薔薇色の空
高麗楼*鶏林書笈
第1話
空が薔薇色に染まる。
「急がねば、日が暮れてしまう」
彼は、車を引きながら同行する従者を促す。
歩みを速めた彼らは、ほどなく荒れ果てた寺院にたどり着いた。
「今宵はここで休んで明日の朝、作業に入ろう」
門を潜って中に入ると彼は従者を下がらせ、本堂に向かった。従者は車を入口近くに止めて主人が入った部屋の近くの小部屋に入って行った。
一人になった彼は外を眺めた。薔薇色の空は薄暗くなっていた。
「あの時と同じだ」
彼の脳裏に数年前の光景が浮かんだ―
当時、彼は地方官としてこの地に滞在していた。風光明媚で人心もよいこの地に赴任出来たことを彼は喜んだ。それは同行して来た妻も同様だった。
当時の朝廷は、政事は二の次で派閥争いにのみに明け暮れていた。こうした状況に苦言を呈する人もいたが、改善する兆しはなく、心ある人々は朝廷を去った。
彼自身も出仕することが苦痛になり、地方官に志願したのだった。
任地の暮らしは快適だった。官衙の仕事はそれほど多忙ではなく、吏員や下働きの者たちも協力的なため、日々順調に過ごすことが出来た。
勤務外の時間は、読書や詩文を作ったり、時には妻と共に散策に出かけたりもした。
都にいた時には想像出来ない穏やかな日々が続いた。
彼はもちろんのこと、妻もこの地が気に入り、任期が終わってもこの地に留まり暮らすことを望んだ。
こうした日常は、突然、崩壊した。
倭兵が侵入したのである。
太守である彼は、人々を避難させ、敵の長との折衝を行ったり、被害がこれ以上広がらないよう奔走した。そして、都への報告、支援を要請した。
幸い、倭の兵団はすぐにこの地を去っていった。
彼はようやく妻の安否を訊ねることが出来るようになった。
彼は人々に、山へ逃げるように言ったので、妻も恐らく山に逃れたことだろう。
彼は山に入って行った。途中、敵兵に殺られたと思しき死体、何とか逃げ延びて疲れ切った表情で里に戻る人々に出会った。自身はこの先、彼らのためにいったい何が出来るだろうか、あれこれ思いを巡らした。
道を奥へと進んで行くうち、前方に寺院が見えた。
「あそこに避難したのだろう」
彼は速足になった。
建物に近付いた時、地面に伏す女人が目に入った。
「まさか‥」
悪い予感がした。大急ぎで女人のもと行き、抱き上げた。
予感は的中した。妻だった。抵抗して敵兵に斬られたのだろうか、彼女は既に息絶えていた。
「ああ、何てことだ」
今は嘆き悲しんでいる場合ではない。彼は妻を寺院内に背負って行き、片隅に仮埋葬した。現状では連れ帰って葬ることは出来ないためである。
「近いうちに迎えに来るから、それまでここで待っていてくれ」
こう呟くと、彼はその場を離れた。
日は既に傾き、空を紅く染めていた。その色に見覚えがあった。官舎の裏庭に植えられていた花の色だ。妻はその花を気に入っていて、よく愛でていた。
官衙に戻った彼は、官員たちと今後について話し合った。
都からは全く音沙汰がなかった。そのため、太守の彼が全てを判断せねばならなかった。
官員の一人が、村々で自衛団を作ることを提案したので、彼はそれを受け入れた。その他、避難場所の確保等々、様々な提案がなされ、彼は自身の責任のもとそれらを実行に移した。
幸い、以後、彼の任地には倭兵が来ることなく、村々に被害はなかった。
場所によっては、激しい戦闘があり、中には朝廷から救援兵が来ず、現地の人々が義兵団を作って対応したこともあったそうだ。
後日知ったことだが、今回の倭兵の侵入も、朝廷での派閥争いが影響したそうである。
事前に倭国に通信使を派遣して、様子を探ったのにも関わらず、派閥の対立が災いして適切な対応が出来なかった結果だった。
結局、実際に被害を受けるのは民である。彼は腹立たしく思ったが、どうしようもなかった。
倭乱は八年近く続いた。その被害は大変なものだった。
今も朝廷内は相変わらず派閥争いが続いている。
翌日、彼は従者と共に妻の遺体を掘り起こした。
遺体に被せた布を取ると、別れた時のままの妻の姿が現われた。
無念を抱いてまま世を去った妻の胸中を思うと涙が止めどもなく流れるのだった。
従者と共に用意した棺に妻を納め、彼は寺院を後にした。
彼は妻の棺に寄り添って歩いた。
暫くすると、彼がかつて地方官として暮らした官衙のある村に着いた。
官を辞した彼は、ここに土地を得て家を構えた。妻の墓もこの地に用意した。
妻を埋葬した後、彼は生涯この地で暮らし、出仕することは二度となかった。
庭に植えた薔薇色の花を見るたびに彼は妻のことを思い出した。そして、その花の背景に薔薇色の夕焼けを見るたびに困難だった頃のことを回顧するのだった。
薔薇色の空 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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