羽化するふたり

@hokagomiumiu

第1話

昼休みが終わった5時間目。理科の授業は、移動教室で受ける。3階の東理科室だ。全開にした窓からあたたかい初夏の風が吹いて、中途半端にしまったカーテンを膨れ上がらせた。

 中学3年生、まだ日焼けも気にしていなかったころ、理科の授業は、決まって早く教室に向かった。後ろのドアを開けて、少し緊張して話しかけた。話し始める時、いつも、前に話した時どんなテンションだったのか、思い出せなくて緊張する。

「今日、暑いね」

 授業前の東理科室は、野球部の中西とふたりで話せる場所だった。先月、たまたま早く着いた時に、中西がいた。その時から、特別な場所になった。

「ポロシャツ着て来ればよかったのに」

「本当はだめなんだよ。ポロシャツ着ていいの、6月から」

中西は今日、勝手にポロシャツを解禁してきた。

「うわ~、またそういうこと言う~。延井さんは真面目だね」

 理科室は、真ん中に白い陶器のシンクと、ビニールホースの付いた水道をはさんで、黒くて広い、作りつけの机がある。それに、木製の縦に四角い段ボールみたいな椅子が2つずつ備え付けられている。私と中西は、一番後ろに、隣同士の席だった。

 教科書とノート、実験プリント、それから筆箱。大きさの大きいものからきれいに重ねて持ってきた荷物を、黒い机にバチンと置くと、木製の椅子を引きずって、中西に近付いた。私の右ひじと中西の左ひじが、こぶし一個分の距離に近付く。

「だって先生に怒られたくないじゃん」

 ああよかった。嫌われてない。中西は、クラスのムードメーカーで、人気があって、あんまり成績は良くないけど、先生にも気に入られていた。2年生の時から同じクラスで、出席番号が近かったのでよく話した。だから、嫌われたくなかったのだろうか。

「ほんと、延井さんは真面目だよな~。なんで先生に怒られたくないの?」

「先生に嫌われたくないから」

 先生に嫌われたくない。中西にも嫌われたくない。友達のゆみちゃんにも嫌われたくない。みんなのこととを好きだから、嫌われたくない。でも、先生と中西は同じじゃないし、ゆみちゃんと中西も同じじゃない。中西には、どうして嫌われたくないんだろう。

 教科書を開いて、今日使う実験プリントを用意して、筆箱から鉛筆と赤ペンと消しゴムを出した。中西に嫌われたくない理由を、知ったらいけないような気がして、いつもは適当にする実験プリントの予習を始めた。

「何書いてんの? 何か課題あったっけ」

「ないよ。ないけど、予習してる」

「今日何やるんだっけ」

中西が、私の書いているところをぐっとのぞき込んできた。中西のまつげが長い。野球部らしく坊主にした頭が、少し汗ばんでいる。

「……おれ、字きれいな人が字書いてるの見るの好き」

右手も左手も足も、字を書く姿勢のまま、顔だけ少し中西の方を向いた。

「書いてて」

言われた通りにしか動けなかった。

「うん、やっぱり好きだ。迷いが無くて。するする出てくる」

「中西も書いてみたら。上から持って動かしてあげる」

 とっさに中西に鉛筆を渡した。鉛筆を持った中西の右手を、上からすっぽり握って動かした。中西の手がかたい。手のひらに当たる骨が、かたい。

「な・か・に・し…。どう、自分の名前。いつも迷いながら書いてるの?」

 返事を待った一瞬、風が強く吹いて、カーテンが窓と直角に舞い上がった。それまでカーテンが遮っていた日差しがまぶしい。その鋭い明るさが、実験プリントに書いた私の文字をくっきり晒し上げる。いつもと違う、取り繕った文字。中西と一緒に書いた字は、薄くて細くて頼りなかった。

もう一度風が吹く。左手に力を込めてプリントを押さえる。右手はもう、中西から離れていた。

 風がおさまって、カーテンも戻った。手が汗ばんで、紙を湿らせたのだろう。左手を離そうとして、プリントも一緒に持ち上がってしまった。右手は空気を掴んだまま固まっていた。前のドアがガラガラと開いて、同級生が入ってきた。座りながら、椅子の脚に、足の甲を絡ませて移動し、中西から離れた。

 何も話せなかった。今来たばかりの同級生が、何かにうるさく笑っている声だけが聞こえていた。

「鉛筆、ありがとう」

「うん」

「おれ、窓閉めてくるわ」

ありがとう、と言うことしかできなかった。

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