光の糸

脇七郎

第1話 光の糸 (一話で完結)

         一

  アツシが五島裕司に会ったのはアルバイト先の<ロックス>という楽器店だった。まだ真夏の香りが残る蒸し暑い月曜日の午後で、その日は朝から雨が降っていた。どす黒い雲がドブ川のように空を流れ、店の前の歩道は泥水でぬかるんでいた。アツシはライトブルーのワイシャツの両袖をまくり上げて、カウンターの脇に無造作に置かれている椅子に腰を下ろし、物思いに耽っていた。

 月曜は店を閉めればいいのに、とアツシは以前から思っていた。勤め人にとっては一週間の始まりは新たな仕事の始まりでもある。土日の商売に精を出した自営業者にとっては売り上げの計算に追われる日だろう。勉強に身の入らない学生でも、卒業に必要な単位を取得するために月曜の講義には顔を出すものだ。そんな日の昼間から楽器を買いに来る客がいるとは思えなかった。おまけに今日は雨が降っている。

 予想通り店は閑散として朝から一人の客も姿を見せない。店のオーナーもよく心得ていて食事と称してもう二時間以上も外出したままだ。恐らく向かいのパチンコ屋にいるに違いない。アルバイトのアツシに店番を頼んで長時間店を空けるのはいつものことだった。普通なら持て余すこの時間には、客の試奏用に常時用意してある音響機材を使用して、歌詞を考えたり、曲の雛形を録音してみたりしてアイデアを練るのだが、その日はそんな気になれなかった。どうしても解決しなければならない大きな悩みを抱えていたからだ。

 気がつくと一人の男が店内を歩いている。

「いらっしゃいませ」

 アツシは一応声をかけた。男は三十台半ばに見えた。髪の毛を短く刈りあげ、不精髭を生やし、カーキ色のポロシャツにジーンズという身なりだった。店内をひと通り見て回った後、ギター売り場の前で立ち止まって壁に掛かった様々なエレクトリックギターを、目を細めて見上げていた。

「何かお探しですか」そう言いながらもアツシは返事を全く期待していなかった。近年の不況で楽器の売れ行きは芳しくない。特に高価な輸入ブランド製品はふるわず、客層は廉価なモデルに集中している。弦楽器から管楽器、鍵盤楽器に至るまでこの傾向は強くなってきており、多くの楽器店は高級モデルから廉価モデルへ販売の主力を置いていた。ところがアツシの働く楽器店はオーナーの好みで相変わらず高級モデル指向だったし、また本格的なロックやジャズ系の音楽向けの楽器を中心とした品揃えであったから、客層はプロのミュージシャンや一部のマニアックな固定客に限られていた。ふらりと店に入って買って行く一見客にはまず出会ったことがなかったのである。

 だが意外にも男は少し考える素振りを見せた後、アツシの方を向いて言った。

「上段の一番右端にある黒のギブソンレスポールを、ちょっと弾かせてくれないか」

 男は闇夜のように黒いギターを指差した。年には似合わず少年のように細くて長い人差し指をしている。

「え。あ、はい」

 アツシはネクタイを正して長い髪を手のひらで整えると立ち上がり、ギターを壁から降ろして、足元のアンプの電源を入れた。真空管が目覚めて小さなノイズで周りの空気が共振した。ギターを布で軽く拭き、調弦を済ませると男に手渡した。男はジーンズのポケットからピックを取り出して口にくわえたまま椅子に腰をかけると、ギターを膝の上に抱えて親指で一度軽く弾き下ろした。少し歪んだ開放弦の和音が店内に響いた。それからピックを右手に持つとゆっくりとメロディーを弾き始めた。

 左手の指は最初六弦と四弦の間を静かにゆっくりと行き来した。一音一音確かめるように一定の間隔をおいて音が奏でられ、音階は徐々に上昇していった。電気信号による効果が何も効いていない生の音質は硬く太く、音階が上昇するにつれて少しずつ艶っぽくなっていった。次に指は三弦から一弦に向かって滑った。指の動きは次第に速くなり音の間隔が短くなるにつれて重厚さが薄れ、代わりに軽やかさが備わった。左手の指は一弦に辿り着いた後しばらく動かず、スピーカーに残る残響音だけが静かに振幅を繰り返した。

 しばらくしてから、男はアツシには聞き覚えのない何かのメロディーを弾き始めた。左足で軽くリズムをとり、目を閉じたまま弾いている。高音を中心とした哀愁のあるメロディーだった。思わず聞き入ってしまう印象的で魅力的なメロディーだったので、曲名を後で確認しようと思った。アツシは男のそばに立ったままそのメロディーに身を任せるように目を閉じた。すると男は突然猛烈な速さで弾き始めた。六弦から一弦までギターに張られている全ての弦を使って、複雑な旋律を驚異的な速さで弾いた。スピーカーから流れ出てくる洪水のような音には歪みひとつなく、正確に明瞭に各音階が弾き分けられていた。エレクトリックギターで旋律を速く弾く場合、軟弱な運指だと音が歪んで濁りがちである。電気信号による効果を効かせれば多少ごまかすことができるのだが、生の音の場合よほど正確に弦を押さえて弾かない限りみっともない演奏になってしまうのだ。だが男の奏でる旋律はまるでコンピュータが演奏しているのかと思わせるくらいに正確なもので、全ての音階をはっきりと聞き取ることが出来た。

 巧い、アツシは感嘆した。これほどのテクニックにはそうお目にかかれない。

 男は延々と弾き続けた。メトロノームを使っているかのように一定のテンポを保ちながら、複雑な音階を超絶的な速さで弾き続けた。一分経ち、二分経っても演奏は止まなかった。男の弾く音階の塊が次第に頭の中に染み通っていった。頭の中に入り込んだ旋律がひとつの呪文となりアツシの心を埋め尽くしていった。まだ昼間だというのに照明を落とした映画館のようにあたりが薄暗くなった。

「いいギターだね。深みのある甘い音だ」

 いつのまにか男は演奏を止めていた。ギターを床に置くと独り言のように呟き、腕組みをしながら考え事をしている。

 アツシは我に返った。ひとつのアイデアが頭に浮かんだ。一見無謀に思えたが、それはとても魅力的な思いつきだった。自分が抱えていた悩みを一気に解決することができる。今を逃すとチャンスはないかもしれない。アツシは迷っていた。相手は見ず知らずの他人である。人に臆することのない性格だったが、それでも多少の躊躇はあった。

