箱庭に咲く花

いと

箱庭に咲く花

【モノローグ】

 僕はこの世界が大嫌いだ。家族、使用人、騎士、全ての民が。抗えない運命が。生まれてきた家が。時代が。不条理で満ちた現実が。そんな世界を受け入れた彼女が嫌いだ。そして、次期騎士団長のはずなのに救いたい人の一人も助けられなかった僕が、大嫌いだ。


 これは、誰にも届くことのなかったささやかな祈り。口に出すことすら出来なかった淡い願い。この大地を満たしていた怒号や悲鳴も今や聞こえない。静寂に包まれた森に木霊するのはたった一人の呼吸と鼓動。


 さて、そろそろ幕が上がる。これはそんな二人の物語。正しく間違った世界に生きた愚かな二人のお話。ここには誰もいない。ゆっくり腰をかけて見ていってよ。そして、誰も知らないこの惨劇を目に焼き付けて帰ってほしい。ロミオとジュリエットも驚くようなバッドエンドを。シェイクスピアでさえ描けなかった悲劇を。どんな小説よりも奇なるこの現実を。あなたにだけは覚えていてほしいんだ。彼女の生きた証を。僕が下したどうしようも無い決断と、二人が過ごした一ヶ月を。

 ほら、もう幕は上がった。僕らの終わりの始まりを始めようか。


 「さよなら、ルラ」






【第一章 輪廻】

 窓から差し込む日差しに重い瞼を上げる。僕を嘲笑うかのように穏やかな朝が来た。もうこの世界にルラはいない。視界に広がった赤が蘇り、頭を抱える。嫌だ。嫌だ。手を染めた深紅をきっとこの先も綺麗に戻すことはできない。否、この先もこの手は汚れるしか選択肢がない。だって僕は、騎士だ。

 守られるべき人を守るべくして存在する騎士は人殺しも厭わない。それが必要な犠牲ならば喜んでその犠牲を生み出す。それが仕事だ。社会から求められる姿であり、彼らの誇りだ。僕にとってその初めての犠牲が心の底から守りたい人だった、ただそれだけの話。きっとこの感情は酷く個人的で、社会性を求められるこの世界では愚かで稚拙なものだと僕もわかっている。だけど、だけどさ。ルラはなんで死ななきゃいけなかったの?なんで僕が、


───彼女を殺さなきゃならなかったの。




「アトラス坊っちゃま!朝食ができております!お顔を洗って降りてきてくださいまし!」

 そんな気分じゃないんだけどな。朝食の味がわかるかもわからないけれど、婆やが呼ぶならば仕方が無い。ここで降りなくてはきっと父上に叱られてしまう。

 鉛のような身体を起こし、ベッドから降り、癖で壁にかかるカレンダーを見た。今日はあの日の次の日だから三月十六日のはず。

………あれ?なんでカレンダーが二月なんだ。替え忘れた?いやそんなはずがない。だって昨日三月十五日の日付を見ている。その日が来たことを憂いた記憶もしっかりと残っている。多少の違和感は残るが、とりあえず僕は一階に降りた。なんなんだろう、一体。


「おはようございます坊っちゃま。今日も冷え込みますのでお体にお気をつけください。」

「……うん、おはよう。」

「どうしたんです?今日は一段と元気がありませんけれども…」

「……ちょっと、気分が優れなくて。」

「左様でございますか。それでは本日の鍛錬はお休みされた方がよろしいですね。私の方からヘリオス様にお伝えしておきます。」

 鍛錬…?いやだってもう、戦いは終わったはずだ。昨日ルラの首を取って、一人娘の彼女を失ったディオーコは降伏を宣言したはずだ。反乱の恐れがあるということだろうか。確かに日々の鍛錬を怠るのが一番よくないことだろう。

「ちなみに婆や、」

「なんでしょう。」

「一体なんのための鍛錬なんだ?戦いはもう終わったはずだ。」

婆やの表情が強ばった。いや…まさか……

「………何を仰っているのですか坊っちゃま。決戦は一ヶ月後、三月十五日でしょう。そのための鍛錬ですよ。…やはり今日はお休みされた方がよろしいかと。」

 どういうことだよ………。今日が決戦の一ヶ月前って。でも本当ならば部屋のカレンダーにも合点がいく。

「婆や、もうひとつ聞いていいか?」

「はい、なんでしょう。」

「……今日は何月何日だ?」

「今日は二月十五日でございますよ、坊っちゃま。」

「………そうか、ありがとう。」

 二月十五日……。ちょうど決戦の一ヶ月前。どういうことだ。時間が戻ったということだろうか。そんなこと現実に有り得るのか?婆やが僕の気を紛らわすために変な嘘をついているとか…。いや、婆やに限ってそんなことは無い。十五年一緒に生きてきてそんなことをするような人ではないとわかっている。ならば信じ難いが、本当に時間が一ヶ月戻ったということか。ということは、


………ルラが生きている!?




