藍補う
木村文輔
第1話
1
「悪いんだけど、匿ってくれない?」
アイツが俺の家やってきたのは、6月の長い夕方が終わろうとしている時分だった。そろそろ部屋の電気をつけようかと立ち上がった丁度その時、ヘラヘラとした親友の声が、インターホン越しに俺の名を呼んだのだ。
「まさか……お前、赤葦か?」
「そうだよ?まさかもなにも君の大親友、赤葦暖〈アカアシ ダン〉ですよ」
「一月も連絡無視しといてよくもそんな……いや、いいや。取り敢えず上がれ。鍵開いてっから」
「不用心だねー」
インターホンが切れると同時に、玄関から扉が開く音が聞こえる。俺はテーブルの上に置いてあったペットボトルを幾つか手に取り、部屋の隅の小さなゴミ箱に放り投げた。
「お邪魔しまーす」
「本当連絡もなく突然……って、お前何でそんな濡れてんだよ!?」
「夕立に降られた」
「多少絞ってから入るとか、そういう脳はねェのか!」
「絞ったよ?髪は」
「服もだよ!」
インターホン越しには気が付かなかったが、赤葦の服はずぶ濡れで、部屋の中に水溜りを作る勢いだ。俺は呑気に笑っている男を脱衣所に追いやり、洗濯機をびしりと指さす。
「脱いだらそのままこん中入れろ。シャワー浴びてる間に着替えは持ってきてやる」
「えー、僕、お前の下着履きたくないよ」
「テメェ、贅沢言える立場だと思ってんのか?そもそも貸さねえよ。ジャージそのまま着てろや」
「うーん、仕方ないか」
「何様だボケ」
けたけたと笑い声を立てる赤葦を一睨みして、俺は脱衣所を出る。押入れの奥底に仕舞い込んでいたジャージを探し当てて戻った頃には、風呂場からシャワーの水音と赤葦の鼻唄が響いていた。
一体何なんだという苛立ちが二割。また何かやらかしたのかという諦めが八割といったところか。俺は輪郭のぼやけた歌に鼻を鳴らし、タオルとジャージを洗濯機の蓋の上へ放り投げる。
赤葦と俺は小学生の頃からの腐れ縁だ。ガキの頃からアイツはいつだって飄々としたお調子者で、掴み所の無い人間だった。端正な顔には常に笑顔が浮かんでおり、誰と接していてもそのアルカイックスマイルが崩れることはない。不気味だと称する奴もいるが、アイツがそれを気にする訳もなく、むしろそう評価される事を好んでいるようでもあった。それが何故なのか、ただアイツの隣にいただけの俺にはさっぱり分からない。
「んで、今度は何やらかしたんだ」
ベッドにもたれかかり、俺は髪を拭きつつリビングに入ってきた赤葦をジロリと睨め付けた。ぼたぼたと悪びれもせずに水滴を髪から溢し、赤葦は「何が?」と首を傾げる。
「何が、じゃねぇよ。お前が言ったんだろ?『匿ってくれ』って」
「あぁ、そうだ。そうだった」
たった今思い出したとでも言いたげに、赤葦はポンとわざとらしく手を打った。
「悪いんだけど、しばらくこの家に置いてくれない?」
「嫌だ」
「酷いな、少しくらい考えてくれても良いじゃないか」
「お前の事だ、どうせまた碌でも無い厄介事に巻き込まれてるに決まってる。毎回言ってんだろ、俺を巻き込むなって」
「そこまで察しつつ、家にあげてシャワーまでくれるんだから、佐助は本当にお人好しだなぁ。あ、これ実はあんまり褒めてないんだけど」
「テメェは人の神経逆撫ですんのが上手いよな」
何度か指の骨を鳴らして見せると、赤葦は多少焦ったように俺から距離を取った。まさか本当に殴るつもりはないが、随分な言い様に思わず眉間に力が入る。
「取り敢えず、事情を話せ。置くか追い返すかは聞いてから決める」
俺がそう言い放つと、赤葦の目が泳いだ。言葉を探しているのか、そのまま暫く逡巡していたが、やがて目を逸らしたまま口を開く。
「僕、人を殺したんだ」
俺は無言でポケットから携帯端末を取り出した。途端「ストップ!待って!一先ず話を聞いてからにして!」と、珍しく焦りをみせた赤葦に端末を拐われる。
「返せ赤葦。大丈夫だ、ちょっと今日返さなきゃいけない電話があるのをたった今思い出しただけだから」
「絶対嘘じゃん!通報するつもりじゃん!」
「クソつまらん冗談如きで警察呼ぶ訳ないだろ。返せ」
「いいや、その目はマジだね!僕には分かるね!」
ぎゃあぎゃあと喚きながら端末を握りしめる赤葦に、俺は大きなため息を吐き出して、再びベッドにもたれかかった。
「何かの比喩か?それとも本当にどっかで轢き逃げでも起こしたか?」
「比喩だったら良かったんだけどね。残念ながら言葉通りの意味さ。事故……でもないと思う」
「思う?」
