隣にいてもいいですか?
岩上翠
第1話
伯爵令嬢ニナ・ローランサンには、三つ年上の婚約者がいる。
侯爵家の次男であり、文武に優れ騎士学校を首席で卒業した、金髪碧眼で容姿端麗な二十一歳。
おまけに誰に対しても優しく、すこぶる頼りがいがある。
エティエンヌ・ベルクールは一言で言えば「完璧な貴公子」であった。
「ベルクール様って本当に素敵よね。欠点なんてないのではなくって?」
「そんなことは……」
ないわ、と並んで廊下を歩く貴族学校の同級生の一人に答えかけ、ニナは言い淀んだ。
たしかに自分の婚約者のエティエンヌは非の打ち所のない男性だ。
彼は騎士学校を卒業後、王立騎士団に配属されて三年目で小隊長に任命された。
騎士団の叙任には家柄も大いに関係しているとはいえ、やはり責任と危険を伴う仕事であり、小隊長という役職は本当に実力がなければ任ぜられることなどない。
さらに、二人でいるときもエティエンヌはニナに優しかった。
婚約者としての月に一度のデートではローランサン家に迎えにきてくれて、花束を贈ってくれて、紳士的にエスコートをしてくれる。
会話は機知に富んでいて面白いし、態度の端々から彼がニナを大事にしてくれていることを感じ取れる。
父親同士の親交があり昔から知っていたエティエンヌから婚約の申し込みを受けたときは、ニナは天にも昇る心地がしたものだった。
もうずっと前から、ニナはエティエンヌに恋をしていたから。
けれど――
「でも、あんなに素敵な方が婚約者では心配でしょう? 周りの女性が放っておかないでしょうし」
並んで歩いていたもう一人の令嬢が、無邪気にそう言った。
その言葉が棘のようにぐさりとニナの胸に突き刺さる。
麗しい婚約者とは違い、自分はパッとしない黒髪に濃緑の瞳で、これまでの人生で一度も異性にモテたことなどない。エティエンヌ以外の男性からは放っておかれっぱなしだ。
ニナを置いてけぼりに、令嬢たちの会話は弾む。
「たしかに、あれだけ美形な方だと気が休まらなそうね」
「そうよねえ。騎士団には聖女様たちも常駐しているというし、聖女様の結婚相手で一番多いのは騎士様らしいわよ」
「いやだわ、私の婚約者も騎士様なのよ? 私たちの卒業までまだ一年あるし、その間に美人の聖女様に取られちゃったら…………あっ、ニナさんの婚約者はそんなことないわよね! ベルクール様は誠実そうな方だし」
「………………ええ。少し心配だけれど、婚約しているんだもの。きっと大丈夫よ」
級友たちの悪気のない、だが重く心にのしかかる言葉を振り払うように、ニナは無理に笑みを浮かべた。
♢♢♢
ああは言ったけれど、ニナは自分の婚約者について気がかりな点が一つあった。
エティエンヌは彼の友人や騎士団の仲間たちにニナを紹介してくれたことが一度もないのだ。
騎士団に婚約者がいるという級友は、「私の彼はベルクール様みたいに美形じゃなくて残念だわ」などと言うけれども、「彼から私の瞳の色の花束をもらったけど端っこがちょっと枯れてたの」とか、「彼は食いしん坊だから騎士団にお菓子を差し入れしに来てってよくおねだりされるの」とか、ぼやきとのろけがセットになった話を始終していた。
ニナは、その級友がとてもうらやましかった。
婚約者と温かな愛を育んでいる様子が伝わってきて、ほほえましい。
エティエンヌはニナを騎士団のパーティーにすら呼んでくれたことがない。
去年開催されたらしいそれは外部の人間も自由に参加できるパーティーとのことだったが、ニナは級友から噂を聞いて彼から誘われるのを今か今かと待っているうちに、いつの間にか終わってしまっていたのだった。
別に婚約者を疑っているわけではない。そうではないが、一人でモヤモヤしているのは居心地が悪い。
だからニナは次のデートのときには少しだけ積極的になり、級友のように、騎士団へ差し入れをしてもいいかと自分からエティエンヌに聞くつもりだったのだが――
「ごめんなさい、エティエンヌ様。お父様がひどい風邪をひいてしまって……」
ローランサン家の応接間で、いつものように花束を持って迎えにきてくれた彼に、ニナは少し掠れた声で告げた。
冬の王都では毎年、たちの悪い風邪が流行する。
