こちら側とあちら側
烏目浩輔
こちら側とあちら側
多様性という言葉はいかにも健全そうでありながら、人間関係に明確な線引きをしているような気がする。思考や嗜好が違えど同じ人間であるはずなのだが、人間は多様だと細分化し、同じ人間同士をまるで別の生き物かのように線引きしている。
こちら側にいる人間と、あちら側にいる人間という具合に。
たとえば、ぼくは同性愛というものをまったく理解できないノーマルの人間なのだが、男同士でイチャつくなんてキモいという本心を、素直に吐露するのは御法度だ。理解できない同性愛に理解を示すふりをして、腫れ物に触るかのように、同性愛というマイノリティを気遣ってやらないといけない。
今ふうの言葉で表現するとすれば忖度だろうか。うまく忖度できなければ、狭量や浅慮、あるいは令和の価値観にそぐわないと、そしられてしまう。
しかし、今は多様性の時代だからと、マイノリティに気を遣えば気を遣うほど、腫れ物に触るかのようにすればするほど、彼らはあちら側にいる人間であり、こちら側の人間とは別物なのだと線引きされていく。
多様性はしばしば善の言葉として用いられるが、その実、ステルス性の差別用語ではないだろうか。
そう考えるのはさすがに極端すぎるとしても、多様性という言葉を安易に用いたことによって、余計に人間が分断されたように感じるのだ。
はたして多様性は、個々を認めるという、寛大な言葉なのだろうか。
*
今から十五年ほども前のことになる。ぼくは趣味の釣行中に、Nさんという五十代半ばの男性と知り合った。
その日はとある漁港での夜釣りをしていたのだが、ひとりでぼんやりと竿をだしていると、同じくひとり釣行だったNさんが「釣れてますか?」と話しかけてきた。
「いや、全然です。アタリすらないですね」
「ぼくもです。今日はボウズかも」
そのままなんとなく話しこみ、二十歳近くも年上の人だったというのに、不思議と馬が合って連絡先を交換した。それからぼくたちはちょくちょく連絡を取り合って、一緒に釣行するようになった。いわゆる釣友というやつだ。
五回めか六回めの釣行中だった。潮止まりで魚がまったく釣れなくなって、ふたりで防波堤に座ってだべっていた。すると、どういった話の流れだったかはもう忘れたが、Nさんに「ぼくは同性愛者なんだ」とカミングアウトされた。
ぼくは「へえ」だったか「ふうん」だったか、そんな反応をしたはずだが、それもよく覚えていない。
そのカミングアウトからまもなくして、Nさんはぼくに、パートナーであるOさんを紹介した。わざわざパートナーを紹介したのは、Oさんがヤキモチを焼いていたからだという。
ぼくとNさんは二人きりでまあまあ頻繁に釣行に出かけていた。パートナーのOさんからしてみれば、本当に釣りだけなのかと、気が気でなかったということらしい。ようするにぼくとNさんの浮気を疑ったのだ。
パートナーの心理として浮気を疑うのも無理ないのかもしれないが、性的指向がいたってノーマルのぼくには寝耳に水だった。
声を大にして、きっぱりときっちりと否定した。
「ないない。Nさんとぼくが浮気って、だいぶキモいですよ。絶対にないです」
完全否定のその言葉を聞いて、Oさんは安心したようだった。どうやら、ぼくがノーマルの人間だと、信用してくれたらしかった。
カミングアウトして吹っ切れたのか、以後のNさんは行動に節操がなくなった。三人でご飯を食べにいったさいなどに、ボックス席で人目がなかったりすると、わざとOさんと腕を組んでイチャついたりするのだ。
ピュアなぼくをからかって、あえてそうしているのだろうが、見ていられないのである。
「なにしてるんですか、おっさん同士で。飯がまずくなるでしょう」
ぼくもあえて嫌悪感をあらわにしてやると、おもしろがって余計にイチャついた。ときには頬や口にチュッとキスをする始末だった。
ノーマルのぼくからすると、二人の行動は甚だキモいのである。
だが、そう思う一方で、格好良さや憧れも感じていた。
当時は多様性という言葉はあまり聞かれなかったが、仮にその言葉があった時代だったとしても、おそらくNさんたちは多様性などどうでもよかったはずだ。
