沈浮《ちんぷ》

才能パンチ

沈浮《ちんぷ》

 ーー僕の意識は沈んでいく。それはまるで、海に沈むような感覚であった。


「山石くん、君さぁ内向的すぎるよ。何考えてるかわからん。もっと自己主張してくれないと困るんだよね。」

「あぁー、営業部の山石さん? ないない。実績そこそこで、ブサイクでもないけど、何考えてるかわかんないもん。付き合うのしんどそう。」

「君、なんでこの仕事してるの? 別にこの仕事じゃないといけない理由はないでしょ?」


 周りの評価ノイズに振り回され、自分なりの自己主張をしていった。

「この部分は、こうした方が効率がいいと思います。」

「僕の将来設計ですか?貯金をして、素敵な奥さんと温かい家庭を築いていけたらと思ってます。」

「この仕事を選んだ理由は、残業が少なくて、単純作業ではないという点が大きかったです。」

うん? これが、僕?


 評価ノイズの海で存在しようとするために、僕は必死で自己主張ていこうした。どこかで聞いたセリフを、あたかも自分の意思であるかのように振る舞った。

 その結果、僕は『僕ではない何か』になった。自分を押し殺し、相手の心地よさを優先していく。評価は、相手が自分対して下す「境界線にんしき」である。それこそが、自分を存在させるものだと信じていた。境界線にんしきを失ってしまっては、僕は心臓が動いていても、存在していないのと同じだ。


 ーー海の中は、あまり明かりがささない。僕には何か頼るものがあるわけでもなく、ただ流され続ける。


「同期の古畑くん、昇進したらしいぞ。お前も頑張らないとな。」

「ごめん、山石くんと結婚するビジョンが浮かばなくなっちゃった。別れてほしいの。」

「ちゃんと説明してくれないと困るよ。こっちは、何も知らない素人なんだから。」


 評価ノイズは治まるどころか、激しさを増していく。次第に自己主張ていこうする力を失っていく。

「そうですね。」

「わかった。」

「申し訳ございません。」

 定型分を口から出すことに、なんの感情も湧かなくなってしまった。社会人になりたての頃であれば、もう少し話し合うこともあったと思う。

 そんな状態になって、もうどれくらい経っただろう。半年?一年?よくわからない。ただ毎日繰り返していく。興味も愛着もない、無味無臭の毎日を。


ーー流れに身を任せ、僕は海を漂う。痛みも温度も感じない。ふと気づくと、水底まで沈んでいたようだ。


 久々に掃除をしてみる。気分転換と、年末の大掃除を兼ねて、普段しないことをしてみた。リビングやシンク、洗面台に風呂場などの生活圏は基本的にキレイにしている。手付かずになりがちの、押し入れから掃除を始める。押し入れに色々なものを詰めていたことを、初めて認識した。PCやゲーム機の空箱、果てはいつのものかわからないペットボトルもあった。

 元カノと暮らしていた時の小物も出てきた。黙って捨てるのも忍びない気がして、どうしたらいいかだけ聞いてみる。いつか帰ってくるかもしれないし、帰ってこないなら捨てればいいだけなのだから。


ーー背中に何かが当たる。それは、トランクケースで鍵もかかっていなかった。中身が気になり、開けてみる。


 掃除を進めていくと、実家から持ってきたダンボールがあった。懐かしさに駆られ、引っ張り出す。中には、小中高の卒業アルバムと文集が入っていた。

「懐かしいなぁ。持ってきてたんだっけか?」

予想外のものに、独り言が溢れる。手始めに、小学校の文集を手に取り読み始める。

 小学校の時の僕は、警察官になりたかったらしい。理由は、「正義は必ず勝つから」出そうだ。戦隊ヒーローの影響を強く受けていたのだろう。

 中学校は、学校の先生らしい。「公務員で安定していること」「毎日が楽しそうだから」の二点がなりたい理由らしい。実際は、楽しいよりも辛苦の方が来るだろうに。

 高校生の時になりたかったものは、文集も見なくても覚えている。俳優になりたかったのだ。「なりたいもの」というのが、どうしても絞りきれていなかった。僕は、無い知恵を必死に絞って考えた。そこで出てきた解決案は、「俳優としてなりたい職業の役柄を演じる」であった。我ながら馬鹿げているし、今でもどうかしていたと思う。でも本気でそう考え、専門学校の受験もした。結果は、最終選考には残れないが、入学金の免除や授業料の一部免除ありの特待生待遇だった。そこで初めて両親に相談し、一人暮らしを始めたわけだ。