それは非常に感染力が強く、かかってしまえば高熱で数日は起き上がれなくなるし、咳や頭痛といった諸症状もかなりつらい。
昨日、父である伯爵が高熱を出したときにベルクール家に使いを出し、デートの中止を伝えるべきだったのだ。
だがニナは明日には父の熱が下がるかもしれないという一縷の望みを抱き、ずるずると先延ばしにしてしまった。
結果、今朝になって父の熱はさらに上がり、ニナまで喉の痛みを覚えはじめた。
王国の防衛を担う騎士団は、感染症には厳しい。
今時期に団員が風邪をひけば一週間は隔離されるし、感染者が多い地域での任務に赴くときは団員たち全員が鳥の嘴のような形状のマスクと使い捨ての手袋をつける。
だから、もしもローランサン家の風邪をエティエンヌにうつしてしまったら大ごとだ。
マスクは持ってないので自分の口元にハンカチを当てながら、ニナは断腸の思いで、今日も涼やかな美貌の婚約者に断りを入れたのだった。
エティエンヌは眉を曇らせた。
「それは大変だね。私に何か手伝えることは?」
「ありがとうございます、大丈夫です……申し訳ございません、せっかくお休みを取っていただいたのに……」
彼は革手袋を外すと、ひんやりとした大きな手をニナの額に当てた。
たちまちニナの顔に熱が集まる。
気遣わしげな表情を、エティエンヌは整った顔に浮かべた。
「君も熱があるようだ。早く部屋へ戻って休んだ方がいい」
「いえ、これは……」
あなたが触れたから、なんて言えるわけがない。
真っ赤になってハンカチで顔を隠すニナに、彼はいたわるようなまなざしを向けた。
「あとで騎士団の薬を二人分届けさせよう」
「……いいのですか?」
ニナはパッと顔を上げた。
騎士団の薬師は国内でも指折りの腕利きでその薬はてきめんに効くと評判だったが、部外者が手に入れることは難しかった。
年を取ってから一人娘のニナを授かった父は今や六十を過ぎていて、ただの風邪といっても命取りになりかねない。
だからニナは心配でたまらず、母や侍女の制止も聞かずにゆうべから何度も父の様子を見に行き、父の手をさすったり励ましたりしていた。今朝から喉が痛いのはそのせいだろう。
けれど、騎士団の薬をもらえるなら、遠からず父も快方に向かうはずだ。
エティエンヌは鷹揚にほほえんだ。
「もちろん。君もお父上も、もう私にとっては家族のようなものだから」
「ありがとうございます、エティエンヌ様!」
家族、という言葉は少し気恥ずかしかったが、彼の心遣いがたまらなくうれしかった。
けれども、絶対に聞くと決めていた「騎士団に差し入れに行ってもいいか」という件は結局聞けずじまいだった。
そんな空気ではなかったし、そもそも病人の出ている家からの食べ物の差し入れなどありがた迷惑かもしれない。感染症に神経を尖らせている騎士団ならなおさらだ。
逆にエティエンヌから差し入れてもらった薬を飲んだら、ニナは半日で、父は二日ですっかり元気になった。
お礼と称して騎士団に会いに行こうかとも思ったのだが、きっと迷惑だろうし嫌われたくないので我慢した。
そうこうしているうちに貴族学校も試験期間に入り、バタバタと数週間が過ぎたある日のこと。
休み時間にニナの席へ来た級友が教えてくれた。
「今度、騎士団長様のお屋敷で大きな夜会が開かれるんですって。騎士団の人たちはほとんどみんな参加するそうよ。私も婚約者の騎士様と一緒に行くの」
「え…………」
ニナはそんな話は聞いていなかったし、当然ながらエティエンヌからエスコートの申し込みなどは受けていない。
「お相手のいる騎士様たちは、ほとんどの方がペアで参加するそうよ。ニナさんもベルクール様と参加するのでしょう?」
「……ええと、たぶん……」
けれど、黙って待っていても、今回もエティエンヌは誘ってくれないような気がした。
悩んだ末、ニナは一念発起した。
こちらからエティエンヌに会いに行き、夜会に誘ってもらいたいと伝えるのだ。
次のデートの日を待っていたら夜会が終わってしまう。
それに、もしかしたら彼はニナが病後ということで誘うのを遠慮しているだけなのかもしれない。
会いに行くのに、ちょうど薬のお礼という口実もあった。
