Fallen Sign
渋サワ
第1話 プロローグ:千里
――そこはいつも、薄気味悪い寒さに満ちてる。
九条千里は、月明かりと夜間用の心もとないこじんまりとした電灯の光からさえ逃れるように陰に身を潜めていた。
150センチ後半の背丈と、高校生女子の中では比較的筋肉質な体の線は柔らかさよりも力強さを感じる。
もっとも、今は烏羽色の和装に身を包んでいるので、その体つきは判然としない。
顔にも狐の面頬があるばかりで、ポニーテールにまとめられた艶のある黒髪から、髪の長さが肩甲骨あたりまであることがわかる程度で、その素顔は計り知れない。
しかしながら、彼女に武芸の心得があることは、その所作から見て取れる。
指先一つまでピンと張りつめていて、呼吸から体の動きまでが一糸乱れることなく連動し、完全に制御されている。
その佇まいから、どれほどの鍛錬を積んだのかは想像に難くない。
そしてその緊張感はこの場、夜の日南坂北高校の校舎全体にも同じことだった。
あまりにも異様な空気。
妖気とでもいうべきものでもあるが、同時に殺気立った空気が肌を刺す。
7月だというのに、ここはまるで真冬の空気のような寒さがある。
月と冷たさだけがある。
人の住む町の活気や雑踏はなく、人々の営みによるところの暖かさなどもない。
どこまでも続く波の打たない水平線のように、そこは静かで、しかし異様な空気感だけがあるという、実に不可思議で不気味な空間だ。
――いつ来ても、やっぱり慣れない。
千里の手には、彼女の鍛え抜かれた体と比較しても見合わない薙刀が握られていた。
彼女の背丈ほどもあるこの長い獲物は、しかし人と人との仕合において使うものにさらに手を加えられているようで、補強されている分重厚だった。
緊張と恐怖で心拍数が高まりそうになるのを、身に着けた呼吸法で制御して心身の乱れを抑えながら、彼女はここまで追ってきたものが再び姿を現すのを待った。
"それ"は実に狡猾で、千里が追ってきていることに気づけば、追いかけることができない深層まで姿を隠すだろう。
この特異な空間、かつては深淵と呼ばれていて、現代ではアビスと呼ばれる異空間は、ある程度適応できる人間であっても現実世界と瓜二つの上層への侵入が精いっぱいだ。
それでも、長くても数時間が滞在時間の限界で、それ以上留まってしまえばどのような影響が出るかわからない。
千里自身もある程度の耐性があるが、和装や面頬で身を守らなければ僅かな時間しか活動することができない。
この異空間で怪異を狩る。
それが千里のような深淵狩りの役目だ。
(……来た!)
ついに、千里の前に"それ"は姿を現した。
それはシルエットこそ2本の手足を持ち、胴体の上に頭部のある2足歩行の影であるから、実に人間らしく感じるが、それは違う。
手足は異様に長く伸び、鋭い爪が生えている。
膝の下には背中側に曲がる関節が増えており、そのせいか2足歩行ではあるが前かがみで、今に腕を地につけて4足歩行をしても何ら違和感はない。
顔に目を向けても、もはや正気の様相ではない。
唸り声をあげ、獲物を求めるかのようにむき出しになって震えている歯は肉食獣のように鋭くとがり、あまつさえ固まりきらない鮮血が垂れている。
それはどうやら"それ"自身のものではなさそうに見える。
この異形を、千里たちはロストと呼んでいる。
ロストはこの異空間、アビスに迷い込んだ人間を捕食することもあれば、時にはロストの外に出て人を喰らうこともある。
彼らの行動原理は「飢え」で、常に餌である人間を求めている。
また、彼らはアビスに通じる空間の裂け目を察知して自由に出入りするため、捉えることは容易ではない。
故に、千里は目の前のロストを逃すまいと、逃げ込んだ裂け目から先回りして待ち伏せていた。
ここ数日、千里と同じ日南坂北高校に通う生徒が何人も犠牲になっている。
これ以上の犠牲を出すまいとする気持ちは誰よりも強かった。
千里が押さえていた力を全身へと巡らせ、力強く地面を蹴る、まさにその瞬間だった。
「…えっ?」
彼女の肩が背後から握られ、その動きが抑え込まれた。
「何!?」
千里は一瞬、目の前の存在が何者であるかという思考に囚われてしまった。
白い仮面に白い髪。
体つきから男であることがわかるのだが、その風貌は黒いTシャツとチノパン姿のふざけたものだった。
「ッ――」
千里が振り向いて薙刀を構えるよりも早く、左から受けた衝撃で彼女の体が浮きあがった。
次いで振り下ろされた何かは、咄嗟に差し出した薙刀の柄で弾いて、何とか着地して構えなおした。
身のこなしや身体能力、そしてただならぬ妖気から、このふざけた格好の男が人間ではないのは明らかだった。
「誰?」
千里の問いかけに、細身の男は少し首を傾げただけで応答する様子はなかった。
(なんなの……この気味の悪さ)
仮面のせいだろうか。
いや、だとしても、目の前の男からはまるで殺気を感じない。
だからこそ、背後への接近に気づくことができなかった。
2度の攻撃も、まるで鋭さを感じない、殺意の欠片もない攻撃だった。
だが、それでも咄嗟に反応できるかどうかだった。
殺意はないが、仮面の男の視線は千里をとらえて離さない。
薙刀を握る手に、不用意に力が入ってしまいそうだった。
目の前の男はまるで体の知れない存在だ。
(今は引きたい。でも、アビスの出口はやつの後方、南門の先の交差点。ここから全力で走っても2分はかかる。この距離を逃げ切れるとは思えない…どうする)
既に後方にいたロストの姿は見えない。
今ならまだ追いつく可能性はあるが、なぜだか仮面の男から逃げ切れる気がしない。
どこまでも追われるという確信があった。
(こんなやつの情報はなかった…こんなやつがこの日南坂にいるなんて…でも、目的は? どうして仕掛けてこない?)
一瞬の膠着状態で、雑念が混じった。
「しまっ――」
2人の間は10メートル程離れている。
その中で、仮面の男は跳ぶでもなく走るでもなく、腕を横に凪いだ。
瞬間、風が飛んだ。
刃のようでもあり、壁のようでもあり、飛礫のようでもあった。
どの程度の速度で、どの程度の範囲の攻撃かは見当がつかないまでも、もし余計な思考で反応が遅れなければ、せめて横に跳んで直撃を躱すくらいはできただろう。
ほんの一瞬、反応が遅れた千里は、その攻撃をまともに受けるしかなかった。
「あぐっ…」
受け身を取る間もなく校舎の壁に叩きつけられ、地面に転がった。
肺から空気を無理やり追い出され、呼吸ができず咳き込む。
呼吸を乱され、一時的な酸欠で視界が白黒に飛んだ。
薙刀も不意に手放してしまったようで、横たわりながら視界が定かでない中で手探りで探す指先が、仮面の男のつま先に触れた。
細い色白な腕が千里へと伸びてくる。
それが彼女に触れる寸前、ピタッと止まった。
「――――」
振り向いた先に、また別の人影があった。
彼の意識がそちらに向いて、対峙する様子が彼女が覚えていた最後の景色だった。
そうして緩やかに、千里の意識は闇に落ちていった。
次の更新予定
毎週 金曜日 19:00 予定は変更される可能性があります
Fallen Sign 渋サワ @ShivSour
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Fallen Signの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます