錆びた鎖が切れるまで

森野きの子

第1話

 十一月も下旬の昼下がり。東比恵の大通りを見下ろす雑居ビルの一室で、上瀧諒平は煙草をふかしながら、灰皿に溜まった煙草の吸い殻を見つめていた。室内は白く烟り、分厚いカーテンの隙間からサーチライトのように射し込んでいる陽射しに濃い紫煙が揺らめいているのが見える。その光景には殺風景な冷たさしか感じられない。


「で? なんてや?」

 上瀧は組んだ脚を机に乗せ、無表情のまま問いかける。前に立つ赤川組の若い組員たちは明らかに緊張していた。

若頭カシラ……。あの、言いにくいんですが、どうやら別府組の下っ端が、うちのルートいじくってるって噂がありまして、なんか、中国の黄龍会と組んで――」

「説明は簡潔にせえ。別府組が中国と手ぇ組んで赤川組ウチを裏切ったっていいようとや?」

 上瀧は上体を起こし、手に持っていた煙草を乱暴に灰皿へ押しつけた。その仕草ひとつで、彼の苛立ちが伝わってくる。

「はい、別府組の下っ端がうちのルートを弄ってピンハネしてるそうです。ウチの取り分に影響が出てて、それで、若頭に対応を決めてもらいたいと思っております。」

「なら今ここにそいつらの名前と居場所、まとめて持ってきとかんか。証拠もないのに噂だけで俺が動くと思っとうとや。それが出せんのやったら、てめぇの始末を考えとけよ」

 組員たちは一斉に頭を下げて退出していく。部屋に静寂が戻ると、上瀧はふと目を閉じ、背もたれに体を預けた。

「……ったく、面倒増やしやがって。クソが」

 口をついて出たのは、苛立ちの混じる独り言。

 上瀧が若頭を務める赤川組、組長赤川芳樹と、別府組組長、別府昌義は五分の盃を交わした兄弟関係にある。その別府組が赤川組に不義を働いたとあれば、いくら本家筋の別府組とて無事では済まない。この件はすでに上瀧が勘づいて調査済みだった。相手が相手なので秘密裏に片をつけるつもりだったのだが、どこから情報が漏れたのだろう。苛立ちはそこからきていた。

 そして、脳裏にとある男の顔が浮かんだ瞬間、上瀧の執務室のドアが開き、その男が顔を出した。


「諒平くん、ちょっといい? あ、またこんなに暗くして……」


 別府組の若頭、藤崎巽。別府昌義が愛人に産ませた婚外子で、上瀧と同じ施設出身でもある。彼はヤクザとは思えないスマートなスーツの着こなしと誰もを魅了する美貌で、モデルか俳優のようだった。

 巽は室内に張り詰めた緊張すら無頓着に、勝手知ったるドア付近の照明のスイッチを押す。蛍光灯に照らされ明るくなった室内に上瀧の目が眩んで細くなる。藤崎巽はその様子を見て微かに甘い笑みを浮かべた。だが、それも一瞬で、上瀧が鋭い視線を向けると、すぐさま真冬の曇天のように冷たく深い底を隠し持つ、いつもの別府組若頭の目に変わった。

 彼を案内した若い組員の視線は巽と上瀧の間をオドオドと行き来している。

 上瀧は手元にあったクリスタルの灰皿を投げつけた。灰皿は中身を撒き散らしながら、巽の肩のすぐそばをかすめ、大きな音を立ててドアフレームにぶつかって床に落ちた。

 頭をかばいながら肩をすくめたのは、若い組員で、巽は落ちた灰皿に視線を落として、やれやれと言わんばかりに肩を軽く上げた。

 若い組員は怯えた顔をしつつ、慌てふためいて灰皿の後始末を始めた。

「巽、貴様どの面下げて俺んとこに来た?」

「どの面って、見ての通りだけど?」

 巽は柔らかな笑みを浮かべながら、机の前まで歩み寄ると、小脇に抱えていたA4サイズの封筒を上瀧の前に置いた。その仕草ひとつひとつが妙に優雅で、諒平は苛立ちを覚えながらも視線を逸らさなかった。