お礼に何を渡せばいいかと母に相談すると、顔の広い彼女はすぐに王室御用達の有名パティスリーの焼き菓子をどっさり確保してくれた。人気店で、なかなか買えないと評判の品だ。
母は菓子の入った大きな籠を渡しながら、ニナににっこりと笑いかけた。
「私の愛する夫の命を救ってくれたのだもの。エティエンヌさんにしっかりお礼をしてきてね?」
「わかったわ、ありがとうお母様!」
ぎゅっと母に抱きついてから、ニナは侍女を連れて馬車に乗り込み騎士団を目指した。
「ええと……受付はあちら、と……騎士団庁舎の中って広いのね……」
貴族学校は休日だが、当番制の騎士団は通常通りの業務を行っている。エティエンヌも仕事をしているはずだ。
焼き菓子の入った籠を提げ一番上等なデイドレスに身を包んだニナは、侍女とともに騎士団庁舎の門をくぐった。
門番に用件を告げ受付棟の来客者名簿に記入してしばらく待つと、従騎士が案内に来ると思っていたのに、エティエンヌ本人が急ぎ足でやってきた。
「ニナ」
「エティエンヌ様」
いつもニナに優しいまなざしを向ける彼が、珍しく硬い表情を浮かべている。
ニナの心臓は縮み上がった。
やはり、職場へ来るなど非常識だっただろうか? 級友はよく婚約者の部署へ差し入れに行くと言っていたから、大丈夫だと思い込んでいたけれど……。
「ここへ来るなんて、一体どうしたんだ? ご家族に何かあったのか?」
「あ……す、すみません、そうではなくて…………」
ニナはおずおずと籠を差しだした。
「先日の薬のお礼に、焼き菓子を持ってきました。よろしければ、騎士団の皆様で召し上がっていただきたいと……」
消え入りそうな声で言う。
籠から漂うバニラやショコラの甘い香りがひどく場違いに感じられ、いたたまれない。
「…………ありがとう」
エティエンヌは籠を受け取ると、すぐに受付棟の騎士に渡し、第五小隊の詰所へ持って行くように命じた。騎士はきびきびした動作で籠を抱え、棟を出ていった。
食べてももらえずに他の騎士に渡されたことがショックだった。
極めて事務的に、エティエンヌはニナに尋ねた。
「護衛は?」
「い、いません」
「では私が家まで送ろう」
「いえ、お仕事中にそんなお手間をおかけするわけには……!」
「副隊長にはしばらく抜けると伝えてある。行こう」
そう言われてしまってはニナは一刻も早く家へ帰るしかない。
乗ってきたローランサン家の馬車にエティエンヌに押し込まれるようにしてふたたび乗り込み、彼の隣で無言で馬車に揺られる。
向かい合わせで座る侍女がしきりに目で「早く夜会のお誘いを」と急かしてくる。
そのために来たのだから言うべきなのだろう。
どんなに気まずくても。
ニナは思い切って口を開いた。
「エティエンヌ様………………その、騎士団長様のお屋敷で、夜会が開かれると聞いたのですが…………」
「ああ」
気のない相槌にくじけそうになりながらも、自分は婚約者なのだからと勇気を振り絞って彼に尋ねた。
「わ、私もあなたと一緒に参加したいです」
「すまないがそれはできない」
考える素振りもなく却下された。
ニナは心を鈍いナイフでえぐられたような気がした。
断られるかもしれないとは思っていた。
でも、エティエンヌがこんなにあっさりと、まるでほんの少しもニナをエスコートする気はないとばかりにあっさりと断るなんて、思ってもいなかった。
エティエンヌが先ほどよりは優しい声音で続ける。
「その日も仕事があるんだ。悪いが君のエスコートをすることはできない。その代わり、今度出かけるときはどこでも君の好きな場所へ行こう」
「…………はい」
ニナは、そう返事をするだけで精一杯だった。
夜会は残念だけれど、仕事なら仕方がない。
……と思っていたニナだったが。
「え? 夜会にはベルクール様も参加するって、私の彼が言ってたわよ?」
週明け、教室で夜会の話をしていた級友に「ニナさんは何色?」とドレスの色を聞かれた。
エティエンヌが仕事だから行かないと答えると彼女は目をぱちくりさせ、そう教えてくれたのだ。
ニナは絶句した。
その日も仕事がある、とエティエンヌははっきり言っていた。
それなのに夜会に参加する?
