでつけちゃって、とにかく赤が好きなんだなあ、と思った。
「こんな有様で、申し訳ない」
鎧のひとは、再び詫びた。「もう、力が、残っていないんだ」
「ええと……」
ぼくは、できるだけ酔っ払いを刺激しないように、言い方を考えて
「ああ。もう、一歩も動けない」
「それなら、救急車を呼びましょうか?」
「……キュウキュウシャとは、なんだ?」
「え?」
流石に、救急車の概念を忘れるほど意識がもうろうとしているとは思わなかった。呂律がしっかりしているので油断していたけれど、実はこのひと、とても危険な状態なのではという気がしてきた。
「救急車ですよ。ほら、病院へ運んでくれる、赤いランプを点けて、ピーポーピーポー鳴らして来る、あの白い車……」
「……すまないが、分からない。文明が、違い過ぎる」
「ぶんめい」
こっちこそ、話に文明が出てくる意味が分からない。
「……しかし、病院へ運んでもらえるなら、とても助かる」
まあ、説明の大事な部分は通じたようで、ぼくとしても助かる。
「分かりました。じゃあ、救急車を呼びますね」
ぼくはスラックスのポケットからスマホを取りだして、電話アプリを起動した。画面に一一九番を打ち込んで、深呼吸して、発信ボタンを押そうとした矢先、鎧のひとが、かすれた声で、
「キュウキュウシャの前に、ひとつ、頼みがある」
と口にした。
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