 とにかく、毎日ルラに会う場所へ向かう。ここで僕らは家にはバレないように密かに毎日会っていた。周りを囲む森が穏やかな木漏れ日を与え、小鳥が囀るちょっとした草原のような場所だ。僕はここが大好きだった。ルラの雰囲気と相まってとても癒しをくれる場所だった。そこにいると心が落ち着いて、恒常的な束縛から逃れられている気がした。一番好きな場所を聞かれたら迷いなくここを答えていただろう。あの日までは。

 そう、この癒しの広場は同時にルラを殺した場所でもあった。毎日人目を盗んで二人で会っていた場所で彼女の命を断つなんて皮肉極まりないと思う。世の不条理ってやつはいつまで僕に付きまとうんだ。それが逃れようのないものだとするならば、こんな世界からもういなくなってしまいたい。


「あ、アトラスおはよう!」

 聞きなれた声にセリフに今日ばかりは背が強ばった。まさか本当にルラは生きているというのか…?恐る恐る振り返った先に居たのは純白のワンピースに身を包んだ少女、たった昨日僕が殺したはずのルラだった。

「……おは、よう。」

「?…今日もしかして元気ない?具合とか悪い?」

「いや、大丈夫。なんでもないよ。」

 言えない。君はもうそろそろ死ぬなんて。言えないよ。もしかしたら時間が戻ったなんて。この事実かもわからない現実を彼女に話せないことが悔やまれる。だけどこんなこと言ったって信じてなんかくれない。当事者の僕だって信じられていないんだ。言って受け入れられることが一番楽かもしれないけれど、そうして彼女を不安にさせたら?きっとルラは一人で抱え込むから僕に不安そうな顔は見せない。ならば苦しいけど言わないのが得策か。色々な感情が渦巻くのがわかる。何が正しい行動で、何が正しい感情か、もはや訳がわからない。

「そっか!ならよかった!そうそう、そういえば昨日ね!………」

 快活に話す彼女の声に、一体何度勇気をもらっただろうか。そしてこの声をもう一度でも聞けると、昨日の僕には想像も出来なかっただろう。いや、今も信じられないんだけど。ルラの声はいつも僕を安心させてくれる。もちろんそれは幼い頃から聞いてきた声だからであり、彼女と共に過ごす時間が長かったというのも確実にある。だけどきっとそれだけでもない気がする。それが何かはイマイチよく自分にもわからない。確信しているようで曖昧なその感情を残したまま彼女はこの世を去った。否、僕が彼女を殺めた。けれどもう一度会えたなら、彼女の艶やかな髪に触れて、天色の瞳をきちんと見て、また他愛のない周りからしたらどうでもいいような、そんなくだらない会話で時を過ごしたい。二人の自由を謳歌したい。そして、今ならそれが出来る。というか、もしかしたらルラを死なさずに済むんじゃないか?この子を今度は救えるかもしれない。これが夢じゃないならば、不条理な現実に差した一筋の光ならば、彼女はきっとこの先も生きていける。

「………ちょっとアトラスちゃんと聞いてる?」

「え?あぁ、ごめん聞いてなかった。もう一回話してもらってもいい?」

「もう仕方ないなあ。しっかりしてよね、騎士団長さま。」

 騎士団長、ね。今はその単語が胸にチクリと刺さる。今までならばそれが自分に与えられた使命であり道だと思って彼女の言葉を軽く流すことが出来たと思う。今はそれができない。その役職がまっさらな彼女を真紅に染めた。

「………ねえ、本当に今日大丈夫?」

「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ。」

「じゃあもう今日は帰りましょう。また明日。」

「うん、また明日。」

 これから言葉を彼女と何度交わせるだろうか。いつまで平穏な朝を迎えられるだろうか。あと三十回もないとしたら。

 ならば僕が変えるしかない。おはよう、といつまでも言えるように。毎日ルラに会えるように。





【第二章 運命】

 一夜が明け、いつもの場所に向かう。カレンダーは相変わらず二月。芯に冷え込むこの空気が二月であることを証明している。それにしても不思議なことが起こるものだな。本当に時間が巻き戻っている。もしも同じことを繰り返しているとしたら、今日はたしかルラがパンの欠片を持ってきて二人で小鳥たちにエサをあげるはずだ。それでその後───

「アトラスおはよう!」

「おはよう。」

「元気になった?」

「うん、もうばっちり。」

「そうそう、今日はね…」

そうして彼女は持っていたポシェットを漁り始めた。

「パンの端を持ってきたの!これを小鳥さんたちに食べさせてあげましょう!」

………やっぱり。過去を繰り返している。それは証明できた。じゃああと僕に残されている検証は、

「ルラ、エサをやるのはやめよう。」

「え?どうして?」

 心底不思議そうな顔をしている。そうだよな。

「もしルラがそのパンをここにいる小鳥たちにあげたらここにいない鳥たちもその様子を見て来ちゃうだろ?そしたらその鳥たちにあげるパンがなくなる。でも鳥たちはパンを欲してこちらに来る。可哀想な話だろ?」

「…たしかに。アトラスは頭がいいんだね。」

「……そんなことないよ。」


 頭がいい訳じゃない。ただ、少し未来を知っていただけ。

 過去の未来のルラ、難しいな。僕の知っている二月十六日のルラはこの後小鳥にエサをあげ、それによって多くの鳥が寄ってきてしまい、食欲に目をギラつかせた鳥たちを見て鳥を怖がるようになる。それ以来この草原で鳥の鳴き声がしたり空を影がチラつくと彼女は肩を震わせていた。

 今はどうだ。


「こっちにおいで。うん、かわいいね〜。いつも綺麗な歌声を聴かせてくれてありがとう。えへへ。」


 ルラは鳥に怯えていない。そうか、こういうことだ。この小さな変化の連続が彼女を救うかもしれない。きっと神様はこのために僕を一ヶ月前に戻した。今日の変化は本当に些細なものだろう。鳥に動じなくなっただけで彼女が一ヶ月後死なない訳ではない。それだけであの大きな運命が変わるとも思っていない。けれどこれがその第一歩なら、この変化は祝福の色を持つ。神様、僕は与えられた使命を全うするよ。だって僕は騎士だ。ルラの、騎士だ。




