影を夢中に探すこと
猫煮
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目覚めてすぐに感じたのは、汗で濡れた寝間着の着心地だった。その触感自体も不快だったが、肉体的な刺激よりも先ほどまで見ていた光景への不快感が勝っている。この寝汗も元はあの光景に由来するのだとすれば、人体とはなんともよくできたものだ。
「はい、もう起きても大丈夫」
宙を眺めたままそんな事を考えていると、真横から女の声が聞こえる。「ああ」と返そうとして初めて、自分が息を切らしていたことに気がついた。荒い呼吸のまま顔を声の方に向けてみれば、タイトな服を着た女、見た目からすれば少女と言って良いだろうか、が笑顔を向けていた。紺のデニムに白とベージュのストライプのトップス、その上にオレンジのアウターを羽織っている。アウターはところどころ毛羽立っていて生活感を感じるが、その生活感が乳房に張り付いたトップスを扇情的に際立たせていた。
口の中に粘ついた唾液が湧き、それをごまかすように飲み込むと、大きな音が鳴る。そこでようやく頭が覚醒した。
「ああ、すまん」
居心地の悪い思いをしながら体を起こそうとすると、全身の筋肉が悲鳴を上げる。よほど力を入れたまま寝ていたのだろうか。
「くそ、俺も歳かな」
「あら、大抵の人は施術後そうなるのよ」
「しかしだなあ」
鈴を転がすような笑い声で言う少女を横目で見る。少女は黒髪のショートに羽を模したヘアピン、化粧っ気はないが、左目尻の下に泣きぼくろがある。大きな二重の目とぽってりとした熱い唇は肉感的だったが、先程のような情感は湧いてこなかった。
「それで、気分は?」
「気分? ぬか漬けみたいな気分だが、なんだってそんな?」
「やだ、面白いことを言うのね。でもまだ目が覚めきってないみたいだわ。顔でも洗ってきたら?」
「ああ、うん、そうだな、そうだ」
少女に従ってバスルームへと歩く間もまだ夢見心地。しかし、蛇口から流れる冷水に手を差し込んだ瞬間、我に返る。そうだ、俺は夢を買いに来たんだ。この歳になるまで気恥ずかしくてこの手の店には入ったことがなかったのだが、職場の新人に勧められて、ようやく『初体験』をすませたところである。
それまでの経緯を思い出して頬がほてるのを感じたが、何度も顔に冷水をかけているうちに気持ちも落ち着いてくる。最後に力いっぱいで水を顔にぶつけると、タオルでそれを拭い鏡を見る。そこにいた男の顔はなんとも情けなく萎れていて、疲れ切って見えた。
「悪いね、ようやく目が覚めたよ」
「そ、良かったわ」
随分とそっけない物言いだが、これも必要以上に距離感を詰めないための工夫だろう。
「しかし、これが夢売りか。初めて体験したが、ひどいもんだな」
「そういえば、初めてって言ってたわね。でも大丈夫、すぐにクセになるから」
先程まで俺が寝ていたベッドの枕元に並べられていたいくつかの機械。先程までは目にも入らなかったが、そこに注射器があるのを見つけてギョッとする。
「おい君、もしかしてその注射器を使ったんじゃないだろうな。変な幻覚剤でも打っていようものなら、困ったことだぞ」
夢だけあって、まずは眠る必要があるが、そこは睡眠導入剤で済ませたはずだ。もしも寝ている間に薬でも打たれていたら。俺は卵にアレルギーがあるから薬によっては大変なことになるのだが、アレルギーの問診を受けた覚えはない。思わず強い口調で問いただしてしまったが、少女はコロコロと笑って気にした様子でもなく答えた。
「これは私のだから大丈夫よ。夢の注入中に心を乱すと、鎮静剤が必要になることがあるの」
「そうか、それなら良いんだが。しかし鎮静剤が必要なほどとなると、もしかすると君にも俺の夢が見えたりするのか」
まずは一安心だが、別の懸念が沸き起こる。自分の夢がこの少女に見られていたとしたら、それこそ恥ずかしいことだ。いくつか見た夢の中には暴力的なものもあったし、なんなら濡れ場のある夢も見た覚えがある。倍は年の離れた少女にそんな秘めるべきものを見られたとすれば、辛いものがあった。
「大丈夫、私のやり方は言語ベースだから」
「言語ベース、何だいそれは」
尋ねた私に、「もう」と口を少し尖らせ、少女はふくれっ面をした。彼女の年齢よりもなお幼い仕草に、思わず目が丸くなる。
「施術前にちゃんと話したのに覚えてないなんて。それともやっぱりまだ夢見心地なのかしら」
その口調からは、少女が自分の技術にどれだけの誇りを持っているのかがよく解った。
