箱入り娘、骨を読む
猫煮
箱入り娘の占い
黄金の麦の穂が風に波打ち、姿無き大気の女神が飛びゆく様を示している。山稜を超えた先にある湖、澄んだ空の色の中で山の民の娘たちが泳ぐように、我らも黄金色の畑の中で風に遊んでいた。
「ヒメサマ! 待ってくださいよ」
「これ、急がんか。風は待ちはせぬぞ」
上等の絹の服にビーズのアクセサリで着飾った銀髪の童女を、黒髪の娘が追いかける。娘の年頃は八歳を過ぎた頃だろうか。となれば、童女の方は五歳であろう。童女、すなわちわたくしは無邪気な笑みを浮かべながら、麦畑を走っていく。
「どだい無理な話なんですってば。風の女神を捕まえるなんて」
「何を申す。妾は巫女姫、神と通じる者よ。この身に神が答えぬことのあるはずがない」
そうだ、わたくしは神と人を繋ぐ者。あまねく神々の預言を読み解き、人に伝える者だ。しかし、風の女神の裾も掴めはしない者でもあるが。
「そんなの十年も先の話じゃないですか。もう帰りましょうって。危ないですよ」
「ええい、お主にはその腕飾りをくれてやったではないか。第一、妾に鍔を預けたのであろう。主と定めて捧げた鍔を裏切るつもりもあるまい」
そうですけれども、と困り顔になる少女。あの顔は昔から変わらぬな。少女の腕には魚の骨で作られたビーズとターコイズのビーズとが規則正しく連なって巻かれており、その腕輪の装飾には魂石のかけらが散りばめられていた。少女の腕には大きすぎる、そして少女の着ている服からしてみれば明らかに上等すぎるその品は、確かにわたくしが彼女へ贈った物。親愛の情を器用に表せなかった、幼き日の懐かしい記憶である。
「ゆくぞ、アウレリア。妾が初めて信託を授かる場で、妾に侍る栄誉を与えてくれる」
「ああもう、ヒメサマってば!」
そう言ってはしゃぎ声を上げながら走っていく二つの小さな影。遠ざかっていくその声を背に目を開けば、炎が燃え盛っていた。
組み木が幼子の背丈ほども燃え、半ば炭になったそれの下へと敷かれた灰の中へと投げ込まれた鹿の肩甲骨。共に焚べられた魂石のかけらは虹色の炎を不規則に吹き出し、様々な香油の混じった香りは精神を異世界とつなぐと言われれば信じてしまいそうだ。先程まで思い起こしていた麦畑の素朴で穏やかな景色とは裏腹の暴力的で蠱惑的な風景。これがわたくしの努めである。
祈りの姿勢と視線を崩さぬまま炎の外へと意識を向けてみれば、わたくしの側仕えたちがこの小さな中庭の壁際まで下がって地に伏し、わたくしの言葉を待っている。炎越しには王がこれまた神妙な顔で頭を垂れ、そのふくよかな顔は炎に照らされて脂にテカっていた。この王は先代の王の甥だったが、謀略の末に今の座を得た、正確に言えばわたくしが得させた王である。先代の老獪な王は『いささか』都合が悪かったからだ。王などは多少愚かな程度でちょうど良いものを、あの男は賢しすぎたために命を落としたのである。
「クッ」
先代の王が最期に浮かべた驚きの表情が意識に浮かび、思わず笑いがこぼれてしまう。それをどう取ったのか、王と側仕えたちは一様に肩をはねさせると、一層頭を深く下げた。その姿を楽しんでいると、炎の中から枯れ木の裂けるような音が響く。見れば、骨にヒビが入り、緩やかな曲面には複雑な模様が浮かび上がっていた。わたくしは水に浸した布越しにその骨を掴むと炎から引き上げ、その勢いのまま銅のタライへと張った水へ差し込む。それに合わせて再びひび割れる音。その後は組み木の爆ぜる音だけが響く中、骨の冷めた頃を見計らって水から引き上げ、煤を塗って模様を際立たせていく。
「ほう」
もっともらしく呟いてやれば、王がこわごわとわたくしを見やる気配が感じられる。臆病なこの男を脅かしすぎるのも哀れに思い、あらかじめ決めておいた占事の結果を伝えてやることにした。
「王よ。この度の戦、大勝との卦が出ております。ただし、水辺には注意すべしとも」
「おお、テレジアよ。それは真か」
「はい、この骨には炎の神の託宣がはっきりと」
「戦神たる彼の神が言うのだ、間違いはあるまい。例を言うぞ、大巫よ」