「このギター買いたいんだが」男は意を決したようにそう言うと目を上げた。

 アツシは男の言葉を無視して切り出した。

「あの、お願いがあるんですが、話だけでも聞いていただけますか」

「お願い?」男はアツシの目を見た。まともに視線を合わせたのは初めてだった。男は浅黒く焼けた肌をしていたが、体調が悪いのか、頬は痩せこけて目の舌に青白い隈ができていた。

 アツシは、男をカウンターの脇に座らせて話し始めた。

 名前は谷崎篤史、二五歳。楽器店でアルバイトをしながら、<オーロラ>というアマチュアロックバンドのリーダーでボーカルを担当している。バンドはまだ駆け出しでたまにライブハウスなどで演奏する程度だが、プロデビューを目指している。今最大の目標は来月末に開催されるアマチュアロックバンドのコンテストで上位に入賞しプロダクションの目にとまることだ。そのために曲を用意し何ヶ月も練習を積み重ねてきた。ところがメンバーのギタリストが先週交通事故にあって腕を骨折し当分演奏できない事態になった。もちろんコンテストには間に合わない。だが今度の曲はかなり自信があるし、このチャンスを逃すとまた一年待たなければならないから、絶対に出場したい。そのために代わりのギタリストを探している。ただコンテストまで一カ月しかなく、またギターの技術がかなり求められる曲なのでなかなか代役が見つからないで困っている。

「だからあなたにお願いできないかと思ったのです」

「俺が?」男は目を大きく見開いた。「たった今会ったばかりだよ。赤の他人にそんな大事なこと頼むなんて」

「あなたの演奏を聞いていて感激したんです。こんなに上手な人は見たことがない。あなたなら何とかしてくれるのではないかと思ったんです」

 アツシの声が高くなった。いつのまにかカウンターに上半身を乗り出している。

「少し聞いただけで何が分かるんだい」男はますます呆れたような表情を浮かべて言った。

「こう見えても耳はいいんです。あなたのギターは早くて正確だし音も美しい。何よりも場慣れしているように思うんです。そうか、もしかしてプロの方ですか?それならあきらめますが」アツシは思わず手を叩いた。

「まさか、ぼくはプロじゃない」

「じゃ何とかお願いできませんか」

 男は横を向き、アツシのほうをちらりと盗み見てから頭を掻き始めた。

「とりあえず練習だけでも一度参加して頂けませんか。ギタリストがいないので満足に練習もできず困っているんです」アツシは両手を合わせて必死に食い下がった。

 暫くの間沈黙があった。男は立ち上がると店の窓から外を眺めた。腕組みをしたまま考え込んでいたが、振り向くとため息をひとつついて言った。「練習だけだよ」

「有難うございます」アツシは満面に笑みを浮かべて男の側に駆け寄ると腕をとって頭を何回も下げた。

「僕は五島裕司。譜面は揃っているかい」

「今お渡しします。デモテープも一緒に。早速なんですが明日この楽器店のスタジオに集まりたいのですが。一度顔合わせも兼ねて練習したいので」

「分かった。今日のうちに譜面を読んでおこう」

 アツシが譜面とテープを取りに店の奥へ行こうとすると、五島が慌てて肩を叩いた。「このギター売ってくれるんだよね」

 アツシは我に返ったように頷くと、売場に戻り、照れ笑いを浮かべながら漆黒のギブソンレスポールを専用ケースにしまい五島に手渡した。数十万円の高価な買い物にも関わらず、五島はあっさりと現金で支払いを済ませた。

 いつの間にか雨はあがり、ドブ川のような雲の代わりにうっすらと太陽が顔を覗かせていた。

          二

 バスドラムの重厚な響きとベースの重低音でスタジオの壁が震えた。窓のない蛍光灯だけの薄暗い部屋に人間の汗と息の臭いが立ちこめて空気が歪んで見えた。儀式のようにバスドラムとベースが幾度と無く同じリズムを刻んだ後、天井を突き抜けるような強烈なスネアドラムとクローズドハイハットの音が鳴り、一瞬空気が緊縮したかと思うと曲が始まった。

 テンポの速いロックビートのリズムにキーボードの軽快な音色が絡んだ。ドラムがリズムを、ベースとキーボードが調性を明確に示して数小節続いた後、切り裂くような中高音のギターが参戦した。キーボードとベースの音の狭間を縫うようにうねりを繰り返しながら、ギターは一定のリフを刻み始めた。シンプルな乾いた旋律だった。そのリフはアツシが考えたものだ。しかしどこか違っていた。基本的なメロディーは同じだったが音階の微妙なつながりやひとつひとつの音の長さ、音質、音感がアツシの考えたものと全く異なっていた。そのリフには人を何かに駆り立てるような誘惑的な響きがあった。序奏を聞いただけで身体の芯から熱くなり、後頭部を痺れるような快感が走った。アツシは思わず声をうわずらせながら歌い始めた。

 歌を歌っている間、アツシの理性は吹き飛ぶ。人であって人ではない存在になる。理屈や常識、喜びや悲しみ、あらゆる論理的思考も感情的心理も白紙になる。今がまさにその瞬間だった。だが今日はいつもよりさらに高く遠くへ飛翔している気がした。バックのギターが違うのだ。背後でリズムを刻むギターは力に溢れ、曲全体をしっかりと支えていたし、ボーカルの合間に入る助奏もアツシの心を透かして見るように絶妙のタイミングで決まり、歌を効果的に引き立てていた。アツシはさらに高く舞い上がっていった。

 圧巻は間奏だった。たった数小節の短い間奏であったが、それまでの硬質で乾いた音とは対照的に夜会で聞くチェロの如き気品に溢れ、端正かつ重厚な音色を奏で始めたのである。火の出るような凄まじい速さで次々と音階が繰り出されて来るにも関わらず、調和を損なうことなく、キーボードやベースの音と融合して曲としての構成美を高めていた。それでいて激しく燃えるように熱い旋律だった。譜面にも彼に渡したデモテープにも存在しない旋律だったから完全な即興演奏に違いない。

 アツシは思わず振り返り五島を見た。五島は目を半ば閉じてあらぬ方向に顔を向けながら演奏に集中している。持っているギターは昨日買ったばかりの黒のギブソンレスポールだ。茶褐色のフレット上を五島の長い指が無数の線となって弧を描いていた。真っ赤なシャツを着た彼と黒いギターはひとつの絵になってスタジオの灰色の壁に溶け込んでいった。部屋の中の空気という空気が水と化してその場にいる者を飲み込み、時を止めていた。

