祖母がいた日

祐里

その日、祖母の支店は休みになった

 父方の祖母は三人姉妹の末っ子で、少々気が弱くて優しい性格だった。

 私の父は長男で、家業の呉服屋を継いでいた。祖父母と同居していたこともある。けれども嫁姑よめしゅうとめ問題はないに等しく、母は祖母に好かれていて、しょっちゅう「嫁に来てくれてよかった」と言われていた。また、母も祖母を慕っていた。


 私が小学生になってすぐ、祖父母が家を離れた。同居が解消されたのだ。祖父も祖母もかわいがってくれていたため、寂しく思った。「同じ市内だから、いつでも会えるよ」と言われていたが、私は、「いつでも」は嘘だと感じていた。毎朝、祖父が保育園に行く前にぎゅっと抱きしめてくれていたのに。祖母は、保育園から帰り、教わったばかりのひらがなを書くと褒めてくれていたのに。そんな日々がなくなるのだと思うと悲しかった。


 初めての学校の創立記念日、平日なのに登校の必要がない私は暇を持て余していた。三歳年下の妹は保育園に連れられていってしまった。呉服屋は日曜日休みで、平日は店を開けなければいけない。父も母も仕事なのだ。そんなとき、父が祖母を連れてきた。祖母が受け持っていた呉服屋の支店へ車で送っていくつもりだったところ、本店であるうちで何か確認しないといけないことができたらしい。

 私は大喜びで祖母を出迎えた。徒歩五分ほどのところに住む同い年の従姉妹に電話し、一緒に遊ぼうと言った。従姉妹も喜んですぐに来てくれ、「じゃあ少しだけ」と、祖母は私たち二人を公園に連れていってくれた。


 公園で何をして遊んだかは忘れたが、おそらく砂場で建物っぽい何かを作って祖母に見せていたのだと思う。もしくは、鉄棒で前回りできるようになったよ、などと。

 日曜日でもないのに祖母や従姉妹と一緒に遊べるだなんて、最高だと思った。祖母の言葉どおり「少しだけ」で帰宅したのだが、そのあとも私たち子供ははしゃいでいた。従姉妹も一緒になって「ねえ、ずっといて」「お願い、一緒にいて。ねっ?」と何度も何度も頼んだ。きゃあきゃあ言いながら祖母のバッグを隠したりもした。祖母は「仕方ないねぇ」と笑って言った。父と母は「たまにはいいかもね」と言って許してくれた。そうして、祖母の支店は一日だけ休業になった。

 その日、公園から帰った祖母は、居間の緑色のカーペットの上、エアコンの真下に正座していた。別居する前によく座っていた場所だ。「おばあちゃんが戻ってきてくれた」と浮かれた、子供だった私にとっては、理想の一日だった。


 その後、私は大きくなるにつれ習い事や通院で忙しくなり、平日に誰かと遊ぶということがあまりできなくなった。大好きな祖父母の家には、日曜日にバスで行くことが多かった。小学生の私にとって、バスはとても緊張する乗り物だった。様々な目的地を掲げるバスの中で、正しい路線のものを選ばないといけない。乗ったら乗ったで、目的のバス停の手前でチャイムを押さないといけない。当時は両替機がなかったため、小銭を用意しておかないといけない。片道五十円だから、百円玉しかなければ機械から出てくるお釣りを忘れないように受け取らないといけない。また、妹と一緒に行くときには機嫌が悪くならないよう気を遣わないといけなかった。早く大人になり、父のように車を運転して行きたいと考えていた。


 ある年の春、祖母が亡くなった。私は十六歳、妹は十三歳で、春休み中だった。確か風邪からくる肺炎が原因だったと思う。

 少し肌寒い真夜中、私と妹は居間の緑色のカーペットの上に出されていたコタツに足を入れていた。コタツのスイッチはOFFだった。「おばあちゃん危ないかも」と言われていて、眠れない夜をテレビも付けずに過ごしていた。家の電話が鳴り、私が出ると、母の声で「おばあちゃん、亡くなったよ」と言われた。電話を切って妹に伝え、「……うん」と返答がきたのを覚えている。


 通夜と葬式は呉服屋の店舗で行われた。棺に入れられた祖母の顔は青白く、その肌のつるりとした質感が、もう亡くなったということを見る人に強く感じさせていた。

 葬式で母は号泣し、母と祖母の間に確かにあった信頼関係を窺い見ることができた。だが私は泣かなかった。式の間だけでも姿勢良くしっかり式にのぞむことが、私の成長を喜んでくれていた祖母に対する恩だと考えていたのだ。まだ車の免許を取ることもできない年齢だったのに。


 葬儀場で焼かれた祖母の体が残したものは、白く細い骨だけだった。妹と目で合図しながら渡し箸を行うと、箸越しに味気なく軽い感触を与えられた。人間の体はこんなに頼りないものなのか、祖母は極楽浄土へ行けてよかったのかもしれないとさえ思った。

 通夜と葬式が終わり、親戚や縁深い人たちが去ったあとの夜、私は部屋の勉強机でうなだれ、こっそり泣いた。白い骨の感触を思い出しながら、少しだけ。


 あれから長い年月が過ぎた。私には子供はいないが、もしいたら、息子であれ娘であれ結婚していてもおかしくない年頃だろう。孫もできていたかもしれない。「一緒に遊ぼう」と言われ、近所の公園に連れていくことになったかもしれない。「ずっといて」と言われ「仕方ないねぇ」と笑ったかもしれない。そんなことを、時々考える。


 祖母が亡くなっても少ししか泣かなかった私を、本人はどう思っただろう。「泣き虫なのにがんばったね」と褒めてくれるだろうか。優しい人だから「冷たい」などとは思わないだろう。私が同じところへ旅立ったらきっと、「仕方ないねぇ」と言って笑ってくれるはずだ。


 祖母が今いる場所は、極楽浄土にあるのかはわからないが、緑色のカーペットの上であってほしい。

 そこでにこにこと微笑み、孫たちを優しく見てくれているといい。

 切に、そう願う。

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祖母がいた日 祐里 @yukie_miumiu

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