第6話

 二人の高校では、五月も後半に差し掛かろうという頃に体育祭が開かれる。


 梅雨を目前とした快晴の下、生徒達の応援が飛び交い、そして声援を浴びた生徒が気合を入れてその中を駆け巡る。応援席最前列は砂ぼこりを煙たそうにしつつ懸命に声を上げていた。


 現在の種目は四百メートル走。クラスでも取り分けて運動能力の高い玲子が凄まじい形相で駆け、後続に大差を付けながら堂々の一位を獲得したところだった。


「流石玲子」


 眠たげな顔に綺麗なボブカットの中背の女子――小沢が誇らしそうに冬生の隣席で呟いた。


 「ですね」と微笑んで肯定し、冬生はプログラムを眺める。


「あとは何が残ってるの?」


 小沢がそれを覗き込みながら訊いてくるから、「ええと」と冬生は指で文字列を追う。


 速やかに回答をしようとしていたところ、不意に二人の前の席の男子が振り返って答える。


「――学年種目は完了。後は個人が四つと選抜が二つ。もう少し時間はかかるだろうな」


 その男子の名前は近藤隼人。手越と並んでクラスでも飛び抜けた人気者だ。


 上背で筋肉質な身体をしており、確か一年生にしてバスケ部のスタメンを獲得したと聞く。ただし浮ついた話は一切聞かず、寧ろ教室では手越の愚痴を延々と聞き流している印象ある。


 「だそうです」と冬生が近藤の回答を小沢に流すと、「うへぇ」と彼女は顔を歪める。


 すると近藤は小さな溜息の後に穏やかな口調で窘める。


「そう面倒そうな顔をするな。学友の為にも精一杯応援をするべきだ」

「出た。体育会系の無自覚な強要。こういう奴が運動時の水分補給を禁止するんだろうね」

「いや、運動時は喉の渇きを感じる前に水分補給をするべきだな。脱水症状の危険は勿論、汗が出なくなることによる体温調節機能の支障と熱中症リスクの発生、精神面によるパフォーマンス低下や筋肉痙攣などの問題も考えられる。寧ろ俺は、定期的な水分補給を推奨している」


 近藤が真顔で腕を組んで説くから、小沢はうんざりした顔で冬生に彼を指し示す。冬生は面倒な言い争いに巻き込まれて顔を歪めた後、「まあ」と話を逸らした。


「どちらにせよ、開催が夏前で良かったです。まだ過ごしやすい」

「それは確かにそうだね。お陰様で救護テントも暇そうにしているよ」


 小沢が手で陽射しを遮ってそちらを見ると、怪我人を手当てするべく養護教諭が構えたテントは随分と退屈そうだった。「良い事です」と冬生はそちらを一瞥だけして応援に戻る。


 ふと、偽装交際相手は何をしているだろうかと、冬生は渚沙の方を見る。


 あまり友人が多い方ではないが、こういう機会に話に巻き込むべきか――そう思って視線をやると、案の定、彼女は自席で静かに選手を眺めていた。


 声を掛けようと腰を浮かせた冬生は、ふと微かな異変に気付く。


 選手を眺める渚沙の横顔が微かに固いような気がした。顔色が芳しくない。


 どこか気分が悪そうに汗を滲ませているが、しかし最後に種目に出たのは随分と前だ。不定期に不快そうに顔を歪めては胸や下腹部をひっそりと押さえている。


 立ち上がった冬生を不思議そうに見ていた近藤と小沢に、冬生は身を屈ませて小声で伝える。


「渚沙さんの体調が芳しくなさそうです。救護テントに連れていくので、諸々お願いします」


 驚いたように目を丸くして二人が渚沙の方を見る。


 「ああ、承知した」と近藤が驚きながら頷いたのを尻目に渚沙の方へと近付くと、苦しそうな彼女の目が胡乱に冬生を見上げる。


 無理をして何かを言おうとしたから、冬生は余計な口を叩かせずに渚沙の腕を掴んで優しく引っ張る。「行きましょう」と言うと、渚沙は戸惑いつつ目を泳がせた後、頷いて席を立った。


