再生の風景【リメイク版】

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再生の風景【リメイク版】18700文字

「焼酎が全部終わった。買ってきて」


 夕方、2階の自室から1階のリビングに降りてきた引きこもりの友樹が小さく平坦な声で呟く。24歳の友樹の視線は真下を向いており、母である智子の目を一切見ようとしない。

 智子は怒りや哀しみといった感情を抑えながら、こう言う。


「え? もう終わったの? 4リットルのやつ」

「終わった。買ってきて」

「今日はもう駄目だよ」


 すると、友樹は変わらず冷めた口調で言う。


「酒が無いと生きてるのが苦しいよ。買ってきて。早く」


 智子は深く溜息をつく。


 ◆


 友樹がアルコールに依存し始めたのは21歳の時、仕事を辞めて自宅に引きこもるようになって1年以上が経ってからの事だった。引きこもるようになって友を失い、恋人も失い、金の掛かる趣味も無かった友樹は、120万近くあった貯金のほとんどをアルコールのみに費やした。それ以外に友樹が買った物と言えばエレキギターとアンプ程度だ。友樹がアルコールにハマったきっかけは、当時知り合ったネット上の女友達の影響だった。引きこもりになり、精神病院に通うようになった友樹は、自分と同じように引きこもりで精神を病んだ人とばかり接することで安らぎを得るようになった。確固たる自分が無く、他人の影響を受けやすい友樹は、すぐに酒に依存した。

 酒を飲み始めてからの友樹は、大きな心の空白を全てアルコールで満たすようになってしまった。寝ている時以外の全ての時間、友樹は酒で酔っ払っていた。友樹は、酒で酔っている時だけは全ての憂鬱や焦燥や不安を忘れることができた。生まれて初めての感覚だった。貯金はあっという間に底をついた。

 それ以降、友樹は親の金で酒を飲むようになった。友樹の口座に定期的に智子が金を入れるようになったのだ。友樹の家庭は歪んでいたが、金銭面においては苦労していない家庭だった。それ故、友樹は狂ったように酒だけを求めた。

 友樹は酒が無くなるたびに外出し、コンビニで何本もストロング系缶チューハイやペットボトル焼酎を購入した。

 若い女性店員に、


「いつも沢山お酒買ってますけど、身体は大丈夫ですか?」


 と心配そうに訊ねられた際、友樹は心の中で「うるせえ」と呟いて舌打ちをして、


「はい」


 とだけ無表情で答えた。

 酒に溺れて堕ちていく友樹を見て、母である智子も、父である正彦も、特に何も言わなかった。

 友樹の部屋には酒の空き缶が無数に散乱している。友樹からすれば両親の干渉が無いのはごく当たり前のことだった。小さい頃から、友樹は両親とろくに話したことがなかったし、友樹の方から両親に話しかけたのは数えるほどしかなかった。そういう状況になったのは理由がある。

 小さい頃、友樹は正彦に頻繁に暴力を受けていた。例えば夜、家族4人で食卓を囲んでいる時、酒に酔った正彦は突然怒鳴り出し、友樹に対して理不尽な暴力を振るった。1度や2度ではない。正彦の暴力が始まると、智子は無言でその場を離れ、洗い物を始めるのがある種のルーティーンだった。何度も殴られた友樹は泣きながら暴力の雨が止むのを待った。智子は1度も助けてはくれなかった。酔った正彦に逆らえば自分まで暴力を振るわれるのが分かっていたからだろう。幼い頃から友樹はそんな自分の両親に対して不信感を抱いていた。親の愛情というものを感じた事は1度も無かった。そういった過去が、現在の友樹と両親の関係を歪なものにしていた。

 結局友樹は24歳になった今もアルコールに溺れるだけの引きこもりだった。精神科医から正式にアルコール依存症と診断され、アルコール依存を専門に診ている病院に通院させられたこともあった。酒をやめる意思が無かった友樹は、数回通院しただけで通院をやめ、処方された抗酒剤も全てゴミ箱に捨てた。23歳と24歳の時、友樹はいずれも膵臓を壊し、入院している。「酒をやめなかったらあなたは早死にしますよ」と医師に忠告されても、友樹は酒をやめなかった。血液検査の結果は軒並み超異常値を叩き出していた。それを友樹はむしろ喜んだ。「俺は早く死ぬことができるのだ」と。

 また、友樹は引きこもり生活の中で将来に絶望しては、何度も自殺を図った。いずれも失敗に終わった。

 やがて友樹は酒以外の快楽も求めるようになり、ドラッグストアで売っている市販薬のoverdoseも繰り返すようになった。

 引きこもりの年数を重ねるにつれて精神が不安定になった友樹は、タバコの火を自らの腕に押し付けて自傷するようにもなった。

 20歳から24歳までの引きこもり期間で、友樹は精神病院に2度入院している。1度目は2週間、2度目は3ヶ月の入院だった。精神病院に入院している時、友樹は自分の同胞を初めて見つけたような気分になった。

 友樹は2度目の入院中に1人の女性患者と仲良くなった。友樹の2歳年上の、斎藤詩織という女性だった。詩織と連絡先を交換した友樹は、今現在も時折連絡を取り合っていた。それが今の友樹の唯一の人間関係だった。友樹は元々社交的ではなく、また、人間関係を継続させることも下手だった。

 

 ◆


「酒買ってきて。お願いだから」


 友樹が無感情なとても冷めた声で言う。友樹は常にこういう話し方をする。友樹の感情が昂っているところを両親は1度も見たことが無い。智子はもう何年も友樹の笑顔を見ていなかった。

