帰る

沢田和早

帰る

 正月三日目の昼前、僕は自転車に乗っていた。坂道を下り始めてまだ十分ほどだ。


「先輩、スピード出し過ぎですよ。この山道はガードレールがないんです。慎重に行きましょう」

「馬鹿者。チンタラ走っていたら昼飯が遅くなるだろう。俺は腹が減っているんだ」


 僕の前方で猛然と自転車を転がしているのは先輩だ。

 先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。

 同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。


「うう、下りの自転車は寒いなあ。結局餅は貰えなかったし、正月早々ついてないや」


 どうして正月三日にこんな山道を自転車で下っているのかというと先輩の初夢のせいである。この山にある神社で本日午前十時限定十名に餅が配られる、それが先輩の初夢だった。その夢に従ってここまで来たものの、貰えたのは絵に描いた餅で、それも実はただの朴葉で、しかも風に飛ばされてどこかへ行ってしまったので何もかも徒労に終わってしまった。

 現在僕は背中のリュックも腹の胃袋も空っぽのまま、早急にアパートへ帰るべく家路を急いでいる最中なのだ。


「先輩、今日の昼はどうしますか」

「せっかく雑煮用の食材を買ったんだ。途中でうどんでも買って餅の代わりにしよう」

「ああ、それもいいですね」


 貰える餅を当てにして昨日のうちに鶏肉、大根、人参などを買いそろえてしまった。餅を食べられなくなったのは残念だがうどんでも悪くはない。考えているうちに僕も腹が空いてきた。早くアパートへ帰ろう。


「あれ?」


 右手に違和感を覚えた。下り坂が続くのでずっとブレーキをかけ続けているのだが、前輪ブレーキが少し甘い。


「先輩、冗談抜きで少しスピードを緩めてくれませんか。なんだかブレーキの効きが悪いんです」

「それはあり得ん。自転車とはブレーキがしっかり効く乗り物である。そしておまえが乗っているのは自転車である。自転車である以上ブレーキの効きが悪いはずがない。よってスピードを出し過ぎても問題ない。急げ。俺は腹が減っているんだ。とっと帰るぞ」


 また先輩の屁理屈が始まった。どうしてこうも独善的なのかなこの人は。


「いや、現にブレーキの調子が悪いんですよ。危ないですから僕はスピードを落としますよ」

「勝手にしろ。遅れて帰ってきてもうどん雑煮は残しておいてやらないからな」


 それは困るが安全には代えられない。両手のブレーキを強く握った。


 ブチッ!


 嫌な音がした。と同時に自転車が加速し始めた。何が起きたかすぐわかった。ブレーキワイヤーが切れたのだ。


「しまった!」


 後悔先に立たず。ひと月ほど前からブレーキが甘いなあとは思っていたがまさか切れるとは思わなかった。考えてみればこの自転車は中学生の頃から乗っている。タイヤとチューブは一度交換したがブレーキワイヤーは最初のままだ。まずいぞ。この先は直角に近い右カーブだ。このスピードでは曲がり切れない。


「先輩、どいてください。ブレーキが壊れました」

「ふっ、ブレーキがそう簡単に壊れるわけないだろう」

「壊れたんです。早くどいて。このままじゃぶつかる」

「ほう、そんな嘘をついてまで俺の前を走りたいのか。ならば脚力で追い抜かしてみろ」


 どうしてこうも人の話を聞かないのかなこの人は。衝突を避けようとして右や左にハンドルを切っても、それに合わせて先輩もコースを変えてくる。絶対に抜かされたくないようだ。


「先輩、いい加減にしてください」

「いい加減にするのはおまえのほうだ」


 カーブが近付く。先輩が減速する。僕は減速できない。ああ、もう駄目だ。ぶつかる。


 ガシャーン!


 衝突の瞬間、僕は思いっ切り自転車を前方へ蹴り飛ばした。そのお陰で転落は免れたが、先輩と二台の自転車は斜面を滑り落ちていった。


「せんぱーい!」

「うわあー、助けろー!」


「助けて」ではなく「助けろ」なのが実に先輩らしい。まあ、先輩のゴキブリのような生命力を考えると、この程度の事故、特に心配も要らないので放置しておいてもいいのだが、転落の原因は僕であるし、自転車なしで二十キロ以上の道を歩いて帰るのは辛すぎる。


「仕方ない、探しに行くか」


 覚悟を決めて少し車道を下り、そこから藪の中へ足を踏み入れた。冬の山とはいっても枯草、枯葉、枯れ枝などで足場は悪い。所々雪も残っている。立木が多くて見通しも悪い。


「先輩、どこに落ちたのかな」


 大体この辺りかなと思われる場所まで来たが姿はない。ただ何かが落ちてきたような跡はあるのでここに落下したのは間違いないようだ。きっと自転車を担いでどこかへ移動したのだろう。