 救護テントの下まで連れていくと、養護教諭の女性が目を丸くして冬生と渚沙を受け入れる。


「あら、どうしたの?」


 渚沙の不調の詳細に推測は立っているものの、素人判断の代弁は好ましくないと判断して、冬生は口を噤んで渚沙を見る。渚沙は苦しそうにお腹を押さえながら「月の」と呟いた。


 口を押さえて何度か頷いた養護教諭は、声を潜める。


「帰る?」

「……少し、休ませてもらえると」


 渚沙の要求を聞き遂げた養護教諭は、冬生に校舎の方を指す。


「休める場所で休んだ方がいいわね。一年B組でしょ? 担任の先生には伝えておくから、綾瀬さんは江坂さんを保健室に連れて行ってあげて。鍵は開いてるから、ベッドを使って」


 一度も保健室に世話になったことが無いはずだが、入学してまだ二か月に満たない一年生の顔と名前が合致するのか、この女性教師は。冬生は戦慄の眼差しで頷き返した。


 そうして渚沙を連れて校舎に向かう冬生を、一年生の応援席から近藤と小沢が眺めていた。


「あの二人」


 近藤が呟くと、その話し相手が自分だと気付いた小沢は胡乱な声を上げる。


「おん?」

「本当に交際しているんだな。俺は江坂の不調に気付かなかった」


 交際しているのだから当然だろう。そう言い返そうとした小沢だったが、しかし、確かに渚沙と冬生の交際には色々と疑わしげな部分を感じていたのも事実。その疑念を大きく払拭するような出来事であっただけに、小沢は大きく頷いて賛同の意を示した。


「確かに。案外、よく見てるよね」




 養護教諭の言っていた通り、不用心にも保健室は開放されていた。


 冬生は先んじて保健室のベッドの毛布を剥ぐと、渚沙へそこに寝るよう視線で促す。渚沙が何も言わずに内履きを脱いでそこに倒れ込んだのを確かめ、冬生はそこにそっと毛布をかけ直す。すると、渚沙は浮かない表情で毛布を引っ張って首まで隠した。


「返事は要りません。私は戻るので、何か要求がある時はスマホで連絡を」


 冬生の参加する種目は残っていないが、付き添いで保健室に居続けたら何かを言われそうだ。


 そう思って戻ろうとした冬生だが、そのジャージの裾を渚沙の指が弱々しく掴む。


 ピンと引っ張られる感覚で振り返った冬生の目には、渚沙の弱々しい顔が映った。


 残れということだろうか。複雑な表情で後ろ髪を掻いた冬生は、小さな溜息を吐いてそっと彼女の指を剥がす。唇を噛んで毛布に埋まろうとする彼女を尻目にその場を離れ、それから養護教諭が使っている椅子を引っ張って戻る。


 それを視認した渚沙の顔が嬉しそうに緩むから、冬生は苦笑をした。


「私が文句を言われたら庇ってくださいね」

「……うん」


 冬生は微かに蓄積していた疲弊を癒すべく、座したままベッドに上体だけ乗せる。


 腕枕で微睡に身を委ねようとすると、渚沙が枕を引っ張ってこちらを眺めるような体勢に変わる。至近距離に視線を交えていると、渚沙が先に視線だけ逸らした。


「……なんで分かったの。私の調子が悪いって」

「確信はありませんでしたよ。ただ、見れば何となく分かります。何となく、ですが」


 吐き気の苦しさの中に隠しきれない喜色を見せ、渚沙は柔らかく頬を綻ばせる。


「しかし、嘘が嫌いな癖に隠すのは上手ですね。普段から重いんですか?」

「普段は、そんなに。でも、たまに重い日があるかな」

「……苦しい時は無理せずに言ってください。単なる友人ですが、偽装とはいえ恋人です」


 冬生が幾らかの心配を実直に伝えると、開かれた渚沙の眼差しが揺れ、シーツの皺を見る。


 ほんのりと頬を染めた渚沙は、固唾を飲んだ後に黙って頷いた。これでもう、隠すような真似はしないだろう。そう安堵した冬生は微笑をこぼして自分自身も身体を休めようとする。