「すまない、あの時は不安でいっぱいで。何分初めてなものだからさ」
「ま、良いわ。じゃあ説明してあげるから、座ったら?」
促されるままにベッドに座ると、少女は部屋の隅のチェアに座る。その距離が現在の心の距離であるように思えて、少し寂しくなった。それに気付いてか気付かずか、おそらく気付いてはいるのだろうが、相手をするほどのこともないと考えているのだろう。彼女は説明を始める。これは怒らせてしまったかもしれない。
「夢の注入、正確には記憶領域の励起は、用いる触媒の種類でいくつかに分類ができるの」
そう言うと、少女は指を立て、流れるように話し出した。
「例えば私の使う言語ベースの注入は、単語や短文みたいな非具体的オブジェクトを媒介して大脳皮質の大規模構造から対応したネットワークを励起させるの。この方法は選択的な励起には向かないのだけれど、その分リッチなパターンが得られるのが特徴ね。逆に、選択的な励起をしたいならイメージベース。注入したイメージをあなたの脳が勝手にデコードして補完を始めてくれるから、必ず欲しい要素を含んだネットワークが構成されるわ」
そこまで話すと、少女は一度言葉を止めてこちらを見た。まるで出来の悪い生徒になった気分で居心地が悪くなるが、話自体は理解できた。しかし、そこでふと疑問が湧く。
「へえ、てっきり映画をそのまま脳に映すようなもんだと思ってたよ。しかし、そうするとさっき見た夢は全部俺の記憶ってことかい?」
「そうね…… フルのイメージセットを投影する方法も無いではないけれど…… 。でも、あれは確かファインチューニングが大変で、重篤な精神病の人にしか使っていないはずだわ。けれど、人間の脳はもともと曖昧さに対して鈍感だもの、健康な人がそんな物使うものじゃないわ。だから、あなたが見た夢は全部あなたの中にあるものよ」
素朴な疑問だったが、少女は笑うこともせずに少し悩んでから答えた。
「ふうん、あんな記憶あったかな」
何気なく呟くと、少女は微笑ましいものを見るような目で俺を見た。少女の中に教師を見たり、母親を見たりと、どうも精神が不安定になっているようだ。
「いえね、みんな同じことを言うんだなって。夢は記憶の整理なんて言うけれど、それは整理したい記憶に限っての話だもの。その時に溢れるクズは少しずつ溜まってしまうものよ。だから、外部からの注入でそれが励起されると、新鮮に感じるんでしょうね」
「そんなものかね。しかし、なんだな。言語なんて離散的なもので夢なんて連続したものが見られるものかと思ったが、聞いてみればなるほど。概念ってのは幅があるもんだものな」
気まずさを隠すために話題を戻してやろうと水を向けたが、少女はこらえきれないといった様子で笑い出すと、年相応の甲高い声で腹を抱えて笑い続けた。突然、少女が『少女』という実体を持って現れた気がして呆気に取られていると、ようやく笑いの波が引いた少女が涙を拭いながら姿勢を直す。
「ごめんなさいね、笑ったりして」
「いや、それは良いんだが。一体何かそんなにおかしい事を言ったかな」
「そうでもないのだけれど、あまりにも聞き覚えがあったから、不意打ちで。私も最初そう思ってたのよ」
謝る少女に尋ねると、申し訳無さそうな声で答えたが、口元はまだ笑っている。
「もちろん、概念に幅があるのは確かなのだけれど、夢だって連続的なものではない。学んでみるとそういうことになるのよ」
「そりゃあ、夢の場面が飛ぶなんてことはあるがね、でもシーンごとには繋がってるもんじゃないか」
「あら、本当にそうかしら。さっき見た夢のシーンを一つ思い出してみて。どんなシーンだったか」
なにか遊びでも始めるような声で言う少女に、せっかくだからノッてやろうと夢を思い出してみる。いくつか見た夢の中でもはっきりしたシーンは何箇所かあったが、当たり障りのないシーンの方がお互いの精神衛生上よろしいだろう。
「そうだな、たしかあのシーンは友人と紅茶を飲んでいるシーンだった。欲しい一言が貰えて、ホッとして、けれど少しだけ喪失感があった」
「そのお友達の顔、思い出せる?」
「もちろんだ。見たばっかりの夢だからな。あれはそうだな、中学時代の友人に似ている。それに海外の俳優、なんて言ったっけか、占い師の映画でヒットした彼を混ぜた感じの顔だ」
「ああ、あの映画。私も見たわ。あなたも映画好きなの?」
「いや、そこそこだな。あの映画も話題になってたので見に行っただけさ。まあまあ面白かったかな」
