SUPER HAPPY

田辺すみ

第1話

 確かこの辺りだったはず、とこっそり見回すが、新しいお店ばかりでピンとこない。30年も同じ商売をしているのは角の金物屋と老舗の蕎麦屋ぐらいで、知っている商店街とは随分変わってしまったことに、今さらながら驚く。学生時代よく立ち読みした本屋も、揚げたてコロッケを買った肉屋も、よくオマケしてもらった八百屋ももう無い。ワンピースのポケットでマッチの箱がかさこそと鳴る。


 就職で地元を離れ、結婚やら転勤やらでますます足が遠のいた。娘の目にもあまり仲の良い夫婦とは言えなかったと思うが、母が入院してからしばしば戻るようになった。父はその後ナーサリーアパートへ引っ越したので、片付けに実家に入ったのは何年ぶりかのことだった。


 閉め切っていた雨戸を開ければ、晩夏の銅色にこごった光が、すっかり摩耗した畳をいぶす。仏壇にはホコリが浮いている。布で拭いて夫婦の位牌を置き、一応お線香を上げておくか、と思って引き出しを探ったら、『快楽飯店』のマッチ箱が出てきたのだ。黄ばんでひしゃげているが、まだ数本残っている。『快楽飯店ハッピー・チャイニーズ・レストラン』、商店街にあった中華料理のお店で、子どもの頃、家族で外食をするといえばそこだった。古いビルの2階、狭いエレベーターか煙草臭い階段を上ると、入り口には雫の形をしたランタンがぼんやりと光っていて、木彫りの龍が置いてある。染みついた花柄の布張り椅子、中央が回る円テーブル、厚い布地のナプキン、山水画、翡翠もどきで造られた置物、長い箸……子ども心に異世界のようで、わくわくしたものだ。定年前は父が仕事と言って家に寄りつかず、定年後は母が趣味とボランティアで出かけっぱなしで、娘たちもほとんど戻ってこない我が家の、数少ない家族らしい思い出がそこにある。


 お店はまだあるのだろうか、商店街は何度も通り過ぎているが、今まで思い出して探してみたことはなかった。改めて暑さを避けた午後遅く、人出も少ない商店街をゆっくり歩いてみる。新しいお店とシャッターが下りっぱなしの店の間をうろうろしていると、見慣れない脇道に、古い壁にもたれるようにして立っている女性が視界に入った。

「火をもらえませんか」

 さっきこの辺りを通りかかった時には、気が付かなかった。そもそもこんな路地はあったろうか。不可解に思いながら、それでも暮情のなか異国のドレスを着て立つ女性の声音に誘われるように近づく。薄い唇に引いた紅が、火の無い煙草へ移ってにっと笑う。同じくらいの歳にも見えるが、旗袍にコートを羽織って伸びた背は華やかに艶めき、まるで映画に出てくるようだ。喫煙しないのでライターなど持っていない。けれども今日は『快楽飯店』のマッチがある。もたついてポケットから取り出し一本擦ると、火花が散るように火が着いた。驚いて目を瞬かせる私と、薄暗がりのなかしゅわしゅわと瞬く火の向こうで、女性は煌びやかに顔を綻ばせた。

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