喫茶セルパン②

「まったく。だらしがないねぇ」


 お岸はいつもの〝おかみさん〟の顔で呟いて、抱きかかえた店員の女の子を、カウンターの裏を背にそっと座らせた。ショックで気を失っただけで、穏やかに息をしている。


 目を覚ましてから、誤魔化せるだろうか。何とか言いくるめるしかない。今のところはひとまず騒がれないようにするしかなかった。


 お岸はあらためて亭主の方を見た。大男と化した八五郎に床に押えつけられながらも、何か言い返している。八五郎の方もわめいているので、互いに何を言っているかもわからない。


 お岸は辺りに転んでいた椅子を立たせて、そこへ腰掛けた。脚を組む。


 鶴牧つるまき岸の亭主、仲蔵は気が小さいクセに見栄っ張りだった。古い時代の性分そのままに、揉め事が起きたら男である自分が身を呈してでも女房を守るべきだと思っている。人間の夫婦に身をやつして人の世で一緒に暮らそうと誘われたときも、お前に苦労はさせないよ、などと気障きざなことを言われたが、そういう言葉は天地開闢てんちかいびゃくより守られたためしがない。取った名前がお互いたまたま同じはなしにちなんでいたせいで、気が合うかもと錯覚してしまった。


 お岸もなにも安穏と静観しているわけではなかった。大事な自分の店で暴れられては内心腹立たしかったし、大男を引っ叩いて店の外に叩き出してやりたい。そうしないのは、ひとえに亭主の顔を立てているに過ぎなかった。お岸もまた古い気性の女だったが、なにぶん古い人間なので仕方ない。二人が一緒になったころ、娯楽の花形はまだ寄席よせであった。


〈それにしても、組合の者はまだ来ないのかね〉


 大男に組み伏されている亭主を睨むお岸の口の中には血があふれていた。口内で唇の裏側が噛み千切られそうになっている。


〈あれじゃ本当にそのうち殺されちまうよ〉


 そうなったら──そうなる前に殺す。お岸は、蛇女の本性を剥き出しに、腹をくくっていた。


 いくら〝化け物〟同士でも殺しはご法度はっとだが仕様がない。そんなことになれば、今のまま人間の振りをして暮らすことはできなくなる。愛着のある店も手放すことになる。しかしそれは躊躇ためらいにはならなかった。元来、蛇女の執着心ははなはだしい。自分のものとみなした所有物を失うことは決して許さない苛烈な気性が、今は一点、殺意に向いていた。


 相も変わらず罵り合っていた仲蔵と八五郎の二人だったが、そのうちの一言にカチンときたのか、八五郎は顔を激しく歪めると、右腕を大きく引いた。相手を組み伏しているので、天井に高く肘を上げることになる。その手は岩のような握りこぶしを作っている。


〈あのバカ〉お岸は目を剥いた。〈加減ってモノを知らないのかい〉


 容赦なく殴りつけられれば、か細い仲蔵が死ぬのは明らかだった。


 殺す。椅子を蹴って立ち上がったお岸は、ほおまで裂けた口から歯を剥き出しにし、刃の刺し跡のような細長い瞳孔を害意に染めあげた。


 からん、と音がして、店のドアが開いた。洋食喫茶『セルパン』の入店口には真鍮製のベルが掛かっている。元は落ち着いた金色だったのが年を経て退色した骨董品で、ちょっと能天気な音を鳴らす。


 それと同時に店に入ってきたのは、小柄な少女だった。くせっ毛のショートボブにカチューシャを巻いて、小さなリボンのついたヒラヒラのワンピースという可愛らしい格好をしているが、不釣合いに目つきが悪い。


 少女は店内を一瞥いちべつすると、大男の腰の辺りを掴んで引きずり倒した。八五郎の巨体が店内を転げる。壁にぶつかるまでの間に、あたりのテーブルや椅子は横倒しになり、備え付けの調味料の小瓶や、店のロゴが入った紙ナプキンや、ラミネートされたペラ一枚のメニュー表や、痛ましい殺人事件の進展を報じる今朝の新聞が宙を舞った。


 その光景にお岸は唖然とした。それから、諦めたように椅子に座りなおした。眉間に指を当てる。余計厄介なやつが来てしまった。


「なにしやがる」


 八五郎は身を起こして叫んだ。唇を剥き、鼻の穴を大きくして、ぎょろぎょろした目で少女を睨みつけるが、少女の方は顔色一つ変えない。


「組合のもんだよ。揉め事は禁止。ルールを知らんわけじゃないだろ」

「人のケンカに首突っ込んでんじゃねぇ。ガキはすっこんでろ」

「は? そのガキに放り投げられて尻餅ついてんのは誰だよ」


 少女は不愉快そうに瞳孔を絞る。


「バカが騒ぐと話がややこしくなる。大人しくしてろ」

「誰もテメェになしつけてもらおうなんざ思ってねぇ」


 大男は憤懣ふんまんやるかたない様相で少女に立ちはだかった。見下ろす巨躯は、屈めた背が天井に触れるほど大きい。その高さから拳を振り下ろした。先程お岸の亭主にも見舞おうとしていた岩拳だ。


 少女はそれを左の手で受け止めた。拳の振りよりも早く足を開いて、中腰に大男の拳固を捉える。衝撃を受けて、店が小揺るぎするが、少女の立ち位置はわずかにも動じない。


 そのまま大男の右拳と、少女の左手とが、拮抗したまま震える。いやそこに均衡はあっても、拮抗してはいなかった。八五郎が拳を引こうとしても、びくともしない。顔を歪めて、いくら力を込めても、拳に食い込むような少女の細指がそれを離してはくれなかった。


「穏便にって言われてるんだ」


 目つきの悪い小柄な少女は、仕方なさそうに言いながらも、その口の端を好戦的に持ち上げた。白い鬼歯が覗く。


「けどそっちがその気なら、相手してやるぜ」

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仮粧町通り商店街 異形種共同組合《アンブレスィド・クリーチャーズ・ユニオン》 ブッダマニアと消えない痕跡 小澄桂馬 @KosumiKeima

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