 最近になって、友樹の金銭の管理は全て智子が行うようになっていた。友樹は何故か一切反発しなかった。

 友樹が智子に話しかけるのは、こうして酒が無くなった時だけだ。

 智子は再び深い溜息を漏らし、次に涙を流した。


「もう嫌だよ。お母さんも」

「知らねえよそんなの! 酒買ってきて」


 壊れた機械のように友樹は「酒買ってきて」と連呼する。友樹は酔っても一切顔に出ず、また、行動にも変化が一切無かった。

 しかし確実に身体は壊れていく。

 智子は泣きながら、友樹に言った。


「今日の朝、お母さん考えちゃいけないこと考えたんだ。初めて」

「なに」

「私と彩花と友樹で高い橋から飛び降りて死んじゃおうかなって」

「……」

「彩花も友樹も生きるのが辛いんだったら、いっそお父さんを残して3人で心中すればいいのかなって、今朝、初めて思っちゃったんだ」

「あっそ」


 友樹は内心かなり動揺していたが、顔には一切出さなかった。昔からの処世術であった。


 ◆


 彩花とは友樹の3つ上の姉だ。高校時代から双極性障害を患っており、精神的に常に不安定だった。精神障害者手帳一級を持っており、障害年金を受給している。そんな彩花は若いうちに結婚しており、もうすぐ3歳になる息子がいた。病気の彩花は息子の面倒をろくに見ることができず、育児をしたことがほとんどない。彩花は今、夫と別居状態にあり、実家に帰ってきていた。彩花は頻繁に死にたがって発狂し、腕を切っては、智子や友樹に助けを求めた。子供の面倒は夫が基本的に見ており、休日は智子や正彦や友樹が面倒を見ることが多かった。

 また、弟である友樹も重度の鬱病とアルコール依存と自閉スペクトラム症を患っており、希死念慮を何年も抱えていた。彩花や友樹の精神が病んでいくにつれ、両親である智子と正彦も精神を病み、精神科に通院するようになった。結果、家族4人全員が精神科に通院していることになる。

 友樹は、「もはや家族が崩壊したも同じだ」と思っていた。

 

 ◆


 泣いている智子と無表情の友樹が向かい合っていると、やがて、2階から彩花が降りてくる音がした。

 リビングに入った彩花は、その異様な雰囲気を察知し、「え、どうしたの」と呟く。

 すると智子は泣きながら、さっき友樹に話した事と同じ事を再び話した。

 それからの記憶は友樹の中には“曖昧にしか”残っていない。気が付くと友樹は大泣きしていた。


「ねぇママ。心中はよくないよ。だめだよ」


 と彩花が“鬱状態特有のぼーっとした口調”で呟く。薬が効いているのか、酒で酔っているのか、そのいずれかだと友樹は確信した。

 その日以降、友樹の鬱病はかなり悪化してしまった。

 智子から見ても、普段の友樹からは考えられない行動や発言が増えた。友樹は頻繁に「2階のベランダから急に飛び降りそうで怖い」と言った。普段滅多に自分の部屋から出ようとしない友樹が、夜になると智子と正彦の寝室まで来て、「怖いから一緒に寝てもいい?」と言った。智子は同じ部屋に布団を敷いてやった。だがしばらく経つと、友樹は無言で自分の部屋に戻っていった。


 母親に心中を提案され、鬱が悪化した友樹はまるで幼い子供に退行してしまったようだった。


 智子が時折友樹の部屋に入ってみても、友樹は何もせず椅子に座って延々と酒を飲んでいるだけだった。

 やがて友樹は自分から「病院に行きたい」と言い出した。「小説が書きたいのに書けない」「頭がぼーっとする」「膜に包まれてる」「幻聴が聞こえる」「頭の中の声が鳴り止まない」「頭の中がぐちゃぐちゃになってる」「吐き気がする」「めまいがする」と友樹はとにかく繰り返した。

 そこで智子は友樹に、彩花が通院している病院を勧めた。

 友樹はその病院に電話をかけようとしたが、電話が繋がっても何故か一言も話そうとしなかった上に、やがて友樹は、ふらついて、床に倒れそうになった。見かねた智子は電話を代わり、友樹の代わりに予約を取った。

 鬱状態があまりに酷くなっていた時期の記憶は、友樹にはあまり残っていなかった。友樹は思考力が落ち、記憶力も落ち、集中力や意欲も落ちていた。

 病院の予約日当日、酒が抜け切らずに車の運転など到底できそうになかった友樹は、智子に病院への送迎を頼んだ。

 友樹は、診察室で、今の自分の状態を全て伝えた。

 友樹は新たな精神薬を数種類、処方された。

 

 ◆


 処方された薬を幾つか変更しながら、薬を飲み続け、それから数ヶ月が経った頃、ようやく友樹の鬱状態は回復傾向を見せた。

 また、友樹はここ数ヶ月、引きこもりやニートの自立支援スペースに通っていた。行政ではなく、中村という女性が個人でやっている場所だった。そこに通うのは智子の提案だったが、友樹はそこに継続的に通った。今の友樹にとっての唯一の社会との繋がりであり、前に進む為の行動だと友樹も理解しているようだった。


 しかし友樹は生きたい理由が一つもなかった。


 ◆


 深夜、友樹は死にたいのか生きたいのかも判然としないまま、自室でタバコを吸いながら、死んだ目で酒を飲んでいた。


『死にたいです』


 去年、精神病院で知り合った斎藤詩織という26歳の女性からそ急にんなラインが来た。すると友樹は返信にしばらく悩む。

 死にたい気持ちは理解できる。“人生にろくな意味が用意されてない”ことも知っている。スイスで安楽死に使われる薬の名前も知っている。生きてたって嫌なことばかりで、苦しいのも知っている。俺が言う「生きたい」が単なる空元気だってことも知っている。

 友樹は返信に悩んだ末に、


『俺も死にたいです』


 と返信した。

 すると、すぐに返信はきた。


『友樹さん、私と一緒に心中しませんか。練炭でも、硫化水素でも、飛び降りでも何でもいいです』


 その文面を見た瞬間に友樹の心の中で、智子の言葉が想起された。智子は彩花と友樹に心中を持ちかけた。その時感じた友樹の絶望感というか、虚無感というか、罪業感たるや、凄まじいものがあった。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だがそれと同時に友樹の中には、「本当に母と姉と自分で死んでしまえばいいじゃないか」と思う冷めた気持ちもあった。


