第7話
神様がじょうろを傾けているのかと疑いたくなるような雨が降り注いでいた。
体育祭から二週間が経過し、梅雨入りして間もなくの六月上旬。空は鈍色の雲に覆われており、六月とはいえ下校の時間にもなると、町は既に薄暗い。
蛍光灯も点いていない薄暗い昇降口から雨景色を堪能した冬生は、ペトリコールと不快な湿気に梅雨を噛み締めながら、夏服のブラウスの襟周りに空気を入れる。
今日はアルバイトも無い。さっさと帰宅してシャワーを浴びてしまいたい。
冬生はそんなことを思いながら、靴を履いたまま鞄を昇降口に置いて中を開ける。――行きには雨が降っておらず、天気予報の降水確率も二割だったので油断をして傘を忘れた。
だが、油断をしたのは備えがあったからだ。
日頃から鞄に折り畳み傘を入れているため、それを差して帰れば問題ないと思っていた。
しかし、十秒ほど鞄の中を探った冬生は曖昧に笑って動きを止める。
もう十秒ほど念入りに鞄を漁った冬生は、目を瞑って天井を仰いだ。
――そういえば一昨日雨が降って、乾かすために玄関に置いたままだった気がする。「やば」と口を押さえて独り言を呟いた冬生は、慌ててスマホで天気予報を確かめる。
そんな折、ペタ、と内履きの足音が靴箱側から聞こえた。
邪魔になるかと思って、冬生はスマホを操作しながら横にずれる。だが、その足音の主は可笑しそうに笑いながらわざわざ冬生の真ん前まで移動する。思わず冬生は胡乱な目を向けた。
「や。傘、忘れたの?」
大きな真っ黒のポリエステル傘を見せびらかして笑うのは、江坂渚沙だった。
冬生はしばらく黙ってそれを眺めた後、苦笑しながらスマホを鞄に戻す。
「入りたい? ねえ、入りたいの?」
「構いませんよ。風邪をひいたら貴女のお弁当に咳をしてやります」
「ばっちぃなあ。それは嫌だから入れてあげるよ」
そんな軽口を叩きながら、軽い足取りで楽しそうに靴を履く渚沙。
冬生が「ありがとうございます」と筋を通してしっかり礼を伝えると、「水臭いな」と満更でもなさそうに渚沙は呟いた。そして、二人で昇降口を出る。
庇の下で渚沙が傘を差して隣を空けるから、冬生は鞄を反対に担いでぴったりと彼女に貼りつく。薄地の夏服越しに互いの肩が触れ合い、夏の体温を感じた。
お互い、それには言及することなく揃って歩き出す。間もなく庇を出ると、雨が傘を叩く音がぽたぽたと響き出した。アスファルトを跳ねた水が足下を濡らす。
「すっかり梅雨だねえ。嫌になるよ」
「ええ、この時期は洗濯機を回す日に困ります」
「あれ、ウチのアパートって浴室乾燥付いてるでしょ?」
「できる限り電気代も節約したいので」
洗濯物の量にもよるが、一回で百円から二百円だ。渚沙は冬生の倹約ぶりに呆れる。
「一回あたり、ペットボトル一本分くらいじゃなかった? そんな高くないよ」
「つまり晴れた日に洗濯できればお茶を一本買えると」
「そんなに電気代が気になるなら私の部屋に持っておいでよ。一緒にやるから」
「それは……流石に、浅ましいでしょう」
渚沙はまるで気にしないだろうが、『電気代が勿体ないから友人の家で乾燥機を使わせてもらっている』という事実は公言するには憚られる。無論、実際にそうせざるを得ないほど貧困にあるのならば致し方が無いことではあるが、冬生の場合は自ら選んだ一人暮らしで、そこまでの余裕がない訳でもないのだから、気が引けるのも当然だ。
「細かいなぁ」
「貴女と違って自分のバイト代でやり繰りしてるんです。細かくもなります」
「どうせ私は浴室乾燥使うし、やっぱり勿体ないから持っておいでよ」
気負いなく食い下がる渚沙。冬生は幾ばくかの逡巡と共に視線をそこら辺に放る。