 その時だった。ガラ、と病人とは思えない勢いで扉が開けられて何者かが愉悦の声を上げた。




「へー、『偽装とはいえ恋人』なんだ!」




 冬生は弾かれたように身体を起こし、渚沙は何かに勘付いたように眉を顰める。


 そろってそちらを見ると、保健室に踏み入ってきたのは見知らぬ女子生徒だった。


 背丈は上背に分類されるだろうか。端正な顔立ちだ。ロングボブのストレートヘアは清楚な印象を与えるが、その軽薄な笑みは浮ついたイメージを植え付けてくる。上に羽織ったジャージはファスナーを全開にしており、お淑やかな印象は受けない。


 最初に浮かんだのは誰だ、という疑問。次に迂闊なことを言ったという後悔。


 だがその前に、


「ここは保健室です。お静かに」


 冬生が鼻先に指を立ててそう伝えると、その女子生徒は眉を上げて笑う。


「ごめんごめん、顔馴染みの声が聞こえたから興奮しちゃって」


 何の話だ。冬生が渚沙へと視線を向けると、彼女は苦々しい顔で女子生徒を睨んでいた。


 どうやら二人に少なくない因縁があるらしい。「どちら様です?」と冬生が渚沙に尋ねると、彼女は苦しそうにお腹を押さえながら忌々しそうに吐き捨てた。


「ほら、前に話した……元カノ」


 ――普通にその子の浮気が原因。三股してたから私が振った。


 そんな渚沙の言葉を思い出した冬生が軽蔑の眼差しを送ると、その女子生徒は手を振る。


「どうも、どうも。初めまして、一年C組の古賀詩織です。好きに呼んでよ、冬生ちゃん」

「……同じ高校だったんですね。『元』彼女さん」


 冬生が淡い皮肉を込めて名を呼ぶと、詩織は不敵に笑って養護教諭の机に腰を置く。


「それはアレだね、君が真の今カノでなければ皮肉にならないと思うんだ」

「何の話でしょうか? 私は渚沙さんと交際していますが」

「それは無理があるでしょ。私、聞いちゃったもん。聞き耳立ててたんだぜ?」

「素敵な趣味をしていますね。だから三股もするんでしょうか」

「三股? 何の話? 覚えがないけど」


 冬生が眉を顰めて渚沙を見ると、彼女も意味が分からないと言いたげだ。


 どちらが嘘を吐いているのか。心理的には渚沙が絶対的に信頼できるが――


「――渚沙ちゃんと付き合ってた時は四股だよ。三股じゃない」


 冬生は渚沙と目を合わせる。言葉が出ない。渚沙は『こういう奴』と言いたげな顔だった。


「まあ、そんなことはどうでもいいのさ。それより、良いこと聞いちゃったなぁ?」

「私は貴女の聞き違いを主張し続けますが――意地を張るならそれも結構でしょう。好きに吹聴すればいい。貴女がどんな法螺を吹こうが、何ら支障はありませんから」


 実際のところ、彼女一人がそんな話を聞いたんだと言いふらそうが、それを鵜呑みにして渚沙に交際を申し込む人間はそうそう居ないだろう。故に、余程大々的に公言しない限りは大きな問題にもならない。そう確信しているから、冬生は一切の動揺を見せない。


 詩織は忌々しそうに頬を歪めて笑うと「そんなことはしないけど」と腕を組んで顔を逸らす。


「そうですか、では話は終わりですね。彼女の具合に関わるのでご退室を」

「待て待て、私はさっき転んで膝を擦りむいたの。だからここに来たんだって」

「であれば先に救護テントに行くべきですね。素人判断で手当てはするべきじゃない」

「外はばい菌でいっぱいだもの。絆創膏を貼るなら屋内じゃないと」


 そんなことを言いながら勝手に絆創膏を物色し始める詩織。


 冬生が渚沙の顔を盗み見ると、彼女は心底気分が悪そうに目を瞑っている。冗談はさておき、このストレスは本当に渚沙の体調に良くないだろう。


 嘆息した冬生は詩織に詰め寄って、その手の絆創膏を奪う。


「ちょっと?」

「手当てが必要なら私がやります。廊下でね」


 そこにあった消毒液も申し訳なく思いながら引き抜いて、冬生は廊下を指す。


 詩織は唇を尖らせてジャージのポケットに手を入れ、どうにか口喧嘩の次の手を探す。しかし、心底具合が悪そうな渚沙を一瞥すると、観念して廊下に付いてきた。


 保健室の壁を背中に預けて二人で座り、冬生はガーゼで雑に彼女の傷口を消毒する。


「痛い、痛い痛い痛い!」

「静かに! 貴女に不貞行為をされた方々の心はもっと痛かったでしょう」

「知ったような口を利くのはやめてほしいな。私は事前に同時交際を公言しているよ」

「渚沙さんは交際開始の翌日に言われたと仰ってましたが?」


 もはやどちらが嘘を吐いているかは明白だ。詩織は舌を出して目を逸らす。「おい」と暗い声で冬生が詰問すると、詩織は舌を出したまま自分の頭をコツンと叩いてウインクする。