『心中ですか。少し考えさせてください』


 友樹は思う。正直俺は死んでもいいし、むしろ死ぬために生きているのだ。タバコをやめないのも酒をやめないのも、早く死ぬためだ。実際友樹は、精神科医に「酒をやめたいと思いますか」と聞かれた際「早く死にたいのでやめたくありません。長生きしたくないです」と真顔で答えた。そんな返答をすれば、中には怒りを露わにする精神科医もいるだろうが、友樹の主治医は「そうなんですか」と言い、朗らかに笑っただけだった。今の友樹の主治医は酒をやめろとは全く言わない。また、引きこもりやニートを自立支援している中村さんも酒をやめろとは言わなかった。早く死にたい、という友樹の意思を否定しなかった。死にたさを根本から消すことはできない。精神科の主治医や中村さんは友樹が死にたさを抱えた上でどう生きるべきかを考えてくれた。

 生きる上で死にたさを消す必要はない。死にたさとうまく共存して付き合っていけば良いだけの事なのだ。

 友樹は詩織に返信する。


『そういえば最近、俺の母が一家心中しないかって俺と姉に泣きながら言ってきたんです』

『そうなんですか』

『だなら心中って、単語聞くとその時の辛い気持ちを思い出します』

『ごめんなさい。友樹さんはお母さんとお姉さんと死ぬんですか?』

『いや、死なないです。その話は流れました』

『友樹さんの家庭も色々あるんですね』

『そうですね。子供が2人とも幸せになれなかったから、親も思うところがあるのかもしれないです』

『私と一緒に死んでくれますか?』

『俺は死んでもいいですけど、もし片方だけ生き残ってしまったら、生き残った方は自殺幇助で逮捕されてしまいますよ。詩織さんが犯罪者になってしまう可能性もある』

『そんなこと考えてる余裕……あります?』

『うーん……』

『私、1人で死ぬのは寂しいし嫌です。でも友樹さんと2人だったらあまり恐怖を感じずに逝ける気がするんです』

『俺も1人よりは2人の方がいいです』

『昔は自殺掲示板ってたくさんあったのに、今じゃ1つもありません。私さっき探してみたんですけど、無かったです』

『座間の殺人事件とかありましたからね。集団自殺は昔に比べてかなり難しくなりました』

『Twitterで自殺募集なんて掛けたらすぐアカウント凍結ですもんね』

『たまにっていうか結構頻繁に集団自殺のニュース見ますけど、どこで募集してるんですかね』

『募集というよりは、仲良くなった人がたまたま自殺したがってる人だったら、集団自殺を持ちかけるって感じなのかな』

『なるほど』

『たぶん。あと隠語で募集してるって聞きましたよ。私は知らないですけど』

『俺、Twitter苦手なので全然やってません。全く知らない他人に全然興味持てないんです、だから自分から人を好きになったこともないです』

『私もツイッターやってないです』

『詩織さんが死にたい理由は何ですか?』

『なんだろう。伝えたい事はたくさんあるのに、頭が悪いから言葉にできない。“なんか死にたい”っていうのじゃだめですか。あと何十年も生きてくって考えると、とても辛いんです』

『俺も死にたい理由を言葉にしろって言われたら、難しいかもしれません。間違いなく言えるのは、未来に何の期待も無いんだと思います』

『ゲームのリセットボタンを押すみたいに簡単に死ねたらいいのに……』

『何の苦痛も痛みも無く死ねるボタンが売ってたら、多分、日本人は何百万人も一気に死ぬと思います。多分、死ねないから生きてるだけって人はものすごく多いと思う』

『子供をこの世に残すことって、実はものすごく残酷なことじゃないですか? こんな苦しい世界に命を生み落とすなんて。“80年間死ぬまで頑張って苦しんでね”って言ってるようなものです』

『俺は詩織さんの考えに完全に同意しますが、世の中の一般の人というか、普通の価値観では、そうじゃないんですよね。何の疑問も抱かずに子供を作る人もいる。その結果、コインロッカーに赤ん坊の死体を入れたりする事件も起きる』

『私はこの世に子供を生み落とすこと自体を罪だと思ってしまうんですけど、その考えを他人に押し付けた事は一度もないです』

『俺も無いです。俺は世間から超ズレてるって自覚があるから』

『Twitterの反出生主義界隈は酷いですよ。みんな過激な言葉で子供を産むのは悪だって言ってる。過激な思想を他人に押し付けようとしてる。私は、友樹さんなら絶対に私の言いたいこと分かってくれるだろうなって思ってるから反出生主義の話をしてるだけです』

『人目につく場所でする話じゃないですよね。子供を産むなって』

『私だって、普通の頭で生まれて、普通の心で生まれてたら、好きな人との子供が欲しいって素直に思うと思います。結局のところ反出生主義者って自分が満たされてない人がほとんどなんです。自分が苦しい思いをしたから、親のことを恨んで、その延長で出生そのものが悪だと考えるんです』

『俺も引きこもりじゃなくて、普通の脳で、普通の心で、好きな人と付き合ってたら、その人との子供を欲しがると思います』

『そうですよね。多分みんなそうです。人間もただの動物ですから』

『俺は自分の人生ですら扱えないから、他人の人生なんてとても扱えません』

『私は、中学生の頃から死にたかったんです。でも、死ぬ死ぬって言って今日も生きてます』

『そういう人は多いと思います。俺もそうです。漠然と死にたいなあって思うけど、何もしないで、酒飲んでベッドで眠るだけ』

『あっ私もwwwww』


 酔っ払って変な文を送らないように、友樹はほとんどシラフに近い状態の時しか詩織とやり取りしなかった。

 酔うと暴力を振るうようになる正彦に比べて、酒癖は悪くなかったが、性格が女々しくなるという弱点があった。

 

 ◆


 友樹が20歳で引きこもるようになってから1番最初に通い始めた病院で、友樹は自閉スペクトラム症と診断された。友樹は自分が健常者でないことを知り、とても腑に落ちた。(米津玄師もたしか自閉スペクトラム症だったよな。じゃあ俺も米津玄師並みの才能があるってことだな)程度にしか思わなかった。

