第4話 魂のエクスタシス

 今でもはっきりと記憶しています。生まれて初めて手に入れたゲイ雑誌は、表紙がスケートボードに乗ってジャンプしている青年のリアルなイラストでした。彫りの深い男らしい顔の男はまだあどけなく、日に焼けた健康的な肢体をピッタリとした半袖Tシャツに包み、盛り上がった胸筋の上に乳首の影を、足の付け根のギリギリまで露出した短いジョギングパンツを履いた股間にはうっすらと男のシンボルの形を誇示していました。自分もこんな格好をして、男に欲情されたい。そう思いました。


 今はプロのモデルも少なくないですが、当時のグラビアページでヌードを披露していた男のほとんどが素人でした。誌面でモデル募集の告知もされていましたし、また登場したページにモデル君インタビューのような文章が添えてあり、勇気を出して撮影してもらってよかった!などの感想も綴られていました。私がときめいたのは大体において、毛深い熊のような体型の男が、縄で緊縛されている構図の写真です。当時のヌードグラビアは決まったスタイルがあり、美青年系のモデルは室内でヨーロッパ調の演出が多かったように思います。透ける薄い布を股間に纏わせたり、花を持ったり、鏡の中の自分にキスしていたり。

 また大学の体育会系部活動にいるようなスポーツマンタイプの青年は、ケツ割れサポーターと呼ばれる運動用下着やビキニ型の水着を穿いた姿や、野球や陸上のユニフォームなどを脱ぎかけた姿でした。そして日本男児的なモデルの場合は、ハードな緊縛や野外での撮影が似合っていました。短髪で男臭い兄貴が白い褌姿で海に立っているショットでは、薄い木綿の布が濡れて、男性器の形がありありと透けて見えました。私が最も覚えているのは、夏草の男というタイトルの数枚の写真です。真っ白の六尺褌の前袋をパンパンに盛り上げた、体格の良い若いモデルが真夏の夜に草むらで縛られて転がされているというシチュエーションでした。モデルの横たわっている地面も周囲に蔓延はびこっている青々とした草の葉も、もちろん苦しげな顔をカメラに向けているモデルの肉体も、蒸し暑い夜露にぐっしょりと濡れて、男の汗と一体に匂い立つ色香を放っています。粗い木綿晒もめんざらしの白い生地が地面に擦られて出来た土汚れ、捻った部分に付着している芝草の小さい葉、興奮に硬くなった乳首の横を這う蝸牛かたつむり、濡れた胸毛の波の上に粘液の虹色。何時間もそこに放置され凌辱りょうじょくされているかのような写真に、勃起が収まりません。脂汗あぶらあせで光る肌の上に宿る水滴の妖しさ、両手首を縛られ頭上に高く掲げているため、ずぶ濡れの腋毛の淫乱さも際立っています。あの頃は目に出来るポルノも限られていたので、雑誌の小さな写真にも、身体が泡立つようなカタルシスがあったように思います。


 そんな時代に私と黒岩さんの関係は、男性同士、既婚者との不倫、SMというという3つの「普通じゃない」を内包していました。どれか一つでさえ、他人に知られてはならないことであるのに、3つの秘密を抱えて逢瀬を重ねている。私はその「とても他人には言えない、異常なことをしている」という状況に、すでに甘い陶酔があったと思っています。畏れを抱くほどの背徳の行為に歓心するのは、やはり社会の中で窮屈さを感じて暮らしていたからでしょうかね。


 2回目に会って、バーからホテルに向かう途中の線路脇の桜並木を二人で歩いている時、黒岩さんがこう聞きました。「これからも逢いますか?」彼のひんやりとした眼差しを覗こうとした時、その後ろから電車が近づいて来て、フラッシュライトのような閃光と降り注ぐ満開の桜の花弁の中で、私は我慢できずに彼のコートの胸に顔を埋めました。この男は私の嫌がることは絶対にしないで、私のしてほしいことだけを与えてくれる。この男に骨まで愛されたい。この男のちんぽが欲しい。大きく息を吸い黒岩さんの香りを体内に感じただけでもう痛いほど充血して、私は思わず腰を離そうと後退あとずさりました。踏切の警報器、電車の通過音、早鐘のような拍子、舞い立つ花びら、白黒の映画がコマ落としで走っていくような光を背にして、男の唇が夢中で私を求めて声が奪われる。強く押しつけあった股間の熱い放埒ほうらつさ。鼻腔から胸を支配するように満ちた黒岩さんの香りはプール・ムッシュゥでした。


