第2話 自宅への道は、まだ一歩目だ。

 彼が見た建物。それは巨大な東京ドームだった。明らかに自宅ではないはずの建物。だが彼の記憶は、それをまさに自宅だと認識していた。


「どういうことだよ! 何が何だかわからねえよ!」


 彼の思考は混乱の極みに陥っていた。理屈で考えれば絶対にありえないこと。それにもかかわらず、彼の記憶はそれが正しいと訴えている。


「よし、家に帰ろうか!」

「私も帰るわ!」


 そう言いながら東京ドームへと向かう人たち。そこを自宅だと認識しているのが自分だけでないことに気付いた彼は、無意識のうちに『ありえないこと』を受け入れていた。


「やっぱり、ここが自宅だったんだな」


 東京ドームを自宅だと言って向かう人たちが、水道橋駅にごった返していた。その流れに乗るように、彼もドームへと足を進める。


「みんな自宅のように寛いでいるな。やっぱり、ここが俺の帰る家だったんだ!」


 他の大勢が自宅だと思っていることで、彼もまた東京ドームが自宅であると確信を持ちつつあった。寛ぐために靴下を脱いでベンチに寝そべる。すぐに彼の心を安心という感情が包み込んでいく。


「ああ、やっぱり自宅は寛ぐなぁ。ん、なんだあれは……?」


 彼らがしばらく寛いでいると、白衣を着た数名の男女が入ってくる。明らかな不審人物が彼らの自宅に無言で入ってきたことに、彼を含めた全員が不快感を示す。中には罵声を浴びせたり、物を投げつけたり、警察に電話したりするものもいた。


「あちゃー。これはとんでもないウイルスだね」

「まさか自宅設定が東京ドームにされてしまうとは、予想外でした」

「どうだろう。復旧できそう?」


 しかし自宅へ侵入した彼らは、人々の警戒や攻撃など意に介すことなく話を始める。先頭にいる白衣の男性が問いかけると、側にいた白衣の女性がPCのキーボードをカタカタと叩く。そして、大きくうなずくと隣の男性に答える。


「はい、かろうじて一週間前のバックアップが残っていましたので、それを復元します。ですが……」

「まずはウイルスの駆除だね」

「はい。幸いにも、厄介なタイプではありませんでしたので、すぐに駆除できると思います」


 ふたたび女性はカタカタとキーボードを叩く。田中一郎の意識は、そのキーボードを叩く音を聞きながら、暗い闇の中へと落ちていった。


 ◇


 彼は水道橋駅で帰りの電車を待っている自分に気が付いた。先ほどまで東京ドームを自分の家だと思っていたのが悪い夢のようだ。現に水道橋駅のホームから東京ドームを見ても自宅だとは思えない。


「何を当然のことを考えているんだ。俺は……」


 彼は変な妄想を振り払うかのように激しく首を横に振った。そうまでしても、彼の頭の中にこびりついた東京ドームを自宅だと思いこむという妄想を完全に振り払うことはできなかった。


「ああもう、くそっ。いったいどうなってるんだ!」


 そう言って頭をかきむしると、ちょうど帰りの列車がホームへと入ってくる。彼は定期に書かれた上石神井駅を目指し、ちょうど到着した列車に乗り込んだ。


 その後、無事に自宅へとたどり着いた彼は妻に手錠をはめられて病院へと連れて行かれることとなる。当然ながら、どこも異常はないと診断される。それでも妻は強硬に主張し、結局、彼は数日入院することとなった。暴れると困るということで手錠を付けられたまま……。

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