 それから一週間が経った。僕はこの前のように小さな小さな変化を重ねた。明らかに変わるその小さな事実たちに僕は胸を踊らせている。ルラがずっと幸せに生きられるように、そう思ってこの日々を過ごしてきた。そしてそれは確信に変わり始めている。この積み重ねがきっと未来を変える。時が戻ったあの日感じていた不安はいつの間にか僕の胸を離れていた。きっと、いや絶対にルラは生きられる。あと二十日弱、こうしてひとつづつ変えていけばきっと未来は晴れる。概略的にみれば時が戻る前と変わらない今日かもしれない。でも違う。確実に今日はあの日の今日とは違う。絶対にルラは助かる。


「おはようアトラス!」

「おはよう。」

「いい天気!今日はいい一日になりそうね!」

「うん、そうだね。」

 本当に楽しそうに生きるな。この笑顔を守り続ける。僕はそう誓うよ。いつまでも。それが誰に許されなくても。

「そういえば、昨日部屋を片付けていたら懐かしいものを見つけたの。」

「一体何を見つけたの?」

「しおりよ。ここで摘んだ花で作った。」

「あぁ、あのシロツメクサの。」

 それは僕とルラがこの草原で花を摘んで冠やしおりを作って遊んでいた幼き日の思い出を象る品だった。その時の僕らは無知で無垢だった。でもあの日、二人は重要な事実を知ることになる。

「その日にあなたがエギエネスの騎士団長だって知ったのよね。」

「そうだったね。」

「聞いた時はすごくショックだったな〜。」

「『もう友達じゃいれなくなるの?』って大泣きしてたもんね。」

「恥ずかしいから思い出さないで!」

 そんな事実を知って尚僕らは大丈夫だと、いつまでも友達でいられると思い続けた。否、己に言い聞かせ続けた。

「でもその時、アトラスが『大丈夫、僕たちはずっと友達だよ。』って傍で慰めてくれたよね。あれすごく嬉しかった。家なんかに縛られずに本当にずっと友達でいられる気がした。ありがとう。」

「僕の方がお兄さんだからね。」

「たった半年くらいでしょ〜。」

 本当は予感していた。このままその手を取ってしまえば抗えない束縛に直面した時に悲しみが増すことも。いつかはこの日常が終わってしまうことも。幼いながらに分かってはいた。でもまだだと、その日が来るのはずっとずっと先だと、不確かな明るい未来を信じ続けた。だから僕は自分の感情に従って毎日この場所で会うことを選んだ。ルラはどうかな。いつまでこうしていられると思っているのかな。どこまでなら運命に許されると思っているのかな。そんな不確定な未来をどう思っているのかな。楽観的なのか、悲観的なのか。ルラも僕と同じように明るい未来を信じているからここに来てくれるのかな。

 ルラもそうだと思いたい。だからこそ小さな頃から誓っていた。この場所を守り抜くと。僕らが感じ、夢見た輝く未来を自分で切り開くと。例えそれが許されなくても、運命が二人が出逢うのを拒んでも。敵国同士の身分でも共に生きると、この理不尽な世界で生き残ると。これだけは幼い頃から譲る気は無い。あんな運命は運命じゃない。この誓いは運命さえ凌駕できる。今度こそ、この誓いを果たす。もしも誰かが二人を引き剥がしても、僕らの未来を淀ませても、その度に何度でも僕はルラの手を取る。いや、もうその手は離さない。この箱庭で永遠に二人で生きていく。

 そんな誓いや自信が僕を満たしてやまない。きっとこの感覚は誰にもわからない。時を戻した僕にしかわからない。あの日の僕にだって予想だにしない今日だ。絶対に次は上手くいく。上手くいかせる。この感覚が僕の心を悲しい未来(過去)から救っていた。


「大丈夫、僕らは運命だって超えられるよ。」

 ルラは脈絡のない僕の発言に少し不思議そうな顔をした。




 それからまた一週間ほどが経った。小さな変化はまだ続く。未来はもっといい方向に向かっている。二月を一日残した今日も僕たちはあの場所で逢う。しかし今日は変化を続ける日々に浮き足立つ僕とコントラストを成すようにルラの表情が曇っている。

「ルラ今日元気ないけど大丈夫?」

「うーん、」

それから間を空けてルラはこう言った。

「アトラスはさ、私のことどう思ってる?」

どうって………

「どうって、大切だと思ってるよ。」

「敵国の姫なのに?」

「…そんなの関係ない。」

 そう告げる僕を目を丸くしてルラが見つめる。まるで僕がありえないことを言っているかのようだ。…実際おかしなことなのかもしれない。ディオーコとエギエネスは敵国で、僕はエギエネス家直属の騎士団一族、ニコスの長男だ。次期騎士団長だ。僕はそろそろその座を受け継ぐことになる。そんな僕とディオーコの王女が幼馴染でこうして毎朝会っているなんて民衆が知ったら大事だ。そんなことはわかりきっていたし彼女だってわかっていたはずだ。それをわかっていたから密やかにここで会うことをもう十年ほど続けているはずだ。

「………急にどうしたの?」

 彼女はゆっくりと口を開いて告げた。

「明日、アトラスはうちの家との戦いに参加するんだよね?それがとても苦しいの。」

 苦しいとか言いながら笑わないでよ。こっちまで辛くなる。辛いなら辛いって、しんどいならしんどいって、言ってよ。

「何が苦しいのか自分でもわからない。アトラスが私の周りの人を傷つけることなのか、私にもその戦いの影響が出ることなのか、アトラスが怪我をしたり、最悪………死んじゃう…ことなのか。」

