二人ぼっちのクリスマス
孤月
二人ぼっちのクリスマス
どこかの国の、どこかの街。薄暗い部屋の中で一人の少女が本を読んでいた。少女の名はアンジュ。
部屋と言ってもそこは、ごく普通の民家の一室でもなければ、勿論裕福な家のお嬢様の自室でもない。
そこは平和とは世界で最も遠い場所。
「……」
部屋の中は呼吸すらはばかるほどに静かだった。聞こえるのはぱらり、とページをめくる紙の擦れる音だけ。その静けさが少女にとっては心地よいものだったが、同時にどうしてか、息が詰まるような──腹の奥が引き絞られるかのような緊張を感じていた。
そんな彼女のひとときをぶち壊す人物がここに一人。
「アンジュ。メシ」
十余年前、戦争が起きた。世界中を巻き込んだ大きな大きな戦争だった。核爆弾がいくつも投下され、発達した科学技術が惜しみなく利用された。その結果、世界の総人口は大戦前の半分にまで減り、都市も人も何もかもが戦火によって失われ、人類は衰退していった。地図から消えた国も少なくない。
尋常ではない歴史上最悪の被害が出ているにも関わらず、今でも世界は惰性でずるずると戦い続けている。皆が戦う力など残っておらず、何もかもが限界であると知っていながら。
なんとか終戦にまでこぎつけた国もあったが、人手不足により街の復興もままならない。道路も家も破壊されたまま放置されている区域がほとんどであった。
この国では少年暗殺者が大量に育成され、消費されていった。理由は至極単純。子供の見目をしていると敵の警戒の的から外れやすく、その小さい体は目立ちにくかったからである。要するに、なにかと都合がよかったのだ。使い捨ての駒というのは。
アンジュは少年暗殺者の中の数少ない女児だった。外つ国に派遣され、そこで各界要人を殺すことがアンジュたち少年暗殺者の任務だった。
アンジュはノックもせずずかずかと入ってきた少年──アランを一瞥したがすぐに視線を戻し、読書を再開した。そして面倒そうに活字に目を落としたまま呟くような小声で応えた。
「……要らない。アランが食べて」
「レイ隊長がお前にって。食べないとまた長ーい説教だぞ」
「…………アランなんか嫌いだ」
「へいへい」
アンジュの駄々っ子のような文句を慣れたように受け流し、皿を地べたに置いた。
皿の上には干し肉が挟まったパンが乗せられている。
アンジュは部隊の中で唯一の女であるため、拠点では一人部屋が与えられていた。部屋の中は凍えてしまいそうなほどひんやりとした空気が流れていて薄暗い。そんなところで読書なんてしたら目が悪くなる、という苦言はずっと昔から言い続けているものの、聞き入れられた試しはない。
ここに少年暗殺者は二人しかいなくなってしまった。
この外つ国に派遣された少年暗殺者は十数名。二人以外、全員死んでしまった。理由はさまざまだ。銃撃戦の最中流れ弾に当たり死んだ子供もいた。ターゲットを殺せはしたが護衛に見つかり射殺された子供もいた。捕虜として敵兵に拷問され死んだ子供もいた。潜伏していた家屋が倒壊し下敷きになった子供もいた。
アンジュもアレンも強かった。故に二人はいつしかお互いに最も関わりの長い仲間となっていた。部隊の大人は戦場に子供がいる現状に異論を唱えたりしない。当たり前だ。ここに普通などない。ここは戦場なのだから。鉛玉が飛び交う戦場。一片の慈悲もなく、救いもない。
「そうだ、これやるよ」
「……何これ」
「見て分かんねぇのかよ」
「いやそのくらいわかる。なんで?」
「なんでってそりゃ……今日がクリスマスだから?」
「……そうなんだ。知らなかった」
アンジュはアランの手に握られた『クリスマスプレゼント』──飾り気のないただのリボンをおずおずと受け取った。月明かりだけが差し込むこの部屋でも、わずかな光を拾って艷やかに煌めく赤いリボンだった。
「それで……これ、どうやって使うの」
「はぁ……貸せよ」
アランは呆れ返って、アンジュからリボンを受け取った。そのままアンジュの癖のある髪を一房取って結わえていく。髪は手入れをすれば今よりはずっと綺麗になるだろうが、いかんせん此処は戦場だ。食事も睡眠も入浴も必要最低限。普通の女の子として祖国で暮らしていたならば、美しい黒髪の美人に育っていただろう。
リボン結びで仕上げると、アランはアンジュを窓の前に立たせた。ガラスにはアンジュの姿が薄く反射してその形を外の風景に溶け込ませている。黒髪に赤いリボンはよく映えた。アンジュは自らの髪を見て呟いた。
「……意外と器用なんだね」
「“意外と”言うな。そういえば今日の晩はケーキが出るらしいぞ」
「ケーキ?」
「ま、と言っても乾パンにクリームと苺が一粒乗ってるだけらしいけどな。それと……半刻後には作戦開始だ。準備しとけよ」
「わかってる」
基本的に少年暗殺者たちに作戦の全容が伝えられることはない。理由は二つある。
