さカうラみ
うたた寝
第1話
彼女は彼のことを振った。
『当然』それは許されるようなことではない。
それはあまりにも歪んだ思考。本来、『当然』という言葉を使うのであれば、『当然』誰にだって告白を振る権利はある。誰かの告白を振ったとして、それは『当然』責められるようなものではない。
怖いのは彼自身『告白を振ったことを責められるのはおかしい』ということを理解している、ということ。赤の他人が自分と同じ発言をしているのを客観的に見た場合、その人のことをおかしい、と思える、ということ。
では彼の言っていることは矛盾しているではないか。客観的に見ればそう。だが、主観となっている彼としては矛盾したことは言っていない。
『誰かの告白を振っていい』ということと『自分の告白を振っていい』ということが彼の中では一致しない。これは彼にとっては別の話なのだ。その認識の違いがこの歪んだ思考を生んでいる。
こんなにも彼女のことを愛しているのにその愛が実らないなんておかしい。彼女のことをこんなにも愛している彼に感謝し、涙を流し、喜び、彼の愛を受け入れるべき。何の違和感も無く、彼はこれを当たり前だと考えている。
自分を振った人間の幸せを願う。それはとても素敵なことで尊いことではあるが、その実、とても難しいことではある。振られたことで傷つき、拗ねて、多少なり相手の不幸を望んでしまったとしても、それは仕方ないことなのかもしれない。
だが、彼のはその仕方ないで許される許容範囲を超え始めていた。
ろくでもない男に引っ掛かって自分を振ったことを後悔すればいい、最初はこの程度の僻みだった。自分を振った相手に対してそのようなことを思うのは褒められることではないかもしれないが、それでもどこか人間らしい、仕方ないね、のレベルで済まされる拗ねではあった。
それが徐々にエスカレートし始める。変な話、振られて彼女ともう関わる機会が無ければ、そのままそっと消えて忘れていった想いだったのかもしれない。しかし、振られた後も関わる機会があったことで彼の想いは消えるタイミングを失った。それどころか、その想いの力が別の燃料となって別の感情へと引火させた。
彼女は何故、自分を振った後もあんなに楽しそうに笑っているのだろうか?
彼女は何故、自分の気持ちを知っているにも関わらず、他の男と話せるのだろう?
彼女は何故、あんな何事も無かったような顔ができるのだろうか?
好きと嫌いは表裏一体。些細なことをきっかけに好きの気持ちは嫌いへと一変する。
自分の告白が過去のものとなっている。いや、過去どころか、無かったことにされている。その程度。自分の彼女への想いは彼女にとってはその程度。次の日には忘れられ、何事も無かったかのような顔をされる。
胸に走っていた痛みがいつの日か、怒りへと変わった。好きだったはずの彼女の笑顔を見ると怒りがわいてきて、その笑顔を消したい、と思うようになった。
『ろくでもない男に引っ掛かって自分を振ったことを後悔しろ』程度の可愛い僻みだったはずのものがいつの間に『公衆の面前で複数人の男に辱められ乱暴されて泣き叫べ』という攻撃的な思考に変わった。
自分を振った相手の不幸を願う、ではなく、自分を振った相手の幸福が許せない。
失恋した痛みは、いつの間にか失恋させられたことに対する怒りへと変わっていた。
自分は振られて傷ついたのだから、同じくらい傷ついてもらわなければ不公平だ。そんな歪んだ公平を求め始めていた。それは彼女の罪であり、彼女への罰だ。そんな風に考え始めていた。泣き、叫び、彼に許しを請わなければいけない。それが彼にとっての『当然』だった。
彼の好意を無碍にしたあの女には相応の罰が必要だった。そう信じで疑わなかった。その妄信が彼に一線を越えさせた。
思っているだけであれば何を思っていてもそれは本人の自由だ。その内容が他者に話した際に共感され、褒められたことかは別にしても。それが例え、口に出すのも憚られるほどの酷く理不尽な内容だとしても。思っているだけなのであれば、それは本人の自由だ。
例え、彼女のことをナイフで刺してやろうと思っていても。公衆の面前で服を切り裂き、辱めた後に顔に一生モノの傷を残してやろうと思っていたとしても。そんな危険な思想を持った上でポケットに入ったナイフに手を当てているとしても。
行動にさえ移さなければ、まだセーフだった。
普段は使用しない駅のホームのベンチに彼は座っていた。ポケットに入ったナイフはしっかりと握りしめている。
やがて、目的の人物が駅のホームへと現れた。
彼女の最寄り駅はどこで、何時の電車に乗り、何番車に乗るかなんて調べはついている。
彼女がいつも乗る乗車口の近くに彼は待ち構えていた。思惑通り、彼女はいつもの乗車口へと向かうよう、彼の方に向かって歩き出す。
それをじっと待っているつもりだったが、気が急いた。高まってしまった気持ちを止められなかった。
彼はベンチから立ち上がると、彼女の方へと走り出す。
突如駅のホームで走り出した人に対して、みんなの視線は自然と集まる。普段の朝の光景ではない事態にどよめきも広がる。
そんな喧騒など、聞こえていなかった。一目散に目的の人物へと走り寄り、目の前に相手を捉え、
ナイフがその獲物をしっかりと捉えた。
何が起きたのか分からないという一瞬の静寂。やがて事態をいの一番に理解した誰かが叫んだ。その叫びに連動して皆も叫ぶ。
その叫び声はようやく彼の耳にも聞こえた。その叫び声を聞いて確信し、やった、と笑みさえ浮かべた。やってやった、と大声で笑おうとさえした。
しかし、
目の前で怯えた表情を浮かべた『無傷の』彼女が走り去っていった。
それを見て、ようやく違和感を覚え、彼の笑みは止まった。
何故彼女は無傷なのだ? 彼女が無傷ということは刺されたのは彼女ではない、ということ。
ではこの喧騒の原因は何だ? 目の前に広がる血の光景は何だ?
そこに至って彼はようやく気付いた。自分が今両膝を地面についていることに。血だまりの中心に居るのは自分だということに。
刺されたのは自分らしい、ということに。
どうやら背後から誰かに刺されたらしい。そこまでは彼にも分かった。だが、背後を振り返るまでの余裕はなく、そのままうつ伏せに倒れ込む。
誰に刺されたのか、彼には分からなかった。誰か、なんて、心当たりも無かった。
刺されたことに対する怒りよりも、刺されたことへの困惑の方が強かった。刺されるようなことを一体いつ、誰に、何をしてしまったのだろうか?
心当たりは、無い。思い出している余裕も、もう無い。
取り押さえられでもしたのか、背中の上から振ってくる誰かの大声。恐らく刺してきた相手だろうか? その声にも聞き覚えがあるか、ないかくらいだった。
誰なんだろうな……? その問いに対する答えは見つからないまま、彼は静かに目を閉じた。
人は自分が傷つけられたことは覚えていても、誰かを傷つけたことは覚えていないものらしい。
さカうラみ うたた寝 @utatanenap
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