「いや、違うのさ。彼女の時は本当に例外。マジで忘れてたの」

「それは貴女の都合です。世間一般において貴女の行動は浮気に該当します」


 冬生が素っ気なく切り捨てると、詩織は肩を竦めて溜息を吐いた。


「別に、君が浮気された訳じゃないんだしよくない?」

「その理屈が通るなら強盗殺人に怒れるのは死者だけになりますが」

「………………確かに、そうなるけども」

「私は貴女が嫌いです。不貞や浮気行為の類をする人間も、恋愛も。等しく」


 絆創膏の紙を適当に剥がした冬生は、明らかに自分の意思でその辺の壁に擦りつけたとしか思えない擦り傷未満の痕に、適当に絆創膏を貼った。


 最後にペシ、と叩いて「はい、じゃあ帰ってください」と校庭に戻るよう視線で促す。


 しかし詩織はその場から動く気配を見せない。胡坐を汲んで頬杖を突き、冬生を見た。


「恋愛が嫌いなのに、なんで渚沙ちゃんと付き合ってるの?」


 ――迂闊だった。冬生は自分の馬鹿さ加減に呆れ返って溜息を吐いた。


 確かに、渚沙との本当の交際を主張している人間が恋愛を嫌悪しているのも妙な話だ。


 どう言い返そうかとも思ったが、しかし、意外にも詩織の表情は口喧嘩で言い負かそうとするような悪辣なものではない。今は純粋な疑念を宿していたから、冬生は素直に答えようかとも思う。しかし、正直に言ったところで良い方向に転ぶ未来が見えず、肩を竦めた。


「貴女に言う義理はありませんね」

「なるほど。じゃあ勝手に推理しよう」


 冬生が目を細めて睨むのもよそに、詩織は片頬を吊り上げて推論を立てる。


「渚沙ちゃんの噂は度々聞いてるよ。彼女の家庭環境はさておき、その美貌に惹かれて付き纏う羽虫はいっぱいいる。そしてその羽虫は唐突に、一つの交際の噂によって消え去った。つまり、その偽装交際のメリットの一つには渚沙ちゃんの恋愛からの隠れ蓑という実情がある」


 腹立たしいほど論理的で完璧な回答に、冬生は無表情ながら胸中で舌打ちをする。


 そしてその無表情から自身の回答が正しいと悟った詩織は、調子に乗って続けた。


「でもそこに君のメリットが無い。冬生ちゃんはさ、絶対、善意百パーセントで人の為に動く人間じゃないでしょ。ある程度の優しさと、残り全ては打算。そういうタイプだ」

「分かりませんよ? 現に今、優しさで貴女の傷に絆創膏を貼りましたが」

「本心は具合の悪い渚沙ちゃんから私を引き剥がすことでしょ。やっぱり打算じゃない」


 分かっているなら保健室で騒ぐなよ。そう言いたくなるのを堪え、冬生は口を噤む。


「君も君で渚沙ちゃんに何かを要求した。それも恐らく、君の恋愛への忌避感から察するに、何らかの色恋が関わる事象だと思う。つまり――君達の偽装交際は、お互いに何かを要求し合う協定関係の類だろう。ああ、返事はいいよ。私は確信してるから」


