第2話 まじめな浮気娘
みひろちゃんを連れて、近くの公園までやってきた。
小さな葉を枝いっぱいにつけた梅の木々、青々と茂る水仙の脇を通り、公園中央の
「先生……?」
私は持参したパン屑をみひろちゃんにも握らせた。
「餌やりしましょう。それー」
パン屑を公園内にばらまく。すぐにハトが数羽やってきて、パン屑を食べ始めた。
「えっ、ハトに餌やりとかしたらダメなんじゃないの?」
「ダメだよ? だから楽しいんじゃないの」
「えっ」
私は構わずパン屑をまく。ハトはどんどん集まってくる。面白いぐらいだ。
「さあ、もっと寄ってこーい」
「せ、先生、でも、動物に餌やり禁止って書かれた看板があるよ」
ばさばさという音とともにハトがさらに集まってきた。五十羽ぐらいいるかもしれない。ものすごい勢いで食べ尽くしていく。パン屑をまくのが間に合わない。焦れたように数羽のハトが耳元をかすめて飛んだ。感情の読み取れない丸い目玉でじっと人間を見つめながら、じりじりと近寄ってくる。
「ちょっと、なんか怖いかもしれない!」
「もう、ダメだよ先生、きゃっ、やだ!」
ハトがみひろちゃんの肩に乗ろうとしていた。かがんで逃げ出す。私も一緒に逃げた。するとハトたちは走って追いかけてきた。
「こわ、ハトなんか怖い!」
「だって飢えてるもん。ダメだって、餌なんかあげたら」
「でも、楽しくなかった? スカッとしない?」
「しないよ!」
走って逃げながら、みひろちゃんは笑っていた。歯を食いしばらずに笑った。
「先生ってちょっとおかしいよ」
彼女の笑顔は、言葉遣いや態度と同じように幼くて、まともに教育を受けず放置されて育ったことのあらわれだとしか思えず、胸が痛んだ。
夕方、私はカウンセリングセンターのセンター長からこっぴどく叱られた。近所と町内会から苦情が来たらしい。
クライエントと手っ取り早く仲良くなるためにやったのだと説明してみたけれど、「仲良くなるために違法行為や迷惑行為をやっていたら、うちのセンターは近隣から立ち退き要求が出てしまいます。そもそもカウンセラーはクライエントと仲良くなる必要はありません」と正論で返されてしまった。しょうがないので平謝りしておいた。
カウンセリング業務終了後、町内会等に謝罪に行き、センターに戻ってくると、精神保健福祉士の小倉さんがまだ残っていて、「食事にいきませんか」と誘ってきた。
一緒に事務室を出てすぐ、「あ、そういえば、また沢井さんに手紙が届いてましたよ」と言い、小倉さんはUターンしてしまった。あしたでいいのになあと思いつつ、お礼を言って手紙を受け取った。薄ピンクの封筒にタンポポのイラストが描かれている。
自分のデスクの一番下の引き出しに手紙をしまった。同じような封筒が未開封のまま積み重なって層になっている、憂鬱な引き出しに。
平日夜八時のイタリアンレストランは客の入りはそこそこといったところだった。
「沢井さんは恋人はつくらないんですか」
また始まった、そう思いながら、カプレーゼを取り分ける。
「まあ素敵な出会いがあれば? そういう展開も? なきにしもあらず?」
「そんな受け身じゃだめですよ」
「ええー」
ピザが運ばれてきたので、テーブルのグラスをどける。
「そういう小倉さんはどうなの」
「私は恋を求めて積極的に活動中です」
「つまりまだ相手が見つかってないんじゃないの。私のこと言えないじゃない」
カプレーゼを放置して、あつあつのピザを頬張る。チーズがとろけて最高だ。
「沢井さん、わかってない」
「えっ、何が」
小倉さんはチーズをにょんにょんさせながら、顎を上げてみせた。
「常に恋の臨戦態勢にある女と、スイッチがオフになっている女とでは、いい男と出会ったときの反応速度が違うんですよ。オフになってるとチャンスを逃がしますからね。スイッチを入れなさいっ!」
人差し指で肩を突いてくる。
「何のことやら」
「