一体どういうことだろう。
――いや、考えるまでもないのかもしれない。
騎士団を訪ねたときのあの冷たい態度、ニナの誘いを即座に断ったこと――
エティエンヌには、他に好きな女性がいるのだ。
おかしいと思っていた。
あんなに素敵な人が、父親同士が友人だからといって、なぜ男性からちっとも人気のない自分などを婚約者に選んだのか。
父親の顔を立てるためなのか、ローランサン家の財産目当てなのか、それとも婿入り先が欲しかっただけなのかはわからないが、とにかくエティエンヌはニナのことが好きで婚約したわけではないのだ。
どんなときも彼の態度は紳士的すぎるほどで、まだキスの一つもしたことがなかったというのは、つまりそういうことだ。
この婚姻は政略結婚だった。
エティエンヌが優しいから誤解していたが、こんなことは貴族社会ではごくありふれた話だ。
結婚したらニナは放っておかれ、聖女か誰か知らないが、彼はよその愛人の元へ入り浸るのだろう。
けれど、よくあること、と割り切ることなど到底できなかった。
ニナはエティエンヌに恋をしていた。
彼の隣にいたかった。
他の女性にその場所を奪われるなんて、想像するだけで苦しかった。
それからは食事も喉を通らなくなり、貴族学校も欠席が続いた。
心配した両親に何があったのかと聞かれても、答えることはできなかった。
そして、ある決心をした。
騎士団長主催の夜会の日。
ニナは地味な紺色のドレスを着て、他の招待客に紛れるようにして、華やかな会場へたった一人でへ忍び込んだ。
目立たないように観葉植物の陰から陰へと移動して、婚約者の姿を捜す。
もしも本当にエティエンヌが他の女性を伴って夜会に参加しているのであれば、婚約解消をする覚悟でここへ来た。
彼に他に好きな人がいてもいい、とはどうしても思えなかった。
互いに愛し合う両親の仲睦まじい姿を見て育ったせいかもしれない。
エティエンヌが自分を抱いたその腕で他の女性を抱くのなら、ニナの心は遠からず、粉々に壊れてしまうだろう。
政略結婚をするには、ニナは婚約者を愛し過ぎていたのだ。
自分の恋心を終わらせたかった。
けれど。
本当にエティエンヌの腕に美しい女性がしなだれかかっている場面を見てしまったとき。
ニナは呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。
――あの女性は聖女様だろうか?
