幽霊部室

一木 樹

幽霊部室

【起】

 誰もいない教室が好きだ。


 放課後、西日が射しこむオレンジ色の部屋の中で、たった一人席に座って目を閉じている。

 俺の席は教室の真ん中にあって、授業中は四方八方を人に囲まれていると圧迫感がある。

 それから解放された感覚が心地いい。

 だから誰もいない教室は好きだ。

 だけど、ずっとここで目を閉じているわけにもいかない。

 そろそろ、机の上に置いた退部届と向き合わないと。


「部活辞めるの、ちょっと待ってくれない!?」


 目を見開いて、まばたきを繰り返す。

 艶のある黒髪の女子。背中まで伸びる長い髪が目立つ。見たことない奴だ。

 長い前髪で瞳が隠れて表情は見えにくいが、焦っているのはわかった。

「……誰だ? っていうか、いつから居た?」

 警戒と不機嫌さが声に乗る。

「君さあ、俗に言う“幽霊部員”だよね?」

「……そうだけど」

 お構いなしのハイテンションで勝手に会話が進む。仕方ない、こういう奴は気が済むまで喋らせた方が話が早い。

「私はオカルト研究部の部長! 名前は虻川(あぶかわ)美枝(よしえ)って言って……虫だし古臭いしでかなり気に入ってないから、部長ちゃんと呼んで!」

「虻川サン」

「部長ちゃん」

「美枝サン」

「部長ちゃんでお願い!」

 深くため息をつく。

「で、その部長ちゃんが俺に何の用? 俺がサッカー部を退部するの、アンタに関係ある?」

「よくぞ聞いてくれたねひつじくん」

 よくわからん部活のよくわからん女子は、そこから更に身を乗り出した。

「“幽霊部室”の噂を知ってる?」

「幽霊部員じゃなくて、幽霊部室? 部屋に幽霊なんて概念あるのか」

「我がオカルト研究部はこの学校に伝わる七不思議を研究していてね。そのうちのひとつが幽霊部室という名前の怪談なんだ」


『この学校のどこかに存在しないはずの部屋がある。

どこにあるのか、どんな部屋なのかほとんどわかっていない。

4年に1度起きる神隠し。

その部屋に入るための条件は、幽霊部員であること、

その部屋を出るための条件は……まだわかっていない。』


 聞いたこともない噂話だったが、部長ちゃんの話を要約すると、学校内に存在しないはずの部屋があって、部活に入っているが顔を出さない幽霊部員状態の生徒だけが吸い込まれるように神隠しに遭い、戻ってこないのだという。

 バカバカしい話だ。

「この怪談を追いかけるために、学校中の生徒を調べて幽霊部員を探したの。すると何の因果か、現在我が校に幽霊部員と呼べる生徒は君だけだったんだよ! 日辻(ひつじ)紘人(ひろと)くん!」

「それで名前を知ってたのか……その熱意だけは素晴らしいな」

「お願いひつじくん。その部屋を見つけるために協力して欲しいの。もし君が退部しちゃったら、幽霊部員じゃなくてただの人になっちゃう!」

「今までもこれからも俺はただの人だよ」

 俺に白羽の矢が立った理由はわかった。だが、俺の方には怪談話に付き合う理由がない。

 両手を組んで懇願する部長ちゃんを見ると、このまま無下にするのは気が引けた。

「そこまでお願いされちゃ断りづらいけど……俺に何か得がないと、やる気でないな」

 確かに、と彼女は手を叩いた。

「じゃあ、もし幽霊部室を見つけられたら、報酬を出します!」

「具体的には?」

「それはもちろん、見つけてからのお楽しみだよ」

 最大級の不機嫌をまぶたに乗せて、ジト目で部長ちゃんを見つめる。

 しばらくの無言の時間が流れて、彼女は冷や汗と共に申し訳なさそうに口を開いた。

「えっと、あの、ごめんなさい……金目のモノを用意するんで……ね?」

 さっきまで祈りを示していた両手が、お金を示すハンドジェスチャーに変っていた。なんだか切ないが、対価があるなら少しくらい手を貸してやってもいいか。

「1週間だけだ」

 驚いた部長ちゃんの長い前髪が跳ねた。

「来月の部費は払いたくないから、退部届けは1週間後の金曜日に出す。それまでは幽霊部員だから、手伝ってもいい」


 西日が沈みかけていた。

 俺と部長ちゃんは、次の月曜日の放課後に落ち合う約束をして、学校を後にした。

 帰り道で不思議に思う。

 突如降りかかった非日常。見ず知らずの生徒。協力する必要もない。

 まあ、考えてみれば本当の理由は些細なことだ。

 俺にとって退部届に名前を書くことより、気が進んだだけのことだ。






【承】

 前回よりも日が高い時間に俺たちは教室にいた。

「幽霊部室の噂で名前が挙がっている候補は5つ! これらの部屋を開けていって、調査することにしよう!」

 チョークが叩きつけられる軽快なリズムと共に、黒板に書きだされる教室名。

 1年生の空き教室。

 音楽準備室。

 理科準備室。

 西校舎屋上。

 世界史資料室。

 揃いも揃って、普段使うことのない部屋ばかりだ。考えてみれば当然だが、使用者の多い部屋がもし本当に幽霊部室だった場合、神隠しに遭う人数が増えすぎてしまい、怪談として成り立たなくなる。