「そうなの。でも、あの俳優、普段はコメディー系の映画に出てるらしいから驚いたわ」
「ん、そうなのかい。あの映画だとシリアスな役だったから、知らなかったな」
「芸達者よね。ところで、ごめんなさい。その夢の彼、どんな顔って言ってたかしら」
「そりゃあ、だから、中学の友人の顔に …… 」
待てよ、本当にあの俳優にも似ていたっけか? いや、思い返してみるとそれほどでもない気がしてきた。
「すまない。あの俳優には似ていなかったかもしれないな。それに、コメディって感じの夢でもなかったから」
「なら、どんな顔だった?」
そう言われて、しっかりと夢の友人の顔を思い出してみる。顔のベースは確かに中学の頃の友人の顔だ。しかし、そのものの顔と言うわけでもない。友人の顔よりも、目が細長くて、鼻も高くて。いや、待てよ。あいつの顔はそもそもどんな顔だったっけか。あいつは朗らかな性格で、くだらない話で良く笑い合っていた。あいつの笑顔は、確か、確か…… 。
「思い出せない、駄目だ、思い出せないぞ」
急に疲れた気分になって、座っていたベッドに手を付く。と、何かを手で弾いてしまう。見てみれば、それは水が入っていたであろう紙コップ、中身はすでにぶちまけられている。
「あ、悪いね。こぼして、いや待て。こぼしただと? こんなコップ有ったか?」
「ええ、最初から有ったわよ。あなたが飲んでた水だもの」
言われて考え込む。喉の乾きは無かったはずだし、こんなガラスのコップを手に取った覚えもない。
「そうだったかな。おかしいな、普段はベッドの上にコップなんて置かないんだが」
「ベッド? 何言ってるの。あなた、さっきからベンチに座ってるじゃない」
「なんだって?」
言われて見てみると、確かに座っているのはプラスチックのベンチだった。公園にあるような休憩用のベンチではなく、古いスタジアムにあるような青い塗料の剥げかけたベンチである。
「ほら、もうすぐあなたの打順よ」
「待ってくれ、さっきまで俺はベッドに腰掛けて。いやそれよりも、打順だって?」
「何バカなこと言ってるのよ。今は延長10回、相手に1点取られてツーアウト三塁。後がないんだから、しっかりしたら?」
「あ、ああ。それは責任重大だ」
そうだ、そういえば今、草野球の練習試合の最中だった。練習試合とはいえ、ご意見番が見ている。ここで負ければしこたま叱られるだろうし、ここは外せない。緊張のあまり肩が怒るのを感じながら、バッターボックスに立つ。
ピッチャーマウンドに立つ相手は、昔なじみだ。中学の頃からの友人だが、今は敵同士、あいつの癖は知り尽くしているが、俺の癖もとっくにバレている。それでもこの一番で負けるわけには行かないと、腰を落として迎え撃つ構えを取った。
やがて、キャッチャーになにか頷いてみせたあいつは大きく振りかぶると、少しの溜めを入れる。あの腰のひねりは内角高めのカーブの時の癖だ。球筋を当て込んで、あいつが投げ込むのと同時、予想した位置へとバットを振り抜ける。
「ストライク!」
しかし、バットが何かを捉えた感触はせず、後ろでミットに球が吸い込まれる音と、審判の鋭い声が響いた。フェイント、いや、俺が読み間違えたのか。あいつもいよいよ本気らしい。中学のころ、河原で野球ごっこを続けてきた間柄だ。落ち着けば癖を読み取れるはず。深く深呼吸し、バットを再び構える。ベンチからはチームメイトの声援が響いており、漫画の主人公にでもなった気分だ。
やがて、振りかぶったあいつは、溜めを入れずに投球に。これは真ん中ストレートで間違いない。
「ツーストライク!」
後ろから聞こえてきた音と声に呆然とする。球筋は読み切っていたはずだった。なのに、振り抜く手前、ほんの数十センチのところで珠はななめ下に曲がり、ストライクゾーンギリギリをかすめていった。あんにゃろう、あんな器用な球、いつの間に投げられるようになったんだ。
「いけー! かっとばせー!」
ベンチからは諦めムードが漂う中、俺と同じユニフォームを着た少女だけが、大声で声援を送ってくれる。あの期待に応えるためにも、この一球、背水の陣だからこその読みの冴えを見せてやる。
そんな気合を込めてあいつを睨みつけると、あいつも俺の目をまっすぐに見返してきた。睨み合って数秒、あるいは数十秒。あいつが振りかぶる姿をしっかりと観察する。フェイントにはもう騙されない。球が指から離れるまで、しっかりとフォームを見て。フォークか、いや、これは。ストレート!
