高校時代

 チャイムがなる。

 学校というものの象徴のように、鐘の音を模した電子音が流れる。


「清水ー、帰ろー」


 同じクラスの神田愛子だった。

 すらりと伸びた高い手足に、短いスカートがよく似合っている、高校生らしい少女。あまり似たタイプではないが、たまたま話す機会があって、馴染まないままに仲良くしている。


「ごめん。今日部活」

「えっ清水って部活入ってたの?」

「うん、文芸部。いつもは活動ないけどね」

「なんだ、帰宅部かと思ってたのに」


 神田はどこかつまらなそうに呟く。

 その口調に引っ掛かりを覚えつつも、私は特に何も言うことはしなかった。多分まだ、そこまで親しくない。


 三年生になったばかり。クラスの人もよく知らなければ、あと一年で高校生が終わることもいまいちピンときてない、そんな時期。


 元々友人が多い方でもなく、かつ教師からそれを心配されるタイプでもなかった私は、知り合い一人いないクラスの真ん中に放り込まれて退屈な顔をしていた。

 それでも話す相手の一人もできないほどに社交性がないわけでもない。


 つまりまぁ、そこそこ上手くやっていた。


「じゃ、また明日ねー」


 神田が手を振って教室を出ていく。


「また明日」


 私もそれに合わせて手を振る。

 神田は振り返らない。


 何気ない人生の一コマ。


 この瞬間を思い出す日が、いつか来るだろうか。

 思い出しもしなければ、意味を持たない時間なのだろうか。


 私は今、感情の渦の中で暮らしている。

 浮き沈みする心の中に、私の居場所を探している。

 これはそんな日々の話。


────────────────────────


 部室の空気は埃っぽい。

 長年の蓄積を感じる。単純に、あまり人が入らない部屋だからだというだけかもしれないが、積み重なった部誌は薄茶色に変色していて一種の歴史を感じさせる。


「紙持って、印刷室行くよー」


 部長の山形理恵が声をかける。

 と言っても、今ここにいるのは山形と私の二人だけなのだが。


「全く、今回も印刷誰も来ないね」

「まぁ面倒くさいからね」


 文芸部というものは、普段はそう活動が多い部活ではない。

 各自家で小説を書いて、暇な時に学校のPCに打ち込んで、USBに保存。年に四回印刷をする。

 今回は新入生歓迎号、つまりは新歓イベント用の部誌の印刷だった。


「二人でやると時間かかるから嫌なんだよなぁ」


 山形がぶつぶつと文句を言う。

 私は曖昧に笑った。

 確かに二人での作業は大変だが、あまり大勢来られてもそれはそれで面倒だというのが私の意見だった。特に後輩なんかが来ると、気を遣ってしょうがない。引き継ぎをどうするのか、という問題はあったがそれはまぁ追い追い考えていけば良いだろう。


 山形のことは好きだった。

 だから二人きりでもあまり苦にならない。


 山形は気性のはっきりした女だ。ぐずぐずしたところがなく、発言はいつも真っ直ぐ。作品にもそんな彼女の性格がよく現れている。うざったい描写はなく、書かなければならないことだけが簡潔に書かれている。