 自分で言うのもおかしいけれど、きっと最後のことだ。僕が傷つくことがきっと彼女を苦しめている。その痛みや悲しみはよく分かる。だって僕は大切な人を亡くした、もとい殺した経験があるから。

 きっと幼い日のように抱きしめてしまえば余計彼女を困らせてしまう。戦争に行かないでほしいと願わせてしまう。だから、いつもの彼女に負けない笑顔で精一杯の自信を持って僕はこう告げる。

「大丈夫、僕は無傷で帰る。だから明日、笑顔で送り出してよ。」




 朝日は上り、エギエネスとディオーコのもう何度になるかわからない戦いの日になった。閏の冷え込む朝、僕らは今日もあの草原で会う。彼女の懸念のようにこれが最後にはならない。

「ルラ、おはよう。」

「アトラスおはよう。」

息を一つ吸って彼女は続ける。

「今日だね。」

「うん、今日だ。」

「…気をつけてね。」

「あはは、大丈夫だって言ってるじゃん。僕は誰も傷つけない。僕も含めて。」

「ほんと、どこから出てくるのその自信。……なんかアトラス半月前くらいから変わったよね。なんか自信ついたっていうか、顔つきが変わったっていうか。」

「気のせいじゃない?」

 変わったのかも。だってルラも僕もここで死なないってわかってるもん。あの日までは健康でいられるってわかっている。今のところいい方向にしか変わってない。半月過ごして悪い方向には一ミリも変わってない。悪変化は起こらないはずだ。


「きっとアトラスは大丈夫だって信じてるけど、不安が拭いきれたわけじゃない。だから、これを持っていて。」

 そう言って彼女が渡してきたのはブレスレットだった。

「これをお守りにしてほしいの。そして、辛くなったら私のことを思い出してほしい。私はいつでもここで待ってるから。」

 そう言って彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。その凛とした表情からはそこはかとない覚悟を感じる。きっと今から戦場に向かう僕よりも腹を据えている。ルラの勇敢さに僕の覚悟も決まる。

「ありがとう。必ず戻ってくる。」

それが僕にできる精一杯の彼女への忠誠だ。必ずここに戻って二人で生きる。その夢が僕を強くする。幼いあの日、どこまでも広がる青空の下で決めた誓いが僕を奮い立たせる。僕はその誓いを守り抜くために生きている。


「また明日。絶対ここで会おう。」

「うん、約束だよ。」




 その日の戦いは終わり、僕は誰も傷つけずに、僕さえ身体に傷を付けずに三月を迎えた。まだ朝の冷える空気の中、ふと、昨夜父であるヘリオスと交わした会話を思い出した。それは戦いを終え、撤収作業さえも終わった広く果てしない大地でのことだった。淀む雲が暖かな太陽を隠し、まだ北風の吹くさっきまで戦場だった場所で父上、もとい騎士団長は口を開いた。

「アトラス、民はこの戦いをどう思っていると思う。」

「各々意見は違うでしょうが、大半が良くは思っていないのではないでしょうか。自分の家族や大切な人が死ぬ可能性もありますし。」

「そうだ。民はこの戦いに対して良い印象を持っていない。王家の問題だろうと。私たちには関係がないだろうと。…ではアトラス、なぜ民は何年も何度も戦いに参加すると思う。」

「それは……そうしないと罰則や社会から冷ややかな目を向けられると思っているからでしょうか。」

「いいや。それもあるかもしれないが、彼らは戦いに行かなければ自分たちの生活に直接支障が出ることを一番懸念しているからだ。自分が戦わなくてはディオーコが一方的に攻撃を続けるばかり。経済的な制限などをしてきたらどうする。飢えて死んでしまう。」

「………」

「それに、…彼らの中で戦いは慣習と化している。それがこの国で生きるにあたって当然のことになっている。だから彼らは戦うんだ。…アトラス、お前が防御に徹する戦い方をしているのは知っている。現に今まで三回も戦いに参加したお前が取ったという首は見ていない。だが、倒さないことには始まらない。敵を倒さなくては平穏な新しい日常は来ない。アトラス、お前にはその意味がわかると思っている。」

「………」

 わからなくはない。だけど本当にそれは平和な日常をもたらすのか?人を殺して得る平穏になんの意味があるんだ。そうして何度も戦いを続けて、実際問題何も変わってないじゃないか!間違ってる。こんな世界間違ってる。

「次はきっと決戦の日になるだろう。そこでアトラス、お前にその決戦において大きな仕事を与える。お前の仕事がこの国や民の命運を決めるんだ。」


 僕はすっかり忘れていた。この日その命を父上から告げられることを。二月二十九日、午後六時を過ぎた頃。繰り返す前の僕には抗えなかった運命を。


「アトラス、敵国の王女ルラを殺しなさい。」





【第三章 変化】

 外はまだ薄ら寒く、僕の身体を末端から蝕むように冷やしていく。僕は昨夜告げられた父上の命に従う気はないという強い意志で自分を奮い立たせた。ここで従ってしまったら僕の負けだ。もう一度やり直せた意味が無い。だけど正直、その命令さえ無くなると思っていた。それは甘かったか。いくらいい方向にこの一ヶ月が向かっているからと言ってそこまでではなかったのか。ならばやっぱりここで大きく変えるしかない。今までよりも大きな変化を。……うん、これは名案かもしれない。これなら確実にルラを助けられる。大丈夫、だって今まで上手くいってるんだ。あとは彼女にどう告げるかだな……