 小さい頃から友樹は人見知りが極端に激しく、1人遊びを好んだ。まるでその場に自分しか存在していないかのように振る舞い、他者との交流を拒んだ。また、友樹は幼い頃から対人恐怖を抱いた。小さい頃、あまりに人と喋れなかったものだから、「あの子は喋れるの?」とか「あの子は病気なの?」と何度も言われたことがあった。幼かった友樹はそういった言葉に深く傷付いた。友樹は人に怯え、常に他人から距離を取って過ごしていた。学生時代は小中高と野球部に所属していたことで、多少の社会性は獲得したものの、それでも浮いていた。よく宇宙人と呼ばれた。友樹は高校卒業後に入学した専門学校でも浮いた。社会に出てからの友樹は、入社してから退社するまでの一年半、誰とも私語を交わそうとしなかった。業務上必要な会話しかしなかった。時折親切な社員が遊びや食事などに誘ってくれたのだが、友樹は常に二つ返事で断った。友樹はやはり職場でもかなり浮いており、腫れ物状態だった。つまり友樹は集団生活にとことん向いていない性質だったのだ。社会人当時友樹には僅かな友と、友樹と同じように自閉症を持っている物静かな彼女がいたが、他者との距離感を測るのが生来苦手な友樹は関係の維持に苦心した。結局引きこもりになったことで全ての縁は切れた。

 物心ついてから、人生の中で常に孤独感や空虚感を感じていた友樹には、この世で、この社会で自分という存在が生きる意味を微塵も感じられなかった。友樹にとって生の実感はあまりに希薄だった。自分という人間を生み落とした父と母を心底恨んだこともあった。

「普通」という枠にしがみ付くために学校にも通い、会社にも勤めた友樹だったが、幸せや喜びを感じた事は一度もなかった。集団に馴染むことがどうしてもできない。自分が異星人であるかのような気分でずっと生きていたし、実際そのような扱いをされた。この世界に自分は向いてないと思った。

 20歳のとき友樹は全てを放擲し、半ば失踪するような形で仕事を辞め、1Kのアパートも解約し、実家に戻り、自室に引きこもるようになった。そしてアルコールに溺れた。


 友樹は社会的・精神的に死ぬことを自らの意思で選んだ。あと死んでいないのは肉体だけだった。


 頭が壊れるのは簡単なことだったし、心を死なせるのも簡単なことだった。だが肉体を死なせることだけが、途轍もなく難しかった。


 ◆


 友樹が引きこもりになってから早くも4年以上の歳月が流れていた。

 友樹は洗面所の鏡に映る自分の顔を眺める。

 高校時代の自分の顔と見比べてみても、ほとんど変わっていなかった。

 友樹は自分の顔を眺めているうちに、(こいつ誰だっけ……?)と思った。自分の顔が他人の物のように見える。自分が自分でないような奇妙な感覚を覚えた。

 自分の(他人)の顔を眺めているうちに友樹は、この鏡に映る人物を殺害したくなった。

 昼間、友樹はネット通販で12mmの金剛打ちクレモナロープを購入した。

 翌日、自宅にロープが届くと友樹は深夜になってから自殺に着手した。ロープを適切な長さに切り、ハングマンズノット(絞首刑)の結び方で輪っかを作る。あとはこれを部屋のドアノブなどに吊るして死ねばいい。首吊りには定型と呼ばれるものと非定型と呼ばれるものの2つがある。友樹は後者を選択した。

 しかし友樹は、過去の首吊りの失敗の経験から怖気付き、ロープの輪っかに頭を通しただけで、結局吊ることはなかった。昔首吊りで自殺未遂をしたことがあるが、あれを超える苦しみは中々ない。

 友樹は睡眠薬を飲んで無理矢理眠りについた。

 そして友樹は夢を見た。

 

 ◆


 夢の内容はこうだ。

 昼下がり、友樹は友人の斎藤詩織とコメダ珈琲にいた。同じ精神科病院に入院してる時に知り合って少し仲良くなった人だ。詩織はクリームが沢山乗ったパンケーキを美味しそうに頬張りながら言う。


「ねぇ●●くん、ペントバルビタールって知ってる〜?」

「えー知らない。なんの薬〜?」

「スイスで安楽死に使われてる薬だよ。スイスって良い国だよね。死ぬ権利があるんだから」

「うん良い国だと思う。メンヘラは大抵言う。スイス行きたいって」

「でも条件が厳しくて、精神疾患の人とか単なる底辺の人とかは基本安楽死できない。安楽死できるのは基本、肉体的に不治の病の人だけらしい。末期癌とか。ぽんぽん死ねるわけじゃない。私も詳しいことは知らないけど」

「じゃあ俺は安楽死できないな。たしかスイスで安楽死するにはまず日本の医師の診断書が要る。手続きはめんどい。スイスで安楽死した日本人いたけど、診断書書いた日本人医師は別件の安楽死事件で逮捕されたらしい」

「スイスだと自殺幇助は罪にならないけど日本だと自殺幇助は犯罪だからね。だから精神科医はとにかく生きさせようとする。あなた生きる価値ないから早く自殺した方がいいですよ、なんて言う先生はまずいない」

「俺が昔3ヶ月入院した病棟で、首吊りした患者さんがいたよ。高津さんっていう、見た感じ40くらいの優しそうなメガネの女の人だった。消灯前に部屋でぼーっとテレビ見てたら先生が俺の個室に入ってきて、今すぐホールに来てくれって言うから、何事かと思ってホール行ったら、患者も先生もみんな集まってた。それで、『高津さんが首吊ってるところを巡回の看護師が見つけた』って話を先生がした。高津さんはすぐ救急車で別の病院に運ばれた」

「それでどうなったの? 高津さんは」

「高津さんは死ねなかった。自殺未遂に終わった。俺のいた病棟はストレスケア病棟って言って、比較的症状の軽い人が入る病棟だった。ストレスケアって個室ばかりなんだけど、部屋の作りはどの部屋も同じだった。多分高津さんはトイレの前のドアノブで吊ったんだと思う。他に吊れそうなところはなかったから。先生が当時言ってたけど、高津さんは後2日で退院予定だったらしい」

