世界の仕組み

晴生

世界の仕組み

 行き交う人々の靴音や衣擦れの音がそれぞれ違うということに気がついたのは、一体いつのことだっただろうか。きっと仕事に追われる日々から脱却して、こうしてのんびりと時間を気にせずとも歩けるようになってからだと思う。

 ドアが閉まります、というアナウンスに慌てて駆け上がってくる人が見える。どうせ数分後には、同じ方面への電車が出るというのに忙しない。まあ、俺も少し前まではああだったのだけれど。

 トトトッ、と軽い足取りで人の流れに逆らうように階段を降りる。早歩きの人の間を縫うように進んでたどり着いた改札では、若い男の駅員がこちらを見てにこりと笑っていた。それに俺も笑い返してから駅を出る。

 なんだか今日は、いい日になるかもしれない。




 車の多い大通りを避けて入った細い路地の向こうには、比較的新しくできた住宅地が広がっている。ふらふらと歩き回っていると、開け放たれた窓から漂う焼いたパンの香ばしさや柔軟剤の甘さに混ざった、柔らかな土と花の匂いに気が付く。すぐ先にあったのは、少しばかりの遊具と簡素なベンチがあるだけの公園だった。

 公園を囲むように咲いている黄色い小さな花からは、植物特有の青っぽい香りがする。これは多分、ずっと前からあったものだろうに。今になってようやく気付くなんてもったいないと感じると同時に、やっと余裕ができたんだと嬉しくなって花びらの端をちょいと爪先でつついてやった。


 その公園から一本入った奥の通りに、個人経営の小さな喫茶店がある。温かみのある灰色の壁に赤い屋根が特徴の喫茶店だ。ちょっと前まで、抱えていた仕事がひと段落する度、買っただけで積んだままになっていた本を数冊持って一日中ここに入り浸っていた。

 そんなことを何回か繰り返して常連客と呼ばれるほどになって、季節が一周した頃。ときどき仕事の相談なども持ちかけるようになったことで親しくなっていた店長から、小瓶を見せられたのだ。「これは、飲むと猫になれる薬さ」と。

 驚いて目を丸くする俺に、店長はいつもと変わらない笑顔で続けた。

「これを三日三晩飲むだけで、四日目の朝には猫に生まれ変わっているんだってさ。生まれ変わると言っても若返るわけじゃないらしいから、置き換わった年齢に計算し直されるみたいだけどね。君だったら二、三歳の猫になるんじゃないかな」

 店長が揺らす小瓶の中で、カロカロと錠剤のぶつかり合う音がする。彼はそういう冗談を言う人ではないから、少なくとも彼の中では本当のことなのだろう。今考えればまったくもって信じられない話だが、そのときは仕事と私生活がどちらも忙しかったせいで、あまり深く考えることはなかったのだ。

 そして俺は、そんなおとぎばなしみたいな話に乗っかった。猫になんてなれませんでしたよ、って次に来たときに空の小瓶を振りながら笑い話にすればいい。そう思って、店長からそれを受け取った。


 ふと、聞き覚えのある声が耳に入る。思ったより日が空いてしまったせいで久しぶりになってしまった。この辺に来るのは大変だったんだ、俺が住んでいたアパートは一駅向こうだったから。

 彼の動きが止まる。俺を見つけたみたいだ。多分、いつも通りに笑っているのだろう。

「――おや、見たことない子だね」

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世界の仕組み 晴生 @sleepy0x0

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