閑話 とあるスライムの情景

 遠いどこかの世界の、どこかの森で。

 透き通った青色をした、ぷよぷよの粘体がいた。


 太陽の光に照らされて赤い核が煌めく。

 這いずるように地を進む姿は、まるでナメクジのようでもあった。

 その魔物の名は、スライム。

 およそ生態系において最下層に位置する存在であった。


『……』

『……』


 スライムに感情はない。

 あるのはただ、生き延びて子孫を増やすという、単純なプログラムだけだ。

 群れを成すのは少しでも生存確率を上げるため。

 誰かが囮になってでも種族を絶やさぬよう、彼らは日々を生きていた。


『……』


 ……だからこそ、そのスライムは異端であったのだ。


『……グルルル……』


『……!』

『ピギ、ギ……!』

『ピピッ!』


 森の中に茂っている雑草を食し、新たなスライムを生み出そうとしている最中。

 木々の間を縫って、大きな狼が現れた。

 その額には角があり、バチバチと雷が帯電している。


『グラァッ!』


『ピギ……!?』


 バヂンッ、と音が鳴って、一体のスライムが蒸発する。

 残るのは熱と赤い核だけだ。

 それを口に咥え、狼は飲み込む。

 角からはスパークがまだ収まっていなかった。


『グルルル……!』


『……ッ』


 最初の雷撃を受けて、スライムの群れは一斉に逃げ出していた。

 一方向ではなくばらけるようにして。

 彼らは本能的にそういう逃走方法を知っていたし、それが種を生き永らえさせる方法だと理解していた。

 故に彼らは逃げ続ける。たとえ自分が目立ち、消し炭になろうとも。

 種を絶やさぬことだけを本能として、逃げるのだ。


 ……ただ、一体のスライムを除いて。


『……』


 そのスライムは逃げなかった。

 立ち向かうためではない。彼は明らかに、そう、言葉を人間的に変えるなら。


 彼は怯えていた。


 自分という個体が消えることに。自分という意識が消えることに。

 何故そう思うのかは知らない。

 けれど、生き延びたいと願う。


『……』


 同族のスライムが角狼に蹂躙される中、そのスライムは木の陰に隠れ続けた。

 彼にはそうするだけの知能があったのだ。


 ただ逃げるだけの同族とは違う。

 突然変異か、はたまた奇跡か。

 かのスライムは隠れ、囮にして、生き延びる知恵があった。


『……ピ』


 ……そうして、角狼の狩りが終わったとき。

 スライムは木の陰から姿を現した。

 群れの位置は……あそこか。


『……』


 彼らには自分達の位置を知らせる、特殊な魔力の波長があった。

 同族にしか伝わらない信号。

 彼はそれに従い、何度目かの合流を図った。


 最初に生まれた群れは既に消えてしまった。

 今度の群れはいつまで持つのだろう。


『……』


 地を這い、緩慢に進むほかない自分の姿。

 どうして自分はスライムなのか。どうして自分は、あの狼のように早く走れないのか。


 それは疑問であり、願いであった。

 核から感じる魔力の波動は、この世界の広大さを伝えてくれる。

 しかし自分はあまりに小さく、矮小で。その一端にすら、触れさせてもらえない。


『ピ……!』


 粘性を持つ体を動かそうとしても、できるのは這いずることだけだ。

 生を受けて数ヶ月経った今と。生まれたころから、速度は殆ど変わっていない。

 沢山雑草を食べても、得られる魔力はほんの僅かだ。

 

 ……そのスライムは、意識を上に向ける。

 幾度も襲撃を受けたことから、彼は知っていた。

 この森には空を舞う魔物がいて。きっとその魔物は、自分よりも遥かに世界を知っているのだと。


『……』


 生き延びなくてはならない。

 感情と呼ぶにはあまりに原始的で、稚拙で、純粋なそれは。

 その小さな体の中でずっと渦巻いていた。



 ……それからスライムは、群れと合流し。

 二度の襲撃を生き延びることになる。

 いずれも角狼の仕業であり、恐らく奴らにとって自分達は、丁度よい餌なのだと理解した。

 

 そこで彼は、自分が生き残っている理由に気付く。

 自分が未だ生きているのは……ただ単純に、面倒だからだ。

 餌でしかないが故に。

 わざわざ木の陰を探すよりも、目の前の餌を優先したほうがいい。


 自分達が動かない雑草を食べるのと同じように。

 彼らは緩慢なスライム達を狩り、食す。

 