 譜面もテープも昨日渡したばかりである。たった一晩でこの五島という男は曲を覚えただけでなく、独自の解釈を加えて自由自在に操っていた。リフも助奏も原曲に忠実でありながらわずかの効果を加えることで完成度を高めていた。そしてこの間奏における即興演奏。アツシはこれほどの演奏を今だかつて聞いたことがなく、生まれて始めて味わう興奮に身体を震わせた。

 キーボードを中心としたエンディングと共に演奏が終わった。だがアツシの身体の逆流した血はなかなか収まらず、思わずその場にうずくまった。心臓の響きが耳元で波打って聞こえた。しばらくの間深呼吸を繰り返しようやく脈拍は正常に戻り、アツシは立ち上がった。他の三人も同じ興奮に駆られているのか一言も発しない。

「こんな感じでいいかい」

 五島が肩からギターを降ろしながら皆に声をかけた。タオルを手に取ると額から首筋にかけて流れ落ちる汗を拭い、入り口近くのテーブルに置いてあったソーダ水をごくりと飲んだ。真っ赤なTシャツが大量の汗で黒ずんでいる。

「……最高でした。五島さん」

 アツシは喉から枯れた声を搾り出し、他の三人のメンバーをゆっくりと見回した。皆もやっと夢から覚めたのかしきりに相槌を打った。

「そりゃどうも」五島はもう一口ソーダ水を飲むと首を何回かひねりながら言った。「みんなの演奏もなかなかいいね。曲もいいから頑張ればコンテストはいい線いくかもしれないよ」

「たった一晩で良く演奏できますね」ドラムのスティックを置き、大きな身体を椅子から起こしてヒロシが心底感心したように言った。ゆっくりと五島の方に歩み寄る。

「あたしなんてまともに演奏できるようになるまで半年かかったわ。嘘みたい」キーボード担当のアカリが茶色に染めた長い髪をかきあげて口を尖がらせた。ベーシストのタモツは自分の演奏に気に入らない部分があったのか、一音一音を確かめるように首を傾げながらその場に立ったままベースを弾き続けている。

「ギターがいいだけさ」五島は軽く笑うと、壁にもたれて床に立てかけてあるギターを指差した。笑うと頬に寄る皺が年齢を少し感じさせた。「昨日買ったばかりなんだ」

「この曲はギターのパートが難しいんですよ。怪我したサブローなんかは、半泣きになって練習してましたから」ヒロシは大きな声を出した。

「確かに出だしの八小節が難しいね。いきなり速いフレーズだから。ナイフで切り込むように鋭く入らないと」五島が言った。

 ナイフで切り込む、か。アツシは妙に感心した。確かに五島の序奏部分の演奏には刃物のような冷たく乾いた切れ味が感じられた。

「よし、続けて何回か合わせよう」アツシは皆に声をかけると再びマイクスタンドの前に戻った。五島もギターを肩にかけると手馴れた仕草で調弦を済ませ、準備を整えた。

 ドラムスの合図とともに電子楽器の大音響が再びスタジオ内に炸裂した。

 驚いたことに演奏のたびに五島のギターは微妙に形を変えた。火のように激しい演奏の時もあれば、静かに流れる川のように穏やかな時もあった。大地に根を下ろした極太の音色を出すこともあれば、風の如く軽く爽やかな音色の時もあった。変幻自在にギターの音色は姿形を変え、アツシ達を翻弄した。

 どの演奏が曲に一番ふさわしいか試している、アツシはそう感じた。たった一曲の曲に対して瞬時の間に数通りの解釈を加え、その中から最適なものを選んでいるのだ。確かに五島のギター次第で曲が炎になり風になり川になり土になった。十数回繰り返された演奏の中で同じ演奏は一度として無かった。五島はあたかもその過程を楽しんでいるかのようだった。

 アツシは歌うたびに空を飛翔した。こんな浮遊感を味わうのは初めてだった。最初は余りの気持ちの高まりに動揺したが、何度も経験するとまるで麻薬のように引きずりこまれることに快感を覚え、次第にその浮遊感に身を任せるようになっていった。いつしかアツシの歌自体が、従来と全く違うものに変化していった。

 その日は二時間ほどで練習を終えた。アツシが帰り支度を始めると、ヒロシが肩を軽く叩いた。

「みんなで軽く行こうよ」

「いいね。五島さん始めてだしね」

 五島に目で合図をすると無言で頷いた。アカリも急にはしゃぎ出して口笛を吹きながらアツシの周りを一周した。

 スタジオのごく近くに小さな居酒屋がある。そこにアツシたちはよく顔を出していた。

「お、来たな。道楽息子たち」

 五人が入り口近くの座敷に座り込むと頭を丸刈りにした小柄な主人が、調理場から大声で冷やかした。まだ六時前で外は明るいので店内に他に客はいなかった。開けっ放しの出入り口から残暑のくすんだ陽射しが店内に入り込んでいた。

「おやじさん、例によってひとり二千円の予算で適当に頼みます。とりあえずビールね」ヒロシが座敷からそのまま声をかけた。主人が頷いた。

 すぐにビールと前菜が運ばれてきた。

「では五島さんに歓迎の意を表して乾杯」アツシがジョッキを高々と差し出した。全員がジョッキをぶつけあい、冷えたビールを喉に流し込んだ。

 ボーカルがアツシ。谷崎篤史。

 ベースがタモツ。新井保。

 キーボードがアカリ。町田灯。

 ドラムスがヒロシ。田中宏。

 この四名に怪我で入院中のギタリスト、サブローを加えた五名がロックバンド<オーロラ>の構成メンバーだ。アツシが中心となり雑誌を通じて集めた。アツシが一番の年長にあたり、大学卒業後アルバイトをしながら何とか生計を立てている。他の四人は皆まだ現役の大学生だ。

 アツシには在学当時からロックバンドを仕事にするという夢があった。自分にはサラリーマンも教職も向かないと最初から思っていたので、就職活動も一切しなかった。故郷の親や親戚の間ではそれこそ道楽息子と不評だったが彼は気にならなかった。いざとなれば何をやっても生きていけると考えていた。だから迷うことなく好きな音楽に没頭した。

 大学生の間はひたすらボーカルの技術向上に努めて専門のスクールに通った。同時に想像力の赴くままに曲を作った。当時のバンド活動はメンバーに恵まれず、余り長続きしなかった。だからバンド活動を本格的に始めたのはこの<オーロラ>が初めてと言って良かった。だが大学時代に創作した多くの曲が今のバンド活動に生きていた。今回コンテストで演奏する曲も当時作ったものだ。

