白昼夢
久火天十真
白昼夢
夢を見ている。
きっと夢を見ている。
これはきっと夢を見ている。
この景色をきっと僕は夢に見ている。
見慣れた町を歩く。
人々の生活の中で、雑踏を体全体で浴びる。
風の吹く音が強く聞こえる。木々の揺れる音がする。生ぬるい夏風が髪を撫でる。
見慣れた町を歩く。
もうずっと歩いているような気もする。
そこで俺はいつもと同じようにあいつと会う。町はずれの寂れた公園に出向いて、そこにあるベンチに二人で腰かけて、他愛のない話をする。それが俺の、俺らの日課になっていた。
特に待ち合わせをしているわけではない。次の日に会う約束なんてしてもいない。だけれども決まって、出会った日から毎日会っている。
話す内容は、その日の気分で変わる。
「元気かい」
そんな言葉で俺らの会話は始まる。
今日はずっと雨が降っている。
「僕には、ずっと何かやらなきゃいけないことがあった気がするんだ」
そんなことを言った。雨の音だけが頭の中にまで響いてくる。
揺らめいている。
この言葉を聞いたとき、これは夢なんだ、とどこかで思った。
この時間は、俺の見ている夢なんだ、と。
ゆらゆらと陽炎のように揺れている。雨の中で揺れている。
昼に見る夢。
起きているときに見る夢。
確かこういうのを。
白昼夢、と言うんだっけか。
おかしな言葉だ。頭に反響する。雨音と共に反響している。
……白昼夢。
白昼夢、白昼夢、白昼夢……。
夏の暑い日だった。
蝉が鳴いて、アスファルトには陽炎が立つ。太陽の光がまるで下からも当たっているようだった。なんだか透き通る心地だった。
こんな茹だる暑さの中、僕は歩いている。そこに何か目的があるわけじゃない。
いやあったかもしれない。
ただ、今はただ、なんとなく歩かなければ、とふと思った。
目的もなく歩くというのは、この暑さとは別でそれなりに楽しい。普段、誰しもが何か目的に追われて歩いている。通学や通勤、買い物、約束だったり。僕も実は何かに追われているのかもしれないが、それは僕には見えない。
とにかく、そういうものから解き放たれた時、世界は少しずつ広くなる。いつもなら目に入らないような、路地裏、空の雲、電線に停まる鳥、空を飛ぶ鳥、木に止まる蝉。耳に入っていても、見えていなかったものが見えるというのは楽しい。
人間、見ようとしないものはどこまでも見えないもので、気が付かなければ、一生巡り合わないことがある。そんな経験が僕にはある。逆に見ようとすれば世界は本当にどこまでも広がって、自由に歩きたいと思える。
人影はだんだんと少なくなってくる。夏とは言っても、まだ夏休みにもなっていない。学生たちもいなければ、この暑さだと、主婦たちも出てこない。
いつしか、気が付くと僕は町はずれの公園にいた。
寂れた公園。草が生えっぱなしになって肩くらいまで伸びていて。ブランコや滑り台は錆が付いて、しばらく誰も使っていなかったような、そんな雰囲気がある。あとは屋根付きのベンチが奥の方にこじんまりとあって。その反対側にもベンチが置いてあって。
そのもう一つのベンチに座る一人の青年を見た。
背中は丸く、哀愁が漂っていた。
なんとなく話しかけてみようと思った。
普段ならこんなことはしない。けれども、話しかけてみようと思った。
ただ、最初に発する言葉に僕は迷った。しばらく彼を見つめながら悩んだのち、僕は
「やあ」
と声を掛ける。彼の前に立った。
その声に彼は驚くように肩を動かし、素早く顔を上げる。その表情は反応そのままに驚いたようなものだった。目を隠すほどに伸びた髪。風にそよぎながらもその目は見えず、無造作になっている。僕は続けて、
「何をしていたんだい」
と尋ねる。