 彼女はいつも自分の作品を論文みたいと言う。きっと自分の割り切った性格は彼女の中でコンプレックスなのだろう。だが私は彼女のそういうところが好きだった。

 気持ちの良い女だと思う。


「みんな書くだけ書いて印刷はしないって勝手だと思わない?」

「だね。忙しいのかな」

「兼部してる子も多いしね。もっと本気で小説を書こうという奴はいないのか!」


 鍵をガチャガチャとかけながら、山形は悔しそうに言う。

 彼女は将来の夢は小説家なのだと、誰にでも公言していた。

 誰よりも本気で小説に挑んでいる。


 そういう真っ直ぐな性質を、私は好いているのと同じくらい羨ましいと思っていた。自分にはない美点だ。


「山形はいつも本気で偉いね」


 そう言ってみれば、山形は呆れたような顔をする。


「アンタだってフル参加じゃん」

「まぁそうだけど」

「自分は違うみたいな顔しないでよねー」


 そうは言われても、違うのだからしょうがない。

 本気な私と、妙に冷静な私。どちらが本質かと言われれば、冷静な方……としか言いようがない。


 深夜、ノートに小説を書き殴ってる時間は何よりも好きだ。

 生きているという感じがする。

 私の情熱はここにあると思える。


 だが私の現実は昼間、教室で授業内容をノートに書きつける方。

 だいたいそんなものじゃないか、と思う。

 授業中も小説のことばかり考えて内職をしている山形とは違うのである。

 だって受験もあるし、高校が終わっても生きていかなきゃいけないし。


 今に全部賭けるなんて、そんなことできる?


「清水、今回どんなの書いたの?」

「山形ってなんでそう言う話平気でできるの? 恥ずかしくない?」

「別に私恥ずかしいもの書いてないもん」

「そう言っちゃそうだけどさ……」


 私が書くものなんていつも文学のなり損ないだ。純文学を名乗るのはちょっと恥ずかしい。

 私の中のどうしようもないものとか、解決できないように思える永遠のモヤモヤ、そんなものを主人公に仮託する。

 だからある意味では青春小説?