 <オーロラ>をアツシは気に入っていた。メンバーには技術的にも人間的にも恵まれたと考えている。まだ結成して一年と間がなく、持ち曲も少ないが何とか今度のコンテストで上位に入りたかった。入る実力があると信じていた。

「でも本当に凄かったなあ、五島さん」

 ヒロシが顔全体を早くも真っ赤に染めながら言った。皆酒は余り強いほうではない。「ホント、サブローのひどいギターよりずっといいわ。五島さんって格好いい」

 アカリが鈴のような声で言った。ボタンがはずれた紺色のシャツの胸元から健康に焼けた少女の肌が覗いている。

 五島は柔らかな笑みを浮かべながら黙ってビールを飲んでいた。アツシはその左手に黒いリストバンドが巻かれていることに気がついた。愛用のアクセサリーなのだろう。

「五島さんは今バンド活動をしていないんですか」

 アツシは尋ねた。店の主人が揚げ物と刺身を運んできた。タモツは黙々と食べている。

 五島のジョッキを傾ける手が止まった。黒く深い瞳でアツシを見た。

「やってない。大体昨日買うまでギターも無かったんだから」

「しばらくずっと弾いていなかったということですか」

「まあそうだね」

「信じられない」アカリが甲高い声をあげた。目をきらきら輝かせて興味深々という様子である。「でも以前バンドやっていたことがあるんでしょう? とても初めてとは思えないから」

 アカリは五島の顔を探るように覗きこんだ。

「随分昔にね」五島は目を伏せてぽつりと言った。「若い頃の話だな」

 ヒロシが大声で笑った。腹がたるんでいいて筋肉にもしまりが無いから大笑いすると脂肪がゆさゆさ揺れる。

「若い頃って、五島さん、中年おやじみたいな言い方しないでくださいよ」

「もう三十過ぎているんだ。十分中年だよ」

「そんなことないわ、とっても素敵」

 アカリは少し酔いが回ったのかもしれなかった。ジーンズに包まれた細くてすらりとした足であぐらをかいてテーブルに頬杖をつき、派手なアイメイクの間から上目使いで五島を見た。その横でタモツは食べ続けている。

「ギターを始めてどれくらいになるんですか」アツシはまた質問した。五島のことが色々と知りたかった。

「二十年くらいかな。初めて親に買ってもらったのは小学生のときだった。凄いものが手に入ったと感激した。楽器という感覚は無かったな。良く出来たオモチャだと思った。今でもそう思うときがあるけどね。それから自己流で毎日のように練習していた。テレビを見ているときも、勉強しているときも、飯を食っているときもいつも脇にギターを抱えていた。でもまともに弾けるようになったのは君たちくらいの年になってからさ」五島は懐かしそうに言った。

「五島さんのギターって、ギターの感じがしないわ。ううん、うまく言えないけどヴァイオリンかチェロかわかんないけど他の楽器みたい。とにかく変わった音がする」アカリの目が少しうっとりしてきた。小柄ではしゃぐのが大好きなアカリは普段は子供のようだが、酒に酔うといつも妙に色っぽくなる。だがアカリのいうとおりアツシにも五島のギターの音は柔らかで艶やかで全く別の楽器の音に聞こえた。他の弦楽器のようにも聞こえたし、管楽器のようですらあった。いや人間の肉声に近い響きさえ備えていた。

「俺はね、ギターの演奏を余り意識して聞いたことがないんだ。ロックだけじゃなくてジャズやクラッシックも聞いたけど、ギターのパートを特別に聞きこんで練習したりしなかった。どんな楽器でも気に入ったメロディーがあればギターで練習したんだ。それがサックスであってもチェロであっても。だから変わった音に聞こえるんじゃないかな」

 五島は饒舌になっていた。飲み物もいつのまにかビールから酒に変わっている。

「あの曲はいいね。なんて曲なんだい」五島は訊いた。

「『追憶』です」アツシは照れくさそうに膝を掻いた。「昔の思い出をモチーフにして作った曲です」

「『追憶』か……」五島は少し考え込むように床に目を落とした。すぐに顔を上げるとアカリの方を見て言った。「もう少しキーボードは厚みを出した方がいいね。特にサビの部分では。その方が歌が引き立つ」

「はい」アカリは目を輝かせた。こういうアドバイスを受けるのは初めての経験なのだ。

「ドラムとベースはちょっと単調だな。導入部、歌、間奏、それぞれで押したり引いたり、メリハリをつけなきゃ」五島はヒロシ達に言った。

 ヒロシとタモツは納得したように頷いた。

「ボーカルは……」五島はアツシを見た。「素晴らしいね。普段こうしている君とは別人のようだ。歌を歌っている間は別の人格。そういうことはよくあると聞くけど、まさにその通りだな。歌っている間の君はどこか遠くの世界に旅立っているようだ」

「頭がぼーっとして何も分からなくなるんです」アツシは先ほどの練習の時に味わった感覚を思い出していた。「周囲の音は何も聞こえなくなって。空を飛んでいるような気持ちになるんです。いつもそうですが、今日は特に……」 

 アツシは今が話をするチャンスだと思った。

「五島さん、今度のコンテストに一緒に出てもらえませんか」

 五島は急に押し黙った。

「そうよ、そうしよう、ね」

「頼みますよ」

 アカリもヒロシもテーブルに身を乗り出して五島に迫った。タモツだけはその場に静かに座り込んだまま、箸を止めてじっと五島を見つめた。

「悪いけど……」

「お願いします」

 五島は四人を順に見てから視線をそらしてテーブルの杯を見た。杯に注がれた透明な液体が居酒屋の入り口からわずかに射し込む夕陽で光った。

「練習だけという約束だったろう」ぽつりと呟いた。

「そういう話でした。でもさっきのあんな凄い演奏を聞いてしまうと勿体無くて。五島さんは今フリーだって言いましたよね。だから……」アツシは食い下がる。

「そりゃフリーだけどバンド活動をする気はないんだ。本当はギターももう弾かないつもりだったんだが、君が余り熱心なんで根負けしただけなんだ」

 アツシにはよく理解できなかった。なぜギターを弾くのをやめなければならないのか。

「勿体無いですよ。僕も色んなバンドの演奏を聞いてきましたが、あなたみたいな腕のいいギタリストには出会ったことがありません。その腕を使わないなんて信じられない。何か理由があるんだったら教えてください」

 ヒロシやアカリはいつのまにか自席を立ち、五島の周りを取り囲むように座っている。

「第一ギタリストいねえもんな」席に座ったままタモツが吐き捨てるように言った。「サブローの馬鹿がいい気になってオートバイで事故を起こすもんだからみんなが迷惑してるんだ」