怪しまれているんだろうか。続けて尋ねた言葉にも青年は答えない。ただ蝉の声だけが虚しく僕らの間で響く。普段しないようなことはしない方が良かっただろうか。僕は謝罪とともにその場を去ろうとも思った。ただ、僕はなぜかその場を動くことが出来なかった。その様子の僕を見てか、青年は顔を俯かせた。僕から目をそらしたんだろうか。
「あっ」
その時初めて青年は声を漏らした。
「ごめんなさい」
漏れ出た言葉に続けて、慌てるようにそんな言葉が青年の口から飛び出た。
「いや、こっちこそいきなり声を掛けてしまって」
僕もその言葉に乗っかって謝罪する。そして、座っても良いかい、と尋ねた。青年はそれに小さく頷いた。僕はその横にふわりと座る。
「それで、何をしていたんだい」
僕は再び尋ねた。こんな暑い日に何をするでもなく、ただぼうっとしているもの好きなんて自分くらいなものだと思っていた。
「……空を見てたんだ。なんとなく」
そして、ここ最近は毎日、と彼は続けた。少しだけ砕けた口調で答えた。下を向けていた顔は天を仰ぐ。さらりとした髪が音もなく崩れる。そこでようやく目が見えた。二重の切れ長の目。黒目はどこまでも黒い。そして目の下には隈が出来ていた。
なんだか、彼に僕は不思議な気持ちを抱いていた。放っておけなくなったのか、そんな奉仕の心が自分に合ったことに驚きつつ、僕は空を?と尋ねる。
「……雲が流れていくのを見てて。俺はあの雲の一つになりたいなんて思うんだ」
彼は続ける。
「軽い身体はどんどん進んでいって。俺はだんだん高くなっていく。そんな雲に」
彼は目を細め、空を見ている。
「なんとなく、わかる気がするよ」
僕は言う。
でも、わかるだけで、僕はそうはなりたくないと思った。
僕はつられて天を仰ぐ。
青い空には入道雲が綺麗に浮いている。ゆっくりとゆっくりとだけれども、確かな速さをもって流れている。確かにここから離れていく。
「雲の影が流れて往く」
そんなことを彼が呟いた。
彼の気持ちは僕には分からない。けれども、彼の言った「雲」がただ流れているあの雲のことだけを言っているのではないことは僕にも分かった。
何か言葉に詰まった。自分が何を言いたいのかも、わからなくなって。
雲の影が彼の身体を通り過ぎていく。剝き出しになった日の光が照らしだす。彼の影が深く伸びていった。
暑い夏の日だった。
夏の空は綺麗だ。
僕は雲について思い出していた。
改めて見ると、夏の雲は、雲の形は他の季節よりその存在を強く、強く感じさせる。
入道雲が浮かんでいる。雲は煙なんだと思わせる、軽さと重さを兼ね備えているように見える。
入道雲という言葉はなんだか綺麗だ。
積乱雲ともいうけれども、僕は入道雲という言葉の方が好きだ。
この言葉の由来は、雲の形が入道、お坊さんの頭に似ているかららしい。僕にはそう見えたことはないけれど、きっと、昔の雲には人が宿っていたんだ。いや、もしかしたら見えないだけで、今も宿っているのかもしれない。流れているのか、歩いているのか。
夏の空は綺麗だ。
どこまでも青く広がっている。
雲海という言葉があるけれど、この空こそが海で、雲はその波なんじゃないかと思った。大きな海で、うねり、盛り上がり、流れ、消えていく。人間と何が違うんだろう、なんてことを思った。
青い空に白い雲。月並みに言い古された組み合わせだけれども、やっぱりそれだけ美しいということで。ずっと見ていると、その輪郭が少しぼやけて、青い空は少しずつ城に滲んでいく気がして。それは夢見心地のようで。これだけ言って来たけど、僕は雲が嫌いだ。願うことなら雲にはなりたくない。そう思うほどに。
あれらには意思があるように見えるだけで、ただの道化に過ぎない、風に流されるにすぎない。