「おはようアトラス!」

「あ、おはよう。」

「無事に帰ってきてくれたんだね。」

「だから僕は大丈夫だって言ったじゃん。」

穏やかに差す木漏れ日が僕の左手首を輝かせる。

「ブレスレットありがとう。おかげで頑張れた。」

「うん、よかった。今日も付けてくれてありがとう。」

 僕らの間にしばらくの沈黙が流れる。切り出すなら今だ。

「ねぇルラ。」

「ん?何?」

「……今日の夜、星を見に行かない?」

「…星?」

「そう!今日は新月で綺麗に星が見えるでしょ。だから見に行こうよ!」

「でもどうやって夜に家から出るの。」

「そうだな……兵の交代の時間を狙ってこっそり。時間は二十三時。この時間ならもうルラも一人でしょ?」

「そうだけど……。」

「ね!行こうよ!」

「………うん、わかった。二十三時にここね。失敗したらごめん。」

「大丈夫。ありがとう。」

 ルラにこんな嘘をついたのは十年近く一緒にいて初めてだ。申し訳ないとは、思ってる。でもどこか僕の心をくすぐって止まない。わくわくする気持ちが僕を満たしている。きっと民衆たちもそうなんだろう。そんな嘘を重ねて享楽に耽っているのだろう。いいな。そんなに軽くその享楽を得られて。こんなリスクを冒さなくてもいいなんて。でも僕らも民衆もその嘘を取り返せないのは一緒だ。そこで最高の享楽を、結果を出さなくてはならない。ならば僕のやることは一つ。ここでしっかり結果を出す。ルラをこの狂った世界から連れ出す。




 辺りは闇に包まれ、全ての輪郭を晦ます。時刻は二十三時。普段とは景色の違う草原に僕だけが立っている。…やっぱり厳しかったか。そう思い引き返しかけた刹那、背後から聞きなれた穏やかな声が聞こえた。

「ごめんお待たせ!」

「うんん、大丈夫。よく出てこれたね。」

「うん、なんとか。」

「じゃあ行こっか。」

 やっぱり全てが上手くいく。変化はいい方向にしか進まない。僕はルラの手を取って歩を進める。この手を取ることを恐れていたあの日の僕が馬鹿馬鹿しく思えてきた。今ならなんでもできる。

「ところでアトラス。」

「どうしたの?」

「いったいどこまで行くの?そろそろ私たちの領地でも、あなたたちの領地でもなくなるけど。」

………そろそろちゃんと言わなきゃか。

「ルラ。」

 僕は彼女の目を見て告げる。

「ここを出ていこう。」

「………何、言ってるの。」

 空を埋め尽くす星の下、微笑んでそう言う僕を彼女は恐ろしいと言わんばかりの顔で問う。

「出ていくって、国から離れるってこと?そんなこと出来ないよ。そんなことしたらお父様たちが───」

「そんなのもうどうだっていいよ!………もう逃げようよ。」

 ルラの表情は先と変わらない。変わったことは、次の言葉を紡げなくなったことだろう。

「落ち着いて聞いてほしい。………ルラは、…決戦の日に殺される。……だから逃げよう!一緒に生きよう!こんな世界から出ていこう!平和で誰も傷つかないところで二人で幸せになろう!」

 そう告げられた彼女は目を伏せ、何かを言おうと口を開いた。瞬間、遠くから大人の声がした。

「ルラ様!ルラ様どちらにいらっしゃいますか!?いたら返事をしてください!」

 僕の頭に浮かんだ行動は一つ。繋いだままの手を引き、僕は走り出した。

「待ってアトラス!そんなに早く走れない!」

 そんな彼女の声さえ無視して僕はより遠くを目指して走り続ける。二人の荒い呼吸だけが世界を支配する。輝く星たちが僕らを照らすスポットライトになる。もうこの世界には僕らしかいないかのようだ。だからもう誰にも邪魔はさせない。今度こそ二人は自由を手に入れる。

 また、あいつらの声がする。まるでそれは彼女を残虐な終わりへ導く悪魔の声だ。そう思うや否や彼女の手は僕を離れ、地面にその華奢な身体が打ち付けられた。

「いたた…。」

「ルラ!…大丈夫?ごめんちょっと早く走りすぎたかも。」

「大丈夫。それより早く行かないと家の者が…。」

 背後に迫る黒い影に僕は気が付かなかった。彼女の声で後ろを向いた時にはもう遅く、僕は頭に鈍い痛みを与えられ意識を手放した。最後に残っている記憶は、遠のく意識の中彼女が必死に僕を呼ぶ声だった。




 東から差し込む強い陽の光に僕は目を覚ました。辺りにルラは…もういない。きっとあの兵に連れて帰られたのだろう。

………うまく、いかなかった。初めてだ。こんなの、初めてだ。うまくいかないことも、あるのか。あるよなそりゃ。人生はそんな簡単じゃないよな。ははっ。あはははは。こんな重大なことが上手くいかないのか。ねえ神様、なんで僕を一ヶ月前に戻したの。それでも尚僕に彼女は救えないと思い知らせたかったの。あなたまで僕の敵になるの。………でも、僕はまだ抗うよ。その日が来るまでは終わりじゃない。まだこの戦いは続く。この挫折はこの先上手くいくための糧だ。あと半月、確実に上手くいくシナリオを考えて実行する。