「あ、懐かしい、Rose Garden。誰だっけ」
「忘れました! けど、学部生のころに聞いたから、有名な心理学者の言葉ですよきっと」
「アメリカの心理学者かな。『私は患者を
カウンセラーは人生を薔薇色にしてくれる存在ではないという名言だ。
私たちは人を救えない。できるのは、自分で自分を救おうとしている人の手助けをすることだけ。そのことを私たちも、またクライエント側も自覚しておくべきだという考えはもっともだと思う。
もしクライエント側がここを誤解してしまうと、カウンセラーに過大な期待と甘えを抱くようになり、自分の人生を救ってもらおうとしてしまう。Rose Gardenに連れていってほしいと願ってしまう。でも、そんなことは他者にはできない。その結果、自分自身を救うことから焦点がずれて、不満ばかりが募ってしまう。
「Rose Gardenとは幸せのことです。幸せは自分でつくるんですよお。造園者たれぇ」
「今夜は飲んでないのに、なぜか酔ってるのね」
「酔ってなーい! 私はむしろ酔いたい、恋に酔いたいですー」
「はいはい、酔ってくださいー。あ、ピザ冷めちゃう」
「それは由々しき問題ですね! ひとまず恋は置いておいて、ピザを食べましょう」
イタリアンのお店を出て、小倉さんと店前で別れた。
ひとりで駅に向かって大通りを歩いていたら、人混みの中、若い女性が着ているトレーナーが目にとまった。同じ服を、きょうの昼過ぎに見たような。
時刻は午後九時過ぎ。会社帰りや夜の街に遊びに繰り出す大人たちで賑わう通りで、そのカジュアルさが周囲から浮いていた。
「みひろちゃん?」
声を掛けると、彼女は一瞬顔をしかめた。だが、すぐに「ああ、カウンセリングの先生か」と、ほっとしたような顔になった。
「もしかして警察かと思った?」
「うん。補導かと思った」
「いま一人? どこかに行くところ?」
「あー、うん」
にやりと笑う。それで察した。
「男の人と会うのね。浮気?」
「うん。会う約束してる人がいるんで。でも、遅刻しちゃったから、もういないかも」
「遅刻したんだ」
「うん、二時間おくれた」
「それはドタキャンってやつなのでは」
へへっと彼女は悪びれることなく笑う。
「まあ、マチアプなんてそういうもんだし」
「そうなんだ。じゃあ、良かったらこれから私と遊びましょうよ」
「え、先生と? でも私、まだごはん食べてないし」
「ごはんか。私は食べたばっかりだわ。そうだ、うちにいらっしゃい。手料理食べさせてあげる」
「え、いいの? そういうのっていけないんじゃないの、カウンセラーと患者の関係なのに」
わあ、まじめだ。まじめな浮気娘だ。
「いけないよ。それはもう絶対にやっちゃダメなやつ。うちのセンター長に知られたら、すごい罰を受けるんじゃないかしら」
でも、だからといって、この子をこのまま夜の街に放ってしまうわけにもいかない。
「じゃあ、やめなよ」
「黙ってればわかんないし?」
「先生ってほんと変な大人」
そう言って、みひろちゃん歯を食いしばるような笑顔を見せた。
電車に乗って二駅、駅から徒歩八分。賃貸マンションの自室で、私はエプロンをつけて料理を始めた。といっても、あまり待たせては可哀想だから、なるべく短時間でできるものにした。ごはんとわかめの味噌汁、ゴーヤチャンプルにからあげだ。
調理中、物珍しそうに私を眺めていたみひろちゃんは、テーブルに並んだ料理を見て、「なんかあんまり美味しそうじゃないんだけど」と言った。その視線はおもにゴーヤチャンプルに向けられている。
「私、からあげとごはんだけでいい」
「そう言わず、お味見だけでもしてくださいよ」
ダイニングテーブルに向かい合わせに座り、私はほうじ茶を飲みながら、食事する彼女の話し相手を務めることにした。
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