骨と暮らす
くれは
透子と悠成
玄関ドアの鍵を締める。チェーンもかける。そのまま玄関に膝をついてしまった。
見上げれば単身者向けの小さな部屋。キッチンは最近使ってない。洗いざらしのマグカップがそのまま置きっぱなしになっている。
その向こうに見える部屋は、わかっていたけど散らかっていた。服が脱ぎ捨ててある。小物類がテーブルや床に散らかっている。
なんとか靴を脱ぎ捨てて、よろよろと部屋に進む。テーブルの傍に座り込むと、朝飲みかけで放置していたゼリー飲料のパックがそのままになっているのが見えた。
(まだ飲めるよね)
重い手を持ち上げて、ゼリー飲料の蓋を開ける。口に加える。ぬるくてどろっとしたものが口に入ってくるのをなんとか飲み込む。
(シャワーも明日で良いや)
どうせ明日は休みだ。バッグを放って、服を脱ぎ捨てて、ベッドの上に置きっぱなしだったトレーナーを着る。
ちらと時計を見ると、そろそろ日付が変わろうという頃だった。
(疲れた……何も考えたくない……)
ベッドに寝転がって目を閉じる。最近はこの瞬間が嫌いだ。
だって、死んでしまった彼のことを思い出してしまうから。
さっき飲み込んだばかりのゼリー飲料の水分を、わたしの体は涙に変換する。枕に顔を押し当てて、寝付くまでの間、ぐずぐずと少し泣いた。
ピンポン、と高い音で目を覚ます。
昨日泣いてしまったせいでまぶたが厚ぼったい。顔もむくんでいるかもしれない。
また、ピンポン、とチャイムの音。それが、我が家のチャイムだと気づいて慌てて飛び起きる。応答する。
『お届け物です』
荷物が届く心当たりがなくて、わたしは少し警戒する。
「誰からですか?」
『
信じられない思いで、その言葉を聞いた。
柴崎悠成──それは二ヶ月前に死んだ彼の名前だったから。
「今……開けます」
ぼんやりと鍵を開け、チェーンを外す。ドアを開けると、大きな箱が玄関に入ってきた。わたしの身長よりも大きい箱だ。玄関がいっぱいになる。
宛先は白石透子──確かにわたし。そして送り主は柴崎悠成。少し膨らむような癖のある、彼の字だった。彼のメモ書きを思い出して指先でなぞる。
「受け取りのサインを」
「あ、はい」
ぼんやりとしたまま受け取ったペンで差し出された受領印の箇所に白石と書く。配達員はさっと行ってしまった。
鍵とチェーンをしめて、玄関を占領している箱を見下ろす。
(何が入ってるんだろう)
ハサミを持ってくるのも億劫で、段ボールに貼られたビニールテープを爪ではがした。ぺりぺりと軽い音を立てて、テープが剥がれてゆく。
段ボールはその大きさの割に軽い。中でがちゃがちゃと軽いものがぶつかるような音がしている。
そうやっている間も、悠成から何か送られてくるような心当たりはちっともなくて、それに死んで二ヶ月経っているのに、だから不安で仕方なかった。
でも、送り状の字は確かに悠成のものだ。それも余計に不安を煽った。
長く貼られたテープがようやく全部めくれた。まだべたべたと手にくっついてくるテープを丸めてぽいと投げれば、キッチンの前に落ちた。
(片付けるのは後で良いや、それより)
今はこの中身だ、と箱を開く。
「……骨?」
思わず声が出てしまった。本物かどうかわからないけど、それは人の骨だった。人間ひとり分の、頭からつま先まで揃った、骨。
(どういうこと……? 悠成の名前を使った、何か嫌がらせとか?)