「そうなんだ。なんでもうちょっとで退院だったのに吊ったんだろう」

「わからない。首を吊った当日も高津さんは普通に笑って明るく喋ってたらしい。俺も何回かOTの時に高津さんと喋ったことあるけど、自殺の気配なんて微塵も感じなかった。外からじゃ何もわからないよ。本人が本当に考えてることなんて」

「うん。わからない」

「たしか日本の政党で安楽死を進めようとしてる政党なかったっけ?」

「ああ、安楽死制度を考える会っていうのがあった気がする」

「日本も安楽死が合法化しないかな」

「日本はまず絶対無理だよ。死に関する議論なんて政治家がすると思う?」

「思わない。たぶん臭い物には蓋をする。あと、日本で安楽死合法化したら奴隷が減るから偉い人とか支配者層が困る。人減ったら税収が減る。資本主義は相対的だからこそ資本家が華やかな人生を謳歌できる。だから死にたい奴こそ生かさないと駄目なんだ。弱者がいるから強者がいる。残酷な話だな」

「うん。でもまあ、人間はまだ良い方じゃない? 動物界なんて、弱い個体はすぐ殺されちゃうよ」

「いっそ殺してくれた方が楽じゃね? 人間は、なまじ知能があるせいで、弱者を生殺しにするんだ」

「あ、すっかり忘れてた。友樹に話があったんだよ私。ペントバルビタールのことで」

「うん」

「今私のバッグの中にね、ペントバルビタールが何十錠もある」

「え、なんで?」

「私のお兄ちゃんに頼んだ」

「詩織のお兄ちゃん何者だよ……」

「医者。どのルートから取り寄せてくれたかは教えてくれなかった。飲んでみる?」

「うん」

「じゃあ手出して」


 詩織がバッグから取り出したのはフリスクのパッケージだった。フリスクを1粒だけ俺の手の上に出した詩織は、言った。


「これをたくさん飲んだら死ねる」

「死ねない。これフリスクじゃん」

「死ねるよ。私、今からこれODするから!」


 そう言って詩織は、フリスクを一気に口の中に入れまくって、水でそれを流し込んだ。


「あれ、全然死ねない。これ違うやつじゃん。騙された〜!」


 詩織は笑顔で残念そうに言って、再びパンケーキを口に運んだ。美味そうだったので、俺も同じやつを注文しようとしたところで、目が覚めた。


 ◆


 2時間眠っただけで友樹は目が覚めた。まだ外は暗い。

 変な夢を見た。詩織と会って話している夢だ。去年、精神病院で知り合って以来、顔を合わせて話した事は一度もない。文のやり取りだけだ。

 目が覚めるたびに友樹は絶望する。今日も何も無い1日が始まると。何も無いのが苦痛であれば、何かを始めればいいだけの話だが、今の友樹は何の意欲も欲望も無かった。ただ消えてしまいたかった。「世界がつまらないと嘆く前に、まずは自分という人間のつまらなさに気付けよ」と人気の芸能人が言っていた気がする。だが、自分という人間のつまらなさに気付いてしまった人間は、自殺しかやることがなくなってしまうのではないかと思った。

 寝ている状態が一生続けばいいのにと思う。

 何もない日々が続く。

 ホモサピエンスだから社会的に有意義に生きたいと思ってしまうが、所詮はあらゆる常識も意味も人間の作った無価値な幻想に過ぎない。じゃあ自分の好きな世界観で生きればいい。


 ◆


 最近、深夜に散歩してみると、街灯の下に虫の死骸が何匹も落ちていた。それを見て友樹は、生きることの無意味さと無常さを感じた。きっと人間の人生もこの虫達と同じように無意味なのだ。人は無駄に頭脳を発達させては、その度に複雑で余計な感情を獲得し、言語を理解したり娯楽を作り出した。だから、生きることや死ぬことに意味があると錯覚している。生きることにも死ぬことにも意味なんてない。人は死んだらこの虫と同じように単なるゴミになるだけ。人生で1番愛して好きだった女性も愛犬のゴールデンレトリバーも、単なる骨になった。

 最近、友樹は本を読みたいと思って、ネット通販で自殺論についての本を数冊買った。


 元々、本を読むのは好きじゃなかった。


 しかし、人の心を知るには文章が1番いい。その人がどんな人なのかは、文章を読めば大体わかる。文章を読むことは、その人の心を覗くことに等しいと思う。

 友樹は時折ネット小説やネット上のエッセイを読むことがある。その辺を歩いてる知らない誰かや、日本のどこかに住んでる知らない誰かがどういうことを考えて生きているのかを知るのに、ネット上の文学やエッセイはとても良かった。大物作家のエッセイよりも、名もなき一般人の書くエッセイの方が好きだった。

 7年ほどネット上の色んな小説投稿サイトの文章に触れていて分かったことがある。それは、100%完全な悪人なんて1人もいないという事と、100%幸せで満たされてる人なんて1人もいないという事だった。


(俺は俺が好みだと感じた文章しか最後まで読まないので、実際はどうかわからない)

 

 ◆


『心中したくなったらいつでも言ってください。練炭でも硫化水素でも、道具は私が揃えます。その代わり、車は友樹さんが出してくれませんか? わたし運転免許持ってないんです』

『わかりました。もし、したくなったら言います。そういえば俺この前、詩織さんの夢を見ましたよ』

『え! 死ぬほど嬉しい! どんな夢!?』

『喫茶店で詩織さんと俺が安楽死について話してる夢でした。いきなり詩織さんがフリスクをODして死のうとしてました』

『私ものすごく馬鹿じゃんwwwwww』

『うんwww』


 ◆


 深夜、孤独な部屋の中で酒を飲みながら友樹は、自分には何の才能があるだろうか? と思い悩んだ。

 友樹が幼稚園児だった頃、先生に漫画を見せたら、先生は感嘆して、友樹の母に「お母さん、友樹くんはすごい才能がありますよ。将来は芸術の道に進ませるべきです」と言った。それを友樹が知ったのは自身が引きこもりになってから数年経ってのことだった。智子が唐突に「そういえば、友樹が幼稚園の時にね……」と語り出したのだ。