曖昧な物言いに、俺の眉間の皺は更に深くなる。赤葦はガシガシとタオルで髪を掻き回しながら暫く部屋を見渡していたが、やがて俺の正面の壁沿いに背中を預け、足を投げ出して座った。
「覚えてないんだ。記憶喪失ってやつだよ。断片的だけどね。酒を大量に飲んだ翌日の朝みたいな感じ。自分の知らない自分が、自分みたいな行動を取ってる形跡はあるんだけど、その記憶が綺麗さっぱり消え去ってる」
「それはあくまでも例え話だな?自分で酒飲んで記憶飛ばしてるだけならハッ倒すぞ」
「勿論例え話だよ。僕が酒にトラウマあるの、お前ならよく知ってるだろ?無理矢理でもない限り自分から飲む事はないし、そういう輩との付き合いも今は一切無いって」
赤葦は一昨年、大学二年になりたての頃に、サークルの同期と先輩から急性アルコール中毒一歩手前まで無理矢理酒を飲まされた事がある。赤葦が限界寸前で俺に救援要請を送っていなければ、ほぼ間違いなく救急車を呼ぶ羽目になっていた。
特段弱い訳ではないのだろうが、ウイスキー瓶を無理にラッパ飲みさせようとしている光景には、流石の俺も目を向いたものだ。、確かに酒がトラウマになっていても仕方が無い。
「酒じゃないとすりゃ、何で覚えてないんだ」
「分からない。でもこういうのの相場は、大抵強く頭を打ったか、強い精神的ショックを受けたかの二択じゃない?」
「頭を打った形跡はあんのかよ」
「あると言えばあるけど、これで記憶が飛ぶかは微妙なところ」
そう言って赤葦は自分の後頭部をさすっている。俺は立ち上がって赤葦の前に立つと、赤葦がさすっていた場所に軽く触れた。
「まあ、瘤はあるな」
ある、というだけでさほど大きくはない。
「これも、どこでぶつけたのか覚えてないんだけどね」
赤葦はひょいと肩をすくめた。
「つーか、記憶がないってんなら、どうして『人を殺した』と思うんだ」
瘤から手を離し、俺は赤葦を見下ろして問う。普段から曖昧を好む妙な奴だが、趣味の悪い冗談や嘘を言う人間ではない。赤葦は俺の問いに少し目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。
「断片的に記憶が消えているって事は、つまり覚えている事もあるって事だよ。僕は確かに、人を殺したんだ」
「よく分からねえな。殺した記憶だけがあるって事か?そもそも誰を殺したんだ」
「それも分からないんだ。気が付いたら死体が消えてたから」
「はぁ……?」
取り留めも無い言葉を吐きながら、赤葦は少し天然がかった自分の髪を指先でいじっている。
「夢でも見たんじゃねぇの」
「そうだったら良いんだけれどね。どうやらそうでもないんだ」
「仮にその話が本当なんだとしたら、真っ先に来るべき場所は俺の家じゃ無くて警察だろ。自首しろ。ほら、良い加減端末返せ」
「冷たいなぁ佐助。でもよく考えて見てよ。警察に出頭して、なんて言う?人を殺したけど、誰を殺したのか分かりません。死体もありません。何で殺したのかも分かりません。……信じてもらえると思う?」
赤葦の持つ端末に手を伸ばしながら、俺は口の中で幾らか答えを探した。けれど確かにそんな状況で自首されても良い迷惑だ。つい10秒前の俺と同じ台詞で追い返されるオチが見えている。
「佐助は信じてくれると思ってた。でも警察はそういうわけにもいかないだろ?」
「そりゃそうだが……。別に俺だって、半分くらいはお前が夢を見ただけなんじゃねえの、とは思ってるからな」
「でも、もう半分は信じてくれてる」
俺が押し黙ると、赤葦はからからと声を立てて笑った。
「僕は君のそういうところを頼ってきたんだ」
「にしたって、『匿って』はおかしいだろ」
「おかしくないよ。だって、僕は仮にも殺人犯だからね。警察が気付いてないだけで、この殺人が世に認められたら、佐助が犯人隠避で責められるかもしれない」
赤葦はそう言いつつ、それまで両手で握りしめていた端末を俺に差し出した。俺はじっとそれを見つめた後、ふんと鼻を鳴らして奪い取る。
「そうはならねえよ。お前が本当に人を殺してるって分かった瞬間、警察に突き出してやるからな」
「それは僕の望むところさ」
「あぁ?」
赤葦は俺に手を伸ばしたまま、腕を下げようとしなかった。怪訝に思い目を細めた俺に、赤葦はにいと口元を釣り上げて笑ってみせた。
「僕と一緒に、僕の罪を立証してくれ。僕が何故人を殺したのか。そもそも一体誰を殺してしまったのか――佐助に探してもらいたいんだ」
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