一時的シングルファーザーの生活

えりぞ

一時的シングルファーザーの生活

 「お腹の子に問題がある」と聞くまえに、予感めいたものなんてなかった。マジでなにひとつなかった。でも、電話越しに声を聞く前に、悪い知らせだとわかった。電話越しの妻の息遣いが、泣いているときのそれだったからだ。「お腹の子が小さいって、小さすぎるって」涙声でそこまで言って、妻は泣き声を上げた。


 その日は初夏の土曜日で、月に一度、いつもの定期健診。産休に入った妻は1人で産婦人科に行き、僕と4歳の娘は庭で遊んでいた。

バス停から帰ってくる妻を娘と庭で迎えた。妻は僕をみて、こらえきれなくなったようにまた泣き始めた。僕は妻を抱きしめて、「大丈夫だよ」といった。何も知らないのに。


 話を聞くと、胎児の大きさというのは定期健診時に超音波エコーで測っているのだけれど、そもそもずっと小さめではあったのだ。そこまでは二人とも知っていた。この日この時まで、成長曲線に収まっているねということで済んでいた。


 それが、このひと月、胎児は前回からまったくと言って良いほど大きさが変わっていないという。それで二日後に再検査なった。妻の血圧も物凄く高いらしい。200というのがどれくらい危ないのか、調べる気にもならない。妊娠高血圧症。胎児の危機。入院が決まった。


 二日後、仕事を休み妻と娘を保育園に連れて行った。娘は妻に退院するまで会えない。今は2020年、新型コロナウイルスで大きな病院は厳戒態勢だった。立ち合い出産はおろか、面会も一律で禁止されているのだ。


 妻は娘を抱きしめてから保育園の先生に渡した。娘は妻の「しばらくお父さんと二人で頑張ってね」というのがわかっていない。僕だって、明日からいつまた妻と会えるのかわからない。保育園を出るとき、園長先生が職員室から出てきて、妻を抱きしめてくれた。「またね、元気でね」と言ってくれた。泣きそうな気分になる。


 紹介状をもって、大きな病院に行く。真新しい病院で僕らと同年代の女性医師が残念そうな顔をしながらエコーの写真を手に取り説明してくれた。


「赤ちゃんはあきらかに小さいです。なんらかの理由で、赤ちゃんに栄養がうまく行ってなくて、成長が滞っているのですが、それで母体がなんとか栄養が行くように無理して血圧を高めている……これが妊娠高血圧の原因と言われています」しばらく説明をうけてから、「肺の成長を促すために、ステロイド注射が有効というエビデンスがあります」というので、承諾書にサイン。「あとは安静にするだけです」

いわゆるすぐ効く薬とか、治る手術みたいなものは基本的にないらしい。「安静に寝て、少しでも子どもが胎外で生きられるようになるのを待ちます」


「母体にもリスクがあります。週数も26週で、腎機能の低下もあり、HELLP症候群のリスクも高く、その場合は母体死亡の可能性があります」そのまま膨大な「この場合死にます」のリスクについて説明してくれる。目がまわりそうになる。


 「HELLP症候群」というのは、妊娠の後半からお産の後に発症しやすい疾患で、赤血球の破壊(溶血:英語ではHemolysis)、肝臓の機能の悪化(肝逸脱酵素の上昇:英語ではElevated Liver enzymes)、血小板の減少(英語ではLow Platelet)を起こす病態で、頭文字を取って、HELLP症候群というらしいのだが(国立研究開発法人国立成育医療研究センターより)よくわからん。


 しばらく待っていてくれと言われ、手を繋いで待合室のクリーム色の長椅子に座る。ときおり、妻が強く握りしめてくる。

「ベッドの空きがないので、別の大規模病院に転院になります。救急車が来ますので、少しお待ちください」

 2時間後、妻も僕も初めての救急車に乗り、病院から病院へサイレンなしで向かう。

 入院することになる少し古ぼけた大きな病院で手続きを済ませ、病院着やタオルなどを買う。この病院での主治医の先生にまた説明を受け、妻は病室へ去っていった。新型コロナの影響で、病室へのお見舞いはできない。日用品を届けに来ることしかできない。


 ひとりで病院を出るともう夕方になっていて、急いで保育園へ娘を迎えに行く。「ママいつ帰ってくるの?」と聞かれて、「秋までには帰ってくると思うよ。その時は赤ちゃんも一緒だよ」と答えると、娘は声を上げて喜んだ。


 「なんとかしなくてはいけない」そう思った。僕はずっとボンクラとして生きてきた。ボンクラなのは変われないけれど、どうやら自分はこの時のために、生まれてきたのかもしれない。何があるかわからない。でも僕は父親で、娘はここにいて、もう1人もお腹の中だけど、確かにいるのだ。