 友樹は自分に漫画や絵などの創作の才能があるとは微塵も思っていなかった。野球の才能も人並みだった。


 だが唯一他人から褒められたのは、文章だった。


 友樹は高校生の頃からネット上に文章を公開していたが、友樹の文章を読んだ人から時折こいつは天才だと言われた。何の成功体験もなかった友樹にとっては、これが唯一の活路であるようにも思われたが、プロを目指すまでの情熱は一切なかった。ただ時間潰しになればいいと思って書いていた。

 実際、友樹が本当に死ぬ気で小説を書いていたのは19歳の頃までだった。その小説が多くの人の目に留まって、絶賛されたことで、友樹は満足し、創作に対する熱は冷めた。

 数ヶ月前のことだ。おそらく6年ほど友樹の読者だった人から、


「はっきり言って私はもうあなたの書く文章には一切魅力を感じません」


 と言われた。その時は流石に友樹もショックを受けた。(俺の才能は完全に枯れ果てたのだ。俺の唯一の心の拠り所がなくなった)と友樹は思った。


 他人より文章を書くのが多少得意だった友樹にとって唯一のアイデンティティは砕かれたが、実は友樹自身も、自分の文章に対して何の価値も見出せなくなっていた。

 昔のような、10代の頃のような、鬼気迫る小説はもう書けない。今はただ、全てを諦めきった虚しい文しか書けなくなっていた。

 しょうがないだろう。ここにあるのは深い孤独と希死念慮だけ。朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来る。生きた心地がしない。

 生きたい、と自分を鼓舞してみても、その土台には「死にたい」がある。

 好きだったネット小説家が自殺を仄めかしてそのまま2度と投稿されなかったり、友人が自殺を仄めかしてそのまま消えたり、そういう経験が友樹には今まで何度も何度も何度もあった。

 友樹にもしばらく前までは希死念慮ばかりあったが、最近は昔ほど死にたいと思わなくなっていた。いちいち病むのも疲れる。いちいち傷付くのも疲れる。

 自分を人間だと思うから苦しいし、悲しいし、痛いのだ。俺は自分を人間だと思ってない。神でも妖精でも天使でも何でもいい。自分を人間と思わないことが生きやすくなる一つの手段である。人間と同じ視点で生きてないのに無理矢理人間に憧れたりするから、俺は死にたくなったんだ。

 人と関わるのは基本的には怖いことだ。他人を傷付けると、自分も傷付くことを知っているからだ。

 ヤマアラシのジレンマという言葉がある。

 ヤマアラシは、全身が硬くて長いトゲで覆われていて、怒るとそのトゲが強力な武器になる動物だ。ヤマアラシは一匹だと寒いから、他のヤマアラシとくっつこうとする。

 しかし、くっつくと針が刺さって痛いから離れようとする。くっつきたいのにくっつけない、または離れたいのに離れられないというジレンマが人間関係に似ているというものだ。

 寒くてもいいから決して傷つきたくない人生を選ぶなら相手と距離を置いてつきあえばいい。それか誰とも関わらなければいい。暖かい人生を送りたいのだったら傷付け合うことを念頭に入れた上で他者と付き合うことになる。

 傷つくのが怖いからといって、他人と距離を置いて生きるのはやっぱり寂しい。

 だが、近付けば近付くほどに友樹は他人を傷付け、失望させた。


 ◆


 昼間、智子はリビングで海外ドラマを見ながら考えた。

 友樹は毎日自分の部屋にこもって酒を飲んでいる。智子は、我が子ながら友樹の気持ちが一切分からなかった。友樹が何を考えているのか、一切分からないのだ。友樹は感情を一切表に出さず、顔も常に真顔だ。常にイヤホンをしている。音楽を聴いているのか、それとも無音なのか、それさえ分からない。智子が友樹に用事があって声をかけると、友樹はイヤホンを外し、「なに」と言う。智子が何かを言うと、「ああ」とか「うん」とか「知らねえ」だの、それしか言わない。

 友樹が智子に声をかけるのは決まって「酒買ってきて」の一言だけだった。

 友樹は家族の誰とも話そうとしない。

 今にして思えば、友樹から何か相談事をされたことがない。友樹が悩みを打ち明けたことはない。友樹は常に自分1人で全てのストレスを抱え続け、ある日突然爆発したかのように、全てを放擲する。何年も続けた野球をやめたときも、学校を辞めた時も、仕事を辞めた時もそうだった。何の相談もされなかった。

 智子は自分が親として信頼されていないのだと思っている。

 智子は自分の両親、特に母親から虐待を受けて育った。自らの母を反面教師にして子供に愛を注いで接してきたつもりだった。

 それでも、結果として、彩花も友樹も社会不適合者に育ち、実家に引きこもって生活している。彩花に至っては結婚して小さな子供までいるというのに、母としての役目を全て放棄していた。彩花はよくヒステリックに自分の苦しみや心情を智子に吐露する。




「子供なんて産まなきゃよかった!!!!!」




 と彩花が言った時、智子は彩花を叱った。

 でも友樹は友樹で、自分の気持ちを何も表にしてくれないから、一体何が良くて何が悪いのかも分からない。

 1番上の子を子宮外妊娠で流産してから、智子は医師に「もう、あなたは、妊娠できない体です」と宣告を受けた。それでも必死に不妊治療をして、ようやく彩花と友樹を身籠った。2人とも懸命な不妊治療の末に生まれた子供だった。


 智子は自問し続けた。「一体母親として何が間違っていたのだろう」と。

 

 ◆

 