ニナの黒髪とはまったく違う、光が溶けたような銀髪に、銀色の長い睫毛。
上品で美しいシャンパンゴールドのドレスからは小麦色の華奢な手足がすらりと伸び、傍らの騎士団の礼装姿のエティエンヌを見上げて笑う唇は薔薇のように赤い。
とても、お似合いだった。
目的は達成されたのだから、エティエンヌに見つからないうちに、早くここを去らないといけない。
今この場で進み出て、彼に婚約解消を突きつける度胸など、自分にはないのだから。
でも、足が動かない。
呼吸も、うまくできない。
目の前が真っ暗な闇に閉ざされたようで、見ているのに何も見えていないような気がする。
お酒でも飲めば、動けるようになるかもしれない。
テーブルの上をまさぐった手は、不意に、誰かに掴まれた。
「そこにある酒は、お嬢さんにはまだ早いですよ」
振りむくと、瀟洒な出で立ちの黒髪の男性がほほえみかけ、ニナの手に別のグラスを滑り込ませた。
「これをどうぞ。甘くて口当たりのいい桃のジュースです」
「あ……ありがとう、ございます」
驚いて毒気が抜かれ、ニナは素直に礼を言った。
冷静に考えれば、家から遠く離れた場所へ夜中にたった一人で来ているのだ。
万が一自分に何かあれば、家族が悲しむ。
慣れない酒など飲まないに越したことはない。
黒髪の男性から受け取ったグラスを口へ運ぼうとした、その瞬間。
「駄目だ!」
鋭い言葉とともに、グラスが奪われる。
すぐ目の前に、長身の騎士が立ちふさがった。ニナは視界のほとんどをその背中で遮られた。顔を上に向けると、見慣れた金色の髪。
「……エティエンヌ様……?」
彼はそれには答えず、グラスを先ほどの銀髪の女性に渡し、近くの騎士に短い指示を出したようだった。聞こえてくるのはバタバタと
少ししてエティエンヌがくるりと振りかえり、自分の上着を脱ぐとそれをニナの肩に被せた。
「行こう」
「えっ、あの、どこへ……」
何が起きているのかわからないまま、ニナは婚約者に手を引かれながら喧騒に包まれたホールを出て、静まり返った廊下を歩き屋敷の一室へ入った。
パタン、と扉が閉まり二人きりになると、エティエンヌはニナを横長のソファに座らせ、自分はその向かいの椅子に座った。
「それで」とこちらを射抜く碧眼を、ニナはまともに見返すことができない。
「……私は仕事だと言ったはずだが? どうして君はこんなところにいるんだ」
「ごめんなさい………………でも」
いっそ消えてなくなってしまいたかったが、ここまで来たのだ。言うべきことは言わなくては。
あなたとの婚約を解消する、と。
口にするのはつらすぎる内容だった。
ニナはこらえ切れない涙をぽろぽろとこぼしながら、どうにか口を開いた。
「ど……どうしても、自分の目で確かめたかったんです。あなたが本当は、どんな女性と……お付き合いしているのか」
「……は?」
「いいえ、何も言わないでください、もうわかりましたから。これ以上あなたを縛るつもりはありません。この婚約を解消……」
勢いよくエティエンヌが立ち上がり、大股でニナの側へ来ると、すぐ隣に腰を下ろした。
近い。
こんなに彼と近づいたのは初めてだ。
驚いて涙が引っ込んだが、自分に向けられた彼の表情を見ると、今度は血の気までサーッと引いた。
エティエンヌは氷のような無表情でニナの顔を覗きこみ、静かに、激怒していた。
「……ほう。婚約を解消? なぜ? 私は君に今日は『仕事がある』と言い、実際に職務を遂行していただけなんだが、それが君に婚約解消を決意させるほどの重大な過失だと?」
「あの、いえ……」
「最近夜会に出没しては女性に違法な薬の入った飲み物を飲ませて暴行する輩がいるからと騎士団長から同僚の聖女との囮捜査を命じられ夜会に出席したら、突然婚約者が現れて
「大変申し訳ございませ……」
ニナの謝罪の言葉は、凄まじいほど美しいエティエンヌの微笑によって凍りついた。
怒っているときに笑わないでほしい。怖すぎる。
「それは君が何かを誤解していたことに対する謝罪? それとも婚約解消することに対して?」
「あらぬ誤解をしてしまい大変申し訳ございませんでした」
間髪を容れずに正しく謝罪をしたら、ようやく許してくれたようだった。
彼は広い肩を落とし、はぁ……と吐息を漏らした。
常に凛々しく堂々としているエティエンヌが初めて見せたその弱さに、ニナはなんだか胸がきゅっとした。
「……あまり驚かさないでくれ。君を失ったら生きていけない」
「なっ……!」
ニナは言葉に詰まった。
そんなはずはない。