「ルラが幸せに生きられますように。」

 もう何度祈ったかも忘れた願いを今日も呟く。自分本位な願いかもしれないけど、ルラが幸せに生きられますように。それだけが僕の夢だ。




 もはやわかりもしない来た道を引き返す。帰路は朝なのに孤独で満ちていた。希望の朝とはまやかしのようだ。そんなことを思っていたらいつの間にか目の前には要塞としか思えない自分の家があった。帰るのがこんなにも嫌なことは初めてだ。

 家に入ると既に朝食が出来ていた。僕は手を洗って席に着く。スープが体に染み込み、じゅわっと僕を温める。三月になりたての夜を外でずっと過ごすのはかなり体にこたえる。全ての食材が僕を満たして回復させるのがわかる。それでも僕の心だけは満ちなかった。この食事も上手くいってたらもっと美味しく感じてたのかな。いや上手くいってたら食べてないか。そう思うと僕を満たした生理的幸福も憂鬱へと化した。

「ごちそうさまでした。」

 お腹が空いている訳ではないのにやっぱり僕は満たされなかった。どうしたらルラを救えるのか。僕はどこかで何かを間違えたのか。本当にルラを救えるのか。朝食の味は途端に不安に変わる。

「アトラス坊っちゃま、お帰りなさいませ。」

「あぁ、ただいま。」

「シャワーを浴びられますか?」

「いいや、大丈夫だ。ありがとう。」

「………そういえば、昨夜ディオーコの王女様が何者かに連れ去られたとか。」

 婆やは急にそんな話題を出した。もうそんなに情報が出回っているのか。

「王女様は無事に帰って来れたそうですが、物騒な話ですね。」

「……そうだな。」

「アトラス坊っちゃまも昨夜不在でしたので、大丈夫かと不安になりました。」

「……あぁ、大丈夫だ。僕は鍛錬に励んでいただけだ。」

「左様でございますか。……坊っちゃまとディオーコの王女様はお友達でしょうから心配でした。」

………なんで知ってるんだ。僕らは家にバレないように会っていたはずだ。いつから知ってるんだ。何を知ってるんだ。なぜ知ったんだ。どこで知ったんだ。どういう経緯で知ったんだ。

 もはや何から聞けばいいかわからない。とにかくこれだけは聞いておかなくては。

「そのことを家の他の者は知っているのか。」

 婆やは口調を変えずに答える。

「いいえ、きっと私のみです。」

「そうか。…無事に助かったならきっと心配はない。」

 僕はそれ以外を何も聞けなかった。聞いてしまったら何かを見失う気がした。僕がしてきた全ては間違っていると断定されそうで怖かった。そして今の僕にはそれに反抗できるような気概はない。

 それでも僕は今日もあの草原に向かう。僕らだけの箱庭で今朝も会えると信じて。




 木漏れ日が僕を照らす。やっと穏やかな朝を感じられた。ルラは来てくれるだろうか。昨日の今日だ。出てこられなくてもおかしくは無い。それでもどこか、ルラは来てくれる気がした。昨日の夜そうだったように。僕は信じて彼女を待つことにした。……しかし、今日は待てど暮らせど来なかった。仕方がないと諦めて僕は家に帰った。白昼に浮かぶ月が僕を見つめる。お前は間違っている、と告げているようだ。真昼に浮かぶ俺のようにお前もこんな姿はあるべきものでは無いと、そう言っているように見えた。元の姿に戻れば愛される月のように、僕もあるべき姿になれば万人に受け入れられるのか。あるべき姿にならなくてはいけないのか。そう考えさせられる一日だった。


 また陽は昇り、あの草原へ向かう。今日もルラは来なかった。次の日も、またその次の日もルラは現れなかった。自主的に来ないようにしているのか、はたまたもう城から出られないようにされているのか。真相はわからない。感じることは一つだけ。事態は悪い方向に進んでいる気がする。あんなに上手くいっていた前半が嘘かのように何も僕らの関係に進展は無い。どころか会うことすら出来なくなった。悪変化としか言えないだろう。

 そうしてあの夜からほぼ一週間が経った。僕らは未だに再会を果たせていない。行き場のない不安が頭を渦巻く中、僕は街に来ていた。家の者の頼みでおつかいを頼まれていたためだ。使用人が代わりに行くことを提案してくれたが、負の感情でいっぱいになった頭に一度新しい風を吹かせたかったから断った。そうして、春の賑わう街を一人歩いている。

 用も済み、帰路に着く最中僕の視界にフードを被った少女が映った。その刹那僕は確信した。あの姿は絶対ルラだ。もう一度その手を取らなくちゃ。そんな誓いが僕を動かした。

「ルラ!」

 そういいながら僕は彼女に手を伸ばした。少女は振り向かなかった。その代わりに僕の目の前に大きな男が現れ、僕を突き放した。

「貴様!何度やれば気が済むんだ!前回は王女様の気遣いで見逃したが、次は無いぞ。生憎ここは我々の領地では無いから下手な真似は出来ない。それを喜べ。万が一次も貴様がこのような真似をしたら今度は生きて帰れないと思え。」

 そう言う男の隙から見えた彼女の顔は不安や気まずさを表していた。

 僕はまたその手を取り逃した。また動けなかった。ルラを守る騎士に、僕はなれないのか。でも今また大胆に動けば、両家の軋轢は更に酷くなる。手に入れるものより失うものの対価が大きいことはわかる。その対価が何かはわからないけれど。だから動けない。この運命にもがけないことが苦しい。行動して失敗するよりも、行動出来ずに指を咥えることの方がよっぽど辛いかもしれない。でも今はこうするしかないことはわかっていた。でもルラ、こんな日常疲れない?やっぱり逃げ出そうよ一緒に。そんなことができる状況に無いとわかっていながらそう願う自分がいる。心が荒まないように、誰にも邪魔なんかさせないように、僕を信じてほしい。信じあって、その背中を預けてほしい。そんな僕のエゴは彼女に届かない。彼女の後ろ姿がまた遠のく。