そう言うが早いか、喜色満面で中庭から立ち去る王。小躍りでもしそうなその足音に笑いを堪えるので必死でいると、側仕えたちの女たちが恐る恐る近付いてきた。
「大巫様。そのように顔をしかめて、大層お疲れ様でした」
丸顔の女官がいたわりの顔を作って言う。
「全く、王も情のないお方。ねぎらいの一つもあってよろしいでしょうに」
背の高い女官が味方面をして責めた風に言う。
「良い。王たる者、おもねる姿を徒に見せるわけにもいかぬのであろう」
わたくしはそう言いつつ、側仕えたちの薄っぺらな顔から目を逸らした。お前たちは気がついていないだろうが、わたくしはお前たちが影で誰をどのように口さがなく言っているのか知っているのだ。霊妙なる技を信じる一方で、その繰り手を密かに嘲る肝だけは買ってやるが、そのようにわざとらしい仕草をされては笑いが堪えられなくなる。
「とはいえ、疲れた。後は任す」
そう言ってその場をあとにするわたくしを、膝をついて見送る側仕えたち。前に組んだ腕の隙間からこちらを伺うその好奇の視線を背に浴びながら、奥の間への道を進む途中、大仰な大袖の衣を着替え、この屋敷の真の最奥へ。占事に使う中庭は貴人を迎えるための最奥。そのさらに奥に、わたくしの居室はあった。
四方を高い塀で囲われたこの屋敷の最深部、間近の塀すらも庭で遠く隔てられたこの場所に入ることができるものは、世話役の他はわたくしが特別に認めた者の数名のみ。その他はたとえ王ですらこの部屋へ訪れることはない、ということになっている。
「やっと終わったわ」
「ご無事のお戻り、何よりでございます」
御簾をくぐりつつ部屋の内へ声を掛ければ、訪ねる者のいないはずの部屋の中から答えが返る。
「何、どのみち王には骨の模様など読めぬよ」
わたくしは御簾を後ろ手に直しながら、声の主へと話しかける。声の主は居室の隅、衝立の影に潜んでいた。長身に纏うその衣は彼女が女の身でありながら戦人の役を請け負う、女舎人であることを示している。烏珠の黒髪は頭の後ろ、葡萄の蔓で束ねられ、伏せられた瞳は黒曜石を削り出したようだ。
「アウレリア、此度も助けられたな。わたくしのワタリガラスよ」
「私の全ては大巫の手足の捧げられたものなれば」
「そうかしこまるな。名で呼ぶことを許しておろう。あるいはヒメサマとでも呼ぶか?」
その言葉にさっと顔を赤くするアウレリア。幼き頃のことをからかってやれば、年を経て鉄面皮となった彼女の仮面も容易く剥がれる。
「お戯れを」
「戯れとは、このような?」
頭を垂れるアウレリアの前にわたくしもしゃがみ込み、彼女の乾いた頬に手を添える。わたくしの手の熱が彼女の冷たい体へと移り、そのむず痒さからかアウレリアはわずかに身を捩った。この手の内から逃れようとするかのようにも見える仕草に嗜虐心がくすぐられて、添えた手を這わせて彼女の顎下へと滑らせ、顎を持ち上げて彼女の瞳を正面から見下してやる。
彼女の飲むような吐息に僅かな期待を感じたわたくしは、顎に添えた手にさらなる力を込めると、その指の背で彼女の喉元をナメクジが這うように撫でつけ、手の甲を彼女の鎖骨へと押し当てた。触れ合った皮膚からはにわかに熱を帯びた彼女の体温が伝わり、表情こそほとんど動かさない彼女がその実、興奮に身を焦がす思いを隠しているに過ぎないと告げていた。彼女の呼気に熱がこもるのを聞いて満足したわたくしは、ゆっくりと手を離すと、最後に二本の指で彼女の胸骨の上をゆっくりとなぞる。悩ましげに呻くアウレリアを細めた目でみてやると、彼女は我に返って恥ずかしげに顔を背けた。
「いや、まだ日も高いというのに、何を期待していたのやら」
「期待など! ……大巫は意地悪だ」
「ふん、そなたも強情だな」
蔑んだように言ってやれば、秋の陽のごとく頬を染めて激しつつ反論するアウレリア。しかし、すぐに恥ずかしげに目を背けて責めるように恨み言を言う。それでも変わらぬ呼び名に嘆息しつつも、砕けた口調になったことを喜んでしまうわたくしがなんとも滑稽に思えた。