 そんなに眩しいものではないが。


「山形はいつも通り恋愛小説?」


 この女の可愛いところは、竹を割ったような性格と文章で、恋愛ごとに大いに興味があるところである。


「そうー。ってもやっぱり甘ーい感じにはならなかったけどね」

「山形らしくていいじゃん」

「私は女の子が思わずときめくような恋愛小説が書きたいの」

「ときめきねぇ」


 残念ながら人との出会いよりも本との出会に心を動かし、人と向き合うよりも本と向き合っている私たちには、どだい無理な話ではなかろうか。

 色恋に興味がある山形だが、現実には理想的な相手はいないらしい。


 ということで私たちの高校生活は双方ともにロマンスなしで運営されている。

 別に惜しいとも思わないが。

 男がとか、女がとか、そういうのはなんだか気持ち悪く思える。

 恋愛中心の社会が好きじゃない。だって本当に大切なことはもっと別にあるでしょう。 


 だから山形の次の言葉に、私はぎょっとさせられてしまった。


「そういえばなんか、後輩から告白されたわ」


 顔を逸らしたまま、早口で、なんでもないことかのように言う。

 私は不自然な間を作ってしまってから、そのまま取り繕えもしない口調で聞いてしまった。


「え、本当?」

「そんな嘘つかないって」


 そりゃそうだ。


「……付き合うの?」


 恐る恐る聞いてみる。

 心のどこかで、山形も自分と同じ考えを持っていると思っていた。

 こいつは一生の私の仲間だと、そう思っていたのだ。


「うーん……考え中……」


 山形はぼんやりと言葉を濁す。

 その横顔に、つまらないなという感情がわいた。


「何、私も知ってる子?」

「知らないと思う。てか私もあんまり知らない子」

「えーびっくりしちゃったわ」


 冗談めかした口調で言ってみても、山形の顔は真剣なままだった。

 そんな真剣な顔のまま彼女は口を開く。


「あのさ、相談しても良い?」

「良いけど……」

「……良い小説を書く経験のために付き合ったら、不誠実かな」


 ずっと考えていたのだろう、彼女の固い口調には切実さがあった。

 私も思わず考え込んでしまう。

 恋愛小説を書くには恋愛経験が必要だろう。そのために多くの経験を積むことが間違っているかと言われれば、間違っているとは言えない気がする。

 だがそれが誠実かと言われると……。


「うーん、難しすぎる」


 思ったままを口に出してみる。


「もし仮に私に彼氏がいたとして、そうやって別の目的があって付き合ってるんだとしたら、ちょっと嫌かも」

「だよね……」

「でも付き合うときにそれでも良いかって聞かれていたら、良いよって言うと思う。好きならね」

「じゃあやっぱ正直に言ってみるしかない?」

「かなぁ……?」


 こんなこと、私に相談されても真面なアドバイスができるはずもない。

 結局当たり障りのないことを言ってしまったような気がする。

 だからせめて、私にしか言えないことを言おうと思う。


「山形にとってさ、一番大事なのは小説なんでしょ?」

「……うん。やっぱりそれは変えられないと思う」

「じゃあさ、それを理解してくれない相手なら要らなくない?」


 自分の本質を、中核を、理解してくれない隣人などいらない。

 本物じゃない馴れ合いなどに興味はないだろうと問いかける。


「てか小説のために生きてる山形を肯定できないなら、それは山形を好きってことにはならないよ。アンタの可愛い顔に惹きつけられただけ」

「…………なるほど」


 山形の表情が少し緩む。口元がニヤついていた。

 それを見て、自分の中のくだらない感情が溶けていくような気がした。

 だからこう言ってやる。


「付き合ってみちゃえば?」


 反対されると思っていたのだろうか、山形は驚いたようにこちらをみる。


「案外上手くいくかもよ。良いチャンスじゃん」

「……アンタが応援してくれるとは思ってなかったわ」

「私をなんだと思ってるんだ」

「だって恋愛とか嫌いそうじゃん」


 それは当たりかもしれない。

 恋愛が、というより浮ついているのが好きじゃないのだ。

 この世の苦悩も何もかも、恋愛があれば溶けてくれるかのような風潮が好きじゃない。


 でも別に私だって興味がないわけじゃないのだ。

 本質的な意味で、誰かを愛し愛されるなんて面白いじゃないか。そういう相手だったら欲しいと思う。

 要は潔癖と高望み。


「私だって彼氏とか欲しいよ」


 そう言って笑ってみれば、意外ーと笑い返される。


「良い男がいないだけでねー」

「清水は理想高いなぁ」

「まだまだ安売りする必要はないでしょ」


 だってまだ高校生なんだし。

 少しくらい夢を見ていても、許される年頃のはずだ。

 いつか誰かと運命的な出会いをするのなら、それを待っていたい。

 そんなものがないのなら、それはそれで良し。


 自分は一人でも生きていけるのだと思っていた。

 少女特有の無敵感だ。


「さて、無駄口叩いてないで印刷しますか!」


 山形が腕をまくりながら、威勢良く言う。

 この子は変に思い悩んでいるよりもこの方が良いと、そう思った。


────────────────────────


「遅くまでご苦労さん」


 結局印刷が終わって、職員室に鍵を返しにいく頃には最終下校の時間だった。

 二人ともへとへとになって顧問に挨拶をする。


「これ、今回の部誌です。お納めくださーい」


 山形がざけた様子で部誌を顧問に差し出す。

 顧問は「また分厚いな」と満足そうに笑った。

 文芸部は総勢十名。そのそれぞれが思い思いに小説を書いてくるので、それなりの厚さになることも多かった。


「前回の読んだが、なかなか良い出来だったな」


 褒められれば、嬉しい。

 二人して顔を見合わせ、小さく笑ってしまう。


「特に清水は小説賞とか出さないのか? 題材的にも、もうちょっと長く書けば出せそうな作品、結構あると思うが……」

「賞ですか?」


 そこまで考えたことはなかった。

 小説賞。憧れはある。

 だが出すだけ出して何もなかったら悔しいし、どうせ何もないだろうと思うと、正直乗り気にはなれない。


 つまりは私のプライドが高すぎた。


「うーん……そんなに上手くないですし」

「そうか? まぁ考えてみておいてくれよ」


 適当に誤魔化せば、顧問もそれで黙ってくれた。

 自分がどこまで本気なのかわからない。

 山形のようにはなれないと思う。


 だが小説への思いはある。


 私は何になりたいのだろうか。

 どうなりたいのだろうか。

 一生ずっと小説を書いて生きていく?

 それとも今だけのこと?


