第14話 径と片鱗

 彼の姿が、先ほどから見つからない。

(どこに……?)

 周囲を見渡してその姿を探す余裕は今はなかった。

 下手をしたら、巻き込まれる。

 二人の動きを、注視する。

 いつどんな状況で、その拳や足、吹っ飛んだ相手やあたりの物品が突撃してくるか、まるで分かったものじゃなかった。

「オラァ!!」

 へばりついていた久々利が危険を察知したのか、さっと飛びのく。

「!」

 標的を失い、空を切る足。

 目を見開いたのも束の間、体勢を立て直し、一時、距離を取る。

「チッ。すばしこい奴だ」

「あなたの動きが鈍重なのですよ。このうすのろ」

「オーケイ。死ね、クソ敬語野郎」

 互いに、睨み合う。

(止めに入ったほうが良いんだろうけれど……)

 足を踏み出しかけたところで、こつん、と、頭に何かがぶつかる。

「いたっ」

 それはビールの空き缶だった。

「おお、悪いな兄ちゃん!」

「?」

 飛んできた方向を見る。

「……えっ」

 なんと、そちらの筋の方々が、楽しそうに手に持った缶ビールの空き缶、袋に入った割りばしなどを投げていた。

 ふくよかなビール腹を揺らしながら、頭を刈り上げた中年の男のひとが、こちらに向かって頭を下げてくる。

 両手を、すまなさそうに合わせる。

「当たらないようにしてたんだがな。気をつけるよ」

「いや、えーと」

 いったい何してるんだ、このひと達?

 頭上に浮かんだ疑問符を打ち消すように、すぐそばで声。

野次やじ飛ばしだ。リアルで体験することになるとは思わなかったな」

「あ」

 そちらに目を向ける。

 白い筋の交じった黒髪が、さらり、とすぐそばで揺れた。

「木島さん」

「うん。いま、やっと戻ってきた」

 手を差し出し、Vサインをする。

 血のこびりついた指先。

「どこに行ってたんですか?」

 尋ねると、うーん、と、腕を組んで苦笑する。

「あのおじさんの、救護に」

「え? ……あっ」

 指差した先。

 建物の入口。

 ちょっと前に、久々利に蹴り飛ばされて吹っ飛んだおじさんが、担架に乗せられて搬送されていくところだった。

「無事だったんですか? あのひと」

「うん。なんとかね」

 遠い目をする。

「あばらが何本かやられてるっぽかったけど、まあ、命に別状はないよ。触ってたら痛がってたし、意識もある」

「よかった……」

「よかったのかな?」

 軽く首をひねり、無事だし、まあいいか、と、納得がいっていなさそうにあごを引く。

「命が助かっただけ、まだめっけものだと思わなくちゃね」

 手を、強く握りしめる。

 うつむき、ちいさく呟く。

「助けられた。助けられた。助けられた」

 三度、呪文みたく。

 聞こえないほどの声だった。

 自分に言い聞かせるような。

 力のこもってしろくなった指先を、グーの形にしたり、パーの形にしたりを、何回か。

 開いた手のひらには、――痛々しい、無数の引っかき傷が垣間見えた。

「木島さん、それ、どうしたんですか?」

「!」

 尋ねると、素早い動きで、手を背中の後ろに隠す。

 頭をぶんぶんと大きく振って、なんでもないよ、と、口角を上げる。

「傷が――」

「気にしないで。なんでもないんだ」

 再度繰り返す。

「ごめんね。キミが気にすることじゃない。……僕の、問題だから」

 ポケットから絆創膏を取り出し、手慣れた様子で傷に貼り始める。

「無理があります」

 おれの反論に、無言でこちらを見つめる。

「何?」

 こわばった表情。

 一瞬、ぐっ、と、言葉を呑み込みそうになる。

「そんな酷い傷を見て、何も気にするな、なんて。できません。恩人なので」

「……」

 しばらく、沈黙が降りる。

 ふいに、木島さんの表情がゆるんだ。

「あは。ずいぶんと、言うようになったね。さっきまで、地蔵みたいに黙ってたのに」

「じぞッ……」

 あまりの言い草に、絶句する。

 けれど、口にした内容のわりに、彼の表情はやわらかかった。

 貼り終わった絆創膏は、ウソみたいに綺麗に、その手のひらの傷を覆い隠している。

「さっき、烙理を助けるために叫んだから、吹っ切れちゃったのかな」

 にこにことしながら、目じりに浮かんだ涙を拭く。

「ねえ。ありがとうね。僕なんかのことを、恩人、って言ってくれて」

 おかげで少し、楽になった。

 キミになら、話せそうな気がするよ。

 そう言って、すっ、と立ち上がる。

「さて。先輩を呼びに行こうか」

「え?」

 あの中に入るんですか?

 おそるおそる、尋ねる。

「当たり前じゃないか」

 あっけらかんとした答えが、返ってくる。

「だって、そうだろう」

 瞳が、さっきまでとは一変して、ぎらりと暗く光る。

 どこか憂いを帯び、狂気をはらんだ瞳。

「僕が、助けないと」

「え?」

 文脈が読めない。

 そうなんだ、と、何回もうなずく。

「僕には、助けられるんだから。烙理を、助けないと」

「木島さん……?」

 どこか異様な雰囲気を感じ、手を伸ばす。

 その手が届くよりも先に、歩き出す。

「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 あわてて、追いかける。

 飲料のペットボトルや空き缶が、彼の周りで飛び交っている。

 いくつかが身体にぶつかってきても、構う素振りをまるで見せず、背を丸めて歩を進める。

 まるで、熱に浮かされた騎士が行進をしているようだった。

 その中に、――明らかに、中身のまだ残っているビールの缶。

 頭めがけて、まっすぐに飛んでいく。

「あっ!」

 駆け寄り、それを払いのけようとする。

 勢いよく突き出した手が、狙い通り、缶をすんでのところで弾き飛ばした。

 液体がびしゃり、と跳ね、おれに降りかかってくる。

「うわッ、かかった」

 内心、マズったな、なんて反省しながら、大丈夫ですか、と声をかける。

 鈍い音が、床で転がる。

 我に返ったように目を見開き、木島さんが振り向いた。

「しs……四ツ角君」

 今のは、いったい?

