第56話 愛の涙

 「今日君に自分の事を話して欲しかったのは、いっそ全部吐き出してしまった方が気が楽になると思ったからなんだ。話すのが辛いことは分かっていたけど、もう二度と白い霧の世界なんかに行って欲しくないからね。僕たちがお互いに心を分かち合うためには、どうしても通り抜けなきゃならない儀式だったんだ。でももうみんな忘れよう。これからは僕がずっと傍にいて支えるから、これ以上苦しまないでくれ」 

 葵は美しい目をいっぱいに瞠って西澤をじっと見ていたが、やがて震える声で言った。

「私、叔母が亡くなるちょっと前、母ばかりでなく叔母までが、結局は私が病気になったせいで、幸せな結婚を壊されたのを知って、すごくショックで…… 私なんて生きてたってしょうがないんじゃないかと思ったんです。叔母が亡くなって一人ぼっちで寂しかったし、大好きだった人を次々不幸にしながら生きてきたのかと思うと、いたたまれなくて…… だけど叔母が亡くなる時、叔母の分まで生きるって約束しちゃったから…… 

 その頃は辛くてたまらなかったから、そんな約束するんじゃなかったってずっと後悔してました。

 でも研究室に入って研究をやり始めたら、もしかしたらそんな私でも少しは世の中の役に立てるかもしれないと思えてきて、ちょっと嬉しくて…… それで研究に夢中になって、これがもしうまくいったら、本当に私なんてどうなってもいいやって思ってたんです。

 でも治験が始まって先生に出会ったら、先生がやたらと私のことを心配するので、困ってしまって…… でも心の奥では本当は少し嬉しかったのかもしれない。

 そんな時火傷して、先生に手当てしてもらって…… そうしたらふいに先生を好きになってしまったことに気付いたんです。そんなことが起こるなんて夢にも思わなかったから、凄く動揺してしまって…… 本気でずっと私を愛してくれる人なんている訳がないから、絶対恋愛はしないって決めてたのに……

 だからとにかく自分の気持ちを抑えなきゃって…… でもできなかった。そうしようと思えば思うほど、先生の事がますます好きになって、どうしていいか分からなくて…… 

 だからPCR検査の助っ人を引き受けたんです。コロナが流行り出して、治験の類いは全て中止になったし、何かしてないと気が狂いそうになるし…… それに少しは先生たちの役に立てるかもしれないと思って…… だからめちゃくちゃ働いて……

 でもコロナに罹ってしまって下宿で一人どんどん具合が悪くなっていったら、なんだかもう疲れちゃって、いっそこのまま死んでもいいなって思ったんです。 サチセブの開発もめどが立ったし、もう生きてる意味もあんまり無いなって。先生を思う気持ちもどうにもならないし…… 

 でもいざあの奇妙な状態にハマってしまったら、急に怖くなって、このままは嫌だって強烈に思ったんです。でもあがいてあがいてももどうにもならなくて、誰か助けてって必死で叫んでた。息が苦しくてたまらなかったけどそれでも叫んで…… そうしたら先生の声が聞こえて来たんです。『葵君しっかりしろ』って。まるで奇跡みたいだった。

 あの時は本当に嬉しかった。気がついたら先生に抱かれていて…… 先生が叱ってくれた言葉が、コロナと闘っていた間ずっと頭の中に響いてました。どんなに励まされたことか。

 でも病気がひどくなっちゃったから、みんなにいっぱい迷惑かけたし……」

 気が付くと葵は声も立てずにぽろぽろ泣いていた。

 西澤はそんな葵をひしと抱きしめた。

「愛してる、愛してるよ。あの時行くのがもう少し遅かったら、間に合わなかったかもしれないんだ。それを思うと堪らない。僕がもっと早く自分の気持ちに気付いていたら、君をあんなひどい目に合わさずにすんだのに……」

