十年恋慕

宮永レン@1/16捨てられ令嬢コミック2

十年恋慕

 時は大正――夜の紅葉町に灯る提灯の明かり。芸妓見習いの千代は扇を手に、客をもてなす笑顔を浮かべながらも、胸の奥に疲れを覚えていた。


 生家は商いを営んでいたが、その経営がついに行き詰まり、父は突然失踪。残されたのは病弱な母と多額の借金のみだった。


 母を守るためにと腹をくくり、千代はこの世界で生きていくことを決める。しかし、ふと浮かぶのは幼い頃に交わした、初恋の相手とのたった一度のだった。



 そんなある日――。


「探したよ、千代」

 店にやってきたのは、上等な濃い藍染の着物に身を包んだ青年だった。


「桂一郎さま……」

 千代は驚きで目を大きく開く。


 早乙女桂一郎は彼女の幼馴染であり――初恋の相手だった。


「久しぶり」

 彼はそう言って艶やかな和装姿の千代をじっと見つめてくる。


 客の前に立っても恥ずかしくないように先輩芸妓がしっかりと化粧もしてくれているし、着物も古くはない。けれど、彼の前に立つといたたまれなくなり、千代はたまらず目を逸らした。


 千代の胸が激しく波立つ。幼い頃、一緒に遊んだ記憶が鮮やかによみがえってきた――桂一郎の大きな手で折られていく鶴。男性のわりに細くてしなやかな指先がとても綺麗で胸が高鳴ったのを覚えている。


 九つ折られた鶴の一つ一つに込められた願いが、彼の優しい声が――。

『私を桂一郎さまのお嫁さんにしてくれる?』

『もちろんだよ、約束する』

 そこまで考えて千代ははっと我に返る。


「桂一郎様、こんな所で何を……」

 問いかけた千代の声は震えていた。


「言っただろう、探していたって。十年前、僕は千代に約束した。いつか君を幸せにするって。それを果たしにきた」


 彼の言葉に、千代は一瞬目を見開く。だが次の瞬間には首を振った。


「そんな昔の約束なんて……とうに忘れました。どうぞお引き取りください」

 嘘だった。だが、そう答えるしかなかった。桂一郎は名家の跡取り息子で、自分は花街に売られた借金にまみれた女。どうあがいても二人の人生は交わらない。


 千代は微笑もうとしたが、その努力は儚く揺れていた。


「君がどんな状況にあろうと、僕の気持ちは変わらない。今でも、君が――」

 その先を言おうとする桂一郎の声を遮るように、千代は強く告げる。


「私には……心に決めた方がおりますので」

 それは嘘ではない。目の前の彼の名前を告げないだけで。


 他に好いている男がいると言えば、たいていの客は諦めるものだと先輩に教えてもらった通りに答えたのに、桂一郎は逆に距離を詰めてきた。


 その夜から毎晩、彼は千代の下に通い続け、言葉で、態度で彼女に尽くしてきた。


 ――こんなこと、桂一郎さまのためにはならないのに。

 彼を拒絶したいのにその熱意に絆されて、千代の心は少しずつ揺れ動いていく。



 夜半に目が覚めた千代は、障子越しに差しこむ月の光を頼りに、こっそりと抽斗ひきだしの中から古い折り鶴を取り出し、手に取った。


 それは桂一郎が幼い頃に作ってくれた九本の鶴――今も大切に仕舞っている宝物だ。一つ一つに願いが込められている。


 『千代が笑ってくれますように』、『千代が危ない目に遭いませんように』、そして『千代と結ばれますように』

 千代は彼のそばで、それを聞いているのが嬉しかった。彼の隣にいられることが楽しかった、あの頃は――幸せだった。


「私のことなんて……放っておけばいいのに……」

 どれだけ想いを寄せても、所詮は花街の娘。

 そんな自分を情けなく思いながらも、桂一郎への想いは募るばかりだった。


 彼と過ごす日々が、心も体も熱く染め上げていく。しかし、自分には自由を得る権利などない。そうだとしても、桂一郎のことも突き放せない。


「千代、もう君に無理をさせたくない。一緒になろう」


「そんなこと無理です……あなたは早乙女家を背負っていかなければならない身です」


「君のいない人生には、なんの意味もない」

 桂一郎はまっすぐに千代を見つめ、きつく抱きしめる。


「もう少しだけ……待っていてほしい」

 そう約束した桂一郎は、しばらくの間、店にはやってこなかった。


 もしかしたら、親に反対されて諦めたのだろうか。己の愚かさに気づいて別の道へ進んだのだろうか。

 どちらにしても千代の気持ちは変わらない。


 ――ずっと桂一郎さまの幸せを祈っております。


 やがて、季節が巡る頃、再び桂一郎はやってきた。


「千代。今日でこことはお別れだ。僕と一緒になってくれるね?」


「どういうことですか……?」

 千代は戸惑った。


「君の借金はすべて返済した。ここにいる理由はもうない」

 彼はそう言って柔らかい笑みを浮かべる。


「桂一郎さま……!」

 信じられない思いで店の主人や女将の方を見ると、大きく頷いていた。


 彼女を見受けした桂一郎に連れられて、千代は紅葉町を離れ、桂一郎の故郷へと旅立つ。


 汽車の中で、桂一郎が千代の手を握った。


「これでやっと約束を果たせる」


「私が自由になっても、桂一郎様が不自由になってしまうのでは……」

 千代は頷きながらも、不安げに問いかける。


「時間がかかってごめん。両親は説得したよ。最初は反対されたけど、自分で興した事業が成功して、その稼ぎで見受けするなら許可すると言われて、死に物狂いで働いた。それでやっとまとまったお金ができたんだ」


 早乙女家の家業は、江戸時代から代々続く呉服問屋だ。桂一郎はすでに、自身で始めた小規模な染物の新規事業を軌道に乗せており、その事業が呉服問屋の柱として成り立つ可能性を見出していたという。


 家の名誉や利益に何ら損失を出さないことを証明してみせた彼は、晴れて千代との結婚の許可を取り付けたとのことだ。


「この十本目の鶴には、僕たち二人の願いを込めて。これから何があっても、僕は君を手放さない」

 彼は優しく微笑み、彼女の手に折り鶴をそっと置いた。


「私も……ずっと桂一郎さまをお支えいたします」

 千代は涙で潤んだ瞳で彼を見つめる。


 汽車が揺れる中、桂一郎はそっと千代の頬に手を添えた。


「千代、僕が君を愛しているってこと、これで信じてもらえるか?」

 そう言うと、彼は彼女の唇に口づけを落とす。


「十年分の愛を君に捧げるよ。これからたくさん君を笑顔にしていく」

 その真摯な声が、千代の心を深い幸福感で満たす。


「夢みたい……私、もう幸せです……」

 夕陽に照らされたように頬を朱に染めて、千代は彼の肩に身を寄せた。


 桂一郎は彼女をそっと抱き締め、大きな手で頭を撫でてくれる。


 汽車の心地よい揺れに目を瞑り、千代は永遠の想いを閉じ込めた。


 辿り着く先に、新しい人生が待っている、大好きな初恋の人と一緒に――。




―了―



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