自由なんてものじゃない。
そうして、視界を地上に戻せば、彼の姿が目に入った。街角を歩く彼の姿が目に入る。きっと今日も、彼はあの公園に行くんだろう。僕はその後を着いて歩いていくことにした。
最近何だか、僕の足は軽い。この暑さの中でも、だんだんと暑くない気がしてきて、彼を追う足もつらくはなかった。
蝉の声が絶えず鳴いている。
昔はこの声なんて全然気にならなくて、大きくなるにつれて、忙しい日々を生きる中、この声はどんどん騒がしさと不快感を煽る象徴になっていた。でも今では何だか、夏の風物詩だと、大事なものだと思うようになって。
自分が少しずつ変わっていくのを感じる。
そんなことを思っていると、いつの間にか公園に着いていた。
彼はまたベンチに座って、ぼおっと空を眺めている。
僕はいつもと同じように彼の元へ行き、今日は何も言わずに隣に座る。
そんな僕を見て、彼は少し驚きつつも、再び空に目を向ける。
「元気かい」
夏風がそよぐ。木々の揺れる音は何とも心地がいい。風鈴のようにこの音にも体を冷やす効果があるんじゃないかと思えてくる。
僕らの間には深い沈黙が流れた。蝉の声もいつしか聞こえなくなっていたように思う。そしていつしか雲の影が流れてきて、僕らの上を傘の様に覆う。日の光は雲間に零れる。
「昨日、雲になる夢を見たんだ」
彼から言葉を始めた。静かにゆっくりと声に出す。話し出す彼の顔はどこか晴れるような、それでいて何か失望するような、そんな表情をしていた。
「雲に?」
「うん。俺は雲になってたんだ」
彼は大きく息を吐いた。太ももに肘を載せて、うなだれるように頭を下げる。
「とても、とてもいい夢だった。……でもとても、とても苦しい夢だったよ」
「俺は、夢の中でずっと流れるように歩いている。いや浮かんでいるんだ。真下には町が見える。目なんてないのに何か感じる。耳もない。それでも風のそよぐ音が聞こえる。手もない。それでも風を切る感触が確かにするんだ。顔だって、頭だって、身体だってあるわけがないんだ。でも僕は何かを考えて、何かを目指して、ずっと歩いていたのを憶えている。いや、何かを目指して歩かせ続けられたのを憶えている」
そう言って彼は、空に目を向け、深く、遠くを見つめるように、目をゆっくりと細めていく。そしてそのうち目は閉じられた。一呼吸の沈黙が生まれる。
「……雲は、雲は、人の歩みそのものだと思うんだよ。ゆっくりと生まれて、流されるように歩いていく。そしてだんだんとその高さを上げていって、消えていく」
彼は目を閉じたまま、そんなことを言う。
目蓋の裏に、その暗い世界に彼は一体何を見ているんだろうか。
「その形は少しずつ変わっていって、ある時は入道雲で、ある時は飛行機雲で、ある時は鱗雲で、ある時は雷雲で」
ゆっくりと目を開ける。
「俺は、雲になりたい。誰にもとらわれていないと思って、歩き続けて、浮かび続けて、流れ続けて。少しずつ変わっていって、少しずつ離れていって」
彼は再びうなだれるように下を向く。重力に負けるように。萎れた花のように。そうした彼から雲の影が少しずつ流れ去っていき、再び日の光が燦々と降り注ぐ。
「あぁ。ずっと、ずっと眩しい」
彼はまた手を空にかざす。
「あぁ。ずっと、ずっと苦しい」
僕は何かを言わなければいけないと思った。ただその言葉が僕の頭から抜け落ちているような気がした。
夏の雨の日だった。
久しぶりの雨だった。
アスファルトの窪みに水たまりが出来て、無数に不規則な波紋が生まれている。
空は言わずもがなな曇天。厚ぼったい灰色の雲が一面を覆っている。
雨音が拍手のように盛大に鳴り響いている。蝉の声は聞こえない。鳴いているのがかき消されているのか、そもそも鳴いていないのか。
