あこがれ
夏目シロ
第1話 あこがれ
目を開けた時、自分が一体どこにいるのかよくわからなくてゆっくりと首を左右に振って確かめた。辺りは暗く、今は夜らしい。右を向くと窓があって、閉じられたカーテンの隙間から月明りだろうか、光が漏れてきていた。左は、ドアがしまっている。今、私はベッドの上に体を横たわらせている。いつから寝ていたのだろう? 娘がうちにやってきて、お粥を食べさせてくれて、体を拭いてくれたのが今日のことだったのか、昨日のことだったのかも曖昧だった。自分の手を何気なく見つめると皺だらけで、さっきまで見ていたのがどうも夢だったらしいということははっきりわかってきた。もう随分と昔、自分の大学時代の夢だった。
大学で特別何かをしようと思っていたわけではない。ただ、成績もそこそこいいのだから自分のやりたいことを見つけるために大学に行ってもいいのではないかと担任に言われて大学を受験した。けれど、燃え尽きてしまったのだろうか。入学した大学の勉強には身が入らず、大学に入ったらやらなければと思っていたバイトも叱責されることが多くて気が滅入る日々が続いていた。それでもあの頃は、何とかしようとあがいていたように思う。
煩悶し続けていた中で、私はある美術作品に出会った。一般教養の美術の授業で、毎回出席して、感想を配られた小さな紙に書いて提出すれば単位が取れるという、比較的楽な授業だった。スクリーンに映された主に西洋の絵画を、その時代背景と合わせて先生が解説していくものだったように思う。どの時代からやっていたのかはもう忘れてしまった。でも、あの絵画だけはなぜか鮮明に私の脳裏に焼き付いた。
虚ろで夢見心地とも言える色白の顔、水面にたゆたうドレス、そして彼女に寄り添う可憐な花々。……ミレーの「オフィーリア」。
「オフィーリアは、シェイクスピアのハムレットに登場するヒロインです。恋人のハムレットが、オフィーリアの父を殺してしまい、そこから彼女は気が狂い、川辺の花を摘み取ろうとした時に誤って川に落ちて溺死します。彼女の死は、はっきりと舞台上で演じられたのではなく、王の妃が報告するという形で表現されました。それが、かえって画家達の創作意欲を刺激したのかもしれません。他にもオフィーリアを題材とした作品は多くありますが、その中でも一番有名なのがミレーのオフィーリアです。」
淡々とした先生の説明を聞きながらなんて美しいのだろうと思った。死に際を美しいと思うなんて、少し不謹慎なような気もしたれど、絵画の中のオフィーリアからは死への悲壮感が私には感じられなかった。狂っていたから、死への恐れがないということかもしれない。私はその授業の後に「ハムレット」も読んだが、歌を口にしながら亡くなっていったという描写があり、さらに感嘆の声を漏らした。当時、死に直面した経験がないわけではなかった。小学校高学年の頃、祖母の葬式に参列した覚えがある。「オフィーリア」まではいかなくとも、棺の中の祖母の周りには菊や百合などがたくさん手向けられた。
けれど私は、動かなくなった祖母を見て怖いと思ったと記憶している。命が消え、動かなくなり、ただの物体となってしまった祖母と私に笑いかけてくれていた祖母が同じだとは全く感じられず、その事実が恐ろしかった。死は恐ろしいものなのだと思った。しかし、「オフィーリア」には感動さえ想起させられた。死の新たな側面を表現してくれたようにすら思っている。
(私も最期はこんな風に死んでみたい……。)
その日の授業の終わりにそんなことを思ってしまった。その感想は、先生には提出しなかった。
(なんであの時、そんなこと考えたんだろう。)
まだぼんやりとした頭で私は当時を振り返っていた。当時の私は上手くいっていないことが多かった。そのせいだろうか、と。もしかしたら、
(死にたかったのかしら。)
そう思い当たった時に、頭の中がさえわたっていくのを感じた。今の自分はもう死期が近い老婆だということを改めて思い出す。食欲がなくなり、ベッドで寝ていることが増えて、近所に住む娘がそれを見越してもう何日も泊まりこんでいたはずだ。娘のことを考えると今からやろうとしていることは迷惑をかけることにしかならないだろう。でも、そうしなければならないのだと何故か強く思ってしまった。私はベッドから起き上がろうとしたが容易ではなかった。最近、あまりまともに食事をしていないことと、寝た切りになっていたことでかなり体力が落ちていた。少しずつ時間をかけて体を起こし、床に足をつけて立ち上がった。クローゼットから薄いジャケットを出して羽織り、壁伝いに歩いて寝室から出て階段へ移動する。階段を下りるのも至難の技だった。こんなに長い階段だったのかと錯覚するほどだ。ようやく1階に着いた時には私はかなり息が上がっていた。それでも私は、あの時の感情に突き動かされていた。
あのオフィーリアのように死にたい。私の死期が近いというのならなおさら。
リビングのテーブルには、月明りに照らされた花瓶があり、ヒナギクが生けられていた。
私は、それを手に取り、外に出た。
家の近くには川がある。それほど綺麗な川ではない。けれど、私はそこを目指して歩き出すことにした。外に出てから、私の足取りは軽くなった。息苦しさはある。意識も朦朧としてきたように感じる。でもかえってそれが私のエネルギーになっているようだ。最期の命の灯に近いのかもしれない。どこかで倒れてしまうかもしれない。春先の肌寒い空気の中、1秒でも早く川に着きたくて足を進めることだけを考えていた。ヒナギクを手放さないように掌に力を込めた。オフィーリアの絵にもあった花だ。これを持っていることで私は彼女に近づける。彼女のような死に……。死にたいなんて私は、狂ってしまっているのだろうか。
ようやく川に着いた私は、橋の上の手すりに腰を掛けた。月明りが優しい。ぜえぜえと繰り返している呼吸をゆっくりと深呼吸をして整えていく。体がふわふわしてきて、頭がぼんやりとして気持ちよくなってくる。これはもうすぐ私は死ぬなと確信できた。間に合ってほっとした時に体が後ろに倒れていった。
ああ、これで思い残すことはない。私はやっとオフィーリアになれた。私の体は、川の水に飲み込まれていった。
あこがれ 夏目シロ @nariko3
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