つまらない自分などいなくなっても、彼にとって困ることなど何もないはずだ。
だがエティエンヌはまっすぐにニナを見つめて。
体の芯が溶けるほど甘い声で囁いた。
「愛している、ニナ。本当は今すぐにでも君と結婚したい」
「エ、エティエンヌ、さま……」
ニナは首まで真っ赤に染まった。
愛している、なんて言われたのは初めてだ。
エティエンヌはさらに距離を詰める。
「だが貴族学校を卒業するまでは待てと君のご両親に言われ、せめて婚約期間中は他の男の目に留まらないように注意深く隠していたというのに、君という人は……」
「ごめんなさい……」
「……いや、私も不安にさせてしまって悪かった」
「いいえ、勝手なことをしてしまい、すみませんでした」
二人で謝り合う。
エティエンヌが彼女を仲間の騎士たちに紹介しないのはそういう理由からだったのか。
不安はようやく解消した。
だが今度は婚約者が近すぎて心臓が破裂しそうだ。
彼の筋張った手がニナの頬に添えられた。
「本当はすぐに君をローランサン家へ送り届けるべきなんだが」
「……はい」
「もう少しだけ、君と一緒にいたいな」
美しい青い瞳が細められて。
甘えるようにそんなことを言われる。
今まで知らなかった完璧な騎士様の別の顔を続けざまに見せられてニナの恋心はぐるぐると振り回されっぱなしだったのだが、この一言で完全に撃ち抜かれた。
エティエンヌのどんな顔も全部愛している。
いつまでだって一緒にいたい。
ニナは思い切って彼の首に両腕を回すと、ふわりとほほえんだ。
「私もです、エティエンヌ様」
まるで、愛しい婚約者にかぶりつくように。
エティエンヌはニナに唇を重ねた。
♢♢♢
私の父親は非社交的だが、一人だけ友人がいる。
その友人の娘だというニナ・ローランサンに会ったのは十六のときだった。
彼女は十三歳で、ローランサン家の玄関ホールで自分の両親に隠れるようにして私と父を出迎えてくれた。
白い肌に黒髪と濃緑色の瞳が映える、かわいらしいが平凡な令嬢。
最初に抱いた印象はそれだけだ。
けれど、ローランサン家を訪ねたいが一人では気が引けるらしい私の父親に付き合い訪問を重ねるうちに、彼女が家族思いの優しい子だとわかってきた。
老齢に差しかかった彼女の父親が眼鏡を探しはじめるやいなやサッと立ち上がって取りにいくし、数字の苦手な母親のために伯爵家の家政の一部を手伝っているという。
一度、ニナが頭を抱えていた複雑な税金の計算を手伝ってあげたらとても喜んでくれて、それ以来、私にも家族のように親しく接してくれるようになった。
ニナとその両親がいるローランサン家は、陽だまりのように暖かかった。
美しかったが軽率な母に逃げられてさらに気難しくなった侯爵の父と、それほど仲の良くない兄と私という冷えた家庭のわがベルクール家とは違って。
かわいい妹のように思っていたニナが自分にとって特別な存在だと気づいたのは、十六になった彼女が貴族学校に入ってからだった。
私の所属する騎士学校とニナの通う貴族学校は、年に一度、交流会の日を設けている。
貴族学校の生徒たちが騎士団庁舎内に設置された騎士学校を訪れて、訓練の見学や体験を行い、国防への理解を深めるというものだ。
少数の聖女や女性騎士もいるとはいえ圧倒的に男性の割合の多い騎士学校の騎士たちは、交流会当日、浮き足立って貴族学校の令嬢たちを迎えた。
当然、美しい淑女に成長していたニナもその視線にさらされる。
不愉快だった。
彼女が他の男にじろじろと見られることも、彼女が他の男と親しげに話すことも。
あの笑顔を、温もりを、独占したい。
こんな強烈な感情は生まれて初めてだった。
我慢できず、ニナのいる班に剣技の説明をしていた男に頼んで、無理にその役を代わってもらった。
ニナは驚いていたが、私の説明を誰よりも真剣に聞き、誰よりも一生懸命に
その日のうちに私は父に婚約したい人がいると伝え、その月のうちに両家の婚約が調った。
それからは大事な婚約者に悪い虫がつかないよう、常に細心の注意を払ってきたことは言うまでもない。
「完璧な貴公子」などと呼ばれている私のこんな感情を知ったら、ニナはどう思うだろうか。
清廉そうな騎士の顔の下で、君の愛をひとり占めしたい、温かな君の肌に触れたい、そんな
願わくばその大いなる優しさで私のわがままを許し、いつまでも、愛する君の隣にいさせてほしい。
隣にいてもいいですか? 岩上翠 @iwasui
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