先輩は本気にしてくれない

春奈先輩

 



「先輩、好きです」


 講義が終わって、机の上を片付けていた先輩がぴたっと手を止めた。

 長い黒髪。真っ白な肌。長い睫毛が伏せられて、綺麗な顔に影ができた。


「うん」


 先輩はこっちを見ないまま、また片付け始めた。いつも通り、本気にされていない反応に、拳を固く握りしめる。


「春奈さんのことが、好きなんです」

「ふふ、なあに急に」


 名前を呼ぶと、先輩はやっと俺の方へ視線を向けてくれた。

 髪で隠れていたピアスが揺れて、目の覚めるような蒼玉サファイアが色白の肌に映えている。


「どうしたの?」


 見惚れていて、返事が遅れてしまった。

 浮ついた声でまごつきながら、先輩の吸い込まれるような瞳と視線が合う。


「先輩、別れたって聞きました。だから──」

「いけると思ったの?」


 先輩はふわりと笑って、髪を耳にかけた。


「違います! ただっ」


 慌てて言い直そうと前のめりになると、先輩が音を立てて椅子から立ち上がった。

 先輩の腕が伸びて、柔らかい香水の香りが鼻腔をくすぐる。


「っ先輩……」

「ねえ、谷崎くん」


 春奈さんが近づいてきて、白い指先が俺の輪郭をなぞる。


「……わたしとあそぼっか」


 顔に熱が集まってきたのが分かる。


「遊び……?」


 上擦った声で繰り返す。


「谷崎くんちで、二人きりで」


 俺の反応に気づいて、冷めた目をした先輩はさらに顔を近づけてきて、耳元で呟いた。

 まるで相手にされていない対応に、ぐしゃりと前髪を握り込む。


「……なんですか、それ」


 正面に立つ先輩は、なんてことないようないつもの笑みを浮かべていた。


「俺のこと、好きじゃないくせに」


 俺はこんなに先輩に揺さぶられているのに、平然とした態度の先輩が憎らしくなる。


 先輩は目を瞬かせて、

「ふふ、そんなことないよ」

 と微笑をたたえながら、甘すぎない香水の香りだけを残して、離れていった。


 計算尽くされた可愛さに惹かれていく。


「俺、本当に春奈さんのことが好きなんです。だから先輩も遊びじゃなくて、本気で考えてください」


 必死の訴えに、先輩の目が細められる。それを見て、俺の心臓が痛いくらいに高鳴っていった。


「そっか、じゃあバイバイだね」


 先輩は途端に興味を失ったように、俺に背を向けた。


「どうして……ですか」


 背に問いかけても、先輩は振り返らず鞄を肩にかけている。


「……うーん、秘密」


 壁を作られた。俺が望んだのは、こんな結末じゃないのに!


「じゃあまた、サークルでね」


 先輩の細い腕を咄嗟に取って、引き止める。力が入らないように気をつけてそっと離す。


「俺じゃ、だめなんですか?」


 先輩は立ち止まってくれたけど、まだ俺を見てくれなかった。


「なにが?」


 本当に俺は先輩に本気にされていないんだなぁ。

 薄々感じていたことを自分の中で認めると、目頭が熱くなった。目の縁に涙が溜まっていく。


「……本気になれる相手、俺じゃ、不足ですか?」

「ふふっ、泣かないでよ」


 涙声に気づいた春奈さんが、優しげな視線を向けて、俺の頭を撫でる。

 小さな手で何度も泣きやませようと撫でてくれる。必然的に近づいて、さっきよりも甘ったるい香りがした。


 春奈さんは聖母のような笑みを浮かべて、

「じゃあ、あそびたくなったらまたおいで」

 悪魔のような言葉を吐いた。


「……え」


 固まった俺を横目に、先輩は腕を首にまわして真っ赤に染められた柔らかい唇を、俺の唇に押し当てた。

 ──え?

 呆然としていた意識を戻して、引き剥がす。


「そうじゃないんですよ!……それじゃ、だめなんですよ。先輩、俺──」

「そっか」


 先輩の乾いた瞳に何も言えなくなる。先輩は肩を掴んでいた俺の手首を払い除けるように離した。


「なら、もう連絡してこないでね」


 俺のことが心底どうでもいい、というような表情をして踵を返して教室から出ていった。

 先輩の冷ややかな視線に、自分の世界が揺らぐような、足場が揺れるような感覚がして、顔を覆ってしゃがみこむ。


「くそっ……」


 ジーパンが零れた涙で円形の染みをつくっていく。

 手の甲で拭った先輩の赤いリップが鮮やかに艷めいていた。

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先輩は本気にしてくれない @eri_han

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