 手に持ったジョッキを拳で叩き始めた。ジョッキの中で琥珀色の液体が揺れた。

「そうです。僕たちを助けてください、五島さん。もうコンテストまで一ヶ月無いのにギタリストが見つからないんですから」アツシは五島の腕にすがるように片手を置いた。

「とにかく駄目なものは駄目だ」五島はにじり寄る皆を押し返すように両手の手のひらを向けるときっぱりと言った。「悪いが俺はどうしても出られない。他のギタリストをあたってくれ。ギタリストなら山ほどいるだろう。何とかなるさ」

 アツシは納得できなかった。だがとりあえずこの場はこれ以上いくら頼んでも無駄だと察して、自分の席に戻るとため息をついた。テーブルに運ばれたばかりの何杯目かのビールを一気に喉に流し込む。アカリもヒロシも自席に戻った。アカリは片方の頬を膨らませて不満げに焼き魚をつつき始めた。タモツは黙って腕組みしている。

 気まずい空気が流れたが、アカリとヒロシがすぐ忘れたように騒ぎ出したので元通りなごんだ雰囲気の酒宴に戻った。誰もが完全に引き下がったわけではなかったが、依頼を断った五島の毅然とした態度にすぐには対抗出来そうにもなかったので、その席で再び同じ話が出ることはなかった。アツシには分からなかった。なぜ五島は頑なにバンド活動を拒むのか。たった一ヶ月という短期である。仕事の都合があるのかもしれないが、週にほんの数時間程度時間を割くだけだ。それに何よりもあれほどの優れた技術を持ちながら演奏活動に現在関わっておらず、今後もその気がないというのが信じられない。

 五島はその理由を決して語りはしなかった。いや理由だけでなく、五島裕司という名前以外に何一つ自分のことを話そうとはしなかった。出身地、家族、友人、仕事、夢――ひとつとして語ることはなかった。ただ楽しそうに皆の話に相槌を打って酒を飲んでいるだけだった。

 まだ諦めたわけじゃないぞ。アツシは頭の中で何度も繰り返し呟きながら、ビールをあおるように飲み続けた。それにしても今日のビールは胃に染みる。アツシは妙に陽気になり、昔のこと、友人のこと、女のこと、曲のこと、色々なことを口にした。次第に視界がぼんやりし始めて、アカリやヒロシの声、周りの物音が聞き取り難くなってきた。断続的な線路の音が耳の間を行ったり来たりするようになった。

          三

 気がつくとまず天井に吊るされた青白い蛍光灯が目に入った。畳の冷たい感触が背中からつま先にかけて伝わってくる。頭の中心が何やら痺れたように重かったが、次第に物がはっきりと見え始め、音も聞こえるようになってきた。自分が大の字になって横になっているのがわかった。

 胸元には白いタオルケットが一枚かかっている。アツシは頭を振りながらゆっくりと身を起こした。

 十畳ほどの大きさの畳の部屋にいた。小さな窓が外に開け放たれ、暗い夜の外気が少し入ってきていた。灰色の壁の隅には見覚えのある黒いギターが立てかけてあった。その他には何も存在しない部屋だった。アツシは一度ぐるりと部屋全体を見回してみた。やはりギター以外に何もない。あるのは窓と清潔な畳、天井の蛍光灯、灰色の壁、そしてギター。

「目が覚めたな」

 水の流れる音が遠くから聞こえたかと思うと、五島が部屋の入り口に立ってアツシを見ていた。呆れたような笑みが口元に浮かんでいる。手洗いから出て来たところらしく、両手をタオルで拭っている。

「一体どうなって……」アツシは肩を落とした。そう言いながら何が起きたか、自分でもおおよそ察しがついたからだ。

「酒に弱いんだな。ビールだけであんなに酔うなんて」五島はミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。「若いのに酒癖が悪い」

「ここは五島さんの部屋ですか」

「そうだ」

「酔いつぶれて運んでくれたんですね」

 アツシは恐縮してしまった。すっかり今は酔いが覚めている。頭痛がするだけだ。

「みんなで飲んでいる時までは大丈夫だったんだが、家の方向が同じだというので君とふたりになったとたん、目を回して道端に倒れこんでしまった。君の家を俺は知らないし、ここにつれてきたというわけだ」

「今何時ですか」

「もう夜中の二時だ。今日は泊まっていけばいい」

「迷惑かけてすみません」アツシはうなだれるように頭を下げた。

「二人になってからも絡まれっぱなしだったよ。何でコンテストに出ないんだ、何でギターを弾かないんだってね。俺の頭をぽかぽか叩いてさ」

 アツシは返す言葉がなかった

 五島は部屋の隅に胡座をかいて座ると苦笑した。

「もう十年になる。丁度君たちくらいの年の時にバンド活動をしていた。メンバーも俺を入れて五人。女の子がキーボードを担当していたのも君のバンドとそっくりだ。運に恵まれていてね。コンテストで入賞してからバンドはどんどん人気が出て、コンサートもいつも満員になった。レコードも出してそこそこ売れた」

 五島は目を細めて窓の外を見た。

「俺はバンドの女の子と恋仲になって結婚した。バンドも生活も何もかもうまくいっていた。あの時は最高だった。でもちょっとした事情でね。駄目になってしまった。バンドも他のことも。バンドを解散してから二度とギターは弾くまいと思った。昨日はたまたま通りがかった楽器店に入っただけなんだ。ギターを買うつもりも全然なかったんだが、昔持っていたモデルと同じ黒のレスポールがあったんでつい弾きたくなってしまってね」

 五島は外の暗闇を探るように見つめていた。深夜の二時、暗闇からは物音ひとつ入ってこない。アツシは黙って五島の話を聞いていた。

「ギターは俺にとって楽器じゃない。声であり言葉だ。言葉がなければ人は自分の意志や考えを他人に伝えるが難しいように、ギターがなければ俺は何も表現できない。人と関わりを持つことが出来ない。この十年の間、ある意味では一言も喋らずに声を押し殺して生きてきた。自分の存在を否定しながら生きてきた。なのに昨日ふとしたことでギターを手にとってしまった。とたんに理性が吹き飛んだ。言葉が戻ってきた気がした。ようやく声を出せる開放感で一杯になった。そして今日の演奏で俺は十年ぶりに声を張り上げて自分の言葉で喋った」

