透明人間は憂鬱に青を喰らう

復活の呪文

第1話:あの日

 子供の頃から記憶力だけは良かった。


 友人と思い出話をする際には、僕だけが覚えている事が種となって話題に花開く事が多くあったし、数年前に友人が話していた事を再度話題に上げた時には、寧ろ何で覚えているのかと問われることすらある。


 覚えている内容としては、小学校の頃、友人が校舎へ持ち込んだジュースの商品名だとか、部活動の対戦相手にどんな選手がいたとか、日常に埋もれた些細な事が多くて、寧ろ誕生日や校内行事といった特別感のあるもの方が朧げなのは、あの経験が影響しているのかもしれない。


 当時の僕は小学校4年生で、確か、その日は火曜日だった。


 家族は全員早く出てしまっていたので、家には僕は一人。運動会の振替休日とはいえ、平日の昼間から自宅で寝転ぶ事に罪悪感を感じながら、すぐ横の一間窓から降り注ぐ淡い光の中、飼い犬を撫でていた。


 ————東京都豊島区池袋内の公園で『透明な人間の死体』が発見。


 厚かましい笑い声をする中年女性タレントを遮って、無機質な文字が画面の上部に現れると、僕は液晶に釘付けとなった。惹かれたのは、『透明な死体』という不可解なワードではなくて、『池袋』の方。池袋には、兄の通う高校があるのだ。


 そんな僕の不安を煽るかのように、番組が途中で中断され、必死そうな声のアナウンサーの顔が映し出された。何か難しそうな単語を叫ぶと、上空から青いビニールシートで包まれた死体発見現場へと映像が切り替わる。


 花見などで見慣れた筈の青い布は、普通の住宅街と別世界を分断する緞帳のような気がして、幼心にも大変な事が起きていると理解した。


「……早く、帰ってこないかな?」


 僕は、大きな綿飴みたいな愛犬を抱きしめて、返るはずのない答えを求める。父はこの時期は残業続きだし、母も帰りに買い物してくると言っていたから、最初に帰ってくるのは兄だろう。


 今日は久しぶりに部活動が休みだから、何かお土産を買ってくるかもしれない。僕の好きな、ブランド名に数字が入ったアイスクリームか、それとも、駅前の毎週火曜日にセールをするたい焼きか。そろそろポイントが貯まると言っていたから、たい焼きの可能性が高いかも。


 そんな淡い期待に縋るも、1時間、2時間。時間だけが過ぎていく。


 ふと窓を見ると、いつの間にか、分厚い灰色の雲が太陽を遮っていた。所々に黒いシミができた灰色の塊からは、今すぐにでも沢山の雨が落ちてきそうな気がする。


 胸の内に募った不安を取り払うためにも、僕は、大好きな兄の事を思い出すことにした。


 南米代表との試合で決勝ゴールを決めた兄のガッツポーズ。濃いラーメンを啜る姿。海外サッカーを観るために夜中までコーヒーで粘る兄。練習の合間に勉強とサッカーを教えてくれ、僕が試合で点を決めれば、僕以上に喜んでくれる。


 そんな大好きな、尊敬する兄の名前は————


「ここで、続報が入ってきました!」


 先ほどの若いアナウンサーの声で現実へと引き戻される。現場を駆けずり回ったのか、綺麗に整えられていた七三分けが崩れ、前髪が目にかかっている。


「透明である事から、どんな化学検証も効果が得られずにいましたが、付近から発見された被害者の所有物と思わしき衣服から、漸く身元が特定されたとの事です!」


 これ以上見てはいけない。そんな破滅の予感が全身を駆け巡った。


 目を瞑ると、何百回と見た、人工芝のフィールドが浮かび上がった。


 僕の遥か後ろ、自陣ゴール前まで敵が攻め込んでいる。一枚、また一枚とディフェンスが剥がされ、あとはキーパーだけ。敵がほくそ笑み、シュートモーションに入る。


「被害者の名前は、篠崎圭さん。青城高校2年生の、全日本サッカー選抜選手です!」


 僕の、兄の名前だった。

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