球めがけてバットを振り抜くと、芯で確かに何かを捉えた感触。甲高い音とともに、球が空へと登っていくのを見るが早いか、俺の足はひとりでに一塁へと駆け出していた。高く上がったが、あれはホームランにはならないだろう。それどころか、フライを取られる可能性もある。それでも、回る。一つでも塁を進めれば、次に繋がるかもしれないし、三塁がホームに戻れば同点、勝負はこれからだ。
一塁に駆け入りざま球の行方を見ると、外野が取りこぼして追いかけているところ。ここで攻めるか、止まるか、考えるまでもなく二塁へと回る。
「回って! 回ってー!」
少女の声を背に、全力で走るが、相手の外野も拾った球を全力で二塁手へと投げ返す。間に合うか、いや、間に合わせる。白球が二塁に迫るが、まだ俺のほうが近い。あと五歩、白球が迫る。あと四歩、二塁手が体を伸ばして玉を迎えに行く。あと三歩、グローブを叩く音が聞こえるが、あいつの足は塁から足が離れている。残りの二歩は低く跳んで、体を沈め、スライディング。かかとが地面を削る振動とともに、二塁手のグローブが迫り、そして。
足の裏がなにかを蹴り飛ばす感触に少し遅れて、脛を叩かれた。
「良し!」
「何が良しよ」
快哉の声を上げると同時、後ろから頭を叩かれた。驚いて振り返ってみれば、少女がふくれっ面で立っている。その服はジャージの上下で、中学の学校指定のものだったはずだ。
「え、いや。俺はいま二塁に滑り込んで」
「何言ってるのかわからないけど、引っかかったなら外に出たら? レクリエーションなんて言っても、大縄なんて私だってやりたくないけど、ちゃんとやっとかないと先生がうるさいんだから」
「大縄?」
言われてみれば、確かに俺の周囲にはクラスメイトが一列になって並んでいて、こちらを面倒くさそうに見ている。下を向いてみれば、ジャージを履いた俺の足だけに縄がかかっていた。
「あ、ああ。そうだ。ドボンしたら抜けるルールだったっけか」
言われて思い出す。そう言えば、今は林間学校のレクリエーションの最中だった。面倒な時間だしこんな遊びで親交が深まるとも思えないが、素直に従っておいたほうが得てして特である。促されるままに縄の中から出ると、広場の隅の木陰に座る友人を見つけた。
「よう、休憩か?」
あいつのクラスはまた別のレクリエーションをやっていたはずだ。近付きながら声を掛けると、友人は無言で肩をすくめ、困った顔をする。あいつがこの顔をするときは後ろめたい事があるときだ。おそらく、面倒でこっそりとフケてきたのだろう。俺も人のことは言えないが、あいつも大概真面目な方ではないしな。苦笑しながら無言であいつの隣に座る。
「そっちのクラスは良いよな。可愛い娘がいるじゃないか、あの、何てったっけ。長髪の」
笑顔で大縄を飛ぶ少女をぼんやりと眺めながら、友人に話しかけるが、返ってくるのは「ああ」だの「うん」だの煮えきらない台詞ばかり。ははん、さては。
「お前、その娘に惚れたんだろ」
