最終話 Rose Garden

 彼女はしぶしぶといった感じで、ゴーヤチャンプルを口に運んだ。

「味うす」

「そうかしら。じゃあ、おしょう油とかつお節をかけてみたらどうかな」

「あと、緑のが苦い」

「ゴーヤだからね。初めて食べた?」

「うん。あとお味噌汁も薄くない?」

「え、結構おだし強めにしてるし、味噌も多めだけど」

「インスタントのやつのほうが美味しい」

「ああ、確かにインスタントのお味噌汁は美味しいわよね。独特のうまみがあるもんねえ」

「からあげは美味しかったけど」

「わあ良かった。あ、デザート出そうね」


 私は今夜食べる予定でいた手づくり珈琲ゼリーを出した。自分は満腹で食べられないから、みひろちゃんが食べてくれるならちょうどいい。


「これ、なんか変な味じゃない?」

「そう? ゼラチンのせいかしら。市販ゼリーはゲル化剤で固めてるのが多いから、手づくりとは風味が違うよね」

「変な味。変」

 変と言いながらも食べるのをやめない。

「変な味だけど……」

「うん?」

「普通の家の子って、毎日こういうの食べてるのかな。買ってきたやつとかインスタントとかじゃなくて、親がつくったごはんを食べてるのかな。話をしながらごはんを食べるのかな」

 みるみる顔が歪み、スプーンを握りしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。


 ティッシュを渡してやりながら、ふと自分の隣の椅子に目をやった。そこは彼の定位置で。いつも並んでごはんを食べていた。ゴーヤチャンプルは彼の好物だ。年中食べたがっていた。そのせいだろう、ゴーヤを店頭で見かけたら今でもつい買ってしまう。

 みひろちゃんが涙を拭きながら、軽く咳き込んだ。

 彼だったら、こういうとき何て声をかけてあげるんだろう。私より優秀な臨床心理士。夫なら泣いている彼女になんて――。いや、そうじゃない、声をかけてほしいのは私だ。夫の声が聞きたい。そう自覚したら、一瞬泣きそうになった。


 夫を亡くして、もう十年になろうとしていた。それなのに、まだたった二カ月しか経っていないような気持ちがする。



 みひろちゃんがカウンセリングセンターに通い出して半年が経った。季節は秋になっていた。

 不登校は続いていて、留年は確定している。家庭内暴力も相変わらずで、今の彼氏は五十六歳。おそらく父性を求めているのだろう。年齢からいったら父というより祖父のほうが近いけれど。

 私はいまだに彼女の父親と面会できていない。娘の人生がかかっている重大な局面だというのに、仕事が忙しいというのを理由に面談に応じないのだ。母親も無関心で、娘が家庭内で暴れなければ、それでいいと思っている。自分に迷惑かけないのなら、娘はどうなってもいいと。だからこそ、根のまじめな彼女が家で暴れるのだろう。親の関心を引く手段がそれしかないのだから。

 冷え切った親子関係。彼女は親から愛されているとは言いがたかった。


「風俗で働けって彼が言う。私が浮気ばっかりするから、金も稼げてちょうど良いだろって。ひどいよね。そりゃ確かに浮気はしてるけど、風俗とは違うじゃん」

 浮気相手は常時三人ほどいるらしい。というか本命もしょっちゅう入れかわるので、誰が浮気で誰が本命なのか、私も聞いていて混乱する。

 彼女は寂しくて、愛に飢えている。でも、性欲がからんだ刹那的な関係では心は満たされず、愛を探し続けている。ほんとうは親から愛されたいのに、その願いはかなわない。


 このまま私がカウンセリングを続けても、どうにもならないのではないか。カウンセラー変更も考えるべきか。そんな考えが頭をよぎり始めた、ある秋の日のことだった。


 うちのセンターに犬が迷い込んできた。古びた赤い首輪をした雑種の中型犬だ。迷い犬を保護しているとチラシを貼ったりネット上で呼びかけたりしたが、飼い主はあらわれなかった。かといって保健所に引き渡すのは気がひけた。少なくとも自分はやりたくないと職員の誰もが考えた。


 小倉さんが、「うちのセンターで飼えませんか」とセンター長に直談判したが、「そんなの無理に決まっているでしょう」と断られ、それでもと粘っていた。交渉中は、犬はセンターの玄関脇のダンボール箱におとなしく収まっていた。「ルルちゃん」と命名され、ドッグフードが運び込まれ、おもちゃまで買い与えられて、このままなし崩し的に飼うつもりなんだなという小倉さんの戦略が手に取るようにわかった。センター長以外は誰も文句を言わなかった。