すると、そんな冬生を横目に見た渚沙は、何かに気付いたように「ん」と声を上げた。
「肩、濡れてるよ。もうちょっとおいでよ」
言いながら渚沙が冬生の肩を後ろから掴んで抱き寄せ、「ああ、はい」とバランスを崩した冬生はピタリと渚沙に詰め寄る。二人の間にある自分の手が邪魔だったから、冬生は左手の居場所を求めて渚沙の腰に回し、ふと我に返って、離す。しかし、そうすると腕を中途半端な場所で浮かせたままにする必要があって――再び、そっと渚沙の腰に回した。
しばらく不自然な沈黙が二人の間に流れた。渚沙はそれきり何も言わず、冬生も、どうしてか彼女の表情を見る気にはなれなかった。ただ、左手の平に彼女の体温と柔らかい脇腹を感じ、改めて女性という生物学的性別の肉体構造を実感した。
筋肉は男性より付きづらく、骨格的にくびれができやすい。あまり自分のお腹周りを見る機会は無いが、自分もこんな素敵な輪郭なのだろうかと、触れてみたくなる。
考えていると気温が少し上がったような気がして、湿度がいっそう不快に感じられた。
――そんな奇妙な沈黙を切り裂くように、冬生の鞄のスマホが振動する。
微かな音を聞きつけた二人は揃って鞄に目を向けた。
冬生は「すみません、電話です」と渚沙から身体を離す。「大丈夫」と微かに震えた声で言って咳払いをする渚沙を尻目に、冬生はスマホを取り出す。由紀子からの電話だった。
「母からです」
「珍しいね」
言ったきり渚沙は黙って冬生の方へ傘を傾けてくれるから、視線で謝意を示し、電話に出る。
「お待たせしました、冬生です」
「あ、冬生ちゃん? もしもし、今大丈夫?」
また以前のように、寂しいから帰ってきてくれという電話ではないだろうな。
そんな疑いをどうにか押し留めながら、冬生は「ええ、まあ」と渋々肯定した。
「帰宅中で友人に傘を差してもらっているので、あまり長電話はできません」
「あら、そう。えっとね、落ち着いて聞いてほしいんだけど――」
何だか物凄く嫌な予感がして通話を切りたくなったが、その方が厄介なことになりかねないので、冬生はすっと息を吸って堪える。湿気が肺を満たして余計不快になるだけだった。
「――弘道さんが、そっちの方にお仕事に行く予定があったみたいで」
冬生はその場に足を止め、眉を顰めて押し黙る。
渚沙が不思議そうにしつつも、わざわざ足を止めて冬生に傘を差してくれた。
微かな眉間の皺を伸ばして渚沙へと微笑で謝意を伝えた後、冬生は「それで、何と?」と視線を泳がせながら話の続きを訊く。
「私は止めたのよ? ちゃんと止めたんだけど……」
「……ええ、分かってます。大丈夫です。それで、何がどうなっていますか?」
「雨が降ってるし……近いから、冬生ちゃんを家まで送るんだって車で……」
冬生は顔を歪める。過剰なストレスに体表の内側が痒くなって後頭部を掻く。目元を手で覆って深々と溜息を吐き出し、ここで八つ当たりしても仕方が無いとどうにか我に返った。
「ついさっきの話ですか? それでしたら友人と帰宅しているから不要だと……」
「えっと、五分前にそういう連絡が来て、その時にはもう高校の近くに居るって」
冬生は大きく息を吸って今すぐスマホを地面に投げ捨てたくなる。しかし、「大丈夫?」と心配そうな渚沙の顔が視界に入って、辛うじてストレスを抑え込み、首肯を彼女に返す。
「分かりました。後はこちらでどうにかします。ご連絡ありがとうございました」
「ううん、大丈夫。その、ごめんね」
「いえ、それでは失礼します」
冬生は言うや否や速やかに通話を切ると、メッセージアプリを起動。父親とのチャットを開いて溜息と共に文字を打ち込んでいく。