小声で尋ねると、ぎょっとした顔で弾かれたようにこちらを向く友人。さては図星か。ここからどうイジってやろうか、自分でも悪い笑みになっているのを自覚しつつ、口を開いた瞬間である。
「おおい、次の周だから戻って来たら?」
少女がこちらに向かって大声で話しかけた。大縄なんかよりも、友人の甘酸っぱい感情を弄くり倒す、もとい、『控えめに』からかってやりたい気分だったが、ここで断って後で告げ口でもされればまた面倒なことになる。それでもしばらく葛藤したが、結局は大縄を選ぶことにした。
「おい、後でちゃんと聞かせろよ」
友人に一方的に話しかけてから、大縄の下へ。早めに引っかかって、続きを問いただしてやろう。そんなことを思いながら、大縄を飛ぶ。一回、流石にわざとらしすぎるか。二回、まだ早い。三回、これぐらいは飛べるやつも多い、あと何度かは飛んでおこう。四回、体勢の崩れたやつが何人か、あの集団に混ざるか。五回、まだ誰もかからない。
そして六回目の跳躍。二つ前のやつがミスしそうだ、よく見ながら…… 見ながら…… どうしたんだ? いつまで経っても足が地面につかない。不思議に思って下を見てみれば、数メートルほど下、敷かれたマットの外で、少女がこちらを不安げに見上げていた。
「頑張って、あと二メートルよ」
二メートル、そう言われて思い出す。今はボルダリングの最中だった。友人と他数名を誘って、アクティビティの一つ二挑戦したのだ。友人と俺以外は早々に脱落し、隣のルートを見てみれば友人がちょうどゴールホールドに手をかけたところである。これは負けてはいられない。年甲斐もなく、対抗心が燃えてきて、腕に力が入る。待て、年甲斐もなく? 俺は今何歳だったか。そんな事を考えていたからだろうか。ホールドにかけた指がすべり、体制が崩れる。とっさに腕を伸ばすが、ホールドには届かず、俺の体は崖から離れてしまった。
「どんまーい!」
下から聞こえる失意のざわめきの中、少女が励ましの言葉をかける。命綱でゆっくりと降ろされながら、手でも振ってやるかと首を回すと、そこには白い八角形の床、そしてパソコンの乗った机が有った。
「は?」
「声が大きいわ。どうしたの? なにか想定外の事態が?」
耳元で少女の声が聞こえるが、姿は見えない。
「いや、俺は今、何を?」
「大丈夫? 失敗は許されないわよ。そのセンサーはたとえ汗が一滴落ちただけでも反応するわ。秘密裏に情報を奪取するには冷静で的確な行動を心がけて」
「ああ、解っている。俺の方に問題はない。あるとすれば、ロープを上で握っているあいつの方…… 」
待て、これは映画だ。スパイ映画のシーンでこんなのがあった。確かこの後、上で支えている相方がネズミに反応してロープを持つ手が緩み、吊り下げられているスパイが地面にぶつかりそうになるんだ。そう考えた瞬間、浮遊感が俺を襲った。思わず大声を出しそうになるも、必死で飲み込んで我慢。ところが、映画と違っていつまでも落ち続ける。いつまでも、いつまでも、そもそも床はどこだ?
「何してるの?」
同じように落下している少女と目が合うと、彼女は素っ頓狂なことを聞いてきた。言わなくても解るだろう!