嫌がらせにしても意味がわからない。だって、骨なのだ。気味は悪いし、そりゃ、こんなに大きいから置く場所にも困るけど、嫌がらせならもっと気持ちの悪いものだってあるだろう。
それに送り状の字。
(やっぱり、何度見ても悠成の字……)
もう一度その「悠成」の部分をなぞると、不意に骨がかたかたと揺れ出した。わたしは床に座り込んだままびくりと後退りしたけど、背中はすぐ壁で箱から対して離れることはできなかった。
逃げられない。恐怖で足が震えた。
がちゃがちゃと骨がぶつかりあう音がする。そして、その骨は箱の中で上半身を起きあがらせた。
骸骨の空虚な眼孔がこちらを向く。喉の奥が強張って、悲鳴も出ない。
かちゃかちゃと歯を鳴らして骸骨は喋った。舌もないのに、どうしてか。
「ああ、会いたかったよ、透子。俺だよ、悠成だよ」
そしてその声は、確かに悠成の声だった。
悠成を名乗る骨は、わたしが怯えているのを見て少しだけうつむいた。
その姿になんだか申し訳ないと思いつつ、それでも恐怖心がなくなるわけでもなかった。
わたしが動かないまま悠成を──というか、動く骨を見ているうちに、かちゃんと両手を合わせた。
「よし、まずはお茶でも飲んで、落ち着いて話そう」
「ま、待って……」
思わず声をかけてしまったが、自分でも何かしたかったわけではない。ただ、わたしの体はまだ不安と恐怖に支配されていて、動けそうになかった。
「透子は落ち着くまでそうしてて。俺がやるから」
悠成の優しい声がそう言った。そして骨はよいしょと立ち上がって、箱から出てくる。
「この段ボールも、後で片付けるからな」
そんなことを言いながら、小さなキッチンの前に立つ。キッチンのどこに何が置かれているかわかっている様子で、手際よくお茶の用意が整えられてゆく。
途中、わたしがさっき放った丸めたテープが足にくっついて、かがんでそれを取っていた。
「部屋も散らかってるな。透子、こうなるんじゃないかって心配してたんだよ」
しゅんしゅんとお湯が沸く音がする。火の気配は部屋の空気を暖める。
「お茶っ葉もちょっと古くなってるか? まあ、大丈夫だろう」
マグカップに入れられる紅茶のティーバッグ。お湯が注がれて、紅茶の良いかおりがふわりと漂ってくる。
悠成を名乗る骨は、遠慮なく冷蔵庫を開けた。
「うわ、空っぽ。透子、最近ろくに食べてないだろ。顔色もひどいし」
そして中から、少しだけ残っていたチョコレートが出てくる。
ぐちゃぐちゃだったテーブルの上を骨の手が片付ける。ものをどかして、捨てるものはゴミ箱へ。
そうしてできたスペースに、チョコレートとマグカップ。
「さ、とりあえず温かいものを飲んで落ち着けよ。どうせ朝も何も食べてないんだろ。少し何か口に入れろって」
骨は悠成の声でそう言って、わたしの前に来ると手を差し出した。骨の手。わたしが困惑のままその手をじっと見ていると、「そうか」と小さく呟いて手を引っ込めた。
わたしは彼を見上げる。骸骨には表情はない。それでもなんとなく、戸惑っているのがわかった。
少なくともこの骨は、悠成の声をしているし、悠成みたいに振る舞うし、怖い存在ではないらしい。
だからわたしは、少しだけ安心した。
「透子のことが心配で、戻ってきたんだ」
骨──悠成はそう言った。
わたしは紅茶を一口含む。渋み。それから落ち着くかおり。飲み込めば、その温かさがお腹の奥に落ちてゆく。それだけで、緊張で強張っていた体から力が抜けるようだった。
用意されたマグカップはひとつだけ。
飲まないのか、と聞けば。「この体で飲んでもこぼすだけだからな」と言われた。隙間だらけの顎と首の骨を見て、確かにと頷いた。
「どうして」
わたしの言葉は何を聞きたいものだったのだろう。
どうして骨なの。どうして戻ってこれたの。どうして戻ってきたの。どうして死んでしまったの。
また泣きそうになって、抱えたマグカップの紅茶の表面に息を吹きかけるそぶりでうつむいた。
「自分でもわからない。でも、俺がいなくなったら透子は絶対めちゃくちゃになるって思って、なんとかして透子を助けなきゃって思ってて……そしたら体をもらえたんだ。骨だったけど」
「変なの」
「それでも、透子のところに戻ってこれて良かったと思ってるよ」