 ルルちゃんは、しかし、歓迎ムードにあまり喜ばず、暗い顔をしてうずくまってばかりいた。職員が撫でても反応は薄く、元気がない。飼い主に捨てられたことによる心の傷が深いのだろう。


 しかし、みひろちゃんが来所したとき、様子は一変した。ルルちゃんははっと何かに気づいたような顔をして、彼女に飛びかかったのだ。もちろん襲いかかったわけではなく、尻尾をはげしく振って、喜びを全身であらわしていた。


「何この犬、ねえ、先生、この子、わ、舐めないで」

 ルルちゃんは伸び上がって、中腰になっているみひろちゃんの顔を舐めた。

 もしかしたら以前の飼い主に似ているとか、そういうことがあったのかもしれない。あるいはこの犬は、自分の主を自分で選ぶということなのか。


「先生、この犬、どうしたの?」

「一時的にうちで保護している迷い犬よ。どうやらみひろちゃんを気に入ったみたいね」

「え……」

 彼女はまじまじと犬を見つめた。

「みひろちゃんと家族になりたいのかも」

「私と……?」

「うん」

「沢井先生、そんな無責任なことを言っては……」

 職員に咎められたが、私は無視して話を続ける。

「ねえ、みひろちゃん、この子はルルちゃんっていうんだけど、ルルちゃんの面倒をみてくれないかな」

 みひろちゃんは視線を犬から離さず、でも私の言葉に耳を傾けてくれている。

「ルルちゃんは保護されてからずっとしょんぼりしていたの。とっても寂しそうでね。きっと飼い主から捨てられたんだろうね。でも、今すごく嬉しそうでしょう。この子はきっとみひろちゃんと一緒に生きたいって思ってるよ。どうかな、家族になってあげてくれないかな」

 みひろちゃんは、犬をこわごわと抱きしめた。



 彼女の両親を説得するのは簡単だった。どうでもいい、勝手にすれば、そんな投げやりで無関心な両親だったから。


 ルルちゃんと出会ってから、みひろちゃんは変わり始めた。


 まずマッチングアプリをやめて、男とも別れ、壁に穴をあけなくなった。登校はできていないけれど、犬の世話をちゃんとやっている。夜遊びをやめて毎朝犬の散歩に行くようになっただけでも大きな進歩だ。

 カウンセリングにはルルちゃんを連れてやってくるようになり、それから数カ月後の初春には女友だちとやってきた。ドッグランで知り合ったのだという。


 高校は中退となる見通しだが、就職も含めて将来についてまじめに考え始め、フリースクールに通うようになったとの報告を受けた。親子関係は改善していない。とはいえ、もうあの子は大丈夫だろう。親に見切りをつけて、自分の人生を歩き始めたから。

 四月、カウンセリングは終了となった。みひろちゃんのカルテはデータ化され保存、紙のほうは廃棄が決まった。


 カルテのデータ整理をしてくれている小倉さんがぼやく。

「犬のパワーってすごいですね。でも、なんか悔しいです。カウンセリングより犬が効果があったなんて」


「犬に効果があったわけじゃないよ。運命の出会いに効果があったのよ。ペットショップで犬を買ったところで、みひろちゃんには影響はなかったと思う。捨てられた犬が彼女を選んだ、その出会いこそが大事だった。私たちじゃあ、とてもかなわないわね、運命の出会いってやつの力には。人の心を癒やすのも、立ち直る力を与えるのも、何かとの出会いなのよ」


「そうですね。でも、人を傷つけたり苦しめたりするのも、何かとの出会いのせいだったりしますけどね」


「あら、小倉さんがそんなネガティブなことを言うなんて珍しい」

「うふふ、まあ、物事には表と裏がありますし。あ、そうだ、またお手紙が来てましたよ」


 渡された手紙を、いつもなら開封せずに引き出しにしまうのだけれど、どういうわけか、その日、私は開封していた。


『沢井先生。

 きょうは息子の優希がバスケット部でレギュラーに選ばれたんです。その成長ぶりに信じられない思いです。優希が川で溺れていたところを先生の旦那さんに助けていただいて、あのときは体に障害が残るかもしれないと言われていたのに。

 優希を助けて亡くなった旦那さんの分まで幸せにならなきゃダメだよって息子には言い聞かせ』

 それ以上読み進めることができなくて、手紙を引き出しにしまった。まばたきを繰り返す。


 二カ月前の梅の頃が一番幸せだった気がして、桜の花びらの舞う街並みを窓越しに眺める。


 でも、六月になれば、「四月の頃が一番良かった。あの頃はまだ夫がそばにいてくれた気がする」と思うのかもしれなくて。

 きっと私は、今この場にないものを探し続けているのだろう。


 私のRose Gardenは、まだ遠い――。


<了>

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Rose Gardenで会えたら ゴオルド @hasupalen

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