 それをツッコんでも部長ちゃんはきっと元気よく反論してくるだけなので、現実問題の方をつつこう。

「んで、どうやって鍵を開けるんだ?」

 はっ、と部長ちゃんの空いた口から空気が漏れた。

 さてはここから先はノープランだな、このヤロウ。

「きっと正解の幽霊部室ならさ、存在しない部屋の扉にリンクしてなんやかんやの末に開くんじゃない?」

「……それ、鍵のかかったドアを5部屋分ガチャガチャして終わりになるんじゃないか?」

「……その場合は果てしなく味気ないね」

 それだけは避けたい、と二人して頭を抱えた。やっぱりこんな奴の口車に乗るんじゃなかったか。

「理由も無しに鍵を借りることは出来ないぞ。もちろん怪談は理由にならないからな」

「わたし、ピッキングの練習してこようかな!?」

 俺はカバンから退部届を取り出して、シャーペンを握った。

「待って! 辞めないで我が校唯一の幽霊部員!!」

 部長ちゃんの悲鳴に近い叫びがこだましたあと、タイミングよく教室のスピーカーから放送が流れ始めた。校内放送だ。


『美化委員会から連絡です』

『今週はクリーン週間です。“使う前よりも綺麗に”を心がけて、学校を隅々まで掃除しましょう』

『生徒会は放課後地域の清掃活動を行います。みなさんもごみ拾いなど――――』


「あ、そういえば」

「なにかいい方法、思いついた!?」

「俺、美化委員だった」

「なんだよ~、そんなこと今はどうでもいいよ~」

 もうだめだぁ調査はできないんだぁと喚き声が続く。

 部長ちゃんは残念そうに教壇にうなだれたが、俺はその肩を叩いた。

「ちょっと待ってな」

 足早に教室を出て、生徒会室へと向かう。

 最近の天啓は、スピーカーから流れてくるらしい。



 ◇◆◇



「感動したよ日辻くんッ!!」

 俺は美化委員長から1年生空き教室の鍵を受け取った。

「まさか普段使われてない部屋を掃除したいなんて……我々が隅々まで掃除しましょう、と言っておきながら、気づいていなかったことが恥ずかしいよッ!」

「はい……あの、わかったんで泣かないでください」

 美化委員長は熱血系で暑苦しい感じの人だった。

 彼に相談したところ、1年生の学年主任に話をつけてくれて、すぐに鍵を手に入れられた。

 委員会で数回顔を合わせただけの俺のことを覚えていたし、人望にも厚い人なんだろう。

 騙しているようで気が引けるが、この調子で1日1箇所で進めれば他の部屋の鍵も調達できそうだ。

「しかし本当に一人で大丈夫かな? 僕らはこれから学校周辺のゴミ拾いに出てしまうから、放課後の校内は手薄でね……本当は手伝いたい気持ちでいっぱいなんだけれど」

「いいですよ、俺が急に言い出したことなんで……あ、でも良かったら、ひとつ協力して欲しいことがあります」

 俺はものはついでと美化委員長に頼みごとをすることにした。

「幽霊部室って噂、聞いたことありますか?」



 ◇◆◇



「あー、暑苦しかった。何だよ熱血系の美化委員って」

「機転が利く! すごいよひつじくん!」

 1年生の空き教室へ向かう途中。部長ちゃんは鍵を手に小躍りしながら廊下を進んでいた。

 俺は両手に抱えた掃除用具でそれどころではない。

「こうなった以上、お前も掃除手伝えよ」

「お前じゃなくて部長ちゃんです! しかし、本当に掃除する気なんだ……良い子だねひつじくんは」

「よしよしするな。せめてこのちりとり持て」

 少子化の影響か、この学校の教室は余りがあったりなかったり。今年は1年生の教室が空いていて、そこが幽霊部室の候補のひとつだ。

「ここだね。鍵は返すよ」

 荷物を一度廊下に下ろす。部長ちゃんから鍵を受け取った。

「そうか。俺が開けないと意味ないのか」

「うんうん。わたしは見守ってるから、よろしくね幽霊部員」

 もしも、この部屋が幽霊部室だとしたら、いつ元の教室ではなくなるのだろうか。

 鍵を開けた瞬間か。

 手が触れた瞬間か。

 ドアが開かれた瞬間か。

 足を踏み入れた瞬間か。

 そんなどうでもいいことを考えながら、俺は淡々と鍵を差し込んで回し、一気にドアをスライドさせた。

「……やっぱり、違うね」

「おい、やっぱりってなんだよ」

 ドアの向こうに見える景色は、殺風景で人気のないただの教室だった。

 念のため足を一歩踏み入れてみるが、変化はない。

「5つの候補の中ではここが一番無いかな~とは思ってたんだよね。だってさ、部室じゃなくて教室だし」

「あのなぁ、1週間しかないんだぞ。可能性が高いところから攻めろよ」

「1週間もあるんだから、フル活用しないと! 明日も低いところからいくよ?」

「はぁ、わかったから、掃除始めるぞ」

「はーい」

 幽霊部室調査1日目は何の収穫もなく、空き教室を30分程掃除して解散となった。




 幽霊部室調査2日目。

 音楽準備室を掃除しながら、俺と部長ちゃんは雑談していた。

「うちの吹奏楽部って、無くなっちゃったらしいよ」

「っていうか、昔はあったんだな」

 棚にいくつも楽器が並ぶ狭い部屋。

 手入れもなしに放置されて楽器も悪くなるだろうに。せめてもの気持ちで埃を払って床に落としていく。

「音楽室と言えば怪談の定番なのに、ここもハズレだったかぁ」

「うちの学校で、音楽室に幽霊がいるなんて聞いたことないぞ。肖像画もないし」

「わお、なになに。ひつじくん、小さい頃は肖像画が怖かったの?」

「それは怖くないけど……」

「おやぁ、歯切れが悪いですなぁ」

 こちらをのぞき込んでくる部長ちゃん。

 サラサラと流れる黒髪が西日を反射する。

「まあ、オカルト研究部なら話してもいいか」

 簡単に小学生の頃の話をした。俺は当時、音楽室で心霊現象に遭ったことがあるのだ。

「音楽の授業が終わって、全員が部屋を出た後にピアノの音が聞こえたんだ。先生が弾いているのかなって振り返ったら、担任がまさに部屋を出てきたところで……まだ残ってる人がいるよって伝えて開けてもらったけど、中には誰もいなかった。周りに聴いたら、誰もピアノの音を聞いてなくて……しばらく仲間外れにされたのは今でも根に持ってるよ」

 話を終えて顔を上げると、きらきらした表情の部長ちゃんがホウキを抱きしめながらこっちを見ていた。

「なんて良いエピソードだ! まさかひつじくんに霊感があったなんて……君に頼んだわたしの目は狂っていなかった!」

 個人的には、幽霊のせいでクラスの笑いものになったので嫌な思い出だったが、案の定部長ちゃんには興味深い話だったようだ。

 掃除の手が完全に止まってしまった彼女は、前のめりで話し続けた。

「ねえねえ、ちなみにさ。この学校でひつじくんの感覚で霊的にヤバイところってある?」

「霊感あるって言っても、ハッキリ見えるわけじゃないからな……でも1箇所だけ気になった場所はあるかも」

 教えて教えてとホウキを左右に掃きまくる。

「グラウンドから校舎を見たときに、右側に倉庫があるだろ。白線を引く石灰とか、スコップとかが入ってるんだけど、体育でそこに荷物を取りに行ったときに感じたんだ」

「倉庫の中?」

「いや、倉庫より奥だと思う。たぶん校舎裏の裏山の方から圧を感じたんだ。通路というより脇道になってて……用事もないし、行くことはないんだけど、人の気配がするような感じ」