 五島は立ち上がりギターに歩み寄ると抱えるようにしてその場に座り込んだ。

「君はあの曲の名を『追憶』と言った。実は曲名を聞く前からそんな気がしていた。あの曲には人の思い出を掘り起こす力がある。今日実際に演奏してみてそれが分かった。演奏するたびに中身が変わるんだ。いや変えたくなるんだな。自分の思い出の数だけ演奏パターンがあるような気になる。きっと君も歌いながら過去と現在を行き来するんだろう。僕もそうだから。とにかくいい曲だ」

 五島はギターを膝の上に載せると一度優しく弾きおろした。アンプを通らない薄っぺらなエレキギターの生音が砂をかむような音をたてて天井へ昇っていった。

 この部屋にはアンプがなかった。ということは、五島は部屋ではエレキギターを生音でしか弾いていないということだ。アンプが無ければエレキギターはただの異形の細工物にすぎない。音が鳴らないのだから楽器とはいえない。つまり昨日の晩五島はあの曲を譜面で読んだに過ぎず、自宅では満足に練習できていないのだ。

 アツシはもう一度部屋を見渡した。テレビもラジオもテーブルも一冊の本もない。まるで生活感の無い部屋。外から完全に隔離された無機質な空間。

 柔らかな旋律が聞こえてきた。五島のギターの音だ。ごく小さい金属的な音だけれども、ひとつの意志を持った生き物のように畳を這い、壁をつたって天井に上がっていった。蛍光灯の青白い光がゆっくりと色を変えながら音を照らし出していた。小さな旋律は天井から空中に降りてきてアツシの耳元をかすめて、窓の向こうの闇へと消えていった。外部の暗闇は音の波に溶け合って部屋の中へ侵入しようとしていた。

 部屋の空気の色合いが変わり、音の波動と共に空気もうねり始めた。その渦の中心に五島がいた。視界から畳が消え、続いて壁や扉もかき消えた。光の三原色が溶け合って視界を埋め尽くした。この暖かさは何だろう。この穏やかさは何だろう。この静けさは。

「コンテストに出よう」

 アパートの灰色の壁が再び出現した。同時に蛍光灯も扉も畳も天井も現れた。アツシは目をこすると、五島の姿を探した。五島はギターを置いて立ち上がり、アツシを見下ろしていた。

「だが一回限りだよ。今回のコンテストだけだ。コンテストが終わったら、その結果がどうあろうと俺はさよならだ。またギターと縁のない言葉を忘れた世界へ戻る」

 五島はギターを見つめた。

「それから来週一週間俺は練習に出られない。行かなければならないところがある。ここ一番の演奏では必ず使うと決めている弦がある。それを手に入れに出かけてくる」

「特別な弦ですか」アツシは不思議な気分になった。

 五島の表情には決意めいた険しさが浮かんでいた。

「その弦は普通の楽器店では手に入らない代物だ。遠いところにあるから行き帰りで一週間かかる」

 アツシは何が何だか分からなかった。何故五島がその気になってくれたのか、その理由も理解できなかった。だが無性にうれしかった。何故か涙が出て来た。五島がコンテストに出てくれるから感激したのだろうか。それとも先ほどまでのギターの何気ない演奏が心に染みたのだろうか。有り難うと一言礼をいうとアツシは立ち上がり、窓の外の暗闇に顔を出した。涙が止まらなかった。

          四

 五島はそれから一週間姿を消した。彼がコンテストに出るという話を聞いて、アカリ達は皆飛び上がって喜んだ。いったんは諦めていたチャンスが再び巡ってきたのだから、俄然張り切りだした。だが五島がいないのでは満足な練習は出来ない。アツシは練習を一週間休むことにした。

 そして帰郷を思い立った。

 何故急に帰郷する気になったのかは、自分でも良く分からなかった。もう何年も実家には帰っていないし、両親ともほとんど連絡をとっていない。だから帰郷の連絡をした時は、両親は驚きの余り、どこか身体の具合でも悪いのかと本気で心配したほどだった。

 十年近く離れていた久しぶりの故郷は、アツシには不思議な絵に見えた。実家はアツシが育った街から隣の街に移っていたから、新しい家はアツシには余りなじみがなかった。だからわざわざ電車に揺られて昔住んでいた懐かしい街まで足を伸ばしたのだった。

 街の風景はほとんど変わっていなかった。ただ少し年をとったことは間違いなかった。駅ビルの壁は黒ずんでひび割れ、駅の前を走る車道に植えられた街路樹の背丈が倍以上に伸びていた。アパートはそのまま残っており、今でも誰かが住んでいる様子だったが、建物全体の色が茶褐色に色あせ、窓枠がぐらついているのが遠目にも分かった。

 奇妙なことは、街全体が小さくなったように感じることだった。アパートから歩道を辿って東に歩くとドブ川に突き当たるのだがそこまでの距離、さらに北に折れるとなじみの書店が当時のまま残っているのだがそこまでの距離、それらあらゆる距離が異様に短く感じられた。記憶では何十分も要するはずが、今実際に歩いてみるとほんの四、五分しかかからなかった。

 自分の距離感と時間感覚が昔とずれている。アツシはそう思った。自分がこの数年の間にガリバー旅行記に出てくる巨人のように大きくなったような不気味な感覚に襲われた。

 アツシは自分が通った小学校を見に行ってみた。驚いたことに小学校があった場所は、だだっ広いただの空き地と化しており、一台のブルドーザーと数台のトラックが土を掘り起こして運んでいた。廃校になったのである。かつて出入りした校門のそばの柵には看板がかかっており、不動産会社の名前が書いてあった。砂場も鉄棒もバスケットボールのコートも家畜厩舎も、今は取り壊され土塊になっていた。

 アツシは小学校の向かいにある自然公園のベンチに腰を下ろした。自然公園も昔のままだったが姿形は大いに変わっていた。休憩所を取り囲む樹木が巨大化し空を覆い尽くしていた 。葉の間からわずかに漏れる金色の陽光がベンチや散歩道を照らし出していた。アツシはベンチに座り込んだまま、記憶というものの曖昧さについて考えた。

 確かに街は昔と同じだった。だがよく見ると大きさも色も臭いも全く変わっていた。いや本当は逆で変わったのはアツシの中にある街の記憶の方かもしれない。自分が思い出として抱いているイメージは実際には全て架空のものかもしれない。どちらが本物なのか。自分の記憶にある街と今ここにある街。

 アツシは『追憶』という曲の意味を考えた。この曲は記憶の中に眠る悲しみや喜びを再現しようとした曲だった。だが思い出を遡ることにいかほどの意味があるのか。記憶が曖昧なもので不変のものでないならば、追憶という言葉自体が無意味になってしまう。だが五島は言った。この歌には人の思い出を掘り起こす力があると。

