第2話
(まさか・・・)
奈々は信じられないのか、目を二三回強く擦った。
野島鑑三は新米の大学卒の職員桜井奈々の様子にどぎまぎした可笑しさに気付いた。しかし、それでいてその慌てている様子がどことなく滑稽に見える。
「どうした・・・」
鑑三はちょっぴり戸惑いを覚え、訊いた。
奈々の返事はない。だが、彼女の異様な表情から察するに、何かがあったのは確かなようであった。
奈々の眼が明らかに前を歩く黒服の集団に集中しているのは確かで、その彼らは今の所何処へ行くのか分からなかったが、この頃この辺りに場違いな連中を見かけるようになっていた。有明海の再生でいろいろな議論され、待ったなしの事態がそこにあり、きれいごとではなく、今の人間が動くと、そこには間違いなく利権が生まれ、今にも激しい荒波が渦巻きはしまろうとしていた。そこには多くの人が善悪関係なしに入り込み、また表でも裏でも国も有明海四県が動いている。そのことを、鑑三はよく知っていた。だが、そういうことに全く興味ない彼にはそれ以上考え込むことは無かった。
「奈々ちゃん」
「う・・・うん」
彼女はやっと言葉を付け加えた。
「知っている人がいるみたいなの・・・いいえ、奈々の気のせいなのかな。確かめてみる」
と、いい、黒服の集団に駆け寄って行った。そして、彼らの前に回り、一番後ろを歩いていた若い男の顔を覗き込んだ。
「あっ、やっぱりお兄ちゃん・・・お兄ちゃんだよね」
彼女は素っ頓狂な声を上げた。
びっくりしたのは彼女だけではなく、その若い男も、だった。その途端、他の黒い服の男たちも立ち止まり、みんな奈々を見た。
「お前・・・どうしてこんな所にいるんだ」
お兄ちゃんは言う。
「それはこっちの言うことよ・・・お兄ちゃん、今まで何処に行っていたの?そんなことより、今何処にいるのよ?」
若い男は桜井学といい、今に二十五歳で、奈々とはよっつ違いの兄である。奈々の大きな声に、黒服の人の周りに人だかりが出来ている。奈々に腕には黒い猫がこの二人の兄妹を交互に見て、やはり驚いている。
桜井学は三年前に突然高校を卒業し、大した仕事にも就かずにいつもぶらぶらしていた。その学が突然家からいなくなってしまったのである。もちろん、警察にも行方が分からなくなったと知らせてある。父の定高は奈々がゼロ歳の時に胃がんで亡くなっていた。母の絵里子一人で働き、長男の学を女手一人で高校卒業させた。その苦労を、奈々はよく見ていて知っていた。
(それなのに・・・)
絵里子は悲しみ悔やみ、そして後悔した。
(なぜ・・・何がいけなかったの・・・お兄ちゃん)
母絵里子はしばらく心を乱し、仕事を休んだ。絵里子は太らない体質で、実際痩せた体の細い女だった。しかし、時にはパートの仕事を二つこなし、学が男だったから懸命に働いた。だが、その熱意のようなものが学には伝わらなかったようだ。絵里子はそう考えた、考えるしかなかった。
こうなると、絵里子の熱意の対象が奈々に意外とあっさりと移った。
奈々は、母の気持ちを素直に受け入れてくれた、絵里子はそう感じ取った。べつに話し合ったわけではない。普段の奈々の表情からそう感じたのである。
「良かった」
と、彼女は思った。奈々を贔屓していたのではない。兄学も、奈々と同じように愛していた。しかし、心をくじかれているわけにはいかなかった。この母は意外と気分転換が早かったようだ。学は父定高は神経質な体質で、ちょっとしたことでもあれこれ考え、何日も考え込むことがあった。夫婦とはこういう正反対の性格もありなのかもしれない。母絵里子はこの娘に自分の生きがいを傾けたのである。受け入れてくれるのが男の子であろうと女の子であろうと、彼女には構いはしなかった。
「うるさい」
学は母絵里子にこう怒鳴った。この頃には何日も何日も喧嘩のような口論があった。
そして、何時の日にか、学は何も告げずに、家を出た。可笑しなことに、母には悔しさも悲しみもなかった。ついに来る時が来た・・・それだけのことである。