彼らの任務はあくまで暗殺であり、戦闘ではないからだ。ターゲットを殺せばそれでいい。そう教育され、作戦前に彼らに与えられる情報はターゲットの顔写真だけ。
もう一つは、彼らが万一捕虜として拷問されたとき、漏れる情報を最小限にとどめるためだ。兵士たちは愛国心あふれる者ばかりで捕まれば奥歯に仕込んだ毒で自害するか、敵もろとも自爆するかの二択であり、決して情報を吐こうとはしない。
しかし子供ではそうもいかない。彼らの中には親元から無理やり引き剥がされて連れてこられた者もいるからだ。自分が生き残るためなら、祖国を売ることすら厭わない。それが愛する家族を死に至らしめるとも知らず。そういう、悪気のない生意の塊が子供という生きものだ。
それでもアンジュもアランも、自軍に反抗したり裏切るような素振りを見せることはなかった。それは単に二人が他の子供よりずっと理性的で合理的な性格をしていたからだけではない。
二人ともいつまでだって、そうして生きていくものなのだと思っていたのだ。戦いが終わってほしいわけではなかった。
争いと殺しが彼らの日常であり二人はただ、自分の居場所を守りたいだけのただの幼子だった。
***
「作戦完了。帰還します」
ターゲットの眉間に鉛玉が叩き込まれたことを確認してから、アンジュは息をついた。時刻は既に夕暮れ時。今回も今回とて作戦の概要を伝えられずに出動させられたアンジュとアランの二人は現在別行動をとっていた。アンジュが無線機に向かって話しかけると、ノイズがかった隊長の声が聞こえてくる。
『よくやった。そのまま四時の方向へ向かえ。第三部隊と合流しろ』
「了解」
アンジュは敵兵から身を隠しながら素早く移動していく。その手にはハンドガンが絶えず握られていた。
やがて小さな交差点だったであろう開けた場所に出た。つい先程まで銃撃戦の舞台となっていただけあって、見渡す限り敵味方関係なく死体がごろごろと転がっている。
横断歩道の白線はその上に埋め尽くされた死体の血液によって隠されていた。かつて光を灯していた信号機はポール部分がぐにゃりと曲がり、赤や黄、緑のランプがあるはずの先端には逃亡兵の死体が見せしめのように吊るされている。
周りを軽く見回し、敵影がないのを確認したアンジュは瓦礫の山々を防弾壁代わりにしつつ、小走りで交差点を抜けていく。
その時、
どん、と何かが体にぶつかった。重い衝撃だ。そのままアンジュは地面に倒される。アンジュは反射的に刺されたのかと思った。しかし痛みはやってこない。その代わりというように、視界に入ったのは
「ア、ラン……?」
「あん、じゅ……だい、じょうぶか?」
苦しそうに顔を歪めながらも、懸命に笑顔をつくろうとするアランだった。
アラン? なんでアランがここに? なんでそんな顔をしている?
事態が飲み込めず混乱するアンジュは視界の端にきらりと光るものを見た。
スコープの輝きだ。三階建ての廃墟。割れたガラス窓の奥に狙撃手。
アンジュは全てを理解すると同時にアランの腕から抜け出し、散乱していた味方の物か敵の物かもわからない武器を一つ拾い上げた。大丈夫だ、扱える。銃口を素早く狙撃手に向け、弾を撃ち出した。銃弾は狙撃手の頭に命中し、沈黙した。
その一連の動作はおおよそ三秒にも満たない間で終了した。そういった殺人の流れに慣れている者だけが行える動作だった。
アンジュは狙撃手が斃れるのを見届けない内に、アランに駆け寄った。その顔は血の気がなく、全身から力が抜けたようにぐったりと倒れ伏している。
「だめじゃ、ねぇか。こんな……開けた、ばしょで、むぼうびに、飛び出したり、するなんて」
「なんで……」
「はは、なんて、顔、してんだよ」
アランは眉を下げてアンジュを見た。その目は叱られても懲りない子供を見るときのものにも、愛おしい誰かの頭を撫でるときのものにも見えた。
「あぁ、ケー、キ、食いたかった、な」
争いが終わろうが終わるまいが、アンジュにはどうだってよかった。
祖国に帰ったところで待っているのは孤独だけだ。そのまま路傍で野垂れ死ぬのが関の山だろう。だったら戦場にいたほうがいい。ここにいれば少なくとも食事と睡眠は確保される。
一番肝心な命の保証はなかったが、この世界に命が約束された場所などない、とアンジュは信じていた。
二十年前も、百年前も、千年前もそうだったはずだ。ただ平凡に穏やかに暮らしていただけの人々の生活が突如として理不尽に奪われた。どれだけ善い行いをしていたところで、不幸は無差別に降りかかる。
人を殺すことにももう心は動かなかった。
殺して、殺して、殺して。
人が、仲間が死んでいくのも、もう見慣れてしまった。それなのに。
「おまえ、は……俺が、きらい、だろ。でも、お、れは、ずっと、おまえが……好き、だった」