「どうしたの?」
「父が私を家に送ろうとしてこの辺に来ているようです」
「……わお」
渚沙はどう反応していいのか分かりかねる絶妙な表情で目を逸らした。
彼女にとっても、喜んで会いたい相手ではないだろう。自分の母親が詐欺を働いた相手であり、冬生が苦手とする身内であり、加えて、不倫をした男性だ。「来なくていいと連絡を送るので安心してください。少なくとも、貴女には会わせたくない」と言いつつ、厳しい言葉を打つ。
そして、いざ送信をした――その瞬間だった。
ガードレールを挟んだその向こう側に一台の見知った車が停車した。
冬生はそれを見てうんざりした顔で「……すみません」と渚沙に謝罪する。
それを以てエンカウントを果たしたことを知覚した渚沙は、気まずそうな顔で「大丈夫だよ」と背中を叩いた。間もなく、止まった車の運転席側からスーツの男が出てきた。
「冬生! それに渚沙ちゃん!」
弘道だった。彼は嬉しそうな顔でこちらに駆け寄ってくる。渚沙は「お久しぶりです、弘道さん」と穏やかに挨拶をするが、冬生は再会を喜ぶ気にもなれない。
「凄い雨だな! 二人とも、家まで送っていくよ。乗って」
そんな風に弘道が車を示すから、渚沙が困った顔で冬生と弘道を順に見る。
冬生は間違っても渚沙に憎まれ役など買わせる訳にはいかず、彼女を手で制した。
「渚沙さんと寄り道を考えています。お心遣いだけ有難く」
しかし遠回しな言い方では本心が通じないか、弘道は笑いながら食い下がった。
「それならそこまで送っていくよ。どうせ仕事も終わったし、その後も家まで送れるよ」
冬生は奥歯を軽く噛んでどう説得すれば彼が納得するかを考える。
しかし理詰めの言葉ではお得意の親子愛を持ち出されて感情的に拒まれる。冬生は苛立ちと共に聞こえるように舌打ちをして、それを聞いて僅かに尻込みした弘道に吐き捨てる。
「お父さん。私は以前、実家で貴方に何と申し上げましたか?」
我慢の限界を迎えてずきずきと痛む頭を押さえながら訊くと、弘道は笑って目を逸らす。
「いや、それは……偶然、ここに寄る用事があったから」
「伝わらないようなので、再度、ハッキリと申し上げます。私は遠慮をしているのではなく、お父さんと会いたくないんです。お願いします、分かってください」
弘道は忙しなく目を泳がせて顔に笑みを貼りつけ、泣き出しそうに顔を歪める。
それを見た渚沙は流石に同情が勝ったか、「言いすぎだよ、冬生」と肩を軽く掴んで揉む。
「私のことなら気にしなくていいから、ね」
それはつまり、彼の車に乗って家まで送迎されろということだろうか。
確かに、渚沙に遠慮をしている節はあったかもしれない。だが、それが全てではない。根底には自分と母を裏切って不倫をした父に対する嫌悪感があり、それはどうしても拭えない。
単なる過失ではないのだ。それでも、ここで問答を続ければ渚沙が困るだけだろうか。
「ほら、渚沙ちゃんもそう言ってるし」
ゴマを擦るように弘道がそう言うから、冬生は嘆息して頷いた。
「分かりました。いいんですね? その一線を越えたら戻る気も戻す気もありませんよ」
――静かにそう伝えると、弘道は動揺に目を揺らし、渚沙は怯えたように冬生の横顔を見た。
今回は渚沙に免じて弘道の意向に従ってもいい。だが、彼が冬生の友人を利用して、こちらの意思も考えずに唐突に車で来て接触するというやり方を選ぶなら、こちらも手段を選ばない。
冬生は黙って弘道の回答を待つ。その間、雨粒がルーフと傘を打つ音が響き続ける。
今ならまだ、過ちで引き返せる。だが、そのやり方を強行するなら引き返させない。