 それからの一週間、決戦の朝まで僕らが出会うことは一度もなかった。





【第四章 正邪】

 三月十五日。晴れ。気温も暖かく、決戦にはぴったりの天気だった。明けない夜はないと言うのならば、この夜が明けてほしくないと願った僕は生きることに向いていないのか。

 時間が巻き戻ってから明日で一ヶ月が経つ。この一ヶ月、僕はルラを助けることだけを考えて過ごしてきた。この決戦でルラを殺さない結末を迎えるようにと、生きてきた。今のところ、大きなものは何も変わっていない。決戦が無くなったわけでも、相手の人員が足りなくなったわけでも、平和的解決が出来るようになったわけでもない。全ては時を戻す前の三月十五日と変わらない朝だ。


 僕はいつものようにルラに会いにいく。会えないとわかっていても、今日ならば、今日ならばと、一筋の希望だけを信じて僕はあの草原を目指す。つくづく執着深いとは思う。けどこの執着深さが無ければきっと彼女は救えない。………また彼女は来ない。芽吹く緑が僕に癒しをくれる。彼女が来ればその癒しは完璧なんだけどな。そしてまた僕は道を引き返す。決戦の準備をしなくちゃ。




 これが最後の戦いになる。覚悟を決めた顔を両家の兵や騎士がしている。僕もそうだ。今日が一番の勝負になる。今日でルラの命運が決まる。僕が過ごした一ヶ月の全てが今日決まる。広大な土地はどこも殺伐とした雰囲気を纏う。

「アトラス、頼んだぞ。」

父上のその声に僕は返事をしなかった。凛と敵陣を見据える僕は父上にはどう映っているのだろう。


 両家が宣誓をし、戦いが始まる。左手首がきらりと光る。ルラは僕が助ける。掛け声と共に大勢の兵や騎士が真っ直ぐに走り出した。僕も敵陣に向かって動き出す。僕は誰一人傷つけない。今日も防御だけをする戦いをした。多くの兵が戦いに夢中になる中僕はあの草原に向かう。本当に今日が何も変わらない三月十五日ならルラはそこにいる。あの日僕は彼女を殺した。もう体感では一ヶ月が経つのにその記憶や感触は昨日のように思い出せる。その時を繰り返した今、もうそんな結末は辿らせない。絶対にルラを助ける。




 毎朝訪れるあの草原に着く。戦場を外れたこの場所は静けさに包まれ、喧騒とは程遠い穏やかさを持っていた。新緑が包み込むこの空間の真ん中にぽつりと純白が見える。ルラがいる。あの日と、何も変わらない。美しい箱庭は僕らだけの世界だ。

「ルラ!」

 もう何度呼んだかわからない彼女の名前を呼ぶ。今日が最後になんかさせない。この先だって何度も彼女の名前を呼ぶ。

「アトラス、来てくれるって思ってたよ。」

「ルラ…よくここに来れたね。あれから大丈夫だった?酷いこととかされてない?」

 今まで会えなかった分聞きたいこと、話したいことが溢れ出す。必死さを隠しきれない僕を彼女は笑う。

「あはは、酷いことって!私これでも姫だよ?王女に不躾なことする方が酷い目に合うって。」

「そっか。あはは、そうだよね。」

 久しぶりに見れた彼女の笑顔はいつもと変わらなくて、僕の心を安寧へと導く。

「………ねえルラ、どうして今日ここへ来たの。」

 それが僕にとって一番の疑問だった。今まで一度もここに来なかったのに、今日に限って、いや今に限ってここに彼女が来る意味はなんだ。下手に外に出ればエギエネス陣に殺される恐れがあるのに。今日自分が殺されるってわかっているはずなのに。

───彼女の解答は、僕の想像を超えるものだった。


「私ね、アトラスに殺されに来たの。」

 ねえ、何を言ってるの。その言葉に耳を疑う。

「何言ってるの!ルラは生きなきゃ。生きるんだよ僕と一緒に!自由になろう!きっと何か方法があるから!ルラが死ななくてもいい未来は絶対にあるから!だから生き───」

「アトラス。私はアトラスに殺してもらえるなら幸せだよ。他の騎士に殺されるくらいならアトラスがいい。きっとそれを命じられたのはあなたなんでしょう?」

「そう…だけど……。僕はルラを殺したくない。その命令に従う気はない。………ねえ、だから逃げようよ。二人で!生きよう!」

 彼女は静かに首を横に振る。違うじゃん。そんな運命は辿りたくない。これじゃ繰り返した意味がない。

「私ね、知ってるよ。アトラスが今まで私のためにたくさん頑張ってくれてること。特にこの一ヶ月間は。…もう一回やり直してるんじゃないかなってくらい私のことたくさん助けてくれた。」

 戻ったこと、勘づかれてたのかな。

「でもね、どんなに頑張ってもきっとこの末路は変えられない。今また逃げたって両家の関係が悪化するだけ。この運命は変えられないのよ。………私あの日家の者に連れ帰られてからずっと考えてたの。アトラスのために何が出来るか。どう動くのが正解なのか。そこで出した答えは、来る運命に従うこと。」