 アツシは来た道を駅に向かって歩いた。所々に立っている道路標識も建物に打たれている地番も変わっていない。何も変わっていないのだ。いやそのはずなのだ……。

「いつになったら職につくんや」

 テーブルの向かいで食事を終えて煙草を吹かしながら父親がぽつりと言った。青白い煙が張り替えたばかりの白い壁を這い上がっていく。アツシは箸を止めた。

「大学出てもう三年も経つんやで。いい加減に定職についたらどや」

 いつもの口癖だった。アツシが幼い頃から父親には到底理解できない騒音のような音楽に凝っていることは皆知っていた。アツシがプロを目指していることも。

 だが父親にはどうしても納得できなかった。自分は高校しか出ておらず、小さな町工場を経営して身を切るように生きてきた。ようやく軌道に乗り人並みの生活を送ることが出来るようになった。だから子供には十分な教育を受けさせようと考えた。そしてその通りアツシは成績も良く、一流とまでは言えなくてもそこそこの大学を出ることができた。にも関わらず就職もせず訳の分からない音楽で身を立てると夢のようなことを言う。

「いつまでも昔の夢ばかり追いかけよって」父親は吐き捨てるように言った。

 こういう時母親はいつも傍観者を決め込む。静かに席を立つと炊事場で食器を洗い始める。

 アツシは黙ったまま答えない。父親の責めるような視線を浴びながら、昼間見た街の風景に思いを馳せていた。

 結局実家には一晩泊まっただけだった。アツシに対する家族の風当たりは想像以上に強く、説教の嵐にいたたまれなくなったのだ。翌日にはいつものように楽器店で働いていた。しかし頭の中では、数年ぶりに見た街のイメージが記憶を揺さぶり続けていた。こうして『追憶』のイメージはさらに膨らんでいくのだった。

          五

 コンテストの出番が近づいていた。緊張と興奮で軽い目眩がした。何度経験しても出番待ちのこの時間が精神的に一番辛い。

 待合室は倉庫部屋を臨時で使用したらしく、広いだけの愛想のない部屋で窓すら無かった。総勢二十程度の数のアマチュアバンドがここに詰め込まれている。出番待ちのバンドは息をするのも辛そうに黙りこくり、演奏を既に終えたバンドは憑き物でも落ちたように晴れやかな表情をして対照的だった。

 アカリは今にも泣き出しそうな顔をして、小さな丸テーブルに両肘をついてしきりに両手の爪を擦りあわせている。タモツは仏頂面でベースのチューニングに余念が無い。ヒロシは腕と脚を組んだまま石像のように動かない。

 五島はギターを膝に乗せて猫でも扱っているように両手で愛撫している。これまで見たことがない穏やかな表情で黒いギブソンレスポールを見つめている。

 五島はあれから一週間姿を消したが、約束通り先週初にどこからともなく帰ってきて練習に加わった。例の弦のことは気になったが、あの夜酔いつぶれて世話になったことや、最後には泣き出してしまったことなどを思い出し体裁が悪く、あえて口には出さなかった。とにかく五島は戻り、順調に練習を積み重ねて今日本番の日を迎えることが出来たのだ。

 きっと例の弦が張ってあるに違いない。アツシはそう確信していた。傍目で見ていても普通の弦と何ら変わっているようには見えなかった。だが、あの時の五島のこだわりようを考えれば、今日本番の日に備えて特製の弦を使用しているはずだった。

 幾重もの壁を通して遠く離れたホールでの演奏の音がわずかに待合室まで届いていた。次が自分たちの出番だ。オレンジ色のシャツを着たアルバイト風の青年が待合室に駆け込んできた。

「では次<オーロラ>さん、お願いします」

 アツシはコップの水を一口飲み干すと仲間と目で合図を交わし、膝を叩いて立ち上がった。待合室を出て長く細い廊下を早足で歩いた。アカリも覚悟を決めたようでしっかりとした足取りでついてくる。

 牢屋の檻のような重い扉を開けて階段を上りステージへ出た。ステージの照明は落ちており、舞台の暗がりから見渡すと二百席はあろうかと思われる巨大な客席が白く浮き上がって見えた。ほぼ満員で曲の合間だからだろうか、少しざわついていた。

 各自機材の最終確認をする。楽器の調整、ケーブルの接続確認、アンプの出力確認。全てオーケーだ。鼓動が激しくなる。足元から血の気が失せていくのが分かる。アツシはマイクを強く握り胸元に引き寄せると、五島をちらりと見た。暗がりの中で五島がウィンクしたのがわかった。五島が普段通り落ち着いているのを見て、アツシも気が楽になった。

 司会者がバンドの名前と曲名を紹介し客席が静まり返った。暫くして焼け尽くようなステージの照明が頭上で輝いた。

 演奏開始だ。

 ドラムスの乾いた音が曲の始まりを告げ、すかさずベースとキーボードが絡んだ。ステージが大きく揺れた。四小節、八小節、十二小節、十六小節。ここでギターが入る、そういう序奏。

 突然、宇宙から未確認飛行物体が落ちてくるように、ギターの音がステージに降ってきた。音の洪水がステージに押し寄せてホール中にたちこめた熱気を鋭い氷の刃で切り裂いた。切り裂かれた熱気の破片が無数の結晶となって客席に向かって拡散していった。上空で吹雪が舞い客席には氷の結晶が降り注いだ。結晶のひとつひとつが照明に反射し違った色を帯びていた。結晶のカーテンが目の前を覆い、めくるめく光と影の世界が展開された。

 頭が痺れた。時間と言葉の収拾がつかなくなった。ただこの音と色のうねりに身を任せていたい、そんな気がした。目の前から観客の姿が消えた。銀箔のベールが客席とステージの間を遮り、音のうねりにあわせて小刻みに揺れているのが見えるだけだった。


 アツシは嘘つきになった。虫歯で歯が痛かったが歯医者に通うのが嫌だった。毎日五時の予約だったので、歯医者に行って来ると嘘を言って家を出て、実際には歯医者には行かず三十分ほど暇をつぶして家に帰った。その三十分の使い道は色々だった。本屋で漫画を立ち読みしたり、駄菓子屋でおもちゃを見たり、プラモデル屋で飛行機の模型を見たりした。でも大抵は歯医者の近所を流れるドブ川を橋から眺めてぼんやりと過ごした。心の中には良心の呵責から来る切ない痛みと、いずれ嘘が露呈することへの凍るような恐怖、嘘をつく事に対する自虐的な快感があった。そうして夕暮れ時に眺めているドブ川は普段見ているドブ川とは随分と色や臭いが違うと思った。普段感じる不快感は不思議と消え去って、とても暖かく優しいもののように感じた。家に戻ると夕飯の支度に忙しい母が必ず聞くのだった。