どうする。押し黙る弘道に視線で回答を促すと、彼は固唾を飲んで呼吸を乱す。
「あれ?」
――その時だった。学校の方から、一人のクラスメイトが傘を差して歩いてきた。
新島梓だ。彼女はこちらに気付くと、意外そうな顔を見たと手を振ってくる。
「綾瀬さんに江坂さん! 何してるの?」
冬生の口から、掠れた冷たい吐息がこぼれ落ちた。諦観に瞑目して口を噤む。
渚沙はこの空気を入れ替えてくれる何者かが来たと喜ぶ様に手を振り返そうとして――少し遅れて、今の言葉の重大さを理解する。目を見開いて硬直し、その瞳を大きく揺らした。
――まず、貴女の姓は『佐藤』です。佐藤渚沙。
――この顔で江坂を名乗れば君のお父さんは気付きかねない。
脳裏を過る一か月前の会話。だから、ここで彼と鉢合わせて長居するのは嫌だったのだ。しかし、そう思うならもっと早く受け入れるべきだった。どちらにせよ、もう遅い。
「江坂?」
脳を直接揺らされたかのように呆然と、弘道は聞いた姓を的確に繰り返した。
万が一の望みであった聞き間違いも起こらず、綾瀬弘道は、確かに渚沙の姓を聞き遂げた。
彼は「江坂って」と目を見開いたまま渚沙の方へと向け、その顔を凝視した。
髪色があまりにも自然な金髪だから、初見でその容姿を彼女と――江坂静流と重ねるのは難しいだろう。だが、姓を聞いて、そしてその上で美貌を注視すれば因果関係には気付く。
渚沙の顔を凝視した弘道は少しずつ呼吸を乱し、やがて、大きく肩で息をし始めた。
「佐藤じゃなくて、江坂……その顔」
「あ、あの」
「まさか、江坂静流の娘か⁉」
弁明をしようとした渚沙を遮って、弘道が絶叫紛いの怒声を轟かせた。
渚沙は目を見開いて気圧され、新島は自分が何かをしたのだと気付いて青褪めている。まずい状況だと理解した冬生はどうにか我に返ると、渚沙と弘道の間に腕だけ挟んで半身に構える。
「お父さん、落ち着いてください」
だが、そんな冬生を無視して弘道は血眼を渚沙へと向けて声を荒らげる。
「そうなんだな⁉ なあ、答えてくれ!」
「答えなくて構いません」と冬生が口を挟むも、渚沙は罪悪感に小さな首肯を返す。
すると、弘道が目玉を落とさんばかりに目を見開き、唾を飛ばして怒鳴り始めた。
「どっ、どうして、嘘なんて吐いた――いや、そうか、冬生にも偽名を名乗ってたんだな⁉ どうして、何の目的で僕達に近付いてきた、また僕を騙そうとしているんじゃないだろうな⁉ いいか! 僕はお前の母親のせいで人生を滅茶苦茶にされたんだぞ!」
「お父さん!」
冬生が喉に痛みを感じるほどの怒声で遮ろうとするも弘道は取り合わず、血相を変えて渚沙に詰め寄ろうとする。渚沙が委縮して身を強張らせるから、冬生は間に身体を入れた。
「あの、私は」と震える声でどうにか釈明をしようとする渚沙。
新島は「け、警察……?」とスマホを構える。
冬生は三者に板挟みになりながらも冷静に、どうにか戻れる場所を探す。
だが、そんな冬生の努力も虚しく、弘道は顔を真っ赤にして絶叫した。
「全部、お前達に騙されたせいなんだ! 娘には冷たく当たられて、今じゃ妻も素っ気ない。全部! 全部お前達のせいだ! それなのにまだ騙そうとしているのか! 答えろ!」
冬生の肩越しに弘道の手が伸びる。冬生は反射的に腕を掴むが無造作に振り払われ、その手が、渚沙の肩をがっしりと掴んだ。弾みで傘が落ちる。
大粒の雨が三者を容赦なく打ち、青褪めた渚沙の顔が余計に冷えていく。
しかし、火照った弘道の顔には焼け石に水だ。彼は荒い呼吸を繰り返す。