「来るな~って感じ? それとも、こっちに来い~って感じ?」

「うーん、どっちかというと後者だけど、それよりも『ここにいるよ』が近いかな。自己主張というか」

「ほうほう、これは我が校の新たな七不思議候補になるかもしれない……幽霊部室の次は裏山の怪異を調査しようかな! 忘れ去られた祠とかあったりして!」

「新たな七不思議って……今いくつあるんだよ」

「たぶん2、3個?」

「少なっ!? なんだよ、そんなしょぼいモノの調査をしてたのか?」

「少ないから一生懸命調査して増やそうとしてるんでしょうが!」

「七不思議をつくるところから、オカルト研究部の仕事だったんだな……」

「そう! やりがいあるよ。なんてったって数年から数十年、学校に噂が残り続けるんだから! こんな影響力のある活動は他にないよ!」

 長い前髪で見えないが、きっとその奥の瞳は今キラキラと輝いているんだろう。

 この人は、本当にオカルトが好きなんだな。

 ふとカバンの中に退部届が入っていることを思い出した。

「……夢中になってやれるの、羨ましいよ」

 止めていた手を動かす。

 そろそろ棚の掃除も終わりだ。

 それを見て、部長ちゃんも床掃除を再開させた。

「ひつじくんには夢中になれるもの、ないの?」

 彼女にしては珍しく、静かな声で問いかけられた。

「昔はサッカーがそうだったんだけど、純粋な気持ちでやれなくなっちゃったからな」

「そういえば、幽霊部員になった理由は……聞いても大丈夫?」

「話すほどのことじゃない。ただ、楽しいと感じる瞬間が減っていって、愛用してたスパイクが壊れたあと、部活に足が向かなくなっただけだ」

 もう1ヶ月も前の話だ。

 続ける理由を探していたら時間だけが過ぎて、続ける気力も失ってしまった。

「今の俺は、次に夢中になれるものを探してる段階かな」

 静かな音楽準備室に、ホウキの音がしばらく繰り返された。

 左右に揺れるホウキの柄が、少しづつ壁に迫っていって、埃を集めていく。

 ちりとりでゴミを掬った部長ちゃんが、よし、と小さい声でつぶやいた。

「じゃあ宿題だ!」

 部屋の隅からこちらに迫り、俺の目の前で止まる。

「ひつじくんの夢中になりたいもの! とりあえず1日考えてみよう。明日の掃除の時間にわたしに教えてよ」

「……おい、しっかりしろオカルト研究部。目的は掃除じゃないだろ」

 手ごろな位置にあった脳天に、軽めのチョップをお見舞いした。

 これで本日の掃除(調査)は終わり。

 考えてきてよね? としつこくまとわりつく部長ちゃんに適当な返事をして、この日は解散となった。




 幽霊部室調査3日目。

 理科準備室は、理科室の奥にあり普段は人が入ることはない。実験に使われる危険な薬品が更に鍵付きの棚の中に保管してあるため、借りられたのはキーホルダーから抜き取ったドアの鍵だけだった。

「なんか変な匂いがする」

 部長ちゃんが鼻をつまみながら、鼻声でつぶやいた。

 都会のワンルームくらい狭い部屋だ。掃除することを考えればやりやすいが、空気が淀んでいた。薬品らしき匂いが混ざり合って、息がしづらい。

 例えるなら、苦手な芳香剤がそこら中に置いてあるような感覚だ。

 ドアと窓を開けて空気を入れ替える。

「ここも幽霊部室じゃないんだし、さっさと掃除して出るぞ」

「そうだね……」

 俺よりも部長ちゃんの方が辛そうだ。鼻が利くのかもしれない。

 お互いに掃除を進めながら、いつものように雑談が始まる。

「そもそも、幽霊部室の候補ってなんか雑じゃないか? 1年の教室然り、この理科準備室然り」

「昨日の音楽準備室はいい感じだったじゃん? 吹奏楽部無くなってたし」

「ここはどういう理由なんだよ。うちに理科関係の部活動はないだろ」

「わたしが入学するより前に、非公認の集まりがあったとかなかったとか……あれ……?」

「はあ、だいたい幽霊部室って言う割に、何部の部室かもどんな特徴の部屋かも定かじゃないって怪談としても細部が甘いんじゃないのか?」

「うっ……それは痛いところをつくね……でも人の噂なんて正しく伝わらないものだし……」

 部長ちゃんにしては珍しく歯切れが悪い。

 気になって振り返ると、そこには頭を抱えてしゃがみ込む彼女の姿があった。

「おい、どうしたんだ」

 雑巾を床に捨て、慌てて駆け寄った。

 息が荒く、両手で後頭部を押さえている。

 苦しそうに呼吸を繰り返すだけで、返事はない。

「偏頭痛か? 空気が良くないし、風通しのいいところに移動するか」

 部長ちゃんの華奢な肩をつかむと、彼女も手を重ねてきた。反応はあるが、とても立ち上がれそうな雰囲気ではない。

 そこでようやく、部長ちゃんが喋った。

「なんか、内側よりも……外側が痛むかも……」

「どういうことだ……? ここだよな」

 後頭部を包み込むように撫でる。

 すると、ぬるりとした湿っぽい感触があった。


 ぽたり、と。


 部長ちゃんのあごの辺りから水滴が落ちる。

 床に広がったそれは、絵筆から落としたような、鮮やかな赤色に見えた。

 血……?

 ぞっとして、手のひらを見た。

 怪我なら、さっきのぬるりとした感触は……!?