「まあ良い。それで、敵方の政情に変わりはないのだな?」
「ええ、嗅がせたクスリがよく効いたようで、好戦派と慎重派の軋轢は一層激しくなっております。あれでは、国境に注意を払う余裕もないかと」
「おっと、あまり物騒な言葉を使ってくれるなよ。我々はあくまで善意の支援を贈っただけなのだからな」
王には大勝の卦が出たなどと言ったが、それは骨の模様などを読まなくとも解りきったことだった。そもそも、わたくしが勝機を呼び込んだのだから。
大巫などと呼ばれているが、わたくしに未来を視る力は備わっていない。わたくしの大叔母にあたる先代の大巫は魂石の助けを借りて、千里を見通し、未来を予見し、炎と風とを自在に操った。その偉大な大叔母の血はわたくしには炎を操る力しかもたらさなかったのだ。しかし、大叔母の縁はわたくしに変わりとなる力を与えた。アウレリア、次代の巫女姫の一人であるわたくしの最初の側仕えとしてあてがわれた彼女は、大叔母の血が呼び寄せた者だった。戦に長じた一族の末娘であったアウレリアは、戦闘と軍略を実現する術をわたくしに与え、その術によってわたくしは、未来を視る力の代わりに千里先を操る力を手に入れたのだ。
その力を隠し、未来視と見せかけることで、わたくしは次の大巫に選ばれた。もちろん、密かに卜骨や筮竹についての本をアウレリアに集めさせ、占事の真似事もできるようにはなったが、的中率は今ひとつと言ったところだ。しかし、大巫に求められているのは正しい助言ではなく、正しいと思わせる言葉だ。その言葉が真に正しくなれば、それがどのようにもたらされるかなど些細なことだろう。
頭を下げたアウレリアのつむじを見ながらそんな事を考えていると、やかましく近付いてくる足音が聞こえた。それに気がついた彼女は、わたくしが手で指示する前に奥の壁に据えたどんでん返しの仕掛けを用いて部屋から消える。公には彼女は警邏をしているはずだからだ。彼女が消えた壁に少しの名残惜しさを感じながらも、積んであった竹簡の中から一つを抜き出して、読むふりをする。開いた竹簡は遠国の宗教思想について書かれたものだった。
「姉さま! お疲れ様!」
「イライザ、年頃の乙女が大声を出すものではない」
無作法に御簾をくぐって現れたのは、種違いの妹のエリザベスである。十は歳下の妹を、わたくしは親しみを込めてイライザと呼んでいた。母はわたくしの父を病で失ってから、父の下の弟である今の夫に嫁いだ。珍しくもないことだが、事情はどうあれ子まで設けた彼女をわたくしは密かに侮っていた。しかし、子にまで同じ心持ちで接する必要はない。母への失望の反動もあってか、わたくしはこの歳の離れた妹を良く可愛がっている。
「もう、良いじゃないの。どうせ誰もいないのですもの。それよりも、お勤めは終わったのでしょう?」
「お前は、全く。ああ、終わったとも。しっかりと快勝の卦を占ってやったさ」
開口一番叱られたことに膨れ面になりながらも、わたくしの横へと勢いよく座るイレイザ。彼女はまだ年若いこともあって、幼い言動が目立つ。しかし、少女が芽吹いていく最中のほんのひと時だけに見せるこの危うさが、物心ついたころから巫女姫の修行を続けていたわたくしには眩しく見え、好ましかった。
「まあ、それはめでたいことですわ!それでお姉様、王はなんと?」
「はっ、あやつめ。肉を投げられた犬のごとく尻尾を振って喜んでおったわ」
「もう、姉さまったら。『そんな物言いをするものではない』ですわ」
「こいつ!」
すました顔で先程のわたくしの声色を真似るイライザ。そんな妹に覆いかぶさるふりで脅かしてみれば、キャアと喜声を上げてわざとらしくのけぞる。鈴のような声がコロコロと笑い声を上げるのにつられて、わたくしも笑顔になっていた。
「さて、イライザ。なんの用で参ったのだ」
「あら、お話に来たのではいけないの?」
居住まいを正して尋ねてみれば、首を傾げて返すイライザ。その様子にため息が漏れた。
「お前にも見習いの仕事があるだろうに」
「やることは済ませていますとも。抜かりはないわ」
