「「たいむいずおんまいさいど」」

清泪(せいな)

全部、煙に巻かれて消えていくみたいだった

「時間だ──」


 午前二時──私は決まってこの時間、彼に会うため部屋を訪れる。

 静寂なる家の中、豆電球の仄かなオレンジの明かりを頼りに住人の居なくなったその部屋のドアノブを掴み恐る恐る開けると、真っ暗な部屋の中で彼はこちらを不思議そうな目で見つめながら立っていた。

 彼の視線を『不思議そう』と捉えるのは、私の甘えかもしれない。

 せめてもの、という願望でしかない。

 正しくは、怪訝な目で私を見ている。

 理由は何となく理解している、何となくだけれど。

 彼は、私を忘れてしまっているのだ。

 私の事を、私との思い出を、忘れてしまっているのだ。

 そして、彼自身の事も。

 そのせいか、彼は私を怪訝な目で見た後、真っ暗な部屋を不思議そうに見渡した。

 それがこの数日、この部屋に会いにきた際に彼がとる行動だ。

 最初にこの時間に彼に会えた時は、そんなことは無かった。

 いつものように優しく微笑んでくれた彼に、私は涙を堪えることが出来なかった。

 上手く言葉を紡ぐことが出来ずに、彼との時間は終わりを迎えた。

 十五分足らずの僅かな時間だけが許されているのだと、次の日にも彼と再び会えて理解した。

 十五分足らずの僅かな再会はそれから毎日繰り返されて、そして彼は少しずつ──失っていった。

 私の事、私との思い出、彼自身の事。

 お前は誰だ、声に出さずとも訴える視線。

 刃物のように鋭いそれに痛みは覚えるものの、私はそれでも嬉しかったのだ。

 彼に再び会える、この僅かな時間が。



「時間だ──」


 眩暈のような感覚から目覚めると、俺は真っ暗な部屋の中にいた。

 ここ最近、いつもこの時間に起きてしまう。

 いや、一瞬の胸の苦しみに起こされてしまう。

 呼吸を整えて身体を起こすと少し間を置いて部屋のドアが開かれる。

 オレンジの明かりが真っ暗な部屋の中に僅かに差し込み、開かれたドアの先で見知らぬ女が俺を見つめている。

 また……出やがった。

 廊下から差し込むオレンジの明かりは女の姿をはっきりとは映さない。

 というか、そもそもはっきりとした存在じゃないのだろうと俺は思ってる。

 眩暈だとか胸の苦しみだとか、仕事の疲れから来たものにしちゃあ毎日繰り返し過ぎだ。

 つまり、原因はこの女、いや、この幽霊のせいだ。

 なぜ憑かれたのかはわからない。

 この女に見覚えはない──いや、ぼんやりしているせいで判断できないが──もしかすると、この建物自体がいわく付きなのかもしれない。

 契約した時の不動産との会話なんて覚えちゃいないが、何か怪しいところがあったようにも思えてきてる。

 実は部屋の壁に御札でも貼ってるんじゃないかと思うのだけど、真っ暗な部屋の中で見渡してみても見つかるわけがなかった。

 ただ、幽霊の女はドアを開けた後は部屋の入口に立ち尽くしたまま俺の事をじっと見つめてくるだけだった。

 恨み節だとか、呪いの言葉とか、意味深な何かを叫び出したり囁き出したりはしない。

 それが尚更、誰だお前? に拍車をかけるのだけれど。

 何も訴えず、ただ俺をじっと見つめてくる。

 ぼやけて輪郭すらはっきりとしない幽霊の表情が、微笑みなのか怒りなのか諦めなのか、俺には判断できなかった。

 だから、名前を問うことも出来ずにこの時間が過ぎるのを待っている。

 幽霊の女は十数分もすれば居なくなる。

 スイッチを切ったように、差し込むオレンジの明かりと共に、部屋から消え去っていく。

 無言のまま互いの様子を探るように見つめあい、別れの時間が訪れるのを待っている。

 それがここ最近繰り返されている出来事だ。

 幽霊に憑かれるなんて勘弁してほしいが、多少の体調不良以外に困ったことは起きていない。