 そこには見慣れた自分の右手があった。

 湿っぽい感触は、残っていない。

「あ~、ちょっと良くなってきたかも」

 部長ちゃんが顔を上げた。

 するとその頬を汗が伝って、再び床に落ちた。

 目で追った先に、血の色はどこにも見当たらなかった。

 見間違いか……? それとも……。

「ひつじくん、すごいね。撫でてもらったら、途端に楽になったよ」

 部長ちゃんの声色がさっきよりも元気になってきた。

「……たまたまだろ」

「そんなことないって! 命の恩人かも」

「部長ちゃん、今日はもう帰ろう」

 俺は彼女の手を取って、一緒に立ち上がった。

「えっ、でも掃除がまだ全然」

「いいって、掃除はついでだろ。ここは目当ての部屋じゃなかったんだから、もう出よう」

 そのまま手をつないで、部長ちゃんと一緒に掃除用具を持って理科準備室を出た。すぐに鍵をかける。

 部屋を出てしばらくしたあと、いつも通りのテンションに復活した部長ちゃんは問題ないと言い続けたが、健康第一を理由に今日は早めに解散した。

 昇降口まで部長ちゃんと一緒に歩いたが、俺は鍵を返すため彼女と別れて職員室へ向かった。


 一人で西日の入る廊下を進む。

 調査が無ければ久々に早く帰れる。家で昨日観た映画の続きでも流しながら、宿題するか。

 昇降口からほど近い職員室に着き、その扉に手をかけた。

 だが、思い直した。

 気になる。

 手に持った鍵をポケットに戻す。

 俺は扉を開けずに踵を返して歩き出した。

 階段を上り、渡り廊下を通って理科室まで歩く。

 鍵のかかっていない理科室に入り、その奥にある小部屋の前に立つ。

 今日二度目の理科準備室。

 慎重に鍵を差して、ひねる。ガチャリと音を立てた。

 怪談話とは往々にして、ひとりきりのときに遭遇するものだ。

 もし、幽霊部室の出現条件に“ひとりのとき”というものがあれば、このドアは理科準備室ではない、別の部屋に繋がるかもしれない。

 小さく息を吐いた。

 力を込めてドアノブを回し、押した。

「はぁ……何をマジになってんだ、俺は」

 さっきと同じ光景が、そこにはあった。

 息苦しい薬品の匂い。

 ため息をついて中に入り、部屋の中を歩いた。

 部長ちゃんに起きた謎の頭痛。

 不可解な血の見間違い。

「この部屋のせいかと思ったけれど……部長ちゃんに毒されたな。幽霊部室なんて、やっぱりあるわけないか」

 さっき部長ちゃんがしゃがみこんだ辺りの床をもう一度見る。

 汗が血に見えるなんて、何かの勘違いだろう。

 フローリングの茶色が反射して、見間違えただけかもしれない。

 そう思って指で床をなぞり……あれ、汗が落ちたのって、この辺りじゃなかったっけか?

 目を凝らしてみるが、無い。

 こんな短時間で蒸発するか? 立ち上がる時踏んだとしても、何かしらの跡くらいは残りそうなものだが、見当たらない。

 なんだこの違和感は……。

 

 気持ち悪い。

 

 匂いのせいか。勘違いで混乱しているのか……それとも、霊的なもののせいか。

 わからないが気持ち悪い。

 ふと思い浮かんだのは、校舎横の倉庫の奥。裏山へと続く脇道から感じた圧。

 部屋の中を見渡す。

 ひとりで掃除をしようかと考えていたが、やめだ。

 俺まで頭が痛くなる。

 ここがもしかしたら、幽霊部室なのかもしれない。

 だが、調査なんて余裕はない。俺はこの部屋から一刻も早く立ち去りたかった。

 戻ってきたのも束の間に、二度目の理科準備室を後にした。




 幽霊部室調査4日目。

「うわ~青空! いい天気! 気持ちいいねぇ」

「風もちょうど良いな」

 西校舎屋上で部長ちゃんがフェンスまで走っていく。昨日の不調はもう大丈夫なようだ。

 理科準備室で感じた異変は、部長ちゃんには話していない。明日の世界史資料室がハズレだったら、その時また理科準備室のことを伝えたらいいだろう。

「あっ、私の前髪が! ガードしないと」

 風にあおられて髪がなびく。顔を見られるのが恥ずかしいのか、必死に前髪を押さえていた。個人的には、危なげなスカートの方も気を付けてほしいのだが……。あんまり見ないようにしよう。

「しかし今回もハズレか。よし、さっさと掃除して帰ろう」

 西校舎は特別教室だけが集まった建物で、東校舎と比べるとかなりコンパクトだ。この屋上の広さも教室2つ分くらいしかない。

 屋上からの景色は街をよく見渡せた。足元では部活動に勤しむ運動部が走っている。サッカー部がボールを蹴るのが目の端に映るが、すぐに顔を逸らした。

 反対側には青々とした雑木林が見える。学校の裏山だ。流石に屋上から全体を眺める形だと、嫌な感覚はなかった。ただ、緑の生い茂る中に、一本だけ白い花をつけた木があるのが強く印象に残った。よく目立つあの木は、なんて名前だろうか?