蝉は一週間の命だという。どうせなら雨の日も盛大に鳴いていてほしいと思う反面、彼らの命が雨音でかき消されてしまっているかもしれないと思うと、胸が詰まりそうになる。
蝉だけじゃない。これは人にも言えることだよ。
今日も彼は一人でいる。傘を差して、公園へと向かっている。傘にあたる雨が、音を立てて地面に落ちていく。僕は歩いている途中の彼に声を掛ける。
「元気かい」
そう声を掛けると、彼は驚きもせず、少し微笑む。
「うん」
前髪に隠れた目が少し見えた。
「寒くない?」
彼は続けて僕に話しかける。雨だから体が冷えるかとも思っていたけれど、そういうことはなく、熱さも寒さも特には感じなかった。
大丈夫、と返して、僕らは歩きながら話をすることにした。
「僕には、ずっと何かやらなきゃいけないことがあった気がするんだ」
僕は彼に言う。
ずっと何にもとらわれずに歩いていたような気がしていた。自由に歩いていると思っていた。だけど僕にはやらなくてはいけないことがあった気がした。
「意外だな」
彼は言う。
「ずっと、ずっと自由に生きているように見えたから。ずっと、ずっと……」
何か、彼は捻りだすように、ゆっくりと言葉を零す。
出会って数日の僕らだが、彼には僕がそういう風に見えたのだろうか。何かが僕の中で引っかかった。
きっと僕がいきなり話しかけてきたりしたことが、そういう風に見せたんだろうと思う。
雨の中歩いて、公園に着く。その間、僕らは何も言葉を発さなかった。
当然、公園に人はいない。ブランコなどの遊具は雨で濡れて、いつも座っているベンチも座れたものじゃない。
ただ公園には屋根付きのベンチも小さいながら設置されている。そこは雨で濡れないままだった。僕らはそのベンチに座って、しばらく屋根下から雨を眺めていた。
屋根に落ちた雨粒はやがてその先に貯まり、しばらくすると音を立てる。波紋がまた生まれる。その様子を僕はぼおっと眺めていた。
雨はよく涙の比喩に使われる。そう思うと、これは誰かの涙で出来た雨なんじゃないかなんて思う。
「話を、聞いてくれるか」
彼が言った。
「なんだい」
僕は答える。
「俺には、後悔していることがあるんだ」
彼は雨を見る視線を落として、僕の足元の方へと目を向けながらそんなことを言う。
「ずっと、後悔しているんだ。……おこがましいかもしれないけれど、俺には助けられなかったやつがいるんだ」
「助けられなかった、なんていうのは少し、おこがましいかもしれない。だけれども、俺はずっとその時の後悔だけが身体の中で、叫び続けているんだ」
彼は声を止める。呼吸が少し荒くなる。汗が少し垂れて、雨音に混ざる。
「三年前。俺には友達がいたんだ。高校の同級生で、俺とは違って、なんて言うんだろう。とにかく自由なやつで、授業も気まぐれに来て、それでテストの点数だけとって、留年なんかはしなくて」
彼の声は少しうわずっていた。震えも見られた。前髪が垂れて、目は一層見えなかった。
僕は彼の話を黙って聞いている。
「真面目とはとても言えないけれど、確かな信念を持っていて、その信念の下にあいつは生きていた」
「何かの信念に乗っかって生きるというのは、思ったより難しくて。……人は少しずつ変わっていくものだから。……だから、あいつが羨ましかった。自由に、まるで雲のように生を謳歌しているようで。羨ましかったんだ」
彼は本当に、懸命に、絞り出して言葉を零していく。
「でも、急に俺の前から姿を消した」
顔を上げて、彼は正面を見る。そこに何かを彼は見ている。目はひどく細くなっている。
雨がひどく降って、雨音でかき消されそうになりながら、言葉を吐く。雨をずっと見ている。