 そう考えると、こうして繰り返される僅かな時間の再会と別れに、安堵もあり淋しさもある。

 油断すると涙が流れてしまいそうなのは、解放の嬉しさなのか、離別の哀しみなのか、はたまた女が会いたがった誰かの代理なのか。

 馬鹿な話だと自嘲しそうになって、幽霊の前で笑うのは不味いかと誤魔化すために俺は呟いた。

 真っ暗な部屋から遠ざかっていくオレンジの明かりを見つめながら。


「──時間だ」



 彼が亡くなったのは、午前二時頃、らしい。

 不整脈による突然の死。

 きっと夜中に起き上がって苦しんでいたのだろうけれど、私はそんな事に気づきもせず、朝になっても部屋から出てこない彼を訪ねて……。

 結婚してから五年、順風満帆でも波乱万丈でもない、ただごく普通に夫婦として幸せに生きてきた。

 ある日突然、というのは本当に突然、何の前ぶれもなくやってきた。

 直近で体調の不調を告げられていなかったし、数ヶ月前の健康診断は良好だったとは教えてもらっていた。

 それでも、ある日突然、は訪れた。

 訪れて、彼を私から奪っていった。

 彼が亡くなった現実を私は簡単に受け入れることは出来なかった。

 当たり前だ、訳が分からなすぎだ、とにかく突然過ぎる、理不尽だ。

 涙は止まらない、喪失感が身体中を駆け巡って吐き気も治まらなかった。

 それでも、彼の為に、彼を思う人達の為に、別れの場を設ける必要があった。

 葬式、告別式が行われ親族友人同僚、彼と関係があった人達が別れを口にするのだけど、私にはそれが加工されたように聞き取れなかった。


 私は、自分が壊れたのだと思った。

 彼を失って、それを受け止められなくて、何処か他人事のように客観的にそれを見てる気がして、そんな自分はおかしくなって壊れたのだと思った。

 壊れてもう戻らないのだと、それだけは理解していた。

 だから、最初に彼の部屋で彼の姿をまた見つけた時は、喜びとは違う引き攣った笑みを浮かべた。

 午前二時、もし私が何か異変に気づいていたなら、虫の知らせなんてものに気づけていたなら、彼を助けることが出来たかもしれないという縋る気持ちで開いた彼の部屋。

 幽霊なのか、幻覚なのか、本当のところは私はわからないのだけど、現れた彼はいつもの優しい微笑みを浮かべ、私の後悔を否定してくれた。

 都合のいい話だと思う、けど、彼が死んでしまったという事実より現実味がある気がしてしまった。

 真夜中の部屋に現れた彼は、時間が来ると消えてしまう。

 それは幻覚からの目覚めでも眠りからの目覚めでもなく、ただ彼が苦しんだ最期の時間が経過したからだ。

 午前二時、不整脈の痛みに襲われた彼は、十五分の苦しみの果てに静かに息を引き取った。

 それを教えてくれる、再会の時間。

 そんな残酷なひと時でも、彼と再び会えるならばそれで良かった。

 それが壊れてしまった私のエゴだとしても、それで良かった。

 それで良かったのだけど、別れはまた訪れるのだと、彼の様子から私は理解した。

 毎晩繰り返される再会の中、彼が少しずつ私を忘れていった。

 彼はやがて消え去ってしまうのだと私に受け入れさせるように、少しずつ少しずつ私の事を忘れていった。

 今、目の前にいる彼は私の事も彼自身の事も覚えていない。

 やがて来る別れ、本当の? いや、幻の別れ。

 少しずつ、少しずつ、私はそれを覚悟しながら今日もまた会えたことを噛みしめて、明日もまた会えることを願って、消えていく彼を見つめながら呟く。

 自分に対して言い聞かせるように、この別れは永遠ではなく一晩のことなのだと取り繕うように。


「──時間だ」

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「「たいむいずおんまいさいど」」 清泪(せいな) @seina35

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