アランが語るのも無視して──正確には聞こえないふりをして──アンジュはアランを乱雑に背負い上げた。アランの方が身長も体重もアンジュを上回っているはずだが、アランの体はいつもより妙に軽く、アンジュでも背負うことができた。人一人分の重みが加わったことで震える足を無理やり動かして指示された場所へ向かう。一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと。
今からでも適切な応急処置を施せば命は助かるかもしれない。その後のことは、その後考えればいい。もしかしたらアランは戦えない体になってしまうかもしれない。そうしたら部隊は役立たずのアランを「処分」するだろう。そうなったら自分が、アランを逃がせばいい。銃も、血も、死も関係のない場所へ。
そんなアンジュの無意識下の思考を遮るように、アランは喘鳴の混じった声で語り続ける。
「お前は、だい、じな、ひとだ。死なせ、たくない、ひとだ。い、いきて、しあわせに、なって、ほしい」
「やめろ、言うな」
「いき、てくれ、あんじゅ」
その言葉を聞いた瞬間、アンジュの中の何かが切れた。
「お前が生きろ!! 他でもないお前が生きろよ!!」
どうしてそんな残酷なことを言えるのだ。アランが死ねばアンジュは本当に独りなのに。
アンジュはずっと前から死にたかった。アンジュと相反するようにアランは昔から明るい未来の話を語っていた。幻想でしかない、夢物語を。アランには祖国で待つ家族がいた。生きたがっていた。だからアンジュは何も言わなかった。それがどれだけ叶うはずのない話だとしても、アンジュにはその未来が上手く想像できなかったからだ。
「私はもう嫌だ!死にたいんだよもう!生きたいなら私の命をあげるから!」
望む者に望む物が与えられたらそれはどれだけ幸福なことだろう。アンジュは死を望み、アランは生を望んでいた。それなのに今は双方望む正反対のものが訪れている。
生を望むものには死を、死を望む者には生を。
アランからの返事はなかった。もう喋る気力もないのかもしれない。だがかろうじて生きている。肩口からかすかに聞こえる吐息が、薄らと見える気霜が、それを証明していた。
アランの血液がアンジュの服に染み込み、手を伝い、足を伝って流れ落ちてゆく。その赤に温かさはない。外気に晒され冷え切った体から、冷たい液体が更に体温を奪っていく。とっくに手も足も感覚がなくなっている。切れているのか露出した肌が痛む。酸素が上手く吸えない。
痛い。寒い。苦しい。痛い。
やがて、雪が降り始めた。埃のようにふわふわと舞って二人に積もってゆく。
「さむい、な、あん、じゅ。さむく、ないか?」
「……寒い。手も痛い。お前は重いし、でかいから、運びづらい」
「だろう、な」
「……アランなんか、嫌いだ」
「知っ、てるよ」
「…………………………うそだよ……そんなっ、こと、思ってない……」
「私、だってっ、好きだ……好きなんだっ、アラン……」
「……知って、る」
「嘘、つけ……」
「うそ、じゃない、さ。ちゃん、と、わかって、るよ」
「ちゃ、ん、と……わ、か……て……」
「……ア、ラン……」
***
その後、アンジュは無事味方部隊と合流した。隊長はアンジュに合流が遅れた理由を問い糾そうとしたがアンジュが背負っていたもの、その意味を理解して口を閉ざした。そしてその場に居合わせた部隊の者達を呼び、静かに黙祷を捧げた。
隊長はアランの遺体をアンジュから受け取り、「お前は拠点に戻って休んでいるといい」と言った。半ば放心状態のアンジュを他の隊員が引き摺るようにして連れ帰った。
顔や手にこびりついた血や泥を簡単に拭われ、自室のベッドに放り込まれたアンジュは終始されるがままになっていたが、ようやく心此処にあらずな様子から戻ってきた。
アンジュはベッドの上でぼんやりと虚空を眺めていた。頭の中にただの言葉の断片が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。
(アラン、お前はどんな未来を夢見ていたんだ?)
ふと髪を触るとほどけかかっていたリボンが手にかかった。そのままリボンをお守りのように握りしめ、アンジュは眠りについた。涙は、出なかった。
その翌日、アンジュは消息を絶った。
本来ならば敵前逃亡と見なされ、残虐な拷問をされた後、敵前に死体を吊るし上げて野ざらしにされるほどのことをされても文句は言えない行為だった。しかし隊長はアンジュのことに関しての一切を黙認した。一連の件に他隊員から不服の言葉が出てもおかしくなかったが、誰も何も言わなかった。
次第に隊員たちは暗黙の了解のようにアンジュのことも、そしてアランのことも、口にすることはなくなった。そうして二人は忘れ去られていった。
アンジュはどこへ行ったのか。なぜ逃げたのか。そもそも生きているのか。それとも死んでいるのか。
知っている者は誰もいない。
───Fin.
二人ぼっちのクリスマス 孤月 @manatsunokanngaruu
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