「あの日もこんな夏の雨の日だったんだ。手紙が一通、家のポストに入ってた」
彼は目を閉じ、まるで記憶をなぞるように、口を開いている。
「『楽しかった。ありがとう。いつかまた会おう。』そんな言葉だけが残されてた。急いであいつの家に行ったら、救急車が止まっていた。……自殺だった」
彼はそこで口を閉じて、黙り込む。それでも溢れる言葉が塞き止められないように、震える口が開きだす。
「俺は……。俺は泣いたよ。あいつが死んだこともそうだった。それに……。あいつがそんなになるまで追い込まれていたことに、俺が気が付いていなかったことにも。俺はたまらなく悔しくなったんだ。」
彼は声は震えを増していく。
「あいつは、最後の手紙に至るまで、カッコつけて、自分の、本心なんて見せないで、俺に、ただ、た、だ、雲のように、生きた自分だけを、見せて、逝きやがった」
声にならない嗚咽が漏れ出している。
「……止められた、かも、しれないなんて。おこがましい、のは、わかっているんだよ。でも、でも、それでも俺には、自分には何かが出来たんじゃないかって、ずっと、ず、ずっと」
ついには涙が流れた。彼は自身の目から零れる涙を手で掬い、嗚咽を吐きながら、言葉を続けようとする。
「俺の、俺のせい、なん、じゃないかって。ずっと、ずっと」
その姿が、その言葉が、僕にようやく気が付かせた。
あぁ。そうだった。そうだったんだ。
雨の降る音がする。蝉の鳴く声がする。
ようやく聞こえていなかったものに、聞こうとしていなかったものに。見ようとしていなかったものに。
僕はようやく気が付いた。
「……違うんだよ。君のせいじゃないんだ」
僕の口が勝手に動き出す。その言葉がようやく僕の中で姿を見せる。言えなかった言葉が、溜め込んでいた後悔が、全てが、湧き出る水のように僕の口から溢れ出そうとしている。僕の頭から零れだしている。
ベンチから立ち上がる。
何も、何もない。この降りしきる雨でさえ、何もないんだ。何もないはずなのに。
彼を正面に見据える。
言わなくちゃいけない。それはずっと、言えなかったことだったから。
「僕はずっと。……ずっと、自由に生きるふりをしていたんだ」
口が言葉を自動で紡いでいくような、そんな感覚がした。僕が吐露する言葉に、彼は顔を上げる。その顔はひどく崩れたもので、それでも笑う気なんてものはさらさら起きなかった。
「僕はずっと、君に嘘をつき続けていた」
きっと僕も同じように酷い顔をしている。
あぁ。そうだった。そうだったんじゃないか。僕は。
僕はもう、死んでいるんじゃないか。
暑さも寒さも何も感じなかった。
足取りはまるで足が無いように軽かった。
日の光が透き通っているのも、自由に歩けている気がしたのも、全部、全部そうだったからなんだ。
本当に、見ようとしなければ見えないんだ。
僕ってやつは、なんて馬鹿なんだろう。
「俺は、ずっと、ずっと、おまえと話したかったんだ」
ベンチから立ち上がる。
「俺を憶えている、おまえと」
彼はそう言って、僕に手を伸ばす。伸ばす手は空を切る。僕の身体をすり抜けて。
「あぁ。……僕もだ。僕もだよ。ずっと君に言わなくちゃいけないことがあったんだ」
僕はすり抜けて空を切る彼の手に合わせるように、自分の手を重ねる。
「気が付いていたんだね。……僕が死んでいることに」
「……あぁ。最初は、ただの他人の空似かと思った。だって、殆んど生きてる時と変わらないおまえが前にいたから。その色も、声も、その存在感も。だけど」
彼は言葉を切って、ひどい顔で足元を見る。
「おまえには、足がなかった……」
幽霊には足がない。僕はそんなことにも気が付いていなかった。見えていなかったんだ。