『……』


 それは運命なのだと、隠れながらスライムは悟った。

 どこまでいってもスライムはスライムでしかない。

 願いは遠く、意味はなく。

 もう希望を持つことはなくなった。


 スライムはそれから、生き続けることにした。

 同族を囮にし、ある時は草むらへ、ある時は大樹の下へ。

 どこまでも面倒くさい餌を演じた。


 食うならあいつらにしろ。自分は、生き延びるのだ。


 そうやって……更に数ヶ月の月日が流れた。

 かのスライムが生まれてから、約半年が過ぎたのだ。

 驚異的な記録である。

 他のスライムの寿命が数日から数週間ということを鑑みれば、その凄さが伝わるだろう。


『ピ……』

『ピギ、ピギ……』

『……』


 そして、今日もまたスライムは這いずり、雑草を食している。

 今度の群れはそこそこ長命で。

 されどこれ以上は長くないと、悟っていた。


 群れが大きくなるとその分だけ他の魔物に襲われやすくなる。

 考えなしに自分の分身を生み出すからだ。

 もっとも、囮の数が増えること自体は、そのスライムにとって好都合なのだが。


『……』

『ピ、ピ……』


 かくいうスライムも、自分の分身を生み出していた。

 長い年月で蓄えた魔力はスライムにしては膨大で。

 こうして同族を生み出すこと自体は、簡単なことであった。


『……』

『ピギ、ギ……』


 かのスライムは、自分が生み出した小さなスライムを感じる。

 その魔力の動きからして……どうやらこれも、同族と同じなようだ。

 自分だけが知恵を持っている。

 どうしてなのかは分からない。どうして、どうして。


 ……スライムは、仲間が欲しかった。

 自分と同じ存在を知りたかった。

 

『……』

『ピピ……』


 こうしてスライムは、また一つ願いを諦めた。

 その場を離れて、隠れやすそうな木を探し、そこで雑草を食べる。


 いつまでこんな日々が続くのか。

 分からないが、だからといって消えたくはなかった。

 自分は生き続ける。

 そして、いつか……。


『グルルル……』


『ピギ、ピギ』

『ピ……!』

『ピギギ……ッ』


 同族の特殊な波長を感知し、襲撃を知る。

 この魔力……また、角狼か。


『グルルァッ!』

『ピギッ』


 バヂン、と雷が弾け、スライムの反応が消える。

 あのスライムはそこそこ長く生きた個体だった。それなのに、こうしてあっけなく終わる。

 あんなのは嫌だ。

 

 故にかのスライムは、今まで通り、木の陰に隠れようとして。


『ピ、ピ……!』

『グルルルル……』


『……』


 あの、魔力の波長は、たしか。

 たしか自分が生み出した、ものだったか。


『……』


 それは失敗であった。不必要に魔力を消費しただけの、失態であった。

 見捨てればいい。

 どうせあれは、他のスライムと同じなのだ。


『グルル……!』

『ピ……』


 自分は生き延びるのだ。

 生き延びて、生き延びて。


 ……何が、したかったのだろう。


『ピ、ギィッ……!』


 気付けば木の陰から飛び出していた。

 核に蓄えられていた魔力が熱を帯び、体を動かす。


 狼の角に集中していた魔力が、消失する。

 自分の接近を確認したのだ。

 餌が進んでくることを、知ったのだ。


『グルァ!』

『ピギィッ!』


 狼が吠える。

 負けじと、こちらも鳴いた。


『ガァッ!』

『ギッ……!?』


 勝負にもならなかった。

 渾身の突進は容易く破られ、砕かれ、噛み千切られた。

 狼の歯が核を砕く。

 

『ピ、ィ……』


 ……あのスライムは、逃げたのだろうか。

 消えゆく意識の中でスライムは思う。

 できたなら、生きていればいい。そしてまた、同じように、仲間を増やして。

 そうしてずっと、生きていればいい。


 何がしたかったのか。

 何を願っていたのか。

 スライムにはもう、分からなくなっていた。

 

 だからもう、いいのだ。 

 もう、自分は……。


『――キィイイイイイイイ!!!』


『ガァッ!?』


 その瞬間、森に甲高い鳴き声が響いた。

 スライムは音を聞くことができない。だが、彼はそれを知っていた。


 自分では決して届かぬところにいる、その存在。

 空を箱庭とし、地を這う生物を食らう頂点の魔物。


 角狼の魔力反応が、遥か高みへと昇っていく。

 自分の探知範囲の先へ、きっともっと先へ、空の彼方へ。

 あれだけ自分達を食らってきた、あの角狼が、消えていく。


『ピ……』


 ……あぁ、そうだ。

 自分は、本当は、ずっと。


 空を飛んで、みたかったのだ。

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スキルレベルしか上がらない一般身体能力学生が迷宮に挑んだら 石田フビト @artandnovel

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