「ほらほら、手が止まってるよ!」

「はいはい」

 砂埃や木の葉を掃いて、鳥の糞をブラシでこする。

 怪奇現象の調査とは名ばかりで、放課後ほとんど掃除ばかりしているせいか、俺と部長ちゃんは手際よく屋上をキレイにしていった。

 いつものように雑談しながら、屋上の掃除はものの15分程度で終わってしまった。

「帰るか」

 いつまでも無意味に屋上にいると目立つ。掃除用具を集めて、退散しようとした。

「待って待って待って!」

 なんだよ、と振り返ると、立ち塞がる部長ちゃんがいた。

 両手を広げたポーズが、小動物の役に立たない威嚇に似ている。

「宿題、提出していってよね」

「……夢中になるもの、ね」

 忘れてなかったか。

 昨日はアクシデントがあって雑談をする時間もなかったから、このまま流れると思っていた。

「悪い。昨日も一昨日も、家で映画を見てそのまま寝落ちしたから、考えてない」

「1日多く猶予があったのに! さては言い訳用にわざわざ映画観た?」

「ちげえよ。テレビ感覚でいつも部屋で映画を流してるんだよ」

「常に映画が流れてる部屋って、おしゃれというか大量消費社会というか……どのくらいの頻度で観るの?」

「宿題が多くない日はいつも流してるから、2日に1本くらいのペース」

「わお、すごいね!? 年間だと100本以上だ。レンタルビデオ屋の隣に住んでる?」

「普通にサブスクだけど……ファミリーアカウントで自由に使えるからな」

「なんて良い時代になったんだ……」

 部長ちゃんは大げさに驚いている。親が登録してたから当たり前のように使えるが、確かにそうじゃない家庭からすると珍しいかもな。

「それさ、ひつじくんの特技だよ」

 屋上に風が吹いて、彼女の長い髪とスカートが揺れる。

 前髪の隙間から、こちらをじっと見つめる目が少しだけのぞいた。

 ガラス玉のように輝く瞳。

 その初対面の眼力に、つい目を逸らしてしまう。

「そんなことねえよ。惰性で観てるし」

「いやいや、普通は惰性でもそこまでは出来ないよ。わたしは立派な特技だと思う。飽きないってことは夢中になってるってことじゃない?」

「……言葉の綾じゃねえか」

 特技だと言われて、悪い気はしなかった。言葉とは裏腹に満更でもない態度が出てしまったんだと思う。部長ちゃんの追撃は止まらなかった。

「退部届を出した後さ、演劇部なんてどうよ」

「……いや、それは違うな。芝居をしたり、カメラに映ったりしたいわけじゃない」

「じゃあ撮る側だ! 写真部もあったよね?」

「悪くはないが……芸術的なことはわからねえし、そのやる気はない」

「撮る撮られるじゃなくて、映画っていう文化が好きなのかな?」

「強いて言えば、そうかも……」

 乗せられている。部長ちゃんの提案に対して、反対意見がすらすらと出てきたことに自分でも驚いていた。少しずつ、自分の気持ちの輪郭が鮮明になっていく。

「映画館のバイトに応募するってのは?」

 すぐに返事は出なかった。

 虚を突かれたからだ。今まで一度も考えもしなかったことを告げられたのに、それがすんなりと自分の胸の中に落ちてきた。顔を伏せて想像してみる。

 自分が飽きもせず触れられるものの近くで働く。

 その未来のビジョンが、違和感なく描かれた。

「……悪くないかもな」

「いいじゃん、応援するよ!」

 顔を上げると、そこにはニコニコと嬉しそうに笑う顔があった。

 悔しいことに、その姿は画になった。

 学校の屋上。青空の背景。風になびく長い髪。将来の話。映画みたいなワンシーンが、目に焼き付いた。

「何で、部長ちゃんがそんな嬉しそうな顔するんだよ」

「そりゃ、ひつじくんがそんなに楽しそうなの初めて見たからだよ」

 こいつはよくもまあ、恥ずかしげもなくそんなセリフが言える。

 言われたこっちが耐えられなくなって、顔が赤くなるのがわかった。

「もうやめろ、何も言うな」

「お、その顔も初めて見たかも」

「帰るぞ」

 背中を向けて掃除用具を拾う。

「あ、待ってよ!」

 置いてかれまいと部長ちゃんも後を追ってきた。

「ねえねえ。結局他の部活に入らないんだったらさ、オカルト研究部に来てくれてもいいよ! ホラー映画の参考になるかも」

「ホラー映画はあんまり見ない」

「あれ、そうなんだ。どうして?」

「フィクションくらいは爽快な方がいい」

「……怖いの?」

「……」

「怖いんだ!」

「うるさい」

「一緒に観てあげようか?」

「うるさい!」

 俺は逃げるように屋上を後にした。

 追いかけてくる足音に先を越されてはいけない。きっと、顔を見られたらまたいじられるに決まってる。






【転】

「日辻くん、待たせたねッ! 世界史資料室の鍵だ」

 職員室前の廊下で、美化委員長から鍵を受け取った。このやりとりも今日で最後だ。彼は再三の感謝や今後は空き教室の定期的な掃除、有効活用を計画しているなどと熱く語っていたが、興味が無かったので聞き流していた。

 いい加減立ち去りたかったのが顔に出たんだろう。美化委員長は最後に、と言って話題を変えた。

「頼まれていた件だが、やはりこれと言って収穫はなかった」

「いいんですよ。そんな気がしてましたから、確かめられただけでも十分です」

「力になれず申し訳ない。掃除に関することだったら、また遠慮なく声をかけてくれ」

 ではな、と彼は廊下を歩いて行った。クリーン週間もまた最終日。これから校外の清掃活動だろう。

 その後ろ姿を見送っていたところ、職員室から出てきた人影と目があった。

「日辻、ちょうど良かったよ」

 担任の坂島先生だ。彼は周囲と職員室の中を見渡した後、こっそりと耳打ちした。

「部活の件、決めた?」

「はい。掃除の後、書いて持ってきます」

 担任には部活の様子もある程度伝わっているし、何より退部届の用紙を手配してくれたのは坂島先生だった。彼は少し安心した様子で続けた。

「そうか……大丈夫。学校は部活だけじゃない。最近は美化委員の活動も頑張ってるらしいじゃないか」

「ええ、まあ。気分転換ですよ」

 あまり美化委員として名前が売れるのは好ましくないな。邪な動機だし。

「うんうん。色んなことを試すのは良いことだと思う。恥ずかしい話だけど、先生も学生時代は部活を転々としててな。中には変な部活もあったよ」

 変な部活と聞いて、部長ちゃんの顔が浮かんだ。

 ちょうどいい。坂島先生はこの学校のOBだったはずだ。

「そういえば先生、オカルト研究部って知ってますか?」

「え!? どうしてその名前を……?」

 想像以上にオーバーなリアクションが返ってきた。

「いや、友人に所属してるやつがいまして……」

「驚いたなぁ……まだあったのか。実は先生が現役時代の部活のひとつだよ。当時は怪談話とか心霊写真とか流行っててな。非公認の部活だけど」

 十年以上前から非公認なのかよ。

「それで、オカルト研究部がどうかした? まさか興味あるのか?」

「いや、違います」

 即答した。早く本題に入ろう。

「幽霊部室って七不思議の噂が気になってまして。先生が学生だった頃の話で何か知らないかなと」

「幽霊部室……? 聞いたこと有るような無いような。幽霊部員……はお前か」

 反応を見るに、全く心当たりがないわけでも無さそうだ。

「詳しく教えてくれないか?」

 食いついてきたので、部長ちゃんの受け売りを伝える。

 大人を相手に怪談話の内容を伝えるという行為は、思ったよりも小恥ずかしかった。こんなことなら聞くんじゃなかった。

 坂島先生はあごに手を当ててしばらく考え込んでいたが、返事はあっさりとしていた。

「……知らない噂だな」

「そうでしたか」

 やっぱり流行ってねえじゃねえか部長ちゃんのやつ。

「先生が当時から知っているのは神隠しの噂だけど、もしかしたら時代に合わせて内容が変化して、今は幽霊部室って話になっているのかもな」

「なるほど……」

 これと言った収穫はなかったが、逆に古くから幽霊部室の話はなかったことは確かめられた。

 そろそろ部長ちゃんと合流するため、この場を後にしようと思ったが、先生は話し終わったあともずっとあごに手を当てて難しい顔をしていた。

「先生、どうしたんですか?」

「あ、いや、その……先生ちょっとな、お前のことを心配してたんだ」

「部活のこと、迷惑かけてすみません」

「それは良いんだ! 気にしなくていい。その……一昨日、理科室の前を通りかかったとき、奥の準備室でお前が掃除しているのが見えて……」

 あの部屋は空気が悪かったので、窓とドアを開けていた。

 部屋の外からもこちらの姿が見えたんだろう。

「どうかしたんですか?」

「その、掃除を邪魔しちゃ悪いかなと思ってそのまま歩いて行ったんだけど……声が聞こえて」

 確か、理科準備室では入ってすぐに部長ちゃんが体調を崩し、長居せずにお開きになった。その後一人で部屋を調査しに戻ったはずだ。

 先生が通りかかったのは、どちらのときだろうか?