この妹は何を思ったか、自分からわたくしの宮へと行儀見習いにやってきた。妃たちの宮ならばともかく、巫のいるわたくしの宮などに来てもしきたりばかりが厳しく、嫁ぎ先もそう見つからないだろうに。これがわたくしを慕ってのことであるならば嬉しいところだが、その本意を尋ねたことはない。
「それよりも、ね。姉さまは何を読んでらっしゃるの?」
「ん、ああ。これは遠い国の宗教儀礼、つまり、そうだな。占術や祈祷についてまとめたものよ」
「姉さま。大巫ともあろう方がそんなものを読むの?」
実のところ、真面目に読み込むつもりはなかった書である。この国とは間に数国挟んで東と西であり、いますぐに戦になる可能性は低い。典礼の様式もわたくし達のものとは大きく異なっており、参考になる部分もないではないが特段これを読む必要は感じられなかった。ただし、いま戦を仕掛けている国にこの宗教を信じる者が少なからず居ると聞いて、手懐ける足しになるかと取り寄せたのである。最も、かの信徒たちは使い物になりそうになかったため、アウレリアには無駄骨を折らせることになったのだが。
「いや、読んで見れば、読み物としては面白い。どうも彼の国には神が一柱しかおわしにならぬそうでな」
本音をそのまま言うわけにもいかず、咄嗟に言い訳を打つ。しかし、これもまた本心である。使い出はなくとも、遠国の思想として捉えてみれば新鮮なものだ。
まぁ、と驚き声を上げる無垢な妹を微笑ましく思いながら、この書について語り聞かせてやることにしたのだった。
そんなことがあってから十日ほど経ってのこと。王はわたくしの占いの通りに、勝利を携えて帰還した。最寄りの村のいくつかを如何にして配下に収めたのか、わたくしの宅の中庭で得意満面に語って聞かせる王は、戦帰りということもあって血が高ぶっているようだった。
「大巫よ、そなたの言う通りに、川の氾濫に巻き込まれる前に戻って正解であったわ。流石は戦神の託宣であるな」
愚かな男め。あの辺りはこの時期毎年水害に悩まされておるのだ。大抵の男など、剣を握って振り回すしか能のないと解ってはいるが、これが王の姿とは。しかし、担ぐ神輿はよく踊るほど都合が良い。うまく手綱を握ってやれば、一目散に示す先へと向かってくれるのだから、なんとも『良い王』である。
「これも王の慧眼あればこそでございます。大勢を見る、実に広い視野をお持ちでいらっしゃる」
こうしておだててやれば、更に得意げになる王。わかりやすい男だけに、次の言葉への対応策もすでに考えてある。
「それで、次の侵攻はいつが良いか、訪ねに参ったのだ。奴隷はいつでも首を撥ねられるように用意したゆえ、伺いを立ててはもらえぬか」
「それでは、卜しまする」
やはり予想通りの言葉を吐く王。焚かれた炎に照らされた顔には、野心を隠さぬ瞳が灯りに照らされる以上の輝きを放っている。男じみた獣の如き吐息にうんざりしつつ、予定通りに魂石や薬草と共に鹿の骨を炎へと焚べ、祈りの姿勢を取った。それとともにひれ伏す王。後は時を待つだけである。
幾度も繰り返した祈りの言葉を唱え終え、祈りの姿勢でいると、骨の裂ける音が聞こえ、手順通りに卦を読む。普段はさして気にも留めぬ卜骨の文様であったが、今回ばかりはその模様がただならぬものであった。わたくしが思わず唸り声を上げると、王の肩が跳ねる。此度ばかりは言い含めておくために脅かさぬようにと思っていたのだが、まずいことをした。気を散ずるために咳払いをすると、念の為に骨の表を隠して王に告げる。
「侵攻はしばらく控えたほうがよろしいかと。今は国の内々の事に専念すべしと託宣にはあります」
元から用意しておいた答えを告げつつ、骨の模様について考える。あの模様はわたくしの知識が正しければ、『人の死』を示す模様だったはずだ。この王は使いやすい王ではあるが、それが死ぬということであろうか。わたくしの占いの腕そのものは当てにならぬが、心の片隅に留めておくべきやもしれぬ。
「なんと、いやしかし。この機に畳み掛ければあの程度の国」
「わたくしの卜占をお疑いか」