 自分のことなのに、何一つとしてわからなかった。


 思春期につきものの将来の悩みだと、そう思う。

 誰でもこんなことで悩んでいるのだと。

 どこにでもよくある、つまらない、月並みな悩みの一つ。

 それに今真剣になるのも馬鹿馬鹿しいことかもしれない。


 私は何になりたいのだろうか。

 十年後の未来ではわかっているのだろうか。

 こんな葛藤も、懐かしいものだと思えてしまうのだろうか。


 未来が見れたら良いのに、と思う。

 そうすればこんなことで悩む必要もなくなる。

 自分のことが一番わからない。そう思った。


────────────────────────


 我が家はいつも冷たい。

 家族仲が悪いわけではなく、なんだかいつも冷め切っているのだ。

 玄関ドアを開けると、薄暗い廊下に電気もついていない部屋が見える。


「ただいまー」


 返事はなかった。


「お母さん、また寝てるの?」


 リビングに顔を出せば、電気を消してソファで眠る母の姿があった。

 最近母はよく寝ている。

 別にそれで困ることはないのだが、帰ってきて家が真っ暗だと、少しだけ心が冷える。


 私は高齢出産の子供だった。

 父は老躯をおして働きに出ている。母も身体的に高校生の娘を抱えるのはしんどいのだろう。


「お母さん、ただいま」


 電気をつけて、母を揺り起こす。

 ぼんやりと瞼を上げた母と目が合った。


「……あら、おかえり。今日遅かったわね」

「部活あるって言ったじゃん」

「そうだったかしら……」


 重たそうに身を起こして、はぁと欠伸をする。


「そろそろパパも帰ってくるかしらね。ご飯スイッチ入れちゃって」

「はーい」


 昔はもっと溌剌とした母だった気がする、と思う。

 歳というのは怖い。

 人をこんなにも変えてしまう。

 私もいつか歳をとって、こうして変わっていってしまうのだろうか。


「そういえば三者面談、いつだったかしら」

「来週だよ」


 そんなイベントもあった、と少し気が重くなる。


「あなたも進路とか決めないとねぇ……」


 母の言葉に、さらに気が重くなった。

 進路。

 高校三年生につきものの、一番重大な悩み。


「進学くらいはさせてあげられるから安心してね」


 黙った私に、母が笑いかける。

 そういう心配もなくはなかったが、それだけで安心できるという具合でもなかった。


「何したいとか決まってるの?」

「……文学部かな」


 適当に、曖昧な返事をする。

 結局好きなことなど本くらいしかなかった。

 しかし母は顔を顰める。


「文学部なんて行って、将来どうするの? 就活に不利なんじゃない?」


 ごもっともな指摘だった。

 文学なんてやって何になるのか。

 確かに。

 そして、将来。

 私は暗い顔でその言葉を聞いていた。


「唯、あなた何になりたいとかあるの?」


 母の口調は、本当に心から心配しているようであった。

 老いた母に心配はかけたくないと思う。

 それと同じくらい、やりたくないことはやりたくない。


「福祉の大学とかはどう? きっと役に立つわよ」


 何の役に、と聞きそうになるのを必死で堪えた。

 母は看護か福祉の仕事について欲しいと思っているのだと、もう随分前からわかっていた。

 自分の老後が心配なのだろう。


 もちろん老後の面倒を見る気はあったが、そこまで当てにされると嫌気がさしてくる。