 坂島先生は、怯えた声で俺にこう言った。


「日辻、お前ずっと……ひとりで喋ってなかったか?」




 ◇◆◇




 俺は誰もいない教室が好きだったはずだが、そいつと待ち合わせする教室も悪くはなかった。

 放課後、西日が射しこむオレンジ色の部屋の中で、たった一人席に座っているやつがいた。

 教室の真ん中にある俺の席に勝手に座っている。

「鍵、借りてきたぞ」

 声をかけると部長ちゃんはこちらを振り返った。

「うん。それじゃあ行こうか、最後の部屋に!」



 世界史準備室は西校舎の3階にある小部屋だ。

 ドアノブのある引き戸で、所々木が剥がれ色あせている。

 ドアにある小窓から中を覗き込むと、6畳ほどのスペースにやたら分厚い歴史書や古びた地球儀が並んでいる。授業に登場したことはないので、きっと放置されているのだろう。

「いよいよだね。緊張してない?」

「5回目ともなるとな、緊張もワクワクもないよ」

「今まではワクワクしてたんだ。良いこと聞いた」

 勝手に喜んでいる部長ちゃんを無視して、俺はポケットから鍵を取り出した。

 鍵を差しこみ、解錠する。

 1日目のときに、もしも幽霊部室だとしたら、いつ元の部屋ではなくなるのだろうかと考えていた。

 その答えはドアが開かれた瞬間だったらしい。



 女子生徒が背を向けて座っていた。



 たった一人、その人は誰かを待っていたようだった。

 しん、と時が止まったように静かだ。

 古ぼけた資料に埋もれた薄暗い部屋の真ん中で、彼女は肩まで伸びた黒髪をなびかせて振り向いた。

「あんまり驚いてないことに、驚いたよ」

 そのガラス玉のように輝く瞳には見覚えがある。

 落ち着いた声色にもどこか聞き覚えがある。

 俺は、その人物の正体を確かめるために、後ろを振り向いた。


 長い廊下に夕暮れの色だけが降り注いでいて、さっきまでそこにいたはずの部長ちゃんの姿は、どこにもなかった。


 世界史資料室の中に入り、ドアを閉じる。

「わお、不用意だよひつじくん。幽霊部室から出る条件を知らないのに」

「いい加減、その作り話は飽きたよ。部長ちゃん」

「……バレてたか」

 彼女は気恥ずかしそうに頭をかいた。

 部屋の真ん中には、教室にある机と椅子のセットが4組向かい合わせになっていた。

 俺は部長ちゃんの正面に腰かける。

「あーあ、サプライズのつもりだったのに。逆にこっちが驚かされたよ。どこで気づいたの?」

「……先にわかったのは、この学校に幽霊部室なんて、怪談話は存在しないってことだ」

「わお。放課後はずっと私と一緒にいたのに。どうやって調べたの?」

「鍵を借りるのを手伝ってくれた美化委員長に聞いたらさ、バカ真面目に生徒会やら各クラスの美化委員にまで確認してくれたよ。だけど誰一人として“幽霊部室”というワードを知らなかった」

「え~、そんな調査してたなら、わたしに教えてくれたって良かったのに」

「進展があれば言うつもりだったさ。でも、途中からは別の疑いのせいで言うに言えなくなった」

 ゆっくりと右手を持ち上げて、人差し指で部長ちゃんを差した。

「偽の怪談話で俺に付きまとう女の正体と目的はなんだ? ってね」

 沈黙が薄暗い部屋を支配する。

 はぁ、と似合わないため息が彼女の口からもれた。

 部長ちゃんは諦めたように、その指に突き合わせるように人差し指を伸ばして……二人の指は同じ空間上で、溶け合うように交差した。


「それで、わたしが幽霊だって気づいたの?」


 そう言う彼女の表情は、物憂げに見えたが、どこか嬉しそうでもあった。

 髪が短くなっていたが間違いない。この人は俺がこの5日間行動を共にした部長ちゃん本人だ。

「……俺が退部届を書こうと、教室に残っていた一週間前のあの日。あのとき、教室には絶対に誰もいなかった」

 霊感なんて不確かなものよりも、むしろ信じられる。

 俺は誰もいない教室が好きだ。

 目を閉じていたけど、誰かがドアを開けて教室に入ってくる気配はなかったと断言できる。

「それなのに、部長ちゃんは俺の目の前に突然現れた。それが決め手かな」

「なんだぁ~、初めからバレてたみたいなもんじゃんそれ~」

 部長ちゃんは机に突っ伏してジタバタしている。もうシリアスモードは保てないようだ。

 こっちも、その方がやりやすくて助かる。

「じゃあ今度はそっちの番だ。正体は分かっても目的は知らん」

「え~、話すと長くなるし面倒臭いし……」

「1週間も付き合ってやったんだ。部長ちゃんには説明責任があるぞ」

「ぐぬ……」

 仕方ないか、と彼女は座り直して背を伸ばした。

 間違いなく部長ちゃんだけれど、こちらをまっすぐと見つめる瞳はまだ見慣れない。


「わたしね、死んだときの記憶がないの」


 内容に反して、彼女は軽快に話し始めた。

「オカルト研究部で七不思議を探して、青春を謳歌してたはずなのに、いつの間にか死んでた」

 わかっていたことだ。部長ちゃんが幽霊だと確信したときから、彼女がもうこの世にいないことはわかっていたはずだ。

 だけど、言葉にされると胸が締め付けられるように苦しくなった。

「楽しかった学生時代の日々に後悔はないよ。だけど若いうちに死んじゃってるしさ。未練があったみたいなんだ」

 彼女は足元から適当な歴史書を拾い上げて、それを読めないほどの速いスピードでパラパラとめくった。

「しかしまた困ったことにね、わたし将来のこととかあんまり考えてなくて。だから、未練もふわ~っとしててさ。ケーキ屋さんになりたいとか、編集者になりたいとか、キャリアウーマンになりたいとか頭になくて」

 ページをめくる手が止まり、部長ちゃんはその本を両手で持ち上げて、引き裂いた。

「漠然と“満たされない”って感情だけが渦巻いていた」

 彼女の手元には、めくることのできなくなった、途切れた本が残された。

「多分それで、化けて出るにも出られなかったのかなって思ってる」

 机の上に、また一冊の歴史書が置かれた。

「どれくらいの時間が経ったかわからないけど、そんなところに君と出会ったんだ」

 本が開かれて、ゆっくりとページがめくられていく。

「なぜだかわからないけど、あの日、死んで初めて人に話しかけられた。すっごい落ち込んでる君を見て、励ましたくなったのかな?」

「……落ち込んでねえよ」

「でも悩んでたでしょ。放っておけなくなった」

 部長ちゃんがページをめくる手が止まった。今度は、その開かれた本は机に置かれたままだ。

「わたしにとって一番ワクワクしたのは、怪談を追いかけるとき。主人公みたいな気持ちで夢中になれた。だから、君を主人公にした“幽霊部室”っていう話をでっちあげたんだよね」