「大人しくじっとしていてくれればいいのに。これじゃいつ帰れるかわかったもんじゃないな。せんぱーい、せんぱーい。どこですかあー」


 大声を張り上げても返事はない。声が届かないほど遠くにいるのか、それとも返事ができない状況にあるのか、あるいは聞こえているけど無視しているのか。


「少し探してみるか」


 当てもなく彷徨い歩くこと十数分、何やら香ばしい匂いが漂ってきた。遠くにはゆらゆらと煙も立ち上っている。さらに歩くこと数分、川のせせらぎが聞こえてきた。


「おう、ようやく来たか」


 谷川のほとりに二台の自転車が横になって置かれている。その傍に先輩が座っていた。焚火をしている。焼き魚を食べている。結構大きいのでイワナだろうか。忘れていた空腹が戻ってきた。


「先輩、怪我はありませんか」

「ない。あれくらいで負傷するほどやわな肉体ではない」


 そうだよな。訊くだけ無駄だった。


「それで、こんな所で何をしているんですか」

「見りゃわかるだろう。魚を食っているんだ。もう昼だし、自転車漕いで腹が減ったからな」


 車道から落ちてまだ三十分も経っていない。こんな短時間で谷川を見付け、魚を捕獲し、焚火を起こして焼いて食うとは、どれだけ仕事が早いんだこの人は。


「僕の分は?」

「あるわけないだろう。食いたきゃ自分で獲って焼いて食え。焚火は使ってもいいぞ」


 先輩じゃあるまいしそんなことできるわけがない。空腹を抱えたまま焚火の傍に座る。


「自転車ぶつけてすみませんでした。でも先輩だって悪いんですよ。どいてくれって言っているのにどいてくれなかったんですから」

「おまえが乗っているのは自転車だと思い込んでいたからな。ブレーキが壊れている乗り物を自転車とは言わない。それは自転車以外の何かだ」

「そうですか。で、ここからどうやって帰りましょうか。自転車以外の何かに乗って山を下るのは危険ですよね」

「案ずるな。ブレーキは修理済みだ」

「本当ですか!」


 驚く僕を気にも留めずに先輩は語った。自転車で遠出する時は常にパンク修理セット、空気入れ、予備のブレーキワイヤーとチューブを携帯しているのだそうだ。確かに先輩のリュックは「これから雪山登山にでも行くのですか」と尋ねたくなるくらい大きいからな。


「おまえもそれくらいの準備はしておけ。と言うか運行前点検は怠るな。自転車でも下手すれば命を落とす」

「わかりました。肝に銘じておきます」


 今回ばかりは反論もできない。先輩もたまには真っ当なことを言うんだな。しかしこんな短時間で魚を捕獲調理しただけでなく自転車修理まで完了していたとは。人間業とは思えぬ手際の良さだ。


「さあ、腹も膨れたし帰るぞ」

「僕の腹は膨れていませんが」

「そんなことは知らん。だが途中でバテても困るから道に出るまでおまえの自転車は俺が運んでやる」


 先輩が二台の自転車を肩に担いだ。生命力も体力も人一倍だ。こんな時は本当に頼りになる。


「ありがとうございます。帰り道はこっちですよ、付いて来てください」


 今度は僕が先頭だ。来た道を戻るだけだから楽なものだ。行きと違ってあちこち探す必要はないので十五分くらいで車道に出るだろう、と思って歩いているのだが一向に山中を抜けられない。


「おい、まだか」

「そろそろだと思うんですけど、おかしいな」


 歩き始めて三十分が経過した。それでも車道は見付からない。どこまで行っても雑木林の中だ。先輩の足が止まった。


「これは……どうやら帰り道を剥奪されたようだな」

「はい。迷子になったみたいです。すみません」


 恥ずかし過ぎる。穴がなくても入りたい気分だ。山は本当に怖い。山中での遭難は毎年何件も発生している。初心者はもちろん上級者でも道に迷ったりするのだ。何か目印でも残しておけばよかった。ションボリとうなだれている僕の頭を先輩の手が軽く叩いた。


「謝ることはない。迷子になったのはおまえのせいじゃないんだからな」

「僕のせいですよ。先輩が転落したのも帰り道がわからなくなったのも僕の準備不足が原因なんですから」

「やれやれ、おまえは本当に観察力がないな。気が付かなかったか。俺たちは同じ場所をぐるぐる歩かされているんだよ」

「同じ場所を?」


 周囲を見回してみた。そう言われてみるとあの枝に残っている赤い実は見覚えがある。日陰に残っている汚れた雪も一度見ている。先輩の言う通りだ。通過した場所に戻っている。


