バック トゥ ザ ホーム

ケロ王

第1話 いつものように帰り着いた家は……。

「ただいまー」


 田中一郎は自宅の玄関を開けて、家の中に入る。奥に進んだ先の部屋には女性が一人立っていた。


「あら、お帰り。今日は早かったのね」


 その女性は、濡れ羽色の髪をなびかせながら、気だるげな表情で彼の方へと歩み寄る。


「誰だ、お前は!」

「ちょっと、何を言ってるのよ! ちょっと、熱でもあるんじゃないの?」


 彼の問いかけに、女性が声を荒げる。そして、手を前に出して、さらに彼ににじり寄っていく。一進一退の攻防に耐えきれなくなった一郎は、玄関の扉を開けて一目散に逃げだした。


「や、やめろ。近づくな。うわああああ!」

「あ、ちょっと! 待って、なんなのよ。もう……」


 玄関先まで追ってきた女性だが、男の足には追い付けないと理解したのか腰に手を当ててため息をついていた。振り返った彼が目にした自分の家。まったく見覚えのない建物だった。


「ここは、どこだ?!」


 それだけではなく、周囲の景色も自分の自宅ではないと彼の記憶は告げていた。


「もしかして……。俺はボケてしまったというのか?」


 慌てて彼は自分のカバンの中から運転免許証を取り出して住所を確認する。


「東京都奥多摩郡きさらぎ町?」


 彼は免許証に書かれた住所を読み上げて訝しげな表情になる。そのまま運転免許証をカバンの中に突っ込んて、大きく深呼吸をした。


「疲れているだけだな……。そもそも俺はまだボケる年じゃねえし!」


 運転免許証の住所を見なかったことにして、彼はいったん最寄り駅である西武新宿線上石神井駅まで戻る。その駅は確かに彼の記憶にある最寄り駅と同じものだ。


「駅を出て、この角を左に。次の角を右に……。それで、ここだよな」


 道を最初から記憶に従って進んでいく。だが、そうしてたどり着いた先は、先ほどと同じ、自宅ではない見たこともない場所だ。


「おっかしいなぁ。あってるはずなのに」


 そうぼやいて、もう一度帰り道を思い出す。会社を出て、水道橋駅で総武線に。新宿駅で山の手線に乗り換えて高田馬場まで。そこから西武新宿線に乗り換えて最寄り駅である上石神井まで行くルート。


「うん、記憶は間違いない……はず?」


 その時、彼はそこはかとない不安を覚えた。本当に正しいのかと自問自答する。それを確認するために、今度はポケットから定期入れを取り出した。


「あれ? 定期の区間が水道橋~新大久保になっている?」


 彼は不思議そうな顔をして首をかしげる。


「やっぱり疲れているみたいだな。最寄り駅を間違えるなんて」


 そうつぶやいて、彼は列車に乗り新大久保駅へと向かった。新大久保駅を降りた彼の目に映った光景は、まったく見覚えがないようで眉を寄せていぶかしむ。


「駅を出て、この角を左に。次の角を右に……。それで、ここだよな」


 彼は新大久保駅を出て、記憶を辿って道を進んでいく。その先にあった建物。それは激安の殿堂――ドンキ〇ーテという店だった。


「いやいや、ここが自宅ってどういうことだよ!」


 自宅としては、明らかにありえない場所であったことに、思わずセルフツッコミをいれてしまう。そんな彼を周囲の人々は一瞬だけ奇異な目で見ていたが、そこは変な人など珍しくもない歌舞伎町エリア。人々は「またか」という表情で通り過ぎていった。


「もしかしたら、道を間違えたのかもしれない。駅前からして記憶にないからな」


 彼は一旦、新大久保駅まで戻る。そして、記憶を頼りに家までの道を歩いていく。


「それで、ここを右に……。ここを左に……。ここかっ!」


 ふたたび歩いてたどり着いた場所。そこはうら戸田公園の中にある箱根山の入口だった。嫌な予感がした彼は、スマートフォンで現在位置を調べる。


「ありえねえよ! しかも、ここ調べたら心霊スポットって書いてあるぞ!」


 彼は山の上に家がある可能性に一縷の望みをかけて山を登っていく。この山を登れば家がある、かもしれない。だが、山頂に登った彼の目には家どころか建物一つ見当たらなかった。


「あー、完全な無駄足だったぜ!」

『そんなことないよ?』

「ん?」


 悪態をつく彼が急に立ち止まって振り返る。だが、彼の視線の先、それどころか彼の周囲には誰もいなかった。


「ん? 建築工事の音? いやいや、もう夜だぞ?! なんでチェーンソーとかドリルの音が聞こえるんだよ!」


 静寂な公園の中に、彼の大声だけが響き渡る。


「お、音が大きく……?! ひ、ひ、ひえぇぇぇぇ!」


 突然、叫び声を上げると、彼は走って山を下りていった。


『どこにいくんだい? きみのいえはここだよ?』

「うわあああああ! ちがうぅぅぅぅ!」


 何かを振り払うように両手を振り回しながら、彼は走り続けていく。


「ぜえぜえ。どういうことだ? なんで俺の家がどこにもないんだ?」


 理不尽すぎる状況。彼は地団駄を踏んで自らの記憶を責め立てる。責める相手が自分自身では、いくら問い質しても答えなど出るはずがない。いったん深呼吸をして、もういちど定期を取り出し、じっくりと凝視する。


「あれ? 代々木?」


 そこに書いてあった区間が先ほどと異なっていることに、またしても彼は首をかしげる。今度こそ間違いないと信じて電車に乗り、代々木駅へと向かう。代々木駅で降り立った彼は、記憶を頼りに今度こそはと自宅への道を歩く。


「ここを左、ここを右……。あれ? なんか戻ってるような……」


 彼のたどり着いた先ある建物。そこの前には『代々木ゼミナール』という看板が立っていた。かつて大学受験の時にお世話になった、彼にとっては感慨深い所ではある。しかし現在の彼には、感慨にひたる余裕などないようで、頭を抱えて悶える。


「いやいや、自宅が代ゼミとかありえねえよ。しかも、ここ駅前じゃねえか!」


 自宅どころか、道を辿った挙句、回り回って駅前に戻ってしまったようだ。彼が頭を抱えて叫ぶのも当然のことだろう。


「おかしい。これは絶対におかしい!」


 最初から違和感はあった。ここにきて、彼はやっと何かがおかしいと気付く。しかし、それが分かったとしても、どうすればいいか皆目見当がつかない。


「うーん。一度、会社に戻って頭を冷やしてこようか……」


 疲れているのだろう。そう考えた彼は、いったん会社に戻って頭を冷やすことにした。時間的にも会社で残業している人がいるはずの時間である。


 彼は代々木駅から列車に乗って、会社の最寄り駅である水道橋駅へと向かう。改札を出た彼の目に飛び込んできた建物。それを見た彼は、目を丸くしながら建物を指差した。


「何で、何で、俺の家がこんな所にあるんだよ!」

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