「にしても、よくもまあ即興で思いついたな。流石、オカルト研究部の部長」

 なんとなく、開かれた本に手を伸ばして、ページの端をつまんだ。だけど、その本はこの部屋……幽霊部室のものだ。部長ちゃんには触れても、俺には触れない。

「死んだわたしの無い未練を晴らすことはできない。けど、生きてる君の未来に繋がる手伝いが出来たのなら、それでわたしの人生に満足できる気がしたの」

 部長ちゃんも俺に合わせてページの端をつまんで、二人で一緒にページをめくった。

「……確かに、ワクワクしたよ。この1週間は楽しかったし、明日からも、きっと俺は頑張れると思う」

「それが聞けて、わたしも満足だよ」

 この学校には幽霊部室なんてへんてこな七不思議は無くて、有るのはおせっかい焼きで自分の未練もよくわからない幽霊だけだった。

 寂しくはあるけど、悲しくはない。

 始めから俺たちは協力関係だった。お互いの目的が達成されて、関係が解消されるだけだ。

 だから、この別れを惜しんではいけない。


 彼女は椅子を引いて立ち上がった。

「最後に、渡したいものがあるんだ」

 そういうと、彼女は右手でお金を示すジェスチャーをした。

「……え? 本当に用意してたのか、成功報酬」

「嘘はつかないよわたしは!」

「幽霊部室が盛大な嘘だっただろが」

 都合が悪くなったのか、口笛を吹きながら歩き出した。

「一応ね、幽霊部室の正体はこの部屋なんだ」

「でも、七不思議どころか噂もなかったぞ」

「うん。怪談じゃなくて、ただの通称。幽霊部室は当時のオカルト研究部のあだ名でね」

 棚を開いて資料を漁る。

「非公認だから、誰もそんな部活があるって知らなくてさ。世界史資料室を通りかかった生徒から『幽霊みたいな奴らが集まって怪しいことしてる部屋』ってことで、幽霊部室って言われてたんだよ」

「ほぼ悪口じゃねえか」

「そうだね。でも字面や響きは悪くないと思ってね。だからわたしはこれを七不思議に出来ないかって生前考えてたんだ」

 部長ちゃんは本棚から歴史書を引き抜いた。

 一冊、また一冊と床に落とされていく。

「あったあった」

 歴史書を10冊ほどどかした空間の奥に、一枚の段ボールがぴったりハマるサイズで見えた。

 彼女がそれを取り外すと、段ボールと棚の間の隙間から、封蝋のされた手紙のようなものが出てきた。

「これが、ひつじくんへの報酬。わたしからのプレゼントだよ」

 部長ちゃんは手紙を開けて中の折りたたまれた用紙をこちらに手渡した。

「これは……子供が描いた宝の地図?」

「子供じゃなくてわたしね、描いたの。そして埋まっているのはお宝じゃなくて、タイムカプセルなの」

 ちょっと不満気な部長ちゃんが釘を刺した。

 手書きの地図にはこの学校の校舎と、裏山のある場所にドクロマークが記されている。

「ドクロマークって……海賊かよ」

「ドクロかっこいいでしょ! オカルト研究部だし」

 そういうところが子供っぽいっていうんだ。

「それで、なんだよタイムカプセルって」

 問いかけると、部長ちゃんは語り始めた。

「わたしの生前の最後の大事な記憶はね。オカルト研究部の仲間たちとの思い出を集めて、タイムカプセルに埋めたこと。当時のオカルト関連グッズとか、雑誌とか、心霊写真(真偽不明)とか入ってるから!」

