白い薬、赤い血

祐里

ぐるぐるぐる

 瀬山せやま涼子りょうこが離婚したときに持ってきたものは、少しの衣類、小さな折り畳みテーブル、座布団、小型電気ストーブ、そして結婚前に買ったカシミヤの薔薇色のストールだけだった。

 古いアパートのワンルームで洗濯機を動かす。ぐるぐると回り、しばらくすると逆方向へ回る淡い乳白色の水流。吸い込まれてしまいたいと、涼子は思った。

 しばらく眺めていた洗濯機から視線を剥がし、狭いキッチンの冷蔵庫を開ける。昨日作っておいた塩焼きそばを電子レンジで温めてラップを外し、折り畳みテーブルの上に乗せると、白い湯気が立ち上った。


 涼子は三十代前半の乾いた女だ。その自覚が彼女を、より内向的な性格にしている。

 しかし今月に入って職場で人気のある男性から声をかけられることが多くなった。涼子には特に彼を避けたり拒否したりする理由がないため受け入れざるを得ないが、その男性の言動には戸惑っていた。そろそろ忙しい月末期に突入すると思うと気が重くなる、でもその分あの人から話しかけられることも少なくなるだろうと喜ぶ程度には。


「涼子さん、おはよう。今日も車で?」

「おはようございます、田辺たなべさん。今日も車です」

「うち、公共交通機関じゃないと交通費出ないんじゃ?」

「……いえ、上には話を通してあるので」

「へぇ、そうなんだ。じゃあさ、今度飲み会の帰りに送ってくださいよ」

 田辺は飄々と図々しいことを涼子に言う。

「飲み会、ですか。私はいつも参加しませんよ」

「何で? そんなにきれいなのにもったいない。早く次の男見つけましょうよ」

 涼子は自分がきれい、美人などと言われることに嫌気が差している。それが離婚の最たる原因だったからだ。

「もったいなくなんてないです」

 故意に冷たく言い放ち、自分の席にバッグを置くと、静かにため息をついた。


 金曜の夜、一時間半の残業を終わらせて涼子がほっとしているところへ、田辺が「飲みに行きません?」と話しかけてきた。

「私は行かないので、みなさんでどうぞ」

「そんなこと言わないでさ、行きましょうよ。俺、涼子さんと一緒に飲みたいな」

「……すみません、帰らないといけないので……」

「えっ、いいんですか!? やった! みんな、涼子さん来てくれるって!」

 大声で言われ、訂正する間もなく「へぇ、珍しい」「瀬山さんいると花が咲くな」などの周囲の声に反抗することもできず、結局居酒屋に連れていかれることになってしまった。涼子の心の中は『帰りたい』で占められているというのに、そんなことはお構いなしでどんどん物事が進んでいく。


 居酒屋でなるべく入口に近いほうの席に座り、仕方なく烏龍茶を注文する。ほとんど口を付けないでいると「お酒も飲もうよ」と言われる。そうして必ず――

「ね、独身なんでしょ? うちの会社にいい人いないの?」

 やはり来た、と涼子は身構えた。どうしてこうもみんな色恋に持っていこうとするのか、不思議でならない。隣に座ったのは噂話が好きな女性だ。涼子は自分の運を呪った。

「い、いないです……」

「何でー? そんなにきれいなのに」

 苛立つ心を抑え平静を保とうとするが、アクセサリーなど何も付けていない、地味な服装の体が小刻みに震えてくる。

「そんなことは……」

「そんなことない、って? そーゆーの嫌味だから」

 褒めているのか嘲笑っているのかわからない言葉に、涼子は震える手で烏龍茶のグラスを持った。一口飲むが、味はわからない。

「……でも、前より痩せてしまって……」

「えー、そうなんだー。痩せたなんてうらやましいなー」

 涼子は思い出していた。離婚前、夫の浮気が発覚し、食欲が失せてどんどん痩せてしまったときのことを。静かなキッチン、帰らない夫を待つ自分、洗い桶に溜めた水、薬指からするりと抜けて透明な水中にどんどん沈んでいく指輪。「そんなに痩せたいなら、つらい思いをすればいいのに」という言葉が喉まで出かかった。


 飲み会からは、隙を見てテーブルに参加費を置き、すぐに退散した。涼子にとって「きれいなのに」は褒め言葉ではない。なぜなら、夫だった人物は涼子の美貌に不安を感じ、ありもしない浮気を疑うことがあったからだ。挙げ句「どうせおまえにも男がいるんだろう」と、自分の浮気を正当化する材料として使われた。

 涼子は家に帰り、疲れた体を叱りながら風呂などを済ませた。それから朝食に使うベーコンを切っておこうと包丁を取り出したときに、うっかり左手の人差し指の腹を切ってしまった。

「いたっ……、オロナインで平気かな」

 指紋の見える指にぷっくりと膨れた血をティッシュに吸わせ、瓶の蓋を開けて白い軟膏を指ですくい取る。すると、直接左手の人差し指で触ったため、赤い血が白い軟膏の上にべったりと付いてしまった。

 涼子はそれをしばらく眺めていた。白い薬、赤い血。コントラストがきれいだと思った。傷口からは少しずつ血が染み出している。

 ぐるぐるぐる、とかき混ぜてみる。瓶底に少し残っているだけの柔らかい軟膏が、血で染まっていく。ぐるぐるぐる。指の痛みは気にならない。薬のきつい匂いが漂うが、気にならない。かき混ぜるたびに赤が溶け、白い軟膏は薔薇色に近くなっていった。


「田辺さん、ちょっとお話があるんですけど」

「わ、涼子さんから話しかけてくれるの珍しいね。なになに?」

「私、飲み会みたいなところ苦手なんです。すみません」

「……あ、うん」

「もう誘わないでください」

 きっぱりと言うと、田辺は少々体を引いて「はい」と言ったきり押し黙った。

「それだけです。では仕事に戻ります」

 涼子は田辺の返答を聞かず、踵を返す。そうして、薔薇色のストールを土曜日に洗っておいてよかった、月曜日に持ってくることができたとほくそ笑んだ。肩に温かなストールを掛け、左手の絆創膏をちらりと見て、「苺の季節だし、たまには高級チョコレートでも買おうかな」と思いながら向かう自分の席は、いつもより少しだけ明るく見えた。

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白い薬、赤い血 祐里 @yukie_miumiu

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