 フルタイムの勤務で急なシングルファーザーをやるのはしんどかった。ちょっと驚くほどしんどかった。そもそも、急に母親がいなくなった娘は不安定だし。朝6時前に起きて、朝ご飯を用意して子どもを起こし着替えさせて……6時に飛び跳ねるように職場から出て何とか延長保育の時間内に迎えに行き夕飯の用意をしつつ汚れ物の洗濯と……。当時の記憶があんまりない。シングルマザーやファーザーの家庭は死ぬほど大変だったのだ。知らなかった。一人親世帯、もっと支援したほうが良いなと思うようになった。


 そんな日々のなかで僕が作った料理のなかでいちばん娘が喜んだのはポークソテーだ。片栗粉を厚切りの豚肉にまぶし、甘辛いタレをつくりフライパンで焼く……。ハンバーグやカレーも作ったけれど、「ポークソテーがいちばんおいしい」と娘は言ってくれた。いまもときどき作る。


 嵐のような1か月が過ぎて、「もう少し様子を見ましょう」と病院で聞いた翌日、会社の食堂でご飯を食べて席に戻る途中、電話があった。医師から「心音が弱いから、今から手術で出します」僕は走って上司に「今から休みます」と伝えやっぱり走って電車に乗った。電車では間に合わない。新幹線に飛び乗って新横浜まで行った。


 病院に着くと子どもは産まれていた。690g。聞いていたより小さい。信じられないくらい小さい。透明なアクリルケースに入っている子は500mlペットボトルくらいの大きさに、お手玉みたいな頭と小枝みたいな手足が生えている。肌は赤黒くて、「赤ちゃん」って感じじゃなかった。


 看護師さんにうながされ、アクリルケースに手を突っ込むと、温度と湿度が高く保たれているようで、ムワっとした熱気が手に伝わってくる。触れると、一瞬ひるむほどに熱い。小刻みに震えていて、トトトトという心音が伝わる。「生きている」それ以上の感想はなかった。むき出しの命だ。


 意味もわからず、心のどこかを揺さぶられるような気分になる。手を離すと、お手玉くらいの顔についた目が開いて、青っぽい眼で僕の方を見た。おそらくその目はまだ見えていない。でも何かに突き動かされているのか僕を見つめている。僕もまた何かに突き動かされ、背中に触れる。指は爪楊枝のようにか細い。皮膚の色は赤黒い。眼は灰青色だった。

「人の眼はできたとき透明で、だんだん色が濃くなっていくんです。今はまだ青っぽいんですよ」そう看護師さんに言われる。

 

 慎重に手を離し、震える手で写真を撮った。明日は撮れないかもしれない。明後日も、その次の日も……今を逃したら、もう写真を撮れないかもしれないんだ。


時間が来て、看護師さんに挨拶してNICUを出た。妻にはまだ会えない。


 医師にいろいろ説明をうけてから、病院を出る。もう夕方で目の前には夏草がぼうぼうと生えた河川敷が広がる。橋から川を見ていると、携帯電話がブルブル鳴ってビクッと緊張したが、病院からではなくて、大学時代の友達だ。「元気~?」のんきな声が電話から聞こえてくる。たまたまなのだけれど、彼の家は病院から1キロメートルくらいだ。

「おれは元気だよ~でもさ~」そう答えて、仕事終わりの友達とご飯を食べた。今日のこと、妻の入院、昔のこと。娘のこと、焼き魚を食べながら1時間くらい話した。


 タクシーで娘を預かってもらった弟の家に向かった。ご飯もお風呂も歯磨きも終えたパジャマの娘は眠そうで、おんぶで家まで帰る。「お母さんと赤ちゃんはいつ帰ってくるの?」と背中の娘に聞かれ、「秋には帰ってくるよ」すべてが順調な場合の話をすると娘は「やったー!」と背中の上で飛び跳ねるように喜んだ。


 本当のところ、NICU(新生児集中治療管理室)の保育器に入った690グラムの次女がいつ帰ってこられるのかわからない。容態は急変するのかも知れない。肺はいまだ未熟で、自力で呼吸はできない。口からミルクは飲めないから、胃まで細い管がのびている。体温も自分では調整できないから、保育器に入っている。もし帰ってこられても、酸素ボンベが必要かも。気管の切開が必要かも。先天的に脳に損傷がある可能性もある。


 でも今はNICUで小さく心臓が動いていて、僕らは彼女を迎える準備をする。


 振り返ると背中の娘の向こうに月が出ている。娘が気持ちよさそうに何かのアニメの主題歌を鼻歌で歌い、僕はやけくそ気味で下手くそに合わせて歌う。「秋には帰ってくる」「大丈夫だよ」その場しのぎの嘘じゃなくなればいい。ぜんぶ本当になればいい。妻が帰って、次女も帰ってきて、長女と僕の4人でくらせたらいい。それだけでいい。他にはなんにもいらない。月と星と街路灯が、娘を背負った僕らの影をおおきく前に伸ばす。その虚像に向かって歩いている。家に向かって伸びる影に向かって。

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