納得いかぬ様子の王に強く言えば、王は言葉に詰まる。
「今斃せる国ならば、盤石の力を蓄えてから下すのは更に容易いこと。王の覇道を盤石にするための信託かと」
我が育てば扱い難くなるものだが、今居なくなられては時期がまずい。変わりにいくつか目星はついているが、まだ育ちきっておらぬ。それと覚られぬように、赤子を諭すように言い含める。あと数年も保てば良いのだ。それまではわたくしも尽くす気でいた。
しぶしぶと帰っていく王を見送った後、側仕えたちに後を任せて居室へと戻る。アウレリアにちょっかいでもかけて気を晴らそうとしたのだが、戻ってみても彼女はいなかった。
「なんだ、つまらぬ」
わたくしはますます不機嫌になって、床へと転がった。しばらく御簾越しに庭を眺めていると、荒ぶっていた気もいくらかは静まる。どうもあの王が引き連れてきた血の匂いにアてられていたようだ。いくらか覚めた頭で考えるのは、次の王のことである。今の王はもとより中継ぎのつもりで使っていたが、思っていたよりも欲の膨らむのが早い。早めに処分するのと、鎖で縛っておくのではどちらが便利であろうか。鎖で縛るならば、アウレリアにはよく働いてもらわねばなるまい。また彼女に苦労をかけるのは心苦しいが、盤石さを求めるならばこちらを選ばぬ理由がない。
ああ、アウレリア。わたくしをこうも悩ませる者はそうはおらぬ。半分の血を分けた妹ですら、ここまでわたくしを悩ませなかった。あの子のように手がかかると言っているわけではない。閨の中で聞くお前の優しげな声が、わたくしの心にいつまでも響くのだ。意識してしまえば、鼠径部の裏が疼きを覚える。知らず胸元に伸びていた手に気が付いて、恥じらいを隠すためにたもとを探り、守り袋を取り出した。
袋の中に入っているのは鍔が二枚。一枚はアウレリアがわたくしの舎人となる際に捧げられた、正式な舎人が身につけるもの。そして、もう一枚は幼い頃のままごとじみたやり取りで、アウレリアから受け取ったものである。守り袋の内から最低限の魂石がついただけの素朴な子どもの訓練用の鍔を取り出すと、両の手で包んで隙間から香りを吸い込む。すると、鼻の奥には生暖かい鉄の香りと汗と香の混じり合ったわたくしの体臭、そして僅かな麦畑の香りが広がった。その香りはわたくしの疼きをより激しくしたが、同時に心を穏やかにもする。
一度だけ掌中にある思い出の香りを胸に吸い込むと、天井を向き、目を閉じる。そして、火照る身体と穏やかな心を置き去りに、眠りと落ちていった。
そうして、視界が明るくなる前に、まず知覚したのは声であった。
「無理です。やはり私には荷が重いのですわ」
これは妹の声か。またぞろ泣き言を。イライザ、お前は泣き虫だからな。
「いえ、集中して。まずは慣れるところから始めるんです」
おや、この声は誰だろうか。聞き覚えがあるような、ないような。柔らかい声色から女のようだが、妹の教育係か何かだろうか。
「慣れるも何も、あれがただ一度の偶然だったのです。もう二度とは」
「そんなことはありえませんって。偶然で使えるようなものじゃないんですから」
はて、料理か何かの話だろうか。そういえば、厨の手伝いをしていると聞いていたが。そんな事を考えていると、視界が徐々にひらけ、イライザの姿が闇から浮かび上がる。妹は両手を祈りの形に握りしめ、必死の形相で目を瞑っていた。息を止めているのか、頬は赤らみ、肩も小刻みに震えている。
「やっぱり見えません。私に才能はないのです」
「神秘の業というものは、体で覚えなくてはいけません。初めてのことを思い出して」
やがて妹は目を勢いよく見開くと、いつものような少女の顔でべそをかく。それを慰める長身の女の姿。黒髪を背で束ねている。あの紐は、葡萄の弦か? 疑問に思っている間にも、会話は続く。
「そもそも、未来を視るなど。大巫の業ではありませんか。今更私のようなものがその業を得た所で、姉さまに疎まれるだけ」
「いいえ、それは。話すことはできませぬが、そのようなことは無いと、自信を持って言えます」
今、イライザはなんと言った?
