無音都市
木穴加工
無音都市
7時30分。
猫目京介は、いつも通りに玄関出た。
やや低めの太陽が、庭の芝生を黄金色に照らしている。いつもと変わらない、素晴らしい朝だ。
芝生から視線を動かすと、ふいに隣の中年男と目が合った。何かしきりに口を動かしているが、猫目の耳にその声は届かない。
それもまた、いつもと変わらない朝の一幕だった。
猫目は男を無視してベロシクルに飛び乗る。
男の声が聞こえない理由はシンプル。脳に埋め込まれたエコーチェンバーフィルター《ECF》がカットしているからだ。
「こいつがあって良かった」
というより、ECFがない生活は考えられなかった。
この自由の街には、いろいろな人間が混在している。左翼も右翼も、環境保護派も経済史上主義も、フェミニストもミソジニーも、この街は別け隔てなく受け入れてきた。しかしここでは争いごとは起こらない。それどころか人類史上かつてないほど人々の心は穏やかだった。
それこそがECF、すなわち、すべての声を発言者の思想ごとにチャンネル分けし、フィルタリングする技術がもたらした恩恵なのだ。
それによって人々は日々、自分と共鳴する人々の声だけを聞くことができ、対立意見を耳にしなくてよい、というわけだ。
向こうから歩いてくる人影が、猫目の眼を引いた。この高級住宅街におよそ似つかわしくない、ボロ布のようなフード付きの服をまとった人物。体型からして女だろうか、フードで顔は見えなかった。
すれ違いざま、女は猫目に向かって何か囁いた。
「……##$%&……」
猫目はギョッとして、思わずベロシクルを停めて女の方を見る。フードの下から覗かせた顔に、猫目は思わず息をのんだ。
──美人だ。
女はまた何か言ったが、今度は聞こえなかった。猫目はこわばった顔のまま会釈し、再び会社に向かって漕ぎ出した。
「あの子、なんて言ってたんだ?」
聞いたこともないイントネーション、明らかに猫目の知らない言語だった。しかし、そんなはずはない。異言語もECFでカットされるはずだ。最初のは故障だったのだろうか、自己診断プログラ厶を走らせる。オールグリーン、問題なし。
原因はわからないが、それにしても。
「ちょっとしゃべってみたかったな」
猫目は垣間見た女の顔を思い浮かべながら、一人呟いた。
月度末だと言うのに、オフィスはやけに静かだった。
猫目は席に荷物を置くと、
「おはよう、娘さんの手術どうだった?」
と隣席の馬田に挨拶した。
しかし返事がない。馬田は怪訝な顔をしてこっちをみている。
もう一度聞く。
馬田の口は動いている。しかし、何も聞こえない。
「こいつ、また変な思想に染まったのか?」
猫目は眉をひそめた。フィルターに引っかかるということは、そういうことだろ。しかもこいつには前科がある。
「おい百舌、お前の同期また変な動画見たんじゃ..」
しかし、PCに向かって作業している百舌はピクリともしない。明らかに猫目の声が聞こえていないのだ。
「いやいやいや」
オフィスの廊下を移動し、Bグループの部屋に入る。手当たり次第何人かに話しかけてみたが、誰からも返答がなかった。Cグループ、やはり駄目。
「...どういうことだ?」
もう一度ECFをセルフチェックする。やはりオールグリーンだった。
突然の事態に戸惑い、猫目は会社を飛び出す。
いつもと変わらない青空の下、大通りは人で溢れていた。カフェのテラス席では子連れのママたちが会話を弾ませ、商店の軒先で店主と客が身振り手振りを交えながら談笑している。
だが、そこには一切の声がなかった。
手当たり次第道行く人々に話しかけた。しかし、誰も猫目を相手にしない。何人かはあからさまに軽蔑の眼差しを浮かべてすれ違っていった。
「誰か!」
行き交う人の波の中で猫目は叫んだ。
「誰か聞こえますか?」
しかしかえってくるのは、通り過ぎていくベロシクルのモーター音だけだった。
猫目は今朝すれ違った女のことを思い出す。彼女の言葉が、ECFに何らかの影響を及ぼしたのだろうか。
「いや、違う。俺だ。」
猫目はあのとき、こう思った。ちょっとしゃべってみたかったな、と。
あの時、猫目はECFが無ければいいのに、と一瞬思ったのだ。ECFは異なる価値観の持ち主の声を遮断する。では、この街の住人に共通する価値観の根底が「ECFへの信仰」だとしたら?
その瞬間、背筋が凍りついた。
「俺は、この街の誰とも共鳴しない状態になったのか?」
そしてすぐさま気がついてしまう。ECFのせいでこんな目に遭ってしまった自分は、二度とECFへの信仰を取り戻せないだろうということに。
どれくらいの時間が経っただろうか、猫目は当てもなく街をさまよった。その間も、誰の声も聞こえなかった。
気づけば、猫目は街のメインゲートの前に立っていた。この先は「アウター」、ECFの効力が及ばない、文明社会から切り離されたスラム。
今にも崩れ落ちそうなあばら家が無秩序に立ち並び、その間を物乞いのような格好の人影が、何をするわけでもなく佇んでいる。
人影の中に、見覚えのあるフード姿を見つけた。
猫目は、ゆっくりと門を跨ぐ。
彼女が少し微笑んだような気がした。
無音都市 木穴加工 @medea
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