 眼鏡を押し上げ、問う。

 ほんとうに、面食らった様子だった。

 やはり、気づいていなかったのだろう。

「重そうなのが、飛んで来てたので。頭に当たったら、危ない、と思って」

 息を切らしながら説明する。

 やや遅れて、ごめんな兄ちゃん、𠮟っとくわ、などと釈明の声が、申し訳なさそうに響く。

 飛び交っていたものたちも、そのうちぴたりと止んだ。

 自重するように、と、呼びかける声が輪唱のように聞こえる。

「……顔、真っ赤だよ」

「あ? ああ」

 首筋を撫でる。

 かかった液体のしずくが、髪を伝ってわずかに、傷口に触れている。

「おれ、めっちゃくちゃお酒に弱いので。少量なので、大丈夫です」

「そこまで弱いのか……」

 たぶん違うんじゃないかな、と、苦笑いする。

「僕もたぶん、そうなってると思う。ほっぺたが熱い」

 手の甲で、自分の頬に触れる。

 たしかに、その手に比べて、ずっと温度が高そうな色をしていた。

「いっしょに行きましょう」

 提案する。

「さっきの木島さん、ちょっと、なんていうか、――危険な感じがしました。自分の身を顧みなさそう、というか。あの乱闘に巻き込まれて、ズタボロになってしまいそうな」

「……」

 睨み返す眼が、まだ少し暗い。

「いっしょに、助けましょう。そのほうが、木島さんの身も助かります」

 無言。

 頭を掻き、いやあ、と破顔する。

「その発想はなかったな。うまいこというじゃないか」

 うん、わかった。

 いっしょに行こう。

 それで、キミが喜ぶのなら。

 手をつなぐ。

 もう、勝手に飛び出していかないように。

 少し驚いた顔でこちらを見たあと、黙って握り返す。

 あたたかくて、血でしめった手。

 傷を刺激しないようにやさしく手を取りながら、おれは考えていた。

 、と。

       ◇

 果たして。

 姿が見えなくなっていた二人の元に辿り着くと、いつの間にか休戦していた。

 疲れた様子で、隅っこにあるベンチに、並んで腰を下ろしている。

「……あれ?」

 拍子抜けした声を、思わず洩らしてしまう。

「おー。径、志澄。来たのか」

 ひらひらと、祥先輩が手を振る。

「どした? なんか、ビミョーな顔してんな」

「……烙理は?」

 木島さんが尋ねる。

 その声に、一瞬怯んだように肩を縮こまらせ、不思議そうに腕をさする。

「ああ、あそこにうずくまってるよ。こっちに近づいて来ようとしないんだ」

 指差された方向を見る。

 履物を入れるコインロッカーの下で、しゃがみ込んでいる姿が見えた。

「行ってやってくれ。たぶんアイツ、心のケアが必要なレベルだ」

 ジトッとした目で、久々利のほうを睨む。

「この性悪野郎にセクハラされてるからな」

 久々利は平然としている。

「人聞きが悪いですね。純粋な愛情表現ですよ」

「お前の容姿でやられると怖えんだよ」

「それ、ある意味ハラスメントめいてません? 傷ついたのですが」

 ぶすっとした表情をわざとらしく作る。

「とにかく、ちょっと疲れましたので、一時休戦としておいてあげます。無駄に体力を消費させずとも、私のほうが上なのは目に見えて分かることですしね」

「あ? おい今なんつった」

 ぎろりと睨む視線をしっしっ、と手で振り払い、そっぽを向いて告げる。

「友達なのでしょう。行っておやんなさい」

 どうやら私は、あの子に必要とされていないようです。

 あっさりと、降りる宣言をする。

 開き直ったような声だったけれど、ちょっとだけさみしそうに聞こえた。

「……行こうか、四ツ角君」

 木島さんが、おれの腕を引く。

 去り際、もう一度、久々利へと目を移す。

 悄然と、らしくなくうなだれていた。

 隣に座っている祥先輩が、こちらの視線に気づいて、わずかに微笑んだ。

 しんみりした笑い方だった。

「烙理」

 数歩前まで歩み寄って声をかけると、肩を跳ねさせ、おどおどと声の主を確認する。

「……なんだ。志澄か」

 気の抜けたような顔で、伏し目がちにこちらを見つめる。

「大丈夫かい」

 木島さんが尋ねると、うん、と、弱気に返す。

「コミチに心配される覚えないもん。ボクのこと、蹴っ飛ばしてきたくせして」

「そうかい。でも、あの男に蹴られてたひとよりは、幾分かはマシだったろ?」

 数秒、烙理の動きが止まる。

「うん」

 長い沈黙のあと、やっとという感じで、返事をしぼり出す。

「怖いよ。あのひと、なんなの? わけわかんないよ」

「つらかったな」

「うん」

 何度も、壊れた機械のようにうなずく。

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