「どうしてこんなことが……真っ直ぐ歩いているはずなのに」

「山が怒っているんだろうなあ。それで俺たちに仕返ししているんだ」

「山に怒られるようなこと、何かしたんですか」

「さっき魚を食っただろう。あれ、川のぬしだったんだろうな。主を殺されちゃ山も怒るだろう」


 川の主? 大きさも形も普通のイワナにしか見えなかったけどな。あれくらいの魚で山に怒られていては渓流釣りなんてできなくなってしまう。


「それは考え過ぎですよ。どう見ても普通のイワナだったじゃないですか。あんなの主でもなんでもないですよ」

「俺が食ったのはイワナじゃない。メダカだ。今は禁漁期間なのでイワナは獲れないからな」


 メダカ! 嘘でしょ。体長二十センチはあったぞ。しかしメダカなら話はわかる。確かに主と呼ぶに相応しい大きさと貫禄だ。


「だとしても山が僕たちに仕返しするなんてあり得ますか?」

「現にこうして仕返しされているじゃないか。山の怒りを解かない限り帰り道は見付からんぞ」


 また厄介なことになってきたな。山の怒りなんて信じたくないが先輩と超自然現象は切っても切れない関係にある。今日だって祠に祀られた氏神に面倒なミッションを押し付けられたし、つい先日は雪娘に散々な目に遭わされた。まったく、先輩と一緒にいるとロクなことにならない。


「で、どうやったら山の怒りが解けるんですか」

「謝るしかないだろう。山! すまん。許してくれ。帰らせてくれ。帰りたいんだ。帰らせろ……おい、何をボヘ~と突っ立っているんだ。おまえも謝れ」


 僕は別に山の怒りに触れるようなことは何もしていないんだけどな、と言いたくなるのを我慢して一緒に謝る。


「山様、お許しください。僕らを家に帰してください」

「山、許せ。早く帰らせろ。でなきゃ山火事を起こしてやる。はげ山になってもいいのか。嫌なら帰らせろ」


 どう考えても先輩の言葉は謝罪ではなく脅迫である。そうしてしばらく叫んでいると突然地響きのような声が聞こえた。


「否!」

「先輩、今の声!」

「ああ、山だ。どうやら言葉だけの謝罪では駄目みたいだな」


 いや、そうじゃなくて先輩の脅し文句が駄目だったんじゃないですか、と言いたくなるのを我慢して地面に両手を着く。言葉が駄目なら土下座して謝るしかない。


「この通り伏してお願い申し上げます。何卒我らの罪を許し、元の住処に帰らせてくださいませ」

「無駄だ。その程度では許してくれないだろう。こうなれば血を以って許しを請うしかない」

「血って、どういうことですか」

「昔アマゾンを彷徨っている時に似たような出来事があった。川の魚を食ったら密林から出られなくなったのだ」

「今と同じじゃないですか。で、どうやって脱出したんですか」

「魚の血を流した罪を贖うために俺の血を川に流した。そしたら許してもらえた。今回もそれでいけるはずだ」


 先輩は肩に担いだ自転車を降ろすと、リュックから十徳ナイフを取り出した。刃渡り五センチほどなので銃刀法に引っ掛かることはないだろう。しかし何でも入っているなこのリュック。


「山、俺の犯した罪、これで許せ」


 先輩は左手を高く掲げるとナイフで甲を切った。血が滴り落ちて土に染み込んでいく。一滴、二滴、三滴。やがて再び地響きのような声が聞こえた。


「赦!」

「先輩、今の声!」

「ああ、許してもらえたようだ。これで帰れる」


 先輩はリュックから軟膏を取り出して傷に塗り込み、大型絆創膏を取り出して傷に貼り、包帯を取り出して左手に巻き付けた。本当に何でも入っているなこのリュック。


「さあ帰ろう。すっかり腹が減っちまった」


 先輩は何事もなかったかのように二台の自転車を担いで歩き出した。僕もその後に付いていく。僕に頼らずとも帰り道はわかっているようだった。

 それから数分で僕たちは車道に出ることができた。山を下り、途中のスーパーでうどんを購入し、アパートに帰ってうどん雑煮を作り、かなり遅めの昼食をとった。僕は腹ペコだったのでいつも以上に美味しく感じられた。


「ちゅるちゅる。はあ~、ようやく一息つけました。先輩、無事に帰って来られてよかったですね」

「それもこれも用意周到な俺のおかげだ。これからは運行前点検を忘れるな。それからリュックには修理セット、救急セット、防寒セット、携帯トイレ、常備薬などを常に入れておけ」

「そんなに入れたら他の荷物が入らなくなりますよ。ところで非常食は言いませんでしたよね。要らないんですか」

「そんなもの入れておいたら気が散って旅ができなくなる。背中に食い物があると考えただけで食いたくなるからな。食料と水は現地調達が一番だ」


 先輩らしいなあ。でもそんな考え方をしているから山の怒りを買うんだよ。今度から先輩と出掛ける時には必ず食料と水をリュックに入れておこう。腹が減ってもすぐ何か食べさせれば現地調達なんかしないだろうし、先輩と一緒なら僕の荷物はそれだけで十分だろうから。









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