 彩花と友樹は時折ラインで話していた。姉弟間の仲は悪くはなかった。

 友樹は一度、彩花から「うちの親は信用できない毒親だよ」と打ち明けられた。友樹も同じような感情を親に対して持っていた。

 大体の人間は20歳になれば大人になる。親がどうこう、なんて言ってられるのは10代までだ。

 友樹は逆に18歳から20歳までの2年間、一人暮らしをして自立していた。しかし20歳の時に実家に引きこもり始めた。

 友樹はもう全てがどうでもよかった。自分を取り巻く全てが無意味に思えた。ドラッグストア、交番、病院、コンビニ、スーパー、人の波。空、地面、ショッピングモール、レストラン、図書館、そば屋、書店、パン屋、花屋、ラーメン屋、神社、寺院、中古車センター、家電量販店、郵便局、プレハブ、学校、ホームセンター。


 ◆


 ある日、友樹は2日振りにシャワーを浴びた。

 日曜日の16時頃、徒歩2分の場所にあるスーパーへ1人で歩いて出かけた。真っ黒のバンドTシャツに真っ黒のスウェットのズボンと真っ黒のクロックスという強盗のような出立ちだった。

 財布の中にある金は2000円。

 2リットルペットボトルの焼酎なら余裕で買える。

 日曜の昼下がりのスーパーはとても混んでおり、駐車場はいっぱいだった。店の中にも人が沢山いる。


(世の中色んな人がいるなぁ)


 と友樹はめちゃくちゃ当たり前のことを思った。おそらく0歳から90歳くらいまでの人間がこの空間の中にいる。

 友樹はカートを押しながら【Liquor】と書かれたコーナーに向かい、JINROという2リットルのアルコール度数25%の甲類焼酎をカゴに入れた。

 そのときスマホが振動したので、友樹はスマホを開いた。詩織からのラインだった。連続でラインが来た。


『まんまるたぬき、おっぱいを向けて車の前走ってた!!!!』

『ひいては、だめ』

『たぬきは、執着心が強くて、剥製にするのは駄目って、おじいちゃんが言う』

『まん丸たぬきは、、子どもの時のひとりぼっちの、わたしの事なんな、なんだって言われた』

『ひいてやりたいけど、今日は、勘弁してやるって言われた!!!!!!!! うける!』


 詩織は26歳だ。26歳の正常な女性からのラインとは思えない。

 どう返していいか分からなかったので、友樹は既読スルーをした。酒で酔ってるか、市販薬をODしてるか、睡眠薬などの精神薬で健忘を起こしてる可能性が高い。以前、詩織はハルシオンを処方されていると言っていた。

 ハルシオンという睡眠薬は健忘を引き起こすこともある。ただ、


「まだ16時なのに寝るのは早いから、多分酒かODだな。ほっとけば治るか」


 友樹はそう確信して、スマホをしまった。

 酒の入ったカートを押しながら友樹はスーパーの「3番」のレジに並んだ。友樹の1つ前には痩せている女性客がいて、その脇に小さい息子が立っていて、2人で笑って喋っていた。

 友樹が列に並んだその時だった。

 友樹の2つ前に並んでいた体格のいい腹の出た単発の中年の男が、後ろを振り返って、友樹の1つ前の女性客に突然でかい声でこう言った。


「生きるのは辛いよな?」

「え?」

「生きるのは辛いよな? って聞いてんだよ答えろ!!!!!」

「……え? え? え?」

「おい。優先席ってあるだろ? 電車やバスに。あれは強制じゃなくてあくまで優先なんだ。だから俺は臨月を迎えた妊婦が目の前にいたって譲らない。強制席じゃないからな。あれはあくまで優先席だ。俺は重度の脳の病気だ。だから初犯でお前を殺したとしても執行猶予が付く」

「……」

「なんで何も言わねえんだよ! この糞女がよ!!!!!!」


 男は突然紙袋から包丁を取り出し、最初に小さい息子の顔を包丁で切りつけて、そのあと母親の胸部を思いきり突き刺した。流れるような一連の出来事に、周囲の客から叫び声や怒声が沸き起こる。

 友樹は非現実感のあまり、ただその場に立ち尽くし、無表情で茫然とした。 

 男は仰向けに倒れた女性客にマウントポジションを取り、上から何度も何度も胸や腹や顔面に包丁を突き刺す。やがて、周りにいた男性客や店員ら数名が男を女性から引き剥がし、取り押さえて、男は激しく暴れながらもようやく制圧された。血がベッタリ付いた包丁が床に落ちて、「からん」と甲高い音を鳴らした。

 大量の血を流して倒れてる女性客と、切られた顔を両手で押さえながら母親のそばでしゃがみ込んで泣く息子。客は慄いて四方八方に散る。


 友樹は、「あーめんどくせえな、セルフレジで買うか」と無表情で思った。


 一瞬にして全ての人が散ったセルフレジで自ら酒のバーコードを機械と照合した。ピッ、ピッ、ピッ。

 酒のバーコードを読み取っていく。それが終わると現金を機械に挿入して、冷静に会計を済ませた。

 さっきまで平和だったスーパーは今、スラム街みたいに治安が悪くなっている。叫んでる人が何人もいる。店員が、客が、慌てふためいている。異様な雰囲気を醸し出している。

 

「……季節が暖かくなってくると、頭のおかしい奴が増える」


 と友樹は呟いた。


 友樹は持参したエコバッグに酒を冷静に入れ、混沌に満ちたスーパーを無表情で後にした。

 スーパーから自宅までは徒歩2分だった。

 歩いてるとすぐ家に着いた。玄関でクロックスを脱いでいると、たまたま智子と遭遇した。

 智子は「どこ行ってたの」と訪ねた。友樹は「スーパー」と言った。「何買ったの」と訊ねると「酒」と答えた。

 そして友樹はスリッパに履き替えて黙って自分の部屋に戻った。

 買ってきた缶チューハイの蓋を開け、少し飲んでから、友樹は詩織にラインを送った。

 さっきの出来事を誰かに聞いてほしかった。


『詩織さん、さっきすごいことがありました』

『なに???? まん丸たぬき??????』

『まん丸たぬきじゃないです。さっきスーパーに行ったら殺人事件が起きました。男が突然意味不明なことを言って女性客に何度も包丁を突き刺したんです。生まれて初めてそういう現場に遭遇しました』

