第3話 天鵞絨の椅子のある部屋

 午前2時くらいだったでしょう。部屋は落ち着いたインテリアの広いダブルルームで、きちんと整頓されていました。ベッドの上に黒いアタッシュケースが2つ載っています。テレビドラマなどでは「表に出せない現金」を運ぶ際に使われる鍵のかかるタイプで、それに目をやったのを察した黒岩さんが「現金とか入っていませんよ」とその一つを開けてみせると、中には小さい箱や小袋がぎっしり入っていました。何ですか?と聞くと、ケースから取り出して見せてくださったのは宝石でした。黒岩さんは指輪やネックレスなどに使われる宝石を取り扱う仕事をしており、この都市にも取引先があるため、数ヶ月に1回の頻度で出張に来るのだと言いました。興味ありますか?と聞かれ、宝石を見る機会もないので「珍しくて」と答えると、手のひらの上に赤い石を乗せてくださいました。ルビーです。男の優しい声が美しい宝石の名を呼ぶことに叙情を感じて、私はルビーと口に出して音を重ねました。紅玉、コランダムとも呼ばれ、ラテン語の赤を意味するルビウスが語源と、諭すように語る男の唇に欲情して、私はその赤い石を握りしめたまま黒岩さんにキスをしました。石言葉は、燃えるような熱情と言いかけて私を見る黒岩さんの目は、しっとりと哀愁が潤んで例えようがないほど官能的です。男であれ女であれ、相手が自分を欲していて、自分もまた相手を欲している時は、本能がそれを即座に察知するのですね。私たちは大きな水の流れを引き留めていたせきが切れたように、唇を貪り合いました。長い長い口づけをしながら、黒岩さんはまず私の着ているものを剥がし、ご自分のスーツをもどかしく脱いでいきました。待ち切れない遊びに足がもつれる子供のように、唇が離れないままに角度を変えながら、お互いの肌が強く擦れる至福を与え合ったのです。「さっき飲ませた錠剤って何ですか?」と聞くと、黒岩さんは「性感を高める媚薬です」と言いながら私の耳を甘噛みしました。


 甘美な思い出というのは、その時より時が経ってからの方がより美しく味わうことができます。年代物のワインのように、おそらく私の記憶が高画質化されているかもですが、まぁ聞いてください。


 縛りますよ。そう言って黒岩さんは床に置いていたボストンバッグから取り出した縄で、滞りなく私を束縛しました。縄は使い込まれて柔らかく、すんなりと私の肉に食い込みます。微かなシュシュという縄の摩擦の音と、自分自身の心臓の拍動だけが響きます。まるで高位聖職者こういせいしょくしゃ厳粛げんしゅくな儀式において、迷いのない手順で決められている動作を成し遂げるかのように、彼が黙々と縄目を形作っていきます。程なく美しく整然と拘束された私は、柔らかい臙脂色の天鵞絨ビロードの椅子に固定されました。正面の大きな姿見の中で、私の裸体は黒い縄で亀甲きっこうに絡め取られ、両胸の盛り上がった乳首にもおもりの付いた責め具が装着されました。陰茎ペニスの根本もまた黒い細紐で緊縛されているため、そのいましめの途中ですでに張り詰めてしまい、脈動が大きいことでさらに羞恥心を煽られます。腕は頭の後ろで動かせず、口が猿轡さるぐつわを噛んでいることも被虐心ひぎゃくしんにとっては甘美な麻酔薬なのです。もう我慢できせんか?と黒岩さんが聞きました。私の外尿道口からはすでにとめどない透明なカウパー腺液が流れ出て、陰茎から陰嚢いんのうの双玉までを恥ずかしいほど濡らしていたのです。それまでに経験したことのない、説明のつかない感覚が打ち寄せて来ます。触って欲しい、少し触ってくれたら射精するから、というような懇願に似た淫欲の裏に、触らないでもっと苛めてほしい という期待がある感じでした。そして黒岩さんはしばらく私を眺めた後、アタッシュケースから小さな巾着状の布袋を取り出して、私の前に座りました。


 手のひらには乳色の真珠が10粒ほど。これは3ミリ玉です。そう言って一粒が男の指先で私の外尿道口へ押し込まれると、ひんやりとした滑らかな異物感が敏感な鈴口に潜り込む代わりに、驚くほどの粘液がぬっぷりと押し出されて来ました。思わずあぁと声が漏れます。真珠は躊躇ためらうことなく順繰りにゆっくりと挿入されていき、私はそのまどやかな在処ありかを尿管で次々に享受きょうじゅすることで、驚くほどの量の淫らなよだれを溢れさせてしまいました。


 産毛の一つひとつが触覚器官にでもなっているかのように、黒岩さんの指が触れると腰の奥の方が甘く痺れ出して、長時間の正座で痺れた脚を無理やり触られた時のように、どうにも我慢できず身をよじり、やめてくださいと声を漏らします。苦悶のような快感のような暖かくぬるぬるとした柔らかい生き物が体内で這い回って、その蠕動ぜんどうのさざ波に支配されていると言うのに、思考の真ん中は冴え冴えと尖って、これからの行為を先導できる気さえしました。