 黒岩さんのいない時間、私の夜は大きな喪失感・肉体の寂しさとの戦いでした。荒々しい縄の戒めや、蝋燭の洗礼、そして真珠の挿入などをありありと思い出し、記憶の中で忠実に再現し、訪れる快楽に恋焦がれるのです。抱かれたい、痛みを与えられたい、ただただその切ない願いに翻弄されながら、おりが沈殿するのを耐えるだけの日々。黒岩さんは決して次の出張の約束をしなかったので、私はいつ会えるのかを知らされることもなく、呼び出しを待つしかありません。暴れ出しそうな劣情れつじょうをひたすら自縛することが、与えられた修練なのです。鬱積うっせきした情欲を紛らすために、暇さえあればスポーツジムでトレーニングに打ち込んだため、私のカラダは着実に筋肉質に変わっていきました。その禁欲的な成果でかたどらられた肉体が、淫蕩いんとうな行為により映えることを黒岩さんは褒めてくれました。いやらしいカラダだ。腕も尻も脚も淫欲が滲み出ている。と。


 私から黒岩さんへ連絡を取る術はなく、彼がこの街に来るときは、初めて会った「オルフェ」の店主が私に「黒岩さんが来てらっしゃいますよ」と電話をくれていました。その頃の電話は自宅にしかなく、外出時には留守番電話を設定するのが一般的でした。そう、まだ携帯電話はなかったので、電話がかかってきそうな日は部屋から一歩も離れられないのです。呼び出し音に促されて受話器を耳に当てると、期待に鼓動がドクドク打ちはじめ、「オルフェです」と聞くだけで喜悦きえつし、あっという間に粘液が滲み出るほどです。恋しい男を待つ心持ちは、蜜蜂の飛来を待つ花のようでした。


 私はそれまで男との性行為に対して肉体的快感をそれほど覚えたことがなかったので、手淫しゅいんが最も気持ち良いと思っていました。ところが黒岩さんとのSMの営みは、セックスとも違って、指一本触れられることがなくても射精できるほど苛烈な愉楽があったのです。厳しく命じられ、耐える時間の痺れるような快感、命令に従うこと自体が持つ性的な歓喜、男が私の欲情の昂まりに呼応している様子を知って、より迫り上がってくる欣幸きんこうの波動、湯が沸くかのような鮮烈さ。前後左右、過去現在、仕事や生活、そのようなもの何もかもが失われても構わない感じの中、感覚が空中に担ぎ上げられて行き、痙攣にも似た痛みとも気持ち良さともつかない何かが、膨張したペニスから放たれる時の快感ときたら!あまりの鮮烈な感情の発露はつろに驚き、ひょっとしたら宗教はこれに近いのではと思ったことすらありました。大袈裟に思うかもしれませんが、私にとって裸の黒岩さんは唯一信じられる存在であったことも確かです。もしこれが宗教であれば、私の全ては神のお与えになる法悦ほうえつに貫かれて、生涯の信仰を誓えたでしょう。信仰は迷える者の救いで、エクスタシスは魂の勃起ですから。


 私たちは決めたわけでもないのにお互いの生活のことを聞くことも、教え合うこともせず、家族や出身地の話をすることもありませんでした。行った場所や好きな音楽、食べ物などが時折会話の端に出てくるのを聞く程度で、正直私は黒岩さんの本名も、住所も知らなかったのです。知りたくなかったわけではありません。知ろうとすると彼を失うような気がしていたのと、知ったところで何かが変わるとも思えなかったからです。誰より知っていたのは、彼の逞しい体躯のカタチ、旺盛な体毛の茂っている場所、男性器の大きさ・形・色、密生した毛に覆われた両尻の肉を両手でかき分けた先、一段と濃い叢の谷間に蕾のようにかろうじて覗く肉色の窪みのすぐ横にある青いホクロ、そして唾液。長い時間をかけてお互いの唾液を交換する接吻は、仄かな蜜柑の味でした。


 ある時、黒岩さんが1枚の紙片を下さったことがありました。手のひら大の楕円形の台紙に、仏像とその上を舞う2羽の鳥が描かれたもので、篆刻てんこくの印も押されています。裏面には毛筆で薬師寺とあり、これは?と聞くと、散華さんげと言って蓮の花弁を模ったもので、法要で配布される木版画と教えてくださいました。薬師寺は奈良にあるそうで、出張に行った時にタイミングよく散華を入手することができた。「きみに渡したくて」とおっしゃるのです。私は黒岩さんのそういう紳士的で、風情のあるところにも心酔していたと思います。おそらく全国の取引先を担当し定期的に訪問しているはずで、他の都市にも私と同じような存在の相手がいても不思議はなかったのに、そんな想像も気にならなかったのは、二人でいる時間に心底満たされていたからでしょう。


 散華はほのかに白檀びゃくだんのような高貴な芳香をまとっていました。ベッドの脇に置かれたその香気は、夜の淫行の儀式に法悦感をもたらしました。描かれた仏が見守る中、欲情する愛しい男の濃密な唇で吸われ、夥しい精液を噴き上げたのです。いつまでも続く余震の如く、断続的な飛沫が私と黒岩さんの胸の間をゆっくり流れ落ちました。

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