 老いてまで子供を望んだのはそっちの勝手。

 私の知ったことじゃない。


 しかし、知ったことじゃないふざけるなと言えるほど、私は強くもなかった。


「出版社とかで働きたいんだよね」


 私は適当なことを言う。

 本心だが、きっと本心ではないことはわかっていた。


「出版社ねぇ。まぁあなた、本が好きだものね……」


 その内容には満足だったのだろう。母はそれ以上何も言うことはなかった。


 安心させて欲しい。

 そんな両親の思いをひしひしと感じる。

 それに応えようと心から思えないことが、何より苦しかった。


 この家は冷たい。

 寒々しいのだ。

 私の心のせいだと思う。


 自分の小さな手のひらを見て、私はため息をついた。

 こんな小さな手で、いったい何ができるだろうか。


 もし私が本当のことを言っていたら、母はきっと良い顔はしなかっただろう。

 怒ったかもしれない、失望したかもしれない。

 結局残ったのは母の負の感情を恐れる私だけだった。


 惨めだ、と思う。

 家にいるとそんなことばかり思ってしまう。


 全部投げ捨てられたらどんなに良いだろう。

 全部、全部投げ捨てて、自由になれたら。


 それでもわかっていることは、自分はそうはしないだろうということだけだった。

 私はどこにも行けない。

 水場で水滴が落ちる音が、私の心のようだった。


────────────────────────


 書く。

 小説を、書く。

 私の心を、言葉を、紙の上に書き写していく。


 荒々しい感情の渦は、真夜中と共にやってくる。

 暗い部屋に灯る机のライトが、私の人生の道標だった。


 生きていると思えた。

 冷え切った家の中で、今私だけが熱源となって動いている。


 私の小説。

 私の主人公。

 どうか私を救ってください。

 この狭く苦しい世界から解き放ってください。

 私に光を見せてください。

 それさえあればもう何もいらないような、それだけでこの先も迷わず生きていけるような、そんな光を。


 私はちんけな人間だった。

 つまらないことに拘って、真っ直ぐに生きることもできない、つまらない人間。ちゃちなプライドを抱えて、冷静で賢いふりをして、どうしようもない人間に成り下がっていた。


 この熱が錯覚でないのなら、どうかこのまま焼き尽くされてしまいたかった。

 

────────────────────────


 神田と帰る時、時々寄り道をする。

 今日はその時々だった。

 普段は何かあった日に声をかけられるのだが、今日は神田の気まぐれだった。


「カフェ寄ってこ」


 何やら不機嫌な様子だったのに、神田はそう言う。

 私は不思議に思いつつも頷いた。


「良いよ」


 学校の最寄りの駅前、小さな喫茶店がある。

 気のいい老主人が営んでいる、落ち着いた雰囲気の喫茶店だ。

 カラン、と扉を開けると鐘の音がする。

 中には何人かの学生がいた。


「おや、いらっしゃい。今日は二人?」

「こんにちは、二人です」


 老主人は朗らかに迎え入れてくれた。


「今日もクリームソーダで良いかい?」

「はい、お願いします」


 ここのクリームソーダは美味しい。

 と言っても、他の店と比べたわけではないのだが。キラキラしたグラスの中に泡も弾ける緑のソーダ、甘すぎないアイス、シロップ漬けの赤いさくらんぼ。完璧なクリームソーダだと思う。