ぼく以外の人からもキモいと言われたこともあっただろうし、偏見や差別に苛まれたこともあっただろう。だが、そんなこと知ったことかと、開き直るような強さをNさんたちから感じた。世間が多様性だろうがそうでなかろうが、男でも男が好きなのだと我が道を進んでいた。
ぼくは不覚にもそこに格好良さを覚えてしまったのだ。同性愛者のくせに、やけに男らしいのである。
また、Nさんたちが進む我が道には、ノーマルのぼくでは想像つかないような冷たい壁が立ちはだかることがあったり、獰猛な向かい風が吹きつけてくることもあったはずだ。しかし、すぐ隣には同じ道をいく、信頼のおけるパートナーがいる。その心強さもノーマルのぼくでは想像できないことだ。
性別を凌駕したNさんたちの絆はいかほどのものかと、憧れのような感情すら覚えたのだった。
きっとぼくのノーマル思考は今後も変わらないのだろうが、同じ男として、そして友人として、Nさんたちのブレない同性愛を羨ましいと思った。
そんなNさんたちなのだが、現在は日本にいない。新型コロナウイルスが大流行する一年ほど前に、二人で外国に移り住んだのである。
同性でも婚姻できる国に云々という理由ではなく、仕事の都合で日本を離れることになったのだ。
Nさんたちが外国に旅立つ日、ぼくは車で二人を空港まで送った。後部座席でイチャつくNさんたちに、「最後までキモいんですけど」と言ってやった覚えがある。
おかしそうに笑っていた二人は、もう日本に戻ってこない予定だった。
空港に着いて出国の手続きを終えたNさんは、いつになく真剣な顔をしてぼくの前に立った。ハグでもされるのかと思って身構えたが、Nさんが求めてきたのは握手だった。そういえば、Nさんがぼくに触れたのは、そのときが最初で最後だった。
「また釣りにいけたらいいね」
「そうですね」
もうNさんとの釣行は叶わないとわかっていながら、最後にそんなやりとりをした。
NさんとOさんは並んで搭乗ゲートに向かっていった。その背中には不安と期待が入り混じっていた――などと書ければいい締め括りになったのだろうが、特にそういった感慨深いものはなく、ごく一般的なノーマルな背中でしかなかった。
ただ、五十代半ばのおっさん二人が並んで歩いているにしては、その距離が少しばかり近いような気はした。
*
多様性という取り組みはとても素晴らしいと思う。世の中にはいろいろな人がいるもので、それぞれの個性が尊重されるのであれば、文句なしの理想的な社会といえるだろう。
ただ、多様性という言葉だけが一人歩きし、それを過剰に意識してしまうと、相手の本質を見誤り兼ねない。
たとえば、Nさんは恋愛対象が同性であっても、その他の部分はいたってノーマルだ。ぼくと同じく釣りが好きで、年齢相応に腰痛があり、たまに仕事の愚痴をこぼす。Nさんを形作っているもののおおよそが、そこらへんにいるおっさんと同じなのだ。
大半がただのおっさんであれば、Nさんの本質はただのおっさんだ。決して同性愛者が本質ではない。しかし、多様性という言葉を安易に使うと、おっさんではない部分ばかりが目立ち、Nさんに変なレッテルを貼ってしまう。ひいては不健全な義務が生じる。
理解できない個性に理解を示さなければならない。理解できない個性でも尊重しなければならない。マイノリティには気を使ってやらなければならない。ただのおっさん相手に、義務だらけになってしまう。
それはひどく不健全に思えるのだ。不健全なものが持続可能なはずない。
などとぼくは、もっともらしい屁理屈をときどきこねている。
それはさておき――
もし、Nさんたちが日本に戻ってくることがあり、再び話をする機会があれば、ぼくは遠慮なく「おっさん同士で!」と言ってやろうと思っている。
友人を腫れ物扱いするつもりはないし、気遣いや忖度をするつもりもない。ましてや、多様性がうんぬんという理由で、こちら側とあちら側という具合に、線引きするつもりもない。
そもそも、こちら側とあちら側にわかれていれば、ぼくたちは友人になれなかっただろうし。
(了)
こちら側とあちら側 烏目浩輔 @WATERES
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。