悠成は優しい。その優しさは骨だけになっても変わらないみたいだった。これで意外と大雑把だったりするのだけど、なんだかそんな雰囲気もそのままに見えた。
骨なのに。骨でしかないのに。
「ともかく、俺が死んでから、透子はろくに食べてないだろ。キッチンと冷蔵庫見ればわかるよ。後、これとか」
骨の指先が、ゼリー飲料のパッケージをつまみあげる。昨日の夜に放ったものだ。
「疲れてて」
「仕事、無理してるんだろ」
「忙しいから」
「忙しくしてる方が悲しくないから、だろ」
骨の悠成は持ち上げたゼリー飲料のパッケージをゴミ箱に入れる。わたしの中にあった重たい塊も、なんだか一緒にゴミ箱に入ってしまったようだった。
「俺、骨になっちゃったけどさ、でも透子と一緒にいるからな」
空っぽの眼孔がわたしに向く。そこに瞳はない。あるのは空間だけ。隙間から頭の骨が見える。それでも悠成の声は、真剣なものだった。
まだ少し怖いような気がしたけど、紅茶を一口含めば温かかった。
わたしは頷いた。
「ありがとう」
骨の表情はやっぱりわからない。ただ、頭蓋骨を上下に動かしたから、多分悠成も頷いたんだと思う。
骨の悠成にお使いを頼まれてしまった。
「ほら、この姿だとさすがに買い物は行けないからさ」
そんなふうに頼まれて、メモを渡される。わたしは近所のスーパーに出かけて緑色のかごを持つ。
ねぎとブロッコリー。お豆腐。好きな魚と書かれていたけど、食べたいものが思いつかない。適当に安売りしていた鮭の切り身パックを手にとる。それからねりごま。ねりごまってどこにあるの。
こんなふうに食材を買うのは久し振りのことだった。
そもそもわたしは料理がそんなに好きじゃない。でも悠成は割と料理が好きだった。それでときどき、一緒に買い物に行って、一緒に料理をしたりしていた。
悠成に余裕があってわたしの仕事が忙しいときは、ご飯を作りにきてくれたこともあった。
忙しいと食が疎かになるわたしを怒る、なんだか世話焼きおかんみたいな人だったのだ、悠成は。
思い出すと泣けてくる。わたしはさりげなく目元を拭って、レジに並んだ。
今日は透子は休んでて良いからと骨の悠成に言われて、シャワーを浴びた。なんだかまだどこか現実感がなくて、ふわふわしていたと思う。
髪を乾かして洗面室を出ると、お出汁のいいにおいが漂っていた。それから、お米が炊けるにおいと、魚の脂が焼けるにおいも。炊飯器が動いているの、久し振りに見た。
キッチンの前に立っていた骨が背骨をねじって頭蓋骨をこちらに向ける。
「ちょうど良かった。俺、味見できないからさ、透子ちょっと味見てよ」
骨の手でちょっと持ちにくそうにおたまを握って、反対の手に持った小皿に慎重に一口分を入れる。そして、その小皿をわたしの前に差し出してくる。
言われるまま、わたしは小皿に唇をつける。液体を口に含む。お出汁の味、味噌のかおり。塩気。こくりと喉がなる。
それは、以前の悠成との食事の記憶を思い出す味をしていた。
「美味しい……」
骨の手がわたしの手から小皿を取り上げる。
「良かった。魚もちょうど焼けたところだ。さ、座って」
骨の手がコンロの火を止める。お椀に味噌汁をよそう。お皿に鮭の切り身を盛り付ける。
気づけば、わたしは泣き出していた。
頭蓋骨がこちらを向く。大きな眼孔がわたしを覗き込む。
「どうした?」
「だって……骨なのに。どうして……」
わたしの口からは言葉の切れ端だけが飛び出てゆく。
二ヶ月前までは一緒にいた悠成。結婚もしようって話していた。でも、いなくなった。
目の前の骨が作った味噌汁は、そんな悠成の味噌汁と同じだった。
声も、言葉も、やることも、いちいち全部悠成だった。
「骨なのに、ちゃんと悠成なんだもん。どうして」
わたしの言葉に、骨の悠成は菜箸をキッチンに置いて、それから不器用にわたしの体を抱きしめた。菜箸みたいな指先が、わたしの背中に添えられる。
「だから、俺は悠成だよ。骨だけど。それでもちゃんと悠成だ。透子のところに戻ってきたんだよ」
骨は硬い。温かくもない。だからか、ひどくぎこちない抱擁だった。それでもわたしは彼の鎖骨におでこを当てた。
わたしはそのまま泣いていた。わたしの涙が肋骨を滑り落ちる。空洞の体の中を涙が落ちてゆく。怖くて、その体に手を回すことはためらわれた。