『それ作り話でしょ。私、嘘つく人きらい』

『本当です。多分ニュースになると思います』

『どこのスーパー?』

『T市のBっていうスーパーです』

『じゃあニュースになったら教えてね』

『はい』

 

 詩織は普段必ず敬語を使うが、タメ口だった。やっぱり酒か薬で酔っているのだと思った。

 友樹は無表情で酒を飲み続ける。

 ああいった形で理不尽に命を奪われ、幸せを突然無くす人がいる。(まだ死んだとは確定してないが)

 あの男のように、頭のおかしい人が世の中には一定数いる。

 自分はああいう風には絶対なりたくない。生きてることで周りにかける迷惑は最小限にしたい。

 友樹はおかしい頭でそう思った。


 ◆


 友樹がそう思っている瞬間、隣の部屋では彩花が腕を切って泣いていた。階下のキッチンでは智子が大粒の涙を流しながら洗い物をしていた。正彦はラブホテルで若い女と不倫していた。


 ◆


 それから数時間後、夜10時頃に詩織からラインが来た。


『ほんとだ。友樹さんが言ってたことネットニュースになってました。G県T市のスーパー店内で47歳の男が21歳の女を刺して意識不明の重体で病院に運ばれ、病院で死亡が確認されたって。4歳の息子は軽傷を負ったって書いてあった』


 直後、そのニュースのURLが送られてきた。友樹はそのURLを開いて、事件の概要を読んだ。


『あの人やっぱり死んだんですか。可哀想に。これから色んな幸せがあっただろうに』


 友樹は無表情でそう送った。

 殺人の現場に目の前で遭遇したのに、特段ショックも受けず、普段通り冷静でいられる自分が少し嫌になった。

 友樹は思う。


「もし、あの男の後ろに並んでいるのがあの女性ではなく俺だったら、殺されてたのは俺だっただろう。俺は運よく、生き残っただけ」


 実は今、友樹の心の中にあるのは、死ななくてよかった、という思いだった。

 友樹は今、生きる歓びを享受し、気分が少しだけ高揚している。友樹は今、息をしている。

 他人の死に直面したことで初めて生の実感を得るなんて、俺は性格が悪いのかな?


『詩織さん』

『なんですか?』

『この事件、もしかしたら、殺されてたのは俺だったかもしれないんです』

『え、どういうこと?』

『俺がレジに並んでる時に事件が起こったんですけど、刺されて亡くなった被害者は、俺の1個前に並んでた人だったんです。だから、その被害者がもしもレジに並んでなかったら、きっと俺が殺されてたんです。俺があと少しだけ早くレジに並んでたら、殺されてたのは俺だったんです』

『え、そうだったんですか!? 友樹さん、そんな近くにいたんですか!?』

『はい。めっちゃ現場の近くにいました』

『友樹さんが生きててくれて、うれしいよ! 超よかった!!!!!』


 その文を見て、友樹は反射的に笑った。


 最近、私と心中してくださいと言ってた人が、俺の生存を喜んでいる。なんて馬鹿馬鹿しい矛盾だろうか……。


 でも、生きててよかったと言ってくれてとても嬉しかった。

 友樹は、勢いに任せて、詩織にこう送った。


『俺も俺が生きててよかった。詩織さん、今度会って喫茶店にでも行きませんか? 夢の再現がしたいです。文字じゃなくて、会って同じ空間で喋りたいです。だって俺達は、いつ死ぬか分からないじゃないですか。生きてるのは当たり前じゃない。明日、交通事故で死ぬかもしれない。通り魔に殺されるかもしれない。災害が起きて死ぬかもしれない。その前に詩織さんに会いたいです』

『私もまた友樹さんに会いたいです。いつ死ぬか分からないですもんね。明日、T駅で待ち合わせしましょう。明日でも大丈夫ですか?』

『大丈夫ですよ。いつでも』


 ◆


 ◆


 ◆


 近所の幼稚園から歩いて帰ってきた4歳の友樹が、リビングでブロックのおもちゃで遊んでいる。智子は洗濯物を畳みながら、笑って訊ねる。


「友樹〜、今日は幼稚園で誰と遊んだの?」

「ひとりー!」


 友樹が笑ってそう言うと、智子は少しだけ悲しそうな顔をして、「そうなんだ〜!」と言った。


(ひとりであそぶことはわるいことなんだ。ともきはひとりでもたのしいのに。)


 4歳の友樹は複雑そうな智子の顔を見て、そう思った。

 それと同時に、頭上から知らない女性の声がした。


「こんなところにいたの? 友樹くん」


 気がつくと、リビングで1人で遊んでいる4歳の友樹の前に、26歳の詩織が立っていた。


「おねえちゃん。だれ?」

「友樹くんのお友達だよ」

「しらない」

「1人で遊ぶより2人で遊んだ方が楽しいよ。ほら、こっちおいで」

「ひとりのほうがたのしい」

「本当に?」

「うん」

「じゃあ何で毎日お母さんがいなくなる度に泣いてるの?」

「……」


 気が付くと、幼い友樹は涙を流していた。


「本当は1人でずっと遊んでるの寂しかったんでしょ。1人の方が楽しいなんて言って強がって。ほんとに優しいよね。ほら、早く立って。私と行こうよ! 過去は暗くても、未来は明るいから!」

「……ありがとう。俺は実は子どもの頃から、ずっと寂しかったんだ。他人に愛されたかったんだ。他人を愛したかったんだ。ただ、それだけがしたかったんだよ」

「じゃあ2人で行こうよ」

「うん」


 大人になった友樹の前に、詩織の手が差し出された。

 友樹は恐る恐る、その手を弱々しく握った。

 そして友樹は、詩織の手に引かれて、真っ白い光の中へと向かってゆっくり歩いた。


 その様子を遠くから近くから見ていた母親の智子は、泣きながら、笑っていた。


「応援してるよ」

「わかった。ありがとう、お母さん」








 終わり









【あとがき】


 これも4年前くらいに書いたやつのリメイク。細かい点を今の俺が大きく修正しました。よんでくれてサンキュー!!!!!

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再生の風景【リメイク版】 Unknown @ots16g

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