「すごい才能だね」黒岩さんがそう言いました。


 その日から黒岩さんが次の出張都市へ移動するまでの3日間。私たちは夜を共に過ごしました。翌日は緊縛した上にスーツを着用させられ、滞在しているホテルのフレンチレストランに連れて行かれました。市内でもよく知られた名店の一つでしたから、知り合いに会うかもしれないという不安もあるというのに、向かい合ったテーブルでワインや料理が運ばれて来るわずかな隙に、黒岩さんは表情ひとつ変えずに、「ネクタイを緩めてシャツの胸を少し開けてごらん」などと命令します。私はその状況に敏感に反応してしまい、スラックスの股間が痛いほどなのに、直腸に仕込まれたバイブレーターが動き出し、耐えきれず嗚咽おえつを漏らすのです。黒岩さんは素っ気なく「どうしましたか」などと食事を続け、さらに私の痴態ちたいを引き出そうとします。わずかに肌けたシャツの胸元をフォークで示して、縄が見えるところまで開けなさい、と囁き、私が戸惑っているとバイブの強さを上げたりしました。料理を運んで来るスタッフに見せるギリギリを要求することで、私のジレンマが最大になることを楽しんでいるようでした。


 また別の日にはクラシックのコンサートに連れて行かれ、演奏の間中、乳首に取り付けられたクリップが擦られる刺激に耐え続けなければなりませんでした。もちろんホテルの部屋で二人きりになるとさらに冷徹になり、どんなことをして欲しいか言ってごらん ちゃんとはっきり言わないと聞こえないよ、などの虐めも加わります。私は上擦る声で躊躇いつつも「・・・・・らせてく、ださい・・・」と返事をすると、聞こえないよ。もっと大きな声で言わないと、と拒まれ、そのやり取りはお互いが昂まり合うための食前酒のようでした。

 出会ってすぐの時から、私は次々に訪れる恥辱ちじょく淫蕩いんとうの歓びで、腰がふらつき立っていられないほどの悦楽に囚われました。それこそが、幼い頃から心の底の方で待ち焦がれていたことだったのです。


 その3日間は、私の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。気持ちいいという形容では到底足りない、あまりにも大きい快楽の向こうに、後ろめたく暗い闇があって、そこに人生をかけてでも押さえ込まなければならないような怪物がいることを感じたからです。自分自身のことなのに、自分では制御できないほどのくらい力。社会的な常識を遵守じゅんしゅする気持ちが人並みよりある方だと思っていただけに、こんな常軌を逸した行為に溺れて、この先どうなるんだろうか、と言う畏怖いふがあったのだと思います。


 今と違って、あの頃の男性同性愛者はそれを社会の中で隠さねばならない存在でした。もちろん一部の芸能人・有名人で男が好きな男を公表している人はいましたが、その多くが、女性っぽい男性であり、女装をする男であり、オカマやシスターボーイ、ニューハーフと呼ばれていました。そして一般的にそうした人が、男性同性愛ホモセクシャルとの理解だったのですから、見た目にはそうとは分からないごく普通の成人男性として社会で生きている男でありながら、恋愛や性行為の対象が男である、という人間は多くの場合、それをひたすらに隠して生きるのが当然だったのです。私も結婚適齢期になった頃から父親や親類に「早く結婚して、子供と持つことが一人前の男」と繰り返し言われていましたし、「いつまでも男が独身でいると、障害があると思われて世間体が悪い」という人もいました。またその頃は男が好きだけど、女と結婚して子供がいる男も少なくありませんでした。黒岩さんも既婚者でした。


 あの頃、男性同性愛ホモセクシャルは病気・異常な性癖であり治療すれば直せる、などと思っている人がほとんどでしたから、私も自分が性的にも男を好きなことに気付いた中学生以降、その思いが周囲と違い、普通じゃないことに本気で悩んだ時期がありました。もっと幼い頃は近所のお兄さんが大好きで、会えば腰に抱きついて甘えていた記憶がありますが、何の疑いもなく出来た行為も、思春期になり同級生の身体に身を寄せたりしていると、気持ち悪いなどと言われ始めます。友達は当時の女性アイドルの水着姿などに興奮し、オナニーしたと笑って話していましたが、私はテレビに映る男性アイドルの裸や濃い脇毛などに胸騒ぎのような興奮を覚えていたのです。でも面白いのは、そんな悩みの中、書店で偶然見つけた書籍が全く新しい世界を教えてくれたことです。「親や兄弟にも言えないこの悩みは何だろう」的なタイトルで、同性愛者の苦悩を集めたノンフィクション本でした。


 その本を通じてたどり着いたゲイ雑誌の編集部に切手を送り、生まれて初めて手に入れた誌面には男の裸のグラビア写真があり、男同士のポルノ小説があり、また日本各地のスポット情報や、ゲイだから感じる疑問などの対談など。同性愛者が偽らない自分の人生を楽しむための情報や投稿が満載でした。今だとちょっと調べれば世界中のゲイスポット情報が苦労もなく手に入りますが、当時はそうした雑誌だけが地方在住者の情報源でした。私はその誌面を通じて、日本中に自分と同じような人間がたくさんいて、窮屈な思いもしながら、エロティックな出来事に遭遇したり、失敗したりしている事実に勇気づけられ、また同時に、自分の性的な嗜好について、より明確に自覚することとなったのです。

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