「落ちてる!」
そう叫んだ瞬間、上体が反射的に跳ね起きる。荒い息も整わないままに周りを見てみれば、ホテルの一室だろうか。くすんだ安っぽい壁紙に、年季の入った調度品、そんな物に囲まれたベッドはコイルがヘタっており、その上に俺は寝ていたようだ。
「随分と息が荒いわ。大丈夫?」
枕元に座りながら気遣わしげに尋ねる少女。その姿は眠る前と同じで、ねずみ色のバルーンパンツに水色のポンチョのようなだぶついた上着、お世辞にも良い取り合わせとは言えないが、不思議と彼女には似合って見えた。
「落下している気がして。いや、それは今もそんな気がしているんだが」
「何よそれ、相対性理論でもキめてるの?」
「すごい言い方だな、それは」
見た目相応の若者らしい言葉遣いに、思わず苦笑が漏れる。若者の日本語離れなどと言うつもりはないが、歳がはなれた人間の言葉遣いとはおおよそ奇妙に聞こえるものだ。とはいえ、今はそれがかえって現実感を感じさせ、その感覚に安心を覚える。
「そうか、夢だよな」
安心感から、つい独り言を呟くと、少女はなんでもないようにこう応えた。
「ええ、夢よ」
その言葉と共に、床も壁も調度品もすべてが崩れ去り、俺の体は再び宙へと投げ出された。
「なんだ、なんなんだこれは!」
「だから、夢よ」
座ったままの姿勢で隣で落ちる少女が、こともなげに言う。夢、そりゃあ、こんな馬鹿げたことは夢でなけりゃ起きないだろう。だが、聞きたいのはそこじゃない。
「なんで! 落ちる夢なんか見てるんだ!」
「それこそあなたしか知らないわよ。あなたの夢なんだから。夢だと解っているなら、なにか命令でもしてみたら? あなたが夢に支配されてるわけでもなければ、だけど」
その言葉に何故か心当たりを覚えたが、そんなことよりも、必死で何を言うべきか考える。なにか手がかりがないかと視線を彷徨わせていると、少女の髪に飾られた羽のヘアピンが目に入った。なぜそんなことを思いついたのは解らないが、とにかくこれしかないと感じて彼女の髪に手を伸ばす。驚いてのけぞろうとする少女だったが、それよりも前に俺の手が届く。
「失礼」
一言謝ってから大声で命令した。
「俺達を乗せて浮かべ!」
すると、少女のヘアピンが一瞬の内にサイズを変え、四畳はありそうなサイズまで膨らむと、俺達の下へと滑り込んだ。その上に音を立てて俺と少女は落下する。正確には、少女の方は軽い音、俺の方は重い音だったが。
「あなたって」
少女はそこまで言ってから戸惑うように口ごもった。
「なんだい、言えよ」
「その、メルヘンなのね」
とっさになにか反論しようとしたが、視線を下に向ければ、小さくなっていく部屋の残骸と俺を隔てる巨大な羽。しばらくなにか捻り出そうと悩んだが、結局出てきた言葉は「そうみたいだ」と、馬鹿のように追従する言葉だけだった。
「それで」
しばらくの無言の後、少女が尋ねる。
「どうするの?」
「どうしようか」
これまでに味わってきていた突拍子もない出来事に、疲れ切った気分でいた俺はなげやりに返す。そんな俺の疲弊にお構いなしに、少女はため息を付くと、しばらく考えてこう提案した。
「『目覚めろ』なんて命令はどうかしら」
無気力にその命令を口にしてみた瞬間、俺の目は開かれた。
目を開いた先に見えたのは、白い天井である。身動ぎをしようとして、体が動かないことに気がついた。どうも、ベルトか何かでベッドに縛り付けられているようである。
「おはようございます」
呻きながら身体を捩っていると、脇から穏やかな女性の声がした。そして、軽く弾ける音と共に、体が自由になる。声のした方に首を向けてみれば、黒髪の女性、羽をモチーフにしたピンを白衣の襟につけた女性がこちらに笑いかけている。見覚えのある顔の気がするが、どうも思い出せない。
「まだ覚醒しきっていないようですね」
呆然としていると、女性は俺の鼻の下に小さなアンプルを近付けた。すると、凄まじい刺激臭が鼻の中を暴れまわり、思わずむせる。それと同時に、自分がどこにいるのかを思い出した。
「ありがとうございます」
そうだ、展示会に来て、夢の操作をやるというブースの体験をしていたのだ。眼の前の女性は、そのオペレータである。
「いや、すごい技術ですね。よく覚えてはいませんが、とにかく新鮮な夢でした。シナリオはあなたが?」
「まあ夢ですからね。今回のモデルは言語ベースですから、強いて言えば、シナリオはあなたですかね」
お茶目に笑いながら言う女性に、ふと夢の中のことを少し思い出し、口に出す。
「そういえばあなたも出てきましたよ。可愛い女の子でした」
「まあお上手。では体験は以上になります」
お世辞と思われたか。受け流されてしまったが、世間話以上の意図もないので掘り下げないでおく。ベッドから起き上がり、地面に足をつけようとしたところでふと不安になって尋ねた。
「まさかこれも夢じゃないですよね」
彼女は驚いたような顔をしてから、少し思案して、言った。
「さあ、どうでしょうね」
影を夢中に探すこと 猫煮 @neko_soup1732
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