「アウレリア様は姉さまのお気に入りですもの。けれど、あの方の苛烈さは皆が知っております」
「大丈夫です、イライザ。あの方の心は私にも完全にはわからないですけど、あなたの力を喜びこそすれ、疎むなどありえませんよ」
アウレリア、やはりお前はアウレリアなのか? そうだ、その腕の飾り。骨とターコイズのビーズの飾り。お前なのか。
「ほら、もう一度」
そう言うと、アウレリアはイライザの握った手に彼女の手を重ね、もう片方の手で妹の肩を優しく押す。そうだ、お前とわからなかったのはその声色のせいだ。久方ぶりに聞いた、幼き頃のような生意気さの見え隠れする声。もはや閨の中でも聞かぬ声を、今のお前はわたくし以外の前で使うのか。
「はい、わかりました」
嗚呼、と小さく息を呑むと、途端にしおらしくなって頷くイライザ。なぜそのような顔をする? アウレリアに抱きしめられたお前が、なぜそのように頬を染める必要があるのだ。
「集中して」
優しげに言うアウレリア。わたくしには秘め事の終わりにささやくそれを、どうして今妹の耳元で口にする? 目を閉じて集中しているように見えるイライザだが、わたくしには判る。その意識が肩に乗せられたアウレリアの手に向かっていることが。わたくしは何を見ているのだ?
やめよ。大巫はわたくし。わたくしが作った未来を、わたくしが告げる。アウレリアと共に未来を定めるのはわたくしだ。イライザよ、お前の触れて良い所ではない。やめよ、やめるのだ。
アウレリアから離れよ!
「熱い!」
わたくしがそう思うと同時、イライザが飛び退いてアウレリアの胸の中から出る。そして、肩を不思議そうに何度もさすっていた。ビーズと、魂石のかけらの使われたわたくしの腕輪をはめた、アウレリアの手が乗っていた肩を。
今、わたくしは炎を操ろうとしたのか? イライザに、あの妹に向けて?背筋が寒くなり、視界が暗くなっていく気がする。いや、実際に暗くなっている。アウレリアがイライザに何か話しかけているが、声は聞こえない。そして、二人の姿も遠ざかっていき、視界が闇に包まれ、そこでわたくしは飛び起きた。
「ああ、夢。そうか、悪夢か。そうであろうとも」
不愉快な冷や汗で濡れた背を掻き抱くように、小さく丸まる。まったく、なんて悪夢だ、そう、悪夢だとも。
「まったく、千里眼でもあるまいし、遠くの景色を見るなど、馬鹿らしい」
そう言いつつ、手の内に握った鍔を握りしめる。先代の大巫が千里眼を使えば、魂石は少しずつ空に溶けて小さくなっていったのを覚えている。まさか手中の鍔についた魂石が小さくなっているとは思っていないが、握った手を開くことは戸惑われた。
「わたくしに宿ったのは、炎の力のみ。そうでしょう、大叔母どの」
答える者のいない問を、空に投げかけてみる。当然何者の声も聞こえなかったが、それが一層わたくしを不安にさせた。
もしも、仮定の話ではあるが、もしも、わたくしに千里を見通す力が宿っているとしたら。そしてもしも、さらなる過程を重ねた荒唐無稽な話だが、もしも、イライザに未来視の力が宿っていると仮定してだ。アウレリアの自由な羽が必要なのはどちらだろうか。遠きを近くに見る女と、遠きを恐れるしかない女と、どちらにアウレリアの助けは必要だろうか。
「ありえぬ、ありえぬよな」
そうだ、すべて仮定の話だ。遠見の力が今更宿るなど。遠見の力で初めて見るものが、我がワタリガラスに心寄せる妹の姿など。妹がわたくしの築いてきたものをかすめ去ろうとする姿など。ありえぬ話だ。それでも、わたくしの拳は固く握られたままだった。
そもそも、仮にそのようなことがあったとして、我が下に留める術などいくらでも思いつく。そう、手段を選ばなければいくらでも。しかし、そのような懸念自体が取り越し苦労に違いない。わたくしが占いを当てる巫女と知る、彼女なのだから。
「のう、アウレリア。お前の帰る止まり木は、妾であろう。約したものな、二度も、約したのだからな」
そう呟きつつ、鍔を胸に抱き寄せた。指の隙間から見える魂石が小さくなった、子どもの鍔を。
箱入り娘、骨を読む 猫煮 @neko_soup1732
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます