第16話 初部屋デートの気まずい距離感


「太陽~、今日お母さんとお父さん、同窓会で遅くなりますからね~」


 気の抜けた午前にリビングで母さんにそう言われて、僕は急速に意識を覚醒させた。

 僕は内心の動揺をどうにか隠しながら、鍋でうどんを湯がいている母さんに聞く。


「お……遅くなるって、何時くらい?」

「さあ……? 日付が変わる前には帰ってくるんじゃないです?」

「そっか……」

「だから晩御飯は好きにしてくださいね。お金は叶月の分と2人分、置いておくので~」

「う、うん。ありがとう……」


 待て。焦るな。

 カナの予定も確認しておかないと……。


 そう考えた直後、ちょうど妹がリビングに入ってきた。


「わたしも今日は友達の家に行くから、兄さん夜まで1人だよ」


 手に持っていたコップをダイニングテーブルに置きながら、妹は言う。

 僕は心臓が爆発したかと思ったぐらい動揺しながら、それをギリギリのところで押し隠した。


「ふ、ふうん……。じゃあ晩御飯は?」

「普通に家で食べると思うけど。なんなら帰りに買ってくる? 兄さん外出るのめんどくさいでしょ」


 ってことは多分最大で午後7時くらいまでか……。

 頭の裏で計算しながら、なんとか会話をつなぐ。


「それならお願いしようかな……」

「何がいい?」

「えーっと……そうだな……」


 考えるふりをしながら、実際には僕の頭の中は別のことでいっぱいだった。

 まさか妹までいる僕のほうになるなんて……。

 そんな僕を、妹はクールな瞳で見つめていた。








 隅野と1ヶ月以上も距離を置く原因にもなった、部屋に遊びに行く件について、林間学校のあと、僕と彼女との間でこのような取り決めが交わされた。


「じゃあ……親とか家族が家にいない日が先に来たほうの部屋に集合ってことで」

「まあ別にいいけど……一応聞いてもいいかな」

「なに?」

「家族が家にいないときって……」

「変なこと考えんなっ! 私とお前の親仲いいんだから! どっちかにバレたら絶対もう片方にも伝わる! そしたら絶対ウザいことになるでしょ!」

「わかったわかった。わかったから怒んないで……」


 普通はお互いの予定が空いている日を探して集まるんだろうけど、僕らコミュ症に予定という概念はない。

 だから半ば運を天に任せるような形で、集合場所と集合時間を決めることにしたのだった。


 だけど、両親のみならず妹までが家にいなくなる必要がある僕のほうが、まさか先に条件を満たしてしまうとは……。

 正直完全に油断していて、林間学校のときに言っていた『準備』なんて、全然していなかった。


 なので僕は部屋に戻り、隅野のスマホに一報を入れると、大急ぎで脱ぎっぱなしの上着を片付け、ゴミ箱の中身をゴミ袋に放り込み、床に掃除機をかけた。

 そして1人でそわそわしながら、そのときが来るのを待ったのだった……。


「兄さん、じゃあ行ってくる」

「んー」


 テレビのチャンネルをポチポチ変えるふりをしながら、僕は何も気にしてない風に相槌を打つ。

 完璧な返事だったはずだけど、カナはなぜかリビングの戸口に手をかけて立ち止まり、じっと僕の顔を見つめ始めた。

 僕はじわりと嫌な汗が背中に広がるのを感じながら、その目を見つめ返す。


「ど……どした?」

「……いや、行ってきます」


 結局、妹はそのまま普通に玄関を出ていった。

 何だったんだ……。無駄に焦った。


 しかし本番はこれからだ。

 玄関に行って妹と両親の靴がなくなっていることをしっかり確認してから、僕は2階の自分の部屋に急いで向かう。


 ドアを開けると、正面にカーテンを開けたままの窓があり、その向こう側に覗く隣家の部屋の中で、隅野が椅子に座って謎にくるくる回っていた。


 彼女は僕に気付くと回るのをやめる。

 僕は窓際に行って、彼女にOKサインを出す。

 すると隅野は目を泳がせてくしくしと指で前髪をすいたあと、椅子から立ち上がってカーテンを勢いよく閉じた。


 隅野の姿が視界から消えて、僕は深く息を吐く。

 落ち着かない……。

 別にそんな、大したことをするわけでもないのにな……。

 普段通り、普段通りだ。こんな調子じゃまた隅野にキモがられる。


 少しだけ気を落ち着けると、僕はまた部屋を出て、階段を降りた。

 廊下を歩き、玄関まで行って、靴を足につっかける。


 そのまましばらく待った。

 1分? いや3分くらい?

 インターホンが鳴るか、スマホに連絡が来るかすると思ってたんだけど、その様子はさっぱりない。

 何か準備でもしてるんだろうか……。いや、その時間はすでに十分あったはずだけど。


 少し考えて、あっと思い至った。

 靴をつっかけた足を動かし、玄関ドアのノブを握って外に押し開ける。


「あっ」


 すると予想通り――ドアのすぐ向こう側に隅野が突っ立っていた。

 服装は飾り気のない半袖シャツに、パジャマみたいな質感のハーフパンツ。夏休みの小学生みたいな格好だった。

 小脇にペンケース二つ分くらいのサイズのポーチを持ってるけど、あれはたぶんおしゃれじゃなくてゲームのコントローラーだと思う。


 僕の顔を見てちょっと気まずそうに目をそらす隅野に、僕は小さく笑いかける。


「僕も昔、友達の家のインターホン押すのに30分かかったよ」

「……うっさい。わかってるならさっさと出ろ」


 人見知りじゃない人間には理解できないかもしれないが、他人の家を訪ねるというのは僕たちにとって非常に勇気のいることなのだ。


「とりあえず……中入って」

「ん……」


 僕はドアを押さえて、隅野を玄関に迎え入れる。

 引っ越してきたとき、僕は隅野の家に入ったことがあるが――隅野が僕の家に入ったのは、これが初めてのことだった。




◆◆◆




 お邪魔します、と言うべきかどうか迷っている間に、私は靴を脱いでフローリングを歩いていた。


 初めての、男子の家。

 初めての、端山の家。


 下駄箱の上には花瓶も置物もない。まだ引っ越してきて3ヶ月くらいだから、物が少ないのかもしれない。

 向かって左の開きっぱなしの引き戸の中を通りすがりに覗くと、広めのリビングダイニングがあった。隣にある私の家と間取りは似たようなものだ。ダイニングテーブルの真ん中に籐で編まれた小さなボウルがあり、その中にリモコンが3本くらい適当に突っ込まれていた。

 2階に向かう階段の手すりはまだピカピカだ。ちゃんと掃除してあるのもあるんだろうけど、やっぱりまだあんまり使い込まれてないんだなって感じがする。


 全体に漂う少し甘い木の匂い。階段が軋む音に、日の光の入り方――当たり前だけど、何もかもが私の家とは違う。


 やばい。


 あえて背伸びはせず、いつもの部屋着で来たのは正解だったかもしれない。もしこれで気合いの入ったデート着とか着てきてたら、私はあまりの緊張に耐えられなかったかもしれない。


 っていうかさ。

 ママにいじられたらクソウザいなと思って家族のいない日を指定したけど、これってさ、わざわざ2人きりになれる日に男の部屋に行くのってさ、なんていうかさ……。


 ……エロいこと目的でしかなくない?

 セッ●スするときの段取りでしかなくない? 普通に。


 いや、ほんと、ガチでそんなつもりはなかったんだって!

 そりゃちょっとはそういう感じになることもあるかもなーって思わないではなかったよ?

 だけど! 実際にやってみたらこれ、思った以上にそれでしかないじゃん!


 ……やべえ。めっちゃダサい普段使いの下着つけてきちゃった。

 漫画でしかブラジャーを知らない童貞の幻想を破壊してしまう。

 いやいや、端山みたいなヘタレにそんな勇気ないって。大丈夫大丈夫……今日はただの部屋デート……いやいやいや、デートでもないって……。


「ここだよ」


 階段を上ってすぐ正面にあるドアを、端山は開けた。

 私は背中を丸めて縮こまりながら開かれたドアを抜けて、部屋を見回す。


 いつも窓越しに見てる部屋だ。

 だから新鮮味はなかった。

 だけど不思議な感覚だった。


「なんか……」

「ん?」


 背後で端山がドアを閉じながら相槌を打つ。


「モニターの中に入ったみたい……」

「……どういう感想?」

「いやだって、ずっと窓越しに見てるだけだったからさ……」


 ドアの正面にある窓から、カーテンが引かれた窓が見える。私の部屋だ。

 いつも窓越しに見てた部屋の、内側に私がいる……。


「なんかこう……イベントシーンでしか見れなかった敵組織の部屋に、終盤になって初めて自分で足を踏み入れる、みたいな……」

「その感動には共感できないでもないけど、人の部屋を敵のアジト扱いするなよ……」


 困ったように笑いながら、端山は私を追い抜き、部屋の真ん中に置いてあるクッションの横に腰を下ろした。


「このクッション、使っていいよ」

「……気を遣ってんの? 生意気にも」

「うるさいな。別にいいだろ、招いた側なんだから。いつも僕が使ってるやつで悪いけど……」


 端山は私ではなく、テレビ台の上に置かれたモニターのほうを見ながら、ごにょごにょと言った。

 多分端山も、適切な態度の取り方を探っているのだ。

 気を遣いすぎると何か狙ってるみたいになるし、かといって何も気を遣わないのはホスト側として気が咎めて……。


 ……ほんと、こいつが考えてること、わかりやすっ……。


 私は素直に勧められたクッションの上にお尻を乗せる。

 隣に座る端山との間は50センチ以上あって、それが今の私たちが許せる限界距離って気がした。

 昼休みに、自転車置き場の端っこでお弁当を食べてるときはもっと近くにいることだってあるのに、二人っきりの家の、同じ部屋にいるってだけでこんなにも開く。


 男女ってめんどくさい。


 もし私たちが同性だったら……って、思わないでもないけど、もしそうだったら多分、こんなくすぐったいような気持ちにはならなかったわけで――端山が女になっても、白河さんみたいな美少女にはならないだろうし。


「……………………」

「……………………」


 気まずい沈黙が漂う。

 だけど私はその沈黙が、正直あんまり嫌いじゃなかった。

 私たちの間で会話が途切れるのはいつものこと。だけど今は、そのいつものことが気まずく感じる。


 それは多分、私たちがお互いに、一生知ることはないと思っていた気まずさ。

 その気まずさを一緒に味わえている……っていう状況が、なんか……ちょっとだけ、嬉しい。


 ……やば。

 今の私、恋する乙女すぎる。


「…………? 何ニヤニヤしてんの……?」

「ヘぁ?」


 気付くと、ちょっと困惑した顔で端山が私を見つめていた。

 ニヤニヤしてた?

 恥ずかしさと嬉しさと面白さがないまぜになって、口元が緩んでたらしい。


「いや、なんでもないなんでもない……! ちょっと思い出し笑い」

「…………。まあいいけど……」


 しっかりしろ、私!

 これじゃあ私が、気になってる男子の部屋に初めて入ってテンション上がってるみたいだろうが!

 

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