「嫌な風の噂を耳にしてさ。慌てたよ」

 そして、もう片方にぶら下げていたアタッシュケースを置く。上瀧は巽が寄越した封筒から書類を取り出し、視線を落とした。

「よりによってウチから裏切り者が出るなんて」

「で、どうするつもりとや」

「もちろん、落とし前を着けにきたんだよ」

 上瀧はフッと鼻を鳴らして、煙草に火をつけた。別の若い組員がやってきて、新たな灰皿を上瀧の傍に置いた。

「親父の兄弟分に不義理しといて、どんな落とし前つけにきたんか」

 執務室には切り裂くような緊張が走る。上瀧のただならぬ雰囲気に、若い組員は掃除を済ませるなり脱兎のごとく部屋を出ていった。巽はその気配を見送る仕草をみせ、上瀧に向き直る。

「まずはこれ。赤川組の損害金、倍の二億――、それと」

 巽はアタッシュケースを開いて中身を見せた後、懐からスマートフォンを取り出し、操作して上瀧の目の前に置いた。

 書類に載っていた二人の若い男が、どこかの倉庫のような薄暗い場所で、全裸のまま血まみれになってパイプ椅子に縛られ、命乞いの叫びを上げている姿が鮮明に映っている。

「うるせぇ。切れ。」

 上瀧は眉をひそめて目を閉じると、濃い煙を吐き出した。

「汚ぇモン見せんなや」

 上瀧が吐き捨てると、巽は小さく口角を上げた。

「最後まで見ないの? ちゃんと始末したか確かめないと。」

「そいつらで作った金だろ。またピンハネしてねぇだろうな?」

「経費がかかったから多少は」

「舐めたこと抜かしてんじゃねぇぞ」

「まあそういわずに。今頃うちのオヤジも赤川さんの所に詫び入れに行ってるからさ。これはおれから諒平くんに。」

 上瀧は巽に視線を向ける。

「やだなぁもう。諒平くんってば。何で? って顔してる」

 巽は可笑しそうに声を上げて笑った。

「諒平くん、この件に気づいてこっそり動いてくれてただろ? そのお礼とお詫びさ。」

 と肩をすくめて見せると、腰を折って上瀧の耳元に唇を寄せた。

「しかもおれにじゃなく、秦に情報流したでしょ」

 咎めながら、甘みを含んだ声色だった。

 はたは巽の忠実なる犬だ。フランケンシュタインを思わせる仏頂面が浮かぶ。秦はどこの誰よりも巽の為に働く。一体何がそうさせるのか、上瀧にはわからないし、知りたくもないが、秦は巽の為なら自らの命でさえ惜しくないといった男だ。

 だからこそ、上瀧は秦に探りを入れ、独自に調査し、情報を共有した。しかし、どうやら秦はほんの少し仕事が遅かった。こちら側に情報が漏れる前に始末しカタをつけてくれればよかったのだ。それともいち早く上瀧に報告してきた部下たちの優秀さを褒めるべきか。いや、詰めが甘い。あの程度褒められるものではない。上瀧は紫煙とともに溜息を吐き出した。

「足りないというなら、また用意するよ。」

 巽は上瀧から離れ踵を返して言った。

「親父がどうするかはまだ決まっとらんぞ」

「いいのいいの。それは諒平くんのへそくりにでもしといて」

「親父がどうするかもわからんうちから、俺がお前からこんなもん受け取れるワケなかろーが。持って帰れ」

 上瀧は吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、アタッシュケースの開閉部分を乱暴に叩きつける。

「義理堅いなぁ。諒平くん」

 巽は困った素振りで首を傾げるが、その仕草が芝居じみていて上瀧を苛つかせる。素早く立ち上がると巽の胸ぐらを掴んで身体を反転させて、肘で巽の胸を突き、壁際に押さえつける。

「あんま舐めとったら殺すぞ貴様」

 至近距離で唸るように低く絞り出し、顔を離して更に胸ぐらを掴んだ拳で押さえつける。

「これからどうなるかわかっとーとや。下手すりゃ俺んとことお前んとこで戦争ぞ?」

「だからこうして来たんじゃないか。親父も赤川さんと袂を分かつ気はない。おれだって諒平くんと喧嘩別れなんか絶対に嫌だよ」

 上瀧は舌打ちをして、巽から手を振り払うと背を向けた。

「とにかくそれ持ってさっさと帰れ。後は親父の返答次第や。ほとぼりが冷めるまでその面見せんな」

 巽は分かったと呟き、アタッシュケースを手に、部屋を出ていった。

 上瀧は溜息を着くと、新たに煙草に火をつけて、深く煙を吸い込んだ。

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