 まぁ、現実というのは厳しく、そんな中途半端な理由で耐えられるような簡単なことでもなかったため、俳優の道は早々に諦めた。


ーー小さな箱の中には「僕が本当にしたいことは何?」そう書かれた紙が、一枚だけ入っていた。


 休憩がてら、少し考えてみることにした。僕の将来の夢は、なぜこんなにもブレブレで、最終的に決まらなかったのか。「将来の夢は何を基準で選んだのか?」ここがはっきりすれば、自ずと答えは出てくるのだろう。例えば教員を目指す人は、良い意味で子供が好きであったり、成長を見守ることが好きなんだと思う。医師を志す人は、不治の病を減らしたい人かもしれないし、病で失われていくものを減らしたいのだと思う。他の職業も、そうなるために相応の努力が必要で、それを支えるだけのりゆうがあるのだろう。


ーー向きを変えて、水面を見つめる。明かりがささないと思っていたこの海は、実はしっかり明るいことに気づく。同時に、今まで感じていた暗さは、自分の影だったのだと理解する。


 思考は加熱していく。将来の夢とは、大概が「労働」である。そして「労働」するために自分を研鑽したり、資格を取ったりする。何故だ?

 生きていくためのお金を稼ぐために労働をする。それなら、辛い艱難辛苦に立ち向かい、わざわざ心をすり減らしていく必要は無い。生きていくだけのお金なら、ちゃんと稼いでいけるはずなのだから。

 おそらく、これは答えではない。現実というやつで、個人が努力する理由には当てはまらない。では何故、なんのために労働するのだろう?


ーー僕はもがき続けていた。何も感じなくなっていた感覚は、自身の境界線を自覚し、水を掻くようになっていった。徐々に水面に近づいている気がする。


 加熱した思考が止まる。「なんのための労働なのか?」ここを考えたことはなかった。理由があれば、労働は苦しいものでは無くなると思っていたからだ。だからこそ「何故」に対する回答を求めていた。

 何のためかといえば、自分のためであろう。いや、労働は自分のためだけでは成り立たない。他人のために労働するから、対価を得られる。対価を得るために労働をするわけなのだから、それは他人のためにするわけだ。なら答えは「他人」のため。

 それゆえに着いてまわるのが、評価というやつなのだろう。人が周りの目を気にするのは、その評価が大切だから。それの良し悪しで対価が変動するのだから当たり前だ。

 では、「評価のために労働をするのか?」それは違う。労働した結果が評価なのであり、評価のために労働するというのであれば、他人のために労働するということと同義である。


ーーもがく僕に、海は潮の流れで後押ししてくれたように感じる。水面に手が届きそう。そんな気がしてきた。


 他人のための労働、そう考えると何故の答えも出てきた気がする。人によって様々だろうが、僕は「恩返し」なんだと思う。僕の周りには、認識しているだけでも大勢の人がいる。会社の同じチームの人、通勤ですれ違う大勢の人、テレビやネットで見かける人々。この人たちが僕の人生にどう影響しているかは知らない。通勤途中、隣に座ってくる人の一人がいなくなったところで、何が変わるというのだろう。いや、きっと変わるのだろう。他人のために労働しているのなら、巡り巡って自分に帰ってくる。


ーーやっとの思いで水面に出て、呼吸をする。いつぶりなんだろう、空気とはこんなにおいしかったのか。僕の意識は、海から放たれた。


 今やっている仕事に、後悔したことはなかった。だが、無味無臭の日々は心を沈めていく。そう感じていた。

 実際は違った。僕が勝手に無味無臭にし、心を沈めていっただけなんだ。評価にフォーカスを当てて過ごす日々が僕を圧殺し、何も感じなくなっていったのだ。本当にフォーカスしないといけなかったのは自分で、どう表現していくかだった。

 それに気づいてから暫く、僕は後悔に駆られた。溜まっていたかのように涙も溢れてきた。間違っていたとしても、やり直しができるわけはない。今からでも間に合うだろうか?それは自分次第なのだろう。


ーー潮風と波に運ばれて、僕の元にビンが流れ着いた。


 掃除も終え、風呂に入る。それから、簡単な食事を摂って布団に入る。スマホに明日のアラームを設定する。ふとメールを見ると、新しいメッセージがある。休みの日にメッセージが来るのはいつぶりだろう? 

 元カノからだった。自分で送ったことを忘れてしまっていた。

「久しぶり。お元気にしてましたか? 私は、まぁ、元気です。どんなものを置いていたか覚えてないので、今度の休みの日に見にいってもいいですか? 無理なら捨ててもらって構わないです。」

僕は、すぐに返事を送った。

「返信ありがとうございます。僕自身は問題ないので、仕事終わりに時間を合わせてきていただいても大丈夫です。ご都合はいかがでしょうか?」


 次にいつ会えるのかわからない。ただ、もし次があるのなら、今度は自分の言葉で向かい合いたいと思う。全てのことに、自分の言葉いしで伝えていきたい。

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