そして冬生は――先ほど二人で楽しく入っていた傘が路傍に落ちたのを見て、驚くほど思考が冷静になっていくのを感じた。氷水のような血が脳を流れていた。
――――パン。と、水を帯びた冬生の平手打ちが、弘道の頬を叩いた。
大きな音は想像していた以上の効果を発揮し、我に返ったように弘道は目を丸めて叩かれた頬を両手で押さえる。呆然と、その場に立ち尽くして動かなくなった。
だが、冬生は先に渚沙を心配し、弘道に掴まれたその肩に触れた。「怪我は」と穏やかに尋ねると、渚沙は怯え、戸惑いながらも首を左右に振った。安堵して頷く。
「新島さん。警察を呼んでください」
弘道と渚沙の目が更に大きく見開かれる。呆然とした空気が弘道の口から落ちた。
新島は戸惑いつつ、水滴の付いた眼鏡を雑に吹きながら、恐る恐るボタンを押下していく。「い、いいの?」と状況が読めずに確認をしてくるから、雨で冷えた頭で結論を出す。
頷くと、涙のような水滴が前髪から滴った。
「ええ、知らない男性です」
酷く嘆かわしそうにそう言った冬生に、弘道は顔面を蒼白にさせた。
だが、目を酷く泳がせた渚沙はどうにか愛想笑いを浮かべた。
「待った待った、新島!」
渚沙は不自然に明るい笑顔で新島を手で制し、「大丈夫だから。私は、大丈夫」と念押しする。
新島は戸惑いながら冬生に視線で判断を仰ぎ、冬生は緩やかに首を左右に振り返した。
しかし、渚沙は頭に血が上った冬生のその両頬を、穏やかに手で挟む。視線を合わせるように顔を傾けさせると、目を真っ直ぐ見詰めて「大丈夫」と伝えた。
――渚沙のその赦しが罪悪感に基づくものだと理解しているから、冬生は退けない。
彼女は、彼女の母親が犯した罪を償うべく、その被害者の凶行を許そうしている。
そんなことはあってはいけない。だから冬生は首を横に振ろうとするが、渚沙は、雨を含んで重たくなった髪を揺らし、頭を振った。「違うの」「何がですか」「君を苦しませたくない」。
その言葉を悲痛に歪めた顔で聞き入れた冬生は、ようやく、そこで肩の力を抜いた。
安堵した渚沙の手が剥がれる。
冬生は暫く思考に暮れた後、呆然とする弘道に向き合って冷たく言った。
「偽りの姓を名乗らせたのは私の判断です。こうなると思ったから。でも、彼女は何も悪くありません。結婚詐欺と強盗殺人を犯したのは彼女の母親である江坂静流です。江坂渚沙じゃない。そして、綾瀬家を壊したのは綾瀬弘道の不倫です。それも、彼女の罪じゃない」
淡々と事実を突き付けた冬生は、それから、落胆の息を吐き出して唇を噛む。
言うか言うまいかは迷ったが――どうにか彼を父と思おうとし続けた冬生の姿勢が今を生んだ。そう自らの罪を認めた冬生は、雨粒が冷やした頭で、しっかりと本心を伝えた。
「貴方は、最低です。お父さん」
弘道は絶望に歪んだ顔で首を振ってそれを拒もうとしたが、冬生は歪めた顔で続ける。
「小さい頃は貴方の背中に憧れていました。でも今は、それも難しい。そしてそれは他の誰の罪でもありません。詐欺は関係ない。貴方が不倫を選んだことに軽蔑をしているんです」
そして今は、それを責任転嫁して冬生の友人を傷付けようとした。
「どうかこれ以上、私を失望させないでください」
実の娘からの切実な依願に、弘道は膝を折って項垂れながら震えた声を上げる。
「僕はただ……やり直したくて。また、昔みたいに……」
「やり直したいと思えるほど綺麗だったそれを踏み躙ったのは貴方です。そして、やり直せずとも良好な関係を取り戻せる数少ない道を拒んだのも、貴方です。私はただ……納得できるまで距離を置いてほしかった。私の方こそ、ただ、それだけだったんですよ」