 そう思わせるのは私たちの青春のおかげなのかもしれなかった。

 机に並んだ二つのソーダにうっとりと声を漏らす。


「やっぱこの店いいね」


 神田は窓の外を見ていた。


「うん」


 その横顔に、何だか嫌な予感がする。

 今日の神田は明らかに何か思い詰めていた。


 神田は綺麗な少女だ。黙っているだけでも凄みがある。

 妙な、緊張した気持ちで、私はただその横顔を眺めていた。


「……清水さ、進路希望どうした?」


 神田が唐突に言う。

 それで悩んでいるのかと、少しほっとした。


「まぁ、無難に進学かな。就職とか専門ってほどやりたいことも決まってないし」

「そっか」


 神田とはまだ目が合わない。

 長いスプーンでくるくるとクリームソーダをかき混ぜていた。

 私はアイスをすくって食べる。


「神田は?」

「まぁ、私も進学だとは思う」

「ふぅん」


 それなら何に悩んでいるのだろうか。

 もしかしたら進学できない事情があるのかもしれないと、少し心配していた。


「まぁでもうち一応進学校だし、たいていが進学するよね」

「そうだね。先生もそのつもりだよね」


 アイスの冷たさに眉を寄せながら、教師の顔を思い出す。

 あの教師に就職希望と言ってみれば、大いに驚かれることだろう。

 進路希望とは言うものの、要はどのレベルの大学に行くのかを気にされているだけだ。


 私などはそんなに頭の良い方ではないので教師の期待も薄いが、神田は優秀な方であるから、そっちの負担もあるのかもしれなかった。


「私、進学したくないかも」


 神田が唐突に言う。

 私は少し目を見開いた。


「なんで? 勉強得意じゃん」

「好きじゃない」


 横を向いたまま、ふて腐った表情で噛んだは言う。


「清水はさ、進学でいいの? そのまま普通に大人になって、満足?」


 それは根本的な質問だった。

 何も言えず押し黙る。


 普通の大人になる。

 それ以外何があるんだと言ってしまうのは楽だったが、そんなものに納得がいかない自分もいるのは確かだ。

 神田は、納得がいかない方が大きくなってしまったのだろうか。


「私普通になりたくないや」


 そう言った神田の横顔は綺麗で、窓から差し込む午後の光に祝福されているようだと思う。


 普通になりたくない。

 私もそうだよ、とは言えなかった。


 普通は楽だ。

 楽なのは良い、無駄なことを考えなくて済むから。


 だがその無駄は、本当に無駄なのだろうか。

 そこにこそ意味があるのではないだろうか。

 そんな考えがあるから、私の心の中には普通になりたくないという気持ちが根を張っている。


 だが、こうも思うのだ。


「私たちってすでに普通じゃない?」


 そう言ってみれば、神田は弾かれたようにこちらを振り向いた。


「なんで」

「だって、普通にそこそこの進学校行ってさ、普通に勉強して、制服着てこうやってカフェで駄弁って、普通の学生そのものだよ」

「…………」


 反論はできなかったのだろう、神田が黙り込む。

 私は何も言わずにクリームソーダを啜った。

 そのまま気まずい沈黙が流れる。

 店内は楽しそうに話す学生たちの声で溢れていた。


「でも清水は普通じゃないじゃん」


 神田が言う。


「普通だよ」


 私は首を横に振った。

 しかし神田はなおも食い下がってきた。


「普通じゃないよ」

「……何でそんなふうに思うの?」


 私を見上げた神田の瞳に、怒りがこもっているように見えた。


「だって、私と違って何もなくないじゃん」


 何もない。

 そんな言葉を神田から聞くとは思わなくて、私は驚いて手を止めた。

 私からすれば、神田は何でも持っている女だ。

 美しく、強く、賢い。

 どこへ行っても生きていけるだろう。


「清水のこと好きだったんだけどな」


 それは過去形の言葉だった。


「……何で嫌いになっちゃったの?」

「妬ましいから」


 その正直さは胸に痛かった。

 私は顔を顰める。


「文芸部の部誌、あったから、清水の小説読んだ。普段小説なんて読まないから全然わかんないけど、清水が頑張って書いたんだなってのは読めばわかったよ」


 神田はぶっきらぼうな口調で言う。


「私と違って清水は何か熱中することがある。すごいじゃん。全然普通じゃないし」

「趣味でやってるだけだよ。神田だって何かあるでしょ」

「ないよ」


 怒っているような、悲しんでいるような、そんな声だった。