それでも悠成は、辛抱強くわたしを抱きしめ続けた。
炊き立てのご飯。焼いた鮭。ブロッコリーのごまあえ。ねぎと豆腐の味噌汁。
久し振りのちゃんとしたご飯は美味しかった。食べながら、わたしはまた泣いてしまった。
悠成は一緒に食べることはできないけど、わたしの隣で食べる様子を見守っていてくれた。きっと本当に、こんなにぐちゃぐちゃなわたしを心配して、戻ってきてくれたんだと思う。
そのことを噛み締めてご飯を食べた。
悠成は、骨の手でお米を研いでくれた。骨の手でお味噌汁を作ってくれた。骨の手で鮭を焼いて、ブロッコリーを茹でてくれた。それは全部、わたしのためだった。
「ありがとう」
骨だけで器用に頬杖をついていた悠成は、頭蓋骨をちょっと持ち上げた。
頭蓋骨だけだから表情はないのに、それはちゃんと悠成の笑顔だった。
「どういたしまして。透子がちゃんと食べてるの見て、俺も安心したよ」
「うん。久し振りに食べた気がする。ありがとう」
食事が、体の中でエネルギーになって渦巻いている気がした。ああ、わたしは生きているんだって思った。
そしてご飯を食べることができない悠成は、きっと、やっぱりもう死んでいるんだな、と思った。
夜には、一緒に寝てもらった。わたしのベッドは狭いけど、二人並んで眠れないこともない。
悠成の体は本当に骨で、一緒に寝ているうちにばらばらになってしまうんじゃないかって少し怖かったけど、悠成はなんてことないかのようにわたしを抱えて布団に入ってくれた。
「おやすみ」
悠成の穏やかな声が耳に心地良い。
「うん、おやすみ」
やっぱり骨は硬い。鎖骨におでこをつける。温かくもない。腕の骨だって、生前の腕に比べたらずいぶんと華奢に見えてしまう。生前は肌のにおいだってあったのに、今はそんなものもない。
それでも、悠成に抱きしめられている安心感があった。
わたしは骨に包まれて目を閉じる。かちゃりと悠成がみじろぎする音がする。それもなんだか、穏やかな気持ちになれた。
「透子、好きだよ。本当に好きなんだ」
「わかってる。だから戻ってきてくれたんだね。ありがとう。わたしも好きだよ」
布団の中で、囁き合う。
このままふたりで暮らしていけたら良いのに。ふたりで幸せになれたら良いのに。
わたしは骨をばらばらにしないように、慎重に、彼の肋骨をそっと握った。
明け方に眼が覚める。泣かずに眠ったのは久し振りな気がした。
まぶたを持ち上げると、目の前に頭蓋骨があった。一瞬びくりとしたけど、それが悠成だと思い出して、体の力を抜く。
そして、急に不安になった。
骨が動いて悠成の声で喋ったなんて、嘘だったんじゃないだろうか。わたしはやっぱり孤独のままなんじゃないだろうか。
骨はみじろぎもしない。ベッドの中で布団にくるまって横たわっている。その静かな様子はわたしの不安をもっと大きくした。
「悠成、悠成……」
怖くなって、悠成の腕──その骨にそっと触れる。骨の硬さと冷たさが指先に跳ね返る。
「寝てるの? ねえ、悠成……」
骨はぴくりとも動かない。少しだけ腕を揺さぶると、がちゃりと音がして、腕の骨が肋骨の上を滑り落ちた。
それは、意思のない物体の動きだった。
「せっかく、戻ってきたんでしょ。ねえ、ずっと一緒にいられるんじゃなかったの」
わたしは泣く。悠成はもう動かない。ただの骨だった。
涙が骨を濡らす。骨の上を水滴が滑り落ちる。動かない、物体でしかない、骨だった。
悠成はもう動かなかった。
それでもわたしは、悠成だった骨を手放すことはできなかった。ベッドに綺麗に寝かしつけて、いつも隣に寝ている。
ご飯はちゃんとしたものを食べるようになった。悠成が作ってくれたように。きっと悠成はそのために戻ってきてくれたのだから。
「ただいま、悠成。今日もちゃんとご飯を食べたよ。だから安心してね」
ベッドに横たわっている骨に、わたしは今日も声をかける。口の端に口付ける。悠成はやっぱり動き出さない。
でもいつか、また応えてくれるかもしれない。動き出してくれるかもしれない。
だからわたしは、生きていられるのだ。
骨と暮らす くれは @kurehaa
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