 適当な誤誘導を試みようかとも思ったが、詩織は不敵にそれを制して勝手に確信する。


 冬生は露骨にうんざりと眉根を寄せて顔を歪めた後、溜息を挟んで本題を促した。


「で、貴女はそれを知って何がしたいんですか?」


 すると詩織は穏やかに笑う。


「渚沙ちゃんと復縁したい」


 馬鹿げている。そう吐き捨てそうになった口を閉ざし、冬生は呆れた目を虚空に向けた。


「お好きにどうぞ。それは貴女の自由です。が――難しいとは思います。貴女が浮気をする人間であるという事実は変わらないし、彼女の貴女を見る目も好意的ではなかった」

「だろうね。でも、できる限りこちらの誠意を示して頑張る。ただ、それに当たって、君の存在は凄く邪魔なんだ。……ハッキリ言うよ、偽装交際を解消してくれない?」


 すっと目を細める冬生。詩織は重ねてこう提案する。


「代わりに、私が君の要求を呑む」


 冬生は細めた目を虚空へ移してその提案を検討した。


 提案はそう的外れでもなかったと悟った詩織は細長い指を立て、得意げに言う。


「どうだろう。渚沙ちゃんが望んでいた恋愛の隠れ蓑になれるし、君が渚沙ちゃんに望んだことも私が代わりに遂行する。別に、誰かが損する提案じゃないと思うんだけど」


 実際のところ、詩織の提案はそう悪いものではないと冬生は考えている。


 冬生自身の望みは既に果たされた。そして万が一に次回があったとしても、詩織なら遠慮なく家のゴタゴタに巻き込むことができる。反対に、渚沙の問題に関しても冬生である必要は無い。無論、彼女がこちらの要求を果たした後になって、唐突に第三者にバトンを渡すのは不誠実ではあるが、その点は話し合いで解決できるだろう。


 つまり、充分、話し合うに値する提案だった。


 だが――不思議と、要求を呑む気にはなれなかった。


 それを見透かした訳ではないだろうが、詩織はやや強気に迫ってくる。


「渚沙ちゃんを女の子として幸せにする気が無いならさ。離れてよ」

「傲慢ですね、浮気して捨てられた女が。恋愛だけが幸福じゃあないでしょう」

「でも私達はそうして生まれてきたんだぜ? 子供っていうのは恋愛の結晶だよ」


 その言葉で冬生の脳裏を過るのは、江坂静流や綾瀬弘道の顔だった。


「渚沙さんは父親を知りません。愛の結晶――素敵な考え方ですね。汚物を愛と騙る人間も居れば誰の愛かすら分からない人間も居ますが」


 無意識に感情に波を立たせ、冬生は思わず口汚い皮肉を吐いてしまう。それが有効だった訳ではないだろうが、詩織は怯んで口を閉ざした。


 小さな溜息を挟んでその言葉に熟慮を示した後、細めた目を向けてくる。


「……渚沙ちゃんが誰かを好きになった時、君の存在は障害になる」

「その時には関係を解消すればいい。でも順番が逆になる事はあり得ない。本気で彼女を振り向かせられる自信があるのなら、私が居ようが居まいが何も変わりません。好きにアプローチをすればいい。でも、彼女が望まぬことをするのならそれはストーキングです」


 詩織は軽く肩を竦めると、冬生の顔を覗き込んできた。


「どうして渚沙ちゃんに拘る?」


 冬生は鼻を鳴らして嗤うと、その質問を受け流す。


「貴女を買い被っていたようですね。私が拘っているのは貴女を拒絶することです」

「どうして」

「貴女が嫌いだから」


 あまり好ましくないくらい率直な罵声を受け、詩織は驚愕して笑う。口笛が鳴った。


「……なるほど、やり方を間違えたか」

「いえ、生き方を間違えています。貴女は過失だろうが何だろうが渚沙さんを傷付けた。浮気をして。事前に言う気があったかどうかは別として、少なくとも言わなかった。言わずに誰かを傷付けたなら私は貴女の行為を許容しません。釈明はありますか?」


 彼女の主張には理があったし、聞き入れる余地もあった。彼女が非常に真面目で誠実な人間であれば、或いは冬生もしっかりと応対をしただろう。だが、古賀詩織は受け入れ難い。


 その感情をハッキリと伝えれば、観念して詩織は頷いた。


「無いよ、全面的に君が正しい」


 これ以上の問題は無駄だと判断したか、詩織は徐に腰を浮かせる。


 冬生はその場に座り込んだまま彼女を見上げ、視線だけで見送る。


 すると、詩織は少し考えるような素振りを見せた後、こちらを見下ろした。


「これは単なる質問なんだけど――もし、誰かが君に好意を抱いたらどうするの?」

「何の話ですか?」


 眉を顰めて質問の意図を問うと、詩織は些か驚くほど真面目に補足した。


「仮定の話だよ。君は恋愛だけが幸せじゃないと言った。確かにそれはその通りだと思う。でも、君と結ばれるのが幸せだと思う人間も今後の人生で出てくるかもしれない。その時、君はどうするの? その人を拒むのか、受け入れるのか」