足は揺らめいて、まるで灯火のようにふわりと浮いている。
「僕はずっと、自由に生きるふりをしていたんだよ。信念に取り憑かれるように、ずっと生きてきた。後悔はないんだ。でもその生き方はあまりに息苦しかった。ずっと水の中を歩いているような感覚だった。そんな時に君と会ったんだ」
僕は雨の降る外に出る。雨はすべて僕の身体を通り抜けて、水たまりに僕の姿は映らない。
雨なんて、水なんて、今の僕には何もないのと一緒だった。それでも確かにこの身に感じる者がある。
「君といる時間は本当に楽しかった。君は気付いていなかったかもしれないけれど、君といる時だけは、僕は多分自由に生きられていたんだよ。僕があの日々を過ごせたのは君のおかげだった」
「本当に、本当に楽しかったんだ」
僕は二度と浴びることのできない雨を、確かにこの身に感じている。
涙の雨を感じている。
「君が、僕に憧れの心を持ってくれていることは知っていた。それが僕は誇らしかったんだ。君に誇れる僕でありたかったんだ」
「あの手紙を君の家のポストに入れた後、僕は自分の部屋から飛び降りたんだ。二階だったから、本当はもっと高いところから落ちればよかったけれど。ベランダから空を見て、足を離した時に、後悔した」
「僕はあの手紙を書くべきじゃなかったって。ただ君に感謝を伝えることだけが、僕にできることだと勘違いしていたんだ」
「最後に見た、あの入道雲を。僕は憶えている」
「そうだった。僕は、違う言葉を、君に送らなくてはいけなかったんだ」
僕は喉につまって、言えなかった言葉を、ようやく口に出すことが出来る。
雲になりたいだなんて、僕みたいになりたいだなんて、そう言い続けていた彼に送れる言葉。
なんて幸福なことだろうと思う。なんて傲慢なことだと思うよ。でも敢えて言おう。
「生きろ」
僕とは違うように。
あぁ。雨が上がる。
雲間から光が差し込む。僕に光が。彼に光を。
どうか、彼の進む道が、幸福に満ちたものであるように。
月並みに僕は祈る。
どうか僕みたいにならないでほしい。
きっと君が選ぶ道は途方もなく永い道だ。
君が選ぶ道がどうか、僕とは違う穏やかで幸福に満ちたものであるように。
泣いた酷い顔で彼は僕の前に歩み出る。
しゃくり混じりの声で
「あぁ」
と答えた。
お互いに顔を見合わせる。もう言葉は無かった。
僕らの間に言葉はもういらなかった。
ただ、これで、僕の散歩はようやく終わった。
声にならない声で僕は再び、あの時とは違う気持ちで言う。
また会おう。
最後に見えた彼の顔が、この言葉の答えだと思った。
花束を両手で持つ。それをただ、気持ちを込めて渡す。
水を生ける、手で触れ、撫でるように冷たい感触をなぞる。
水桶から水をかける。
「今日も暑いな」
俺はそう言って、数回水をかける。
煙が立つ。
「ようやく、ここに来れたよ」
両の手を合わせて、俺は目をゆっくりと閉じる。
蝉が鳴いている。草木が揺れて、夏風が頬を撫でる。日が高くなって、放射状に剥き出しの熱を放つ。汗が風で冷たくなって体が震える。
目を開ける。
あの日から一年が経った。あれは本当の出来事だったのか、白昼夢だったのか。
俺にはもうわからない。ただ、決めている。俺はこれからも生きていくよ。
おまえに救われたのか、俺が勝手に救われた気になっているのか。
わからないけど、どちらでもおまえはきっと笑ってくれるだろうと思うから。
一迅の風が吹く。
俺の上をちょうど雲の影が流れて往く。
涙はもう出ない。
今年もおまえが消えた夏が来た。
白昼夢を見た、夏が来た。
白昼夢 久火天十真 @juma_kukaten
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