「私、好きなものも趣味もない。家帰ったら勉強して、友達とメールするだけ。つまんない」

「……何か始めれば?」

「今更何もできるわけないじゃん」


 言いながら、自分の言葉が的外れなことには気がついていた。

 神田は情熱が欲しいのだ。

 人生を賭けられるような、そんな熱意を込められるものが。

 それは退屈しのぎの趣味や、薄っぺらい交友関係では得られないものだ。


「でも、私だってそんなにちゃんとしたもんじゃないよ」


 宥めるように言葉を口にしてしまう。


「迷ってばっかだし、小説だけに一直線になることもできないし、大したものじゃないよ」

「清水のそういう利口ぶった話し方、大嫌い」


 神田の鋭い目が私を睨む。

 私は口を閉じる。


「清水が私のこと馬鹿にしてないのはわかるよ。自分のことで迷ってるのも本当だと思う。でも本当に何もない人間からしたら、それすら妬ましいんだよ」

「…………」

「だからさ、清水は普通になるのやめなよ」


 嫌いと言ったその口で、神田は私のための言葉を吐いていた。

 優しい子だなと思う。


 だが、私はそうは生きていけないのだ。


 熱意があっても、それを駄目にしてしまうほどに常識や家や色々なものに縛られている。

 普通の人間なのだ、私は。

 どこまでも平凡で、どうしようもないのだ。


「ありがとうね、神田。私はアンタのこと好きだよ」


 そう言って笑い返す。

 神田は困ったように顔を顰めて、それから涙を溜めた目で俯いた。


「私、こんなこと言ってもどうせ進学するし、いつかは結婚とかして普通に幸せになると思う」

「うん」

「でもさ、それでもさ、友達でいてね」

「……もちろん」


 神田の頬をつねる。


「アンタが私の友達でいてくれて嬉しいよ」


 言いながら確信していたことがある。

 多分、大学に行ってしばらくした頃には私と神田の縁は切れているだろう。

 一生の友達ではない。

 そうなるにはあまりにも私たちは似ていなかった。


 似てない二人でも親しくなれるかもしれないが、私と神田には分け合える世界がなかった。


 神田は神田の人生を生きる。

 私は私の人生を生きる。

 接点はきっと今だけ。

 そんな予感がしていた。


 願わくば、その予感が現実にならなければ良いと思う。

 そう願ってしまうくらいに、今のこの一瞬が愛しかった。


 クリームソーダの氷が溶ける。

 アイスが緑の中に沈んでいく。

 私たちは密やかに笑い合った。


────────────────────────


 夏が来た。

 正確には、来ようとしていた。


「もう時期夏休みだね」


 紙束を抱えながら山形に話しかける。

 山形はどこか上の空の様子だったが、すぐにはっとして頷いた。


「でも受験生じゃん。遊べないよな」

「んね。一日くらいどっか行く?」

「あーどうだろ……」


 またも歯切れの悪い返事だった。

 恋人ができてから、どうも山形は付き合いが悪かった。

 まぁそんなものだろうとも思うので、深く追求したり、傷ついたりすることはなかったが、やはり少し面白くないとは思う。


 恋人ができるとつまらなくなる人間がいると聞いたことがあるが、山形もそんな人間の一人だとは思いたくはなかった。


「山形、今回の原稿はどんな話にしたの?」


 話を変えようと尋ねてみる。

 今日は夏号の部誌の印刷の日だった。

 いつもなら、山形は自信満々に自分の書いた小説の話をしてくれるはずだった。

 だが、彼女は少し気まずそうに笑うと、首を傾けた。


「いや……今回原稿出してないんだ」

「え? なんで?」


 思っても見なかった言葉にびっくりする。

 あの山形が、部誌に寄稿しないなど考えられなかった。


「なんていうか……忙しくて時間なくって」

「忙しいって、なんでよ」

「勉強とか?」

「アンタが勉強なんてするか」


 授業中も必死になって小説を書いているような女である。

 何か言いづらいことがあって、適当に誤魔化しているのだろうことは火を見るよりも明らかだった。

 思わず私の表情も険しくなる。


「何隠してんの、言いなさいよ」

「なんでよ。別にアンタに言うことじゃないし」


 そう言われてしまえはそうなのだが、そこで大人しく引き下がることはなぜだかできなかった。

 多分私も、ムキになっていたのだと思う。


「彼氏と遊んでて書く暇なかった?」