 まるで試すような問いかけで、不快感が無いと言えば嘘になる。


 しかし、毒を吐き返すには少しばかりその質問は核心に触れていた。


 果たして、その時になった自分はどう答えるのか。今まで考えたこともなかった。


 正確には、考えようとしなかった。考えようとすると疼痛が脳を侵す。放送局の存在しないチャンネルを選んだ時のようなノイズが思考回路を阻み、冬生は果てに小さく頭を振った。


「……その時に考えます」


 その返答は決して望むようなものではなかっただろうが、詩織は満足そうに頷く。


「そう。じゃあ、私は戻るよ。渚沙ちゃんによろしくね」


 そう言い残した詩織は、こちらを振り返ることもせず軽い足取りで昇降口へと戻っていった。


 座したままそれを見送った冬生は、余計に蓄積した疲労を誤魔化すように天井を仰いで溜息を吐く。肩が重く、思考が鈍い。脳裏には冬生が疎ましく思う大人の面影がチラつく。


 冬生の知る中で、恋や愛を語る人間にロクな人物は居ない。


 自分の中の愛を理由に家族を裏切った人間。それに傷付いた娘の意向を無視して不倫を許す人間。人の愛を利用して金を稼ぐ人間。軽い気持ちで同時交際をする人間。


 恋愛をすることの終着点があれらなら、冬生は生涯、誰も愛したくなどない。


 しかし、自分を好きになってくれるような人間を不幸にさせてまで、その自我を突き通すのは、それこそ自分が嫌悪する傲慢なのではないだろうか。


 ――少なくとも、今考えたって仕方が無い。冬生はそう判断して立ち上がり、保健室に戻る。


 渚沙が眠っているかと思って静かに扉を開け閉めしたが、迎えたのは複雑そうな渚沙の目だった。どうやら起きていただけではなく、話まで聞いていたらしい。


「聞こえていましたか」


 尋ねながら消毒液や使い終わったガーゼを片付けると、渚沙は呻くように答える。


「全部ね。よかった。君が詩織の提案を引き受けないでくれて」


 どうやら彼女の意向通りの選択をできたようだ。安心すると同時、喉に骨が引っ掛かる。


「……浮気などの行為は全般的に好きではありませんから。言った通り、私は彼女が苦手です。加えて貴女が嫌がるならあの提案を受ける理由はない。ただ――貴女の恋愛そのものを抑止する意図はないので、もしも気が変わったらいつでも、お気軽に」


 ベッド脇の椅子に戻って静かに腰を下ろす。すると渚沙の目が悩ましそうに泳いだ。


「どうかな、そんな日が来るのか」

「来なければそれでいいんです。仮定の話ですから」

「そっか……でもそれは、君もだからね。誰かを好きになったらちゃんと言ってよ?」


 渚沙が少々不安そうにそう念押しする。


 こちらの恋愛事情を心配してくれるのは有難いが、余計なお世話というものだ。


「私に限ってそれは無いでしょう。反面教師が周りに多すぎる」


 苦笑する冬生の返答に、渚沙はどうしてだか安堵の表情で小さく頷く。


 気持ちが安らいだせいか、その瞼が一瞬、深く沈んだ。彼女は眠気を追い払うように深い瞬きを繰り返すが、冬生は微笑をこぼすと、降りていた毛布を肩まで引き上げる。


「ちゃんと起こします。傍にも居ますから、寝ていいですよ」


 そう言うと、まるでその言葉を待っていたかのように渚沙の瞳が静かに閉ざされる。


 やがて規則的な寝息が響き始め、冬生は息を殺して椅子の背に身体を預ける。


 体育祭はどうなっているのかと保健室の窓から校庭を見ると、遠くの空に鉛色の雲が見えた。雨の予報は無かったが、幾らか肌寒くなりそうだ。


 ――もうすぐ、梅雨が来る。

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