 西澤はそう言うと葵の涙に、まぶたに、やがて唇に激しくくちづけした。葵には初めてのキスだったが、その溶けてしまいそうな感覚に陶然となってしまった。漸く唇を放した時、西澤には葵の気持ちが痛いほどよく分かった。

 でも彼は言葉にして聞きたかったのだ。

「さあちゃんと答えてくれ、僕と結婚してくれるかい?」

「でも私、もし結婚して、その後で先生が父みたいに別の人を好きになったりしたら、絶対生きていけない。それを思うと母みたいになりそうで怖くて堪らないです」 

「君の男性不信は良く分かるけど…… でももし反対に君が別の人を好きになったりしたら、僕だって生きていけない。そんなことは絶対にないって言えるかい?」

「言えます。そんなことは絶対有り得ない」

「ほらね。僕だって同じことだよ。こういうことは男も女もないんだ。どちらの恋も愛も経験したからこそ、今は自信を持って言える。僕は決して別の人を好きになったりしない。本当の愛とはそういうものさ。うちの両親を見てごらん」

「でも私仕事を続けたいから、あまりまともに家事なんてやりそうもないし、ご両親が何というかも分からないし……」

「つべこべ言わなくていいから。両親は大喜びさ。実はね、十日ほど前、僕は電話で君のことを病歴も含めて全部両親に打ち明けたんだ。その時びっくりしたのはね、母がある程度知っていたことだ。君が話したと聞いて驚いた。でも嬉しかったよ。君の心の中の氷が解け始めている証拠だからね。母は泣いてたよ。なぜ君ばかり辛い目にうんだろうってね。だけどその後は、僕が電話する度に、二人とも早くプロポーズしろと、うるさいんだ。こっちだって第二波が始まってから、なかなか休みが取れなくてイライラしてたというのに。二人とも君のことが大好きだから、早く家族になりたくてしょうがないんだよ。 

 仕事に関してはもちろん絶対やめてなんか欲しくない。君の天職だからね。でも君は病後だから、当分働き方を工夫して、もう少し自分の体を大事にしてくれないと…… とにかくこれ以上君が病気になるのは絶対ごめんだ。そのたびに十年は寿命が縮む。そのうち僕の寿命はなくなっちゃいそうだ」

 葵はうつむきながら言った。

「ごめんなさい。でも先生と一緒に生きられるのなら、私もう二度と死にたいなんて思わないです」

 西澤は葵の美しい目をじっと見つめながら、

「約束だよ」

 と優しくつぶやいた。

 葵は嬉しそうにうなずいた。

「それに家事の事なんて気にしなくていいさ。今は奥さんが家事をやらなきゃなんて時代じゃないし、僕はそんなこと望みもしないよ。

 僕は当分コロナでめちゃくちゃ忙しいだろうから、家にあまりいられないかもしれない。だから君も、僕に気を遣わず、自分の好きなペースで生活してればいいんだ。

 冷凍食品やレトルトも便利だし、テイクアウトや外食でもいい。前よりはちゃんと栄養のあるものを食べて欲しいけどね。そうこうしてる内に二人にとって快適な生活スタイルが見えてくるさ。夫婦の在り方なんて、十人十色その時その時でいいんだから。

 それに最近は家事代行サービスの業者なんかも充実してきてるから、掃除や作り置きの料理だって頼めるんだよ。二人で稼ぐんだから何とかなるさ。

 だいいち僕だって時間のある時は家事ぐらい普通にやるんだよ。独身生活が長かったんだから。母仕込みの料理の腕だってなかなかのものだし…… だからいいだろう?」 

 漸くうなずいた葵を引き寄せて、西澤はまた激しくキスした。今度は涙ではなく、西澤の情熱が葵を包んだ。お互いの愛を確信した二人に、もう言葉はいらなかった。


*この作品はフィクションです。文中に登場する人物、団体名及び、薬剤、治療法に関しては、実在するものではありません。           (著者)

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いのちの詩 @Sasabo

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