 意地悪のつもりで言ってみれば、山形は顔を真っ赤にして口籠る。


「ちが……そんなんじゃ……」


 その顔を見て、私はまた愕然としてしまった。

 こんな意地悪が図星だなんて、そんなことがあって良いのだろうか。

 何よりも小説に懸けていたこの女が、たかが色恋のために小説をおろそかにしたと、本気で言っているのだろうか。


「アンタそれ本気?」


 思わず尋ねてしまう。

 すると山形は赤い顔のまま、キッとコチラを睨んできた。


「別に良いでしょ、何が悪いの。アンタにはわかんないよ」

「ええ、わかりませんよ。山形にとって一番大事なのは小説でしょ?」

「清水にそんなこと言われる筋合いない!」


 山形の声には確かな怒りが乗っていた。

 私は顔を顰める。


「清水が一番小説から逃げてるくせに、私に説教なんてできた立場なわけ?」

「なによ、逃げてるって」

「逃げてるだろ」


 強い口調で言われ、私も口を噤む。

 私が逃げてるって?

 心はその言葉に反抗していたが、頭は冷静にわかっていら。

 確かに私は逃げている、と。


「清水の方が小説上手いじゃん。顧問だってそう思ってるから、アンタにばっか声かけるんでしょ」

「知らないよそんなこと」

「それなのに小説家になるとも言い切れない奴に、小説のことでとやかく言われたくない」


 その言葉は私の痛いところを突いていた。

 山形はよく私のことを理解していた。


 小説家になりたい。

 そう思ったのはいつのことだっただろうか。

 多分、小学生の頃にはそう思っていたはずだ。


 そんな幼い夢の残滓を、いまだに諦めきれない。


 だが私はそれを誰にも口にしたことがない。


 利口ぶって、親が気にいる答えばかりを言葉にしてきた。

 その結果がどうだ、自分の夢すらも曖昧になってしまっているではないか。

 それが逃げではないと、言うことはできなかった。


「うん。私は確かに逃げてるかもしれない」


 落ち着いた声で、私は言う。

 この目で、山形を見上げる。


「でもアンタは違うでしょ。山形はいつだって小説に真っ直ぐに生きてた。そういうアンタだから、私は羨ましかったのに」

「…………」


 山形が黙り込む。

 重たい沈黙が、部屋の中を満たしていた。


「……私、好きになったんだよ」


 ポツリ、と山形が言う。


「本より好きな人、見つけたの。それって駄目なことかな?」


 本より好きな人。


 私の人生にはない言葉だった。


 本より、小説より、書くことより、他人を好きになる?

 そんなことがあるのだろうか。

 山形にそんな変化があったと言うのだろうか。


「……駄目じゃないよ」


 長い逡巡の末、私はそう言った。


「山形の中にそういう選択肢ができたなら、それは素晴らしいことだと思う。ごめん、変な怒り方して」


 山形のことは自分とは違う人間だと思う一方で、どこか仲間だと思っていた。

 それがどうしてか、こんなにも差ができてしまった。


 羨ましい。

 人を愛せるなんて、人に愛されるなんて。

 結局どちらに転んでも、私は彼女を羨ましく思うのだろう。

 手を伸ばして、山形の短い髪の毛をくしゃくしゃと撫でつける。


「ごめんね、ちゃんと幸せになれよ」


 山形は黙って頷いた。


────────────────────────


 次の印刷の時も、山形はやっぱり原稿を出さなかった。

 可愛らしい女の子と、幸せそうに帰る山形を一度だけ見かけた。

 手を繋いでいた。

 彼氏ではなく、彼女だったのだろう。

 私は何も聞かなかった。



 神田は指定校推薦でいち早く大学を決めた。

 成績がいい奴は違うね、などとからかってみれば、やめてよねと迷惑そうに、しかし微笑んで彼女は答えた。

 受験期間になると推薦組とは何となく周期が合わなくなって、疎遠になった。



 私は受験の合間を縫って、小説賞に応募した。

 そんなことをしていたので第一志望は落ちた。

 顧問にそれとなく報告したら、嬉しそうに笑ってくれた。

 結果は落選だったのだろう、何の音沙汰もなかった。

 

 私はそれで気持ちよく小説家を諦められた、と思っていた。

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人間未遂 四十内胡瓜 @kyuuri_aiuti

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