「どこが金目のモノなんだよ」

 シンプルにいらねえ。

「雑誌はプレミアついてて、マニアに高く売れるかもだしさ……!」

「……まあ、でもそれが部長ちゃんの最後の心残りなら、引き受けるよ」

 と言うと、部長ちゃんは少し驚いた表情を見せた。

「うん……この地図も、タイムカプセルも、私が隠してそのまま死んだはずだから……他の部員は場所を知らない。確かに、これが最後の心残りかも」

 彼女は納得したようにつぶやいた。


 その後、俺は改めて部長ちゃんから地図の隠し場所を教えてもらった。

「おんなじ場所に隠してあるから、現実の棚を確認してみてね」

「わかった。任せろ」

 ドアを背に向けて立ち、部長ちゃんと見つめ合う。

 お互いに話すべきことは話し終わった。

 謎はすべて解決して、もうこれ以上一緒にいる意味はない。

「お別れだね」

 きっと、この部屋を出たらもう二度と会えない。

 部長ちゃんは成仏して、俺は日常へと戻る。

 これまでと違うのは、俺の日常は鬱屈とした悩みの付きまとう日常ではなく、友人が示してくれた未来に繋がる大事な日々になるということだ。

 だから、最後にそれを伝えなければ。

「部長ちゃん」

 彼女のガラス玉のように輝く瞳を見据える。

「明日、映画館のバイトに応募するよ」

「ひつじくんなら、きっと受かるよ」

 そう言って、部長ちゃんは嬉しそうにうなずいた。

 俺は背を向けて、ドアノブを握る。

 ドアを開いて、一歩踏み出すと同時にお互いに最後の言葉をつぶやいた。



「「ありがとう」」



 俺の背中を押すその声に、無意識に振り向いてしまう。

 だが、そこにはくたびれた世界史資料室のドアが閉じられたまま立ち塞がっていた。

 ドアノブを握ると、鍵はかかったままだ。

 鍵を開け、部屋の中に入るとそこは資料が散らかる薄暗い部屋で、真ん中には雑然と机と椅子が散らばっていた。

 感傷に浸りながらも、俺は部長ちゃんに教えてもらった棚を開いて、歴史書を取り出した。その奥から隠された封蝋付の手紙を見つける。

「……俺の、妄想じゃなかったか」

 本物の幽霊なんているのか。そういう疑問もあった。

 自分の霊感なんて当てにならないし、信じられないとどこかで感じていた。

 けれど、この手紙を見つけてしまったからには否定しようがない。

「……やっぱり子供っぽいって。このドクロはさ」

 封蝋を開けて中身を確認すると、そこには見覚えのある手書きの地図が描いてあった。

 窓際まで歩き、カーテンを避けて外を見る。

 沈みかけた西日が射しこんで、眩しさに目を逸らした。

「暗くなるまで、もう少し時間があるな」

 逸る気持ちが抑えられなかった。

 今日を逃すと来週になってしまう。

 俺は世界史資料室を出て、昇降口へと急いだ。






【結】

 土を掘るのは重労働だ。

 途中、校舎横の倉庫から大きめのスコップをひとつ拝借してきた。

 地図を読み解くのは意外と難しくなかった。ドクロマークの辺りへ向けて裏山を少し上ると、屋上から見えた白い花の樹があった。どうやらこの樹の根元に植えたらしい。

 山に入ると、更に暗くなったように感じる。

 校舎の位置はわかるため、迷うほどの山ではないが、そろそろ周囲が見えなくなってきた。

 スコップを地面に差し込み、体重を手前にかけて土を持ち上げる。

 頬を伝う汗が地面に落ちる。

 1メートル以上は掘ったはずだ。女子生徒がひとりでタイムカプセルを埋めるとしたら、そんなに深くはないだろう。

 もしかしたら場所を間違えたかと焦り始めたころだった。

 差し込んだスコップが、何か硬いものにぶつかった気がした。

「お、もしかしてこれか?」

 しゃがみこんで、手で土をかき分ける。

 詳しく聞かなかったが、埋まっているのは缶やステンレスの箱だろうか。

 汚れるのを気にしている場合ではない。俺は部長ちゃんの生きた証と心残りを、見つけてあげたかった。

 それが友人へのせめてもの恩返しになると、真剣に考えていた。

 だから、辺りがかなり暗くなっていることにも気づくことなく、夢中になってしまったんだ。

「なんだ、これ……?」

 土を払った先に見えたのは、金属類ではない。

 なにやら白っぽくて、丸みを帯びごつごつとした形をしている。

 サイズはサッカーボールよりもやや小さい程度。

 よく見るとガラスのようにひび割れた個所がある。

 地面から掘り出して、両手に抱える。

 要領を得ないまま、それを回してみると、窪み落ちた二つの穴と|目が合った(・・・・・)。

 思い浮かんだのは、地図に描かれた記号のドクロマークだった。




「…………は?」




 次の瞬間、聞いたこともないほどの大きな音と痛みが、自分の後頭部を襲った。

 視界が明滅する。

 揺れる。

 痛みでおかしくなりそうになる。

 硬いもので殴られたと理解できたのは、後頭部から頬を伝い、自分の血が地面に垂れるのを見たときだった。

「1回じゃ倒れないか。やっぱり運動部の男子は丈夫だな日辻」

 聞き覚えのある声に振り向いた瞬間。

 今度は、自分の顔面から音と痛みが響いた。



 ◇◆◇



 どさっ、と。自分の体に断続的に何かが落ちてくる。

 気が付いたが、目を開けても何も見えない。

 両手両足を縛られていて、口にも縄のようなものが巻かれている。

 どさっ、と。再び体が何かに包まれて重くなる。

 土だ。

 声にならない声をあげて、体をどうにか動かす。

「タフだなあ、日辻」

 姿は見えない。

 でもその驚いた声は覚えている。

 俺が退部届が欲しいと言ったときも、そんな声で驚いていた。

「さぁ……あひま……へんえい……」

「“幽霊部室”ね……思い出したよ日辻」

 坂島先生は、土を俺にかぶせる作業を続けたまま、話しかけた。

「お前と話したあと、カレンダーを見て気づいたんだ。1週間前がちょうど部長ちゃんの命日でね……そういえば悪口で呼ばれてたなあ、僕らがいた世界史資料室が」

 そうだ。坂島先生は、学生時代オカルト研究部に所属していたと話していた。ならば、幽霊部室というワードに聞き覚えがあったのは納得できる。

「でも驚いたよ。お前を追って行った資料室で、まさか、タイムカプセルの隠し場所のメモを見つけるなんて」

 残念そうにため息をついた。

「先生は願っていたよ。ただ掃除熱心の悩める若人であるお前が、この場所に来ないことをずっと祈りながら後をつけていた。けど……あの死体を見つけられてしまったからには、こうする他ないじゃないか」

 何を言ってるんだ、この人は?

「困るんだよ。せっかく神隠しで彼女を“七不思議”にしたのに。死体が見つかってしまったら、ただの事件じゃないか。事件はすぐに風化する。七不思議のままで、これからも数十年、学校に噂として生き続けないと」

 わかった。

 こいつだ。

 こいつが、部長ちゃんを殺したんだ。

「あ゛あぁあう゛……ああ!!!」

「おっと、叫ぶのは良くないな」

 顔に土がかぶせられる。

 部長ちゃんもきっと同じように殺された。タイムカプセルを埋めるために裏山に自ら赴いて、そこで同じ部員の仲間だったこいつに襲われたんだ。穴を掘っている間に背後から後頭部をスコップで殴られて……。

 部長ちゃんが事前に仕込んであった地図のことをこいつは知らずに、世界史資料室を掃除した俺がたまたま見つけたと思っている。

 最悪な偶然。回ってはいけない歯車が、噛み合ってしまった。

 その後も繰り返し土が身体に積み重なっていき、だんだんと体の感覚がわからなくなっていった。

 先生の声も遠くなっていく。

「でもある意味良かったのかもしれない。虻川美枝が行方不明になった神隠しの噂は薄れていたから……ここで君も神隠しの被害者になってくれれば、また七不思議として生き永らえるだろう?」

 抵抗する力は残っていない。

 後頭部の痛みと出血。全身を圧迫する土の重さ。

 おかしいな。こんなはずじゃなかった。

 俺は退部届を出すんだ。今日、これまでの自分にけじめをつける。そして明日には映画館のバイトに応募する。もう、目星はつけてあるんだ。明日になれば、きっと……。

「これで彼女の望みは守られる。日辻、協力してくれてありがとう」

 全てが遠くなる。

 音も、感覚も、意識も。

 最後に聞こえた「ありがとう」という言葉で、部長ちゃんとの別れを思い出す。

 彼女がいたから、俺は停滞から抜け出して、夢中になれるものを探す気力を取り戻すことができた。

 おせっかいな幽霊のおかげで一歩前に踏み出すことが出来るようになったのに。

 俺の未来を一緒に探してくれたのに。

 ここで終わりみたいだ。

 ごめん。

 ごめんな、部長ちゃん。





【終】


「ねえ、うちの学校で流行ってる怪談知ってる?」


「授業中に羊を数えながらうたた寝すると、絶対に共通の悪夢を見るんだって」


「見覚えのない部屋を一人で掃除してるんだけど、半分までしか掃除しないの」


「なんでも昔うちの学校にいた美化委員の実話らしいんだけど」


「空き部屋を勝手に掃除して、でも半分で止めちゃうんだって。変だよね」


「今も学校のどこかに夢と同じ半分ホコリかぶった部屋があって、そこに入っちゃうと呪われるらしいよ!」


「ねえ、今度一緒に探してみない?」


「あっ、やばい先生だ。はーい、もう帰りまーす! また明日ね」



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幽霊部室 一木 樹 @ituki_itiki

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