冬生は熱を帯び始めた言葉を冷ますように湿気を帯びた空気を大きく吸う。そして、背後に佇む渚沙を一瞥すると、どこか他人事のように、気負いなく実父に忠告した。
「次に渚沙さんに近付いたら警察を呼びます。私に近付いたら絶縁をさせていただきます。今はまだ、高校生だから難しいでしょう。でも、成人したら必ずそうします。その後もこうして近付いてきたら、貴方をストーカーとして突き出せるでしょうから」
事実上の絶縁宣言に近いそれを聞いて、渚沙は複雑そうな目で冬生を見る。「……冬生」と呼び掛けるも今はそれに応対する心の余裕もなく、冬生は悲しげに弘道を見下ろした。
だが、そんな冬生の脇をすり抜けた渚沙は穏やかに笑って弘道の傍で屈む。
「あの、弘道さん。スーツが濡れてしまいますから、立ってください」
そう言って渚沙が彼の身体を支えて起き上がる助力になると、弘道は顔をぐしゃぐしゃに歪め、罪悪感に焦がされた顔で「申し訳ない……本当に、すまない」と涙声で謝罪した。
だが渚沙は気丈に笑って「慣れてますから」と立ち上がらせ、冬生を一瞥する。
「私なら大丈夫ですから、お気になさらず。ただ、その――時間が解決するものがこの世にはあると思います。時間でなければ解決できないものも。そして、後者は……性急に歩み寄ったら反発するものでもあると思います。一度、しっかり距離を置く時間が必要かと」
目を見てそう伝える渚沙に、弘道は小さな嗚咽を上げながら頻りに頷いて認める。
「原因が自分だろうと他人だろうと、どうにもならないことは世の中にあります。今はただ、過ぎる時間を待つしか無いんだと思います」
そう言って渚沙が車の方を指すと、弘道はすすり泣きながら「分かった」と歩き出した。
そして彼は最後に冬生を一瞥すると、何も言えず、震える足取りで運転席へ。「路面が濡れてますので、お気をつけて」と渚沙が心配すると、立ち止まった弘道は深く頭を下げた。
「一度、近くで休んでから帰るよ」
そう言って弘道が運転席に入ると、間もなく車が発信して雨の幕の向こうに消えていった。
それを見送った渚沙と冬生は、しばらく視線を合わせることもできずにその場に立ち尽くす。
先に動き出したのは冬生だ。落ちていた傘を拾い上げ、持ち手を自らのブラウスで拭く。そして、渚沙を叩く雨をそれで阻んだ後、先ずはその場に呆然とする新島を見た。
「新島さん――今度、ちゃんと説明します。必ず」
そう冬生が約束すると、新島は目を揺らす。だが、最後には真っ直ぐ冬生を見詰めた。
「分かった。今は……何も聞かないでおくね。落ち着いてからで大丈夫だから。じゃあ、」
そう言って去ろうとする彼女を「新島」と渚沙が呼び止める。
「君は、悪くないから。何も気負わないでね」
振り返った新島に渚沙がそう念押しすると、新島はようやく頬を綻ばせた。
「……やっぱり、江坂さんは悪い人じゃないよ」
「やめてよ、今は、泣いちゃう」
渚沙がそうおどけると、新島は弱々しく吹き出し、そして会釈の後に去って行った。
しばらく二人でその場に立ち尽くす。気付けば指先が少し冷たくなっていた。冬生が言葉を探して視線をあちこちに泳がせていると、やがて、渚沙が濡れた金の前髪越しにこちらを見る。
冬生もどうにか渚沙の方を見ると、唇を噛み、罪悪感に突き動かされるまま頭を下げた。
「父が……ご迷惑を。大丈夫ですか?」
そう言う冬生の顔が青く、今にも死んでしまいそうなほど思い詰めていたから、渚沙は緩んで泣き出しそうになる心を引き締め「君の方こそ、辛そうだよ」と苦笑をした。
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