奈々は、
「とにかく一度家に帰って来てよ・・・」
と、兄の腕を強く引っ張った。他の黒い服の男たちが睨んでいる。
「おい」
「どうした・・・」
早く来い、というのである。
絵里子と奈々の生活は厳しいものであった。だが、その生活に追い込まれたのではなく、好んで飛び込んで行ったのだ。そのことを、奈々も時間が経過するにつれて理解し、日々の生活を何かにつけて絵里子を助けていた。
「ねぇ・・・」
奈々は兄の学に甘えた声を掛けた。彼女の腕の中にはまだあの黒猫が抱かれていた。興味不可争に、二人の姉妹を見て、どことなく楽しんでいるようだった。奈々はそんな黒猫を見て、微笑んだ。
「にゃー」
彼女は黒猫の頭を撫でた。怪訝な眼で、学は黒猫を睨んでいる。そして、もう一人、変な顔の老人が妹の傍にいるのに気付いた。
(このジジィは、誰だ・・・)
という顔をしていた。学は聞かなかった。彼はこの老人に全く興味はなかったようだ。
「ねえ、お兄ちゃん。お母さんに今日あったと言っておくから、一度でいいから顔を見せてよね」
学は返事をしなかった。狂い服の仲間に、もう一度、おい、と声を掛けられて行こうとする学に、
「きっとよ」
と、もう一度念を押した。
「お兄さん・・・?」
野島鑑三は訊いた。
奈々は頷いた。
祭りに来た人はだんだん多くなって来ていた。立ち止まっていた人も、余りの多くの人に立ち止まっていられずに人の動きは流れ始めた。鑑三は、
「仕事の方は私だけで大丈夫だよ」
といった。
奈々は鑑三を見て、にこっ、と笑い、
「大丈夫です。あんなに念を押したんだから、お兄ちゃんきっと家に来ると思いますよ」
奈々にはそうあって欲しいが、なぜだか、兄は来ないという不安の方が大きかった。
鑑三は奈々の耳元で、
「私が話して見ようか?余計な心配かな・・・」
そうはいっても、兄の学の手を放そうとしない。
「おい」
また仲間から声が掛った。
「俺は行くぞ」
学は握る奈々の手を振り払って、行ってしまった。
奈々の兄は行ってしまった。奈々は泣きそうな眼をしていた。鑑三は余程学を呼び止めようと思ったが、思い留まった。佐賀県の職員の老と人新米さんはしばらく呆然と立ち尽くしてしまった。
鑑三はこのままにしておけないと思ったのか、
「家は近くだったね?」
と、奈々に確かめた。
奈々は頷いた。
「お母さん、今日は休みだから、今家にいるんだろうね」
鑑三は優しい柔和な顔を崩した。
奈々は驚いた眼で鑑三を見ている。
「兄さんがいたって、お母さんに知らせておいでよ。いいよ、いいよ。行っておいでよ」
奈々は首を振った。
「仕事中ですよ。でも・・・」
「そうか、仕事か・・・。少しの間なら、大丈夫だよ。みんな、それなりに、うまく気を抜いているんだから・・・私も一緒に行こう。それなら、気分も楽だろう」
奈々は鑑三先輩の眼を見て、コクリと頷いた。笑みを浮かべたると、幼い歯がチラッとと見えた。彼女はまだ成長していないのか、歯が真っ白に輝いていた。
「それでいい。それで、いつもの奈々ちゃんだ。さあ、行こう。あの黒い服の男たちも・・・いや、兄さんも今日はこの祭りを楽しむに違いない。君の家まで案内しておくれ。どっちだ?」
「あっ、鑑三さん。こっちです」
複雑な心境でまごついていた奈々だが、元気な声で言った。彼女の腕にはあの黒猫は気持ち良さそうに抱かれていた。
「ごめんよ」
奈々は黒猫の頭を優しく撫でた。そして、にこりと笑った。もう、すっかり奈々に懐いてしまっていた。
九鬼龍作の冒険 私・・・おじさんが大好きです。おじさんにいう幸せの国を探しに連れて行って下さい 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog
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