 そんなはずない。一緒に生きることが一番だ。

「もしもそれに抗って私たちが自由を手に入れてもその自由は長くは続かない。きっと繰り返す前もそうだったんじゃない?私は今日死ぬ。それがアトラスの今後のためにもなる。」

 そんなこと言わないでよ…。なんでいつも君は僕より覚悟を決めてるの。僕はまだそんなことできないよ。死ぬのは辛いでしょ?なんでそんな平気そうな顔をするの。なんでこんな時でも笑顔なの。

「申し訳ないとは思ってるよ。さっきも言った通り今まで私のために頑張ってくれてたのは知ってる。でも一つだけ覚えていてほしい。アトラスは正しいことをするの。ここで私を殺すことが正しい判断。狂ってるって、そんなの違うって思うよね。私も感情に従えばそう思う。だけど、それでもね、この世界ではこれが正しいんだよ。アトラスは私を殺して英雄になる。エギエネスの勇敢な騎士団長になる。」

「………」

「だから剣を持って。高く掲げて私に振りかざして。」

 そう言って彼女は大胆に柔らかな芝生に倒れ込んだ。大の字になって微笑む姿はいつもと変わらない無邪気な彼女でしかなかった。その表情からは悲しみの色は少しも感じられない。悲しいのは僕だけなのか。

「色んなことがあったよねこの十年間。走馬灯って本当にあるのかも。急に沢山のこと思い出してきた。全部全部アトラスとの思い出。悲しいことも面白かったことも怒ったことも。私の感情の傍にはいつもアトラスがいた。懐かしいな〜、小さい頃に大人の真似してワルツの練習したの。覚えてる?歌ったり、話したり全部楽しかった。闇にのまれそうな夜も朝を考えれば何も怖くなかった。全部アトラスのおかげ。」

 彼女は僕に手を伸ばした。今度こそその手を取ってしまえば傷つけてしまう気がした。誰も傷つけたことの無いこの僕が。それでも彼女の澄んだ瞳に誘われてその手を取った。すると、華奢なその身体からは考えられないような強い力で僕は引き寄せられた。無様な姿で彼女の上に崩れ落ちた僕を彼女は大層面白そうに笑った。

「ずっとこの時間が続けばいいのに。」

 叶いもしない願いを小さく呟く。

「そうね。」

 彼女は短く返事をする。

「ほら、剣を握って。この時間はもう終わり。私は楽しかった。アトラスと出会えて幸せだった。だからこれだけは覚えておいて。アトラスは何も間違っていない。正しいことをするの。」

 そう言って彼女はその細い指を僕の頬へと伸ばした。

 忘れない。彼女のことを。彼女が教えてくれたことを。彼女の勇気を。

───ルラと過ごした十年を。

 ほのかに滲んだ視界を元に戻し、僕は腰に身につけていた剣に手をかけた。これから何度だって思い出す。今までのことを。今日のことを。

 ルラの手が僕から離れる。僕は冷えた剣を両手で持ち、頭上に振りかざす。左手首がほのかに煌めいた。

 何も、変えられなかった。それでもルラがそれを正しいと言うのなら。



さよなら、ルラ



「ああああああああああああ!!!」


 無機質なその鉄の塊は深く彼女を貫く。純白に包まれた彼女からは鮮やかな赤が溢れ出す。

 静寂に包まれた箱庭にはたった一人の呼吸が響く。

 僕たちだけが辿るこの運命。彼女の小指を伝う血は赤い糸のようだ。その糸は僕に繋がりはしなかった。その手を離さないと、もしも離れてしまったら何度でも掴むと、そんな誓いは見事に果たせなかった。悲しみや怒りはもうここにない。心に残ったのは虚無だけだった。





【エピローグ】

 一夜が明けた。カレンダーは三月のままだ。もう時が戻るなんてことはない。

 あの後、自分がどう帰ってきたのかも、戦いがどう終わったのかも覚えていない。一つ覚えているのは欠けることを知らない月が頭上にあったこと。ただ、あの時と同じならばきっとこの戦いはエギエネスの勝利だ。これで、長い戦いは終わる。

 三月十六日、今日はルラの十五歳の誕生日だ。生きていれば。

 重い体を起こし、食卓へ向かう。部屋を出ると、多くの使用人が祝福の言葉をかける。僕は決戦の勝敗を決めたとして国民から多くの祝福や感謝を受けることになるだろう。食卓に着くと父上がいた。

「アトラス、よくやった。お前はこの国の英雄だ。」

 僕は父上の笑顔を初めて見た気がした。


 昼になり、この戦いの勝利を祝う祝賀会が行われる。そこで僕は父上から騎士団長の座を譲り受けた。肩に下がる団長を示すタスキはどこかとても屈辱的だった。民の顔はみなとても輝いている。その民衆たちには、僕は勇敢な騎士として映っている。皆の「正しい」騎士団長がそこにいる。僕にはまだその正しさが受け入れきれない。でも、ルラがそれを正しいと言うのなら、僕はそんな間違った正しき英雄に、騎士団長になろう。

 華やかなファンファーレが鳴り響く。

「僕が新たに騎士団長に就任したアトラス・ニコスだ。騎士団長としての務めを誠心誠意果たすとここに誓おう。」

 僕は高々に宣言した。


 そんな祝賀パーティーも儀式などが終わり、各々が楽しむだけの会に成り果てた昼下がり、僕はいつものあの草原へ向かった。ここに来るのはこれで最後にする。

 正しく間違った世界にあった小さな箱庭で僕が最後に見たのは、真っ白で小さな一輪の花だった。

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箱庭に咲く花 いと @ito_write

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