「歯医者いつ治るんや」

「まだしばらくかかる」アツシの答えはいつも同じだった。

 一向に治療の進まない虫歯がきりきりと痛んだ。


 アツシは歌い始めた。漆黒の大宇宙にたった独りで立ちつくし歌っていた。辺境の星の彼方からわずかにギターの音が聞こえていた。川の上を石がはねるような軽やかな音色だった。いくら声量を上げて肺腑が破裂するほど激しく歌っても、子守歌のような穏やかな声にしかならなかった。そして声はギターの音色に染まり、宇宙の真空空間の彼方に飲み込まれて行くだけだった。息継ぎのたびに宇宙は深い静寂に包まれた。

 暗い宇宙にはいくつもの星が見えた。光を発するもの、黒い穴を穿ったもの、丸い星、扇状の星。視界は三六〇度。北も南も、右も左も、裏も表も無かった。目を凝らしても決して及ぶことのない宇宙の辺境まで星々の鎖は続いていた。

 アツシは声を張り上げて歌った。しかし相変わらず声は空気の粒となり宇宙の果てに向かって消えていくだけだった。苦しくなるような静寂、内蔵が透けて見えるような孤独、そして高揚。

 アツシは前半を歌い終えるとステージに跪いた。

 ギターの轟音とともに間奏が始まった。

 今度は空から無数の火山弾が雨のように降り注ぎ、客席もステージもホールごと火山帯にたたき込まれた。火山帯では大地を溶岩が無数の筋を作って流れ、足先が触れるとあっという間に燃え尽くされた。そうやって燃え尽きても、また再び火山帯を歩く自分がいた。一歩進んでは灰と化しまた復活する。その繰り返しだった。灰になる瞬間には凄まじい快感を得ることが出来た。

 少し先には噴火口が覗いていた。火口からは火山弾が不規則なリズムで噴出していた。火山弾は地上に炸裂すると白い炎が上がり、辺り一面が真っ赤な渦と化した。そうやって散っていく火山弾はまるで美しい流星だった。溶岩に焼かれながら火山弾が斜めに交錯して飛び交う空を見上げていた。空はうっすらと赤く染まり、吹きすさぶ熱風の向こうでは、はじけた火花が蝶のように舞っていた。そうして形成された炎の滝の陰に黒い人影がかすかに見えた。そいつは肩からギターを下げていた。五島さん、アツシは叫んだ。

 五島の右手は鳥のように空中を飛び回っていた。魔術師のごとき繊細で緻密な動きで白く細い指が形を複雑に変えながら弦の近くをさまよっていた。ある指は一弦をとらえ、別の指は二弦をとらえ、それはあたかも入念に反物を織る織物職人のようだった。弦は糸となって五島の手のひらで踊っていた。銀白色の閃光を放ちながら。

 五島の指先からは数え切れない数の糸が編み出されていた。糸は幾重にも折り重なって赤く燃える空や火の海と化した大地へと繋がっていた。火口から噴き上がる炎の後ろで糸が網目状に揺れていた。世界全体が五島の編む糸で織りなされていた。


 アツシは泣いた。転んで右腕の骨を折ってしまったのだ。最初はただの捻挫だと思ったのが、昨日は一晩中右腕がきりきり痛み、朝には腕が倍の太さに腫れ上がっていた。そして病院に行くと早速医者が言ったのだ。

「腕の骨が折れているな」

 折れた骨は二度と元には戻らない。もう漫画も描けないし野球も出来ない。それどころかこれからは左手でご飯を食べなければならない。そう考えると涙が出てきて止まらなかった。大粒の涙が両目からあふれ出て膝に音を立てて落ちた。看護婦が怪訝そうな顔をしていたが、理由を知ると大きな声で笑い出した。

 その時始めてアツシは知った。人の身体は怪我をしても元に戻ることを。怪我も病気も時間をかければ元通りになることを。余りのうれしさに腕をギプスで吊ったままスキップをしながら家に帰った。何より大切なことを学んだと思った。

 あれから二十年。今では人間には失ったり傷ついたりしたら、二度と取り返しがつかないことがあることも良く知っている。


 その子からは少女の匂いがした。彼女の家に遊びに行った時その匂いに気がついた。机の隅に飾られた人形、赤い花柄の筆箱、オレンジ色のリボン。ありとあらゆるものから少女の香りがした。アツシは、初めて訪れる女の子の部屋の不思議さに緊張と抵抗を感じて、部屋の隅に身構えて座っていた。その子はすぐ紅茶を入れてくれた。紅茶を飲むのも初めてだった。少女は黒く丸い目を大きく見開いて言った。

「さあ、遊ぼ」

 そうして積み木細工と数枚のカードを合わせた奇妙なゲームを持ち出してアツシの目の前においた。少女はゲームの説明をしてくれたが、アツシは興奮して良く理解できなかった。それどころではなかったのだ。今、部屋にはアツシと少女の二人きりだった。少女の匂いが部屋一杯に漂う中で二人きり。このままずっとこうしていたいという欲望と一刻も早くここを出たいという恐怖のふたつの感情がアツシの胸を交錯していた。しかし暫くして答えは出た。やはり逃げなければ。このままでは大変なことになる。アツシはそんな気がして、逃げる算段を考え始めた。少女の説明を少しも聞いてはいない。

「聞いてるの?」

 少女が頬を膨らませてアツシの膝を叩いた。アツシは膝に触れられて気が遠くなるような恐怖を覚えた。ゲームどころではない。少女はまた一からルールの説明をし始めた。だがいつまでたってもゲームは始まらなかった。


 火山の噴火と大地の鳴動が突然止んだ。

 アツシは再びマイクを手に取り歌い始めた。そして大宇宙の虚空をまた漂流し始めた。暗黒空間を無数の星が灯台となって照らし出していた。どこかからともなく同じギターの旋律が流れ、アツシの歌声と調和した。

 星々は先ほどまで見ていた星と何ら姿を変えていなかった。アツシは尽きつつある最後の力を振り絞って何度も繰り返し辺境に向かって叫び続けた。何のためか分からない。答えも欲しくはない。ただ叫び続ける必要があった。

 背後から子守歌のようなギターの音色が聞こえる。もう叫ぶのは終わりだ。思いは届いた。銀河の果てまでこの思いは十分に伝えた。あとは子守歌に身を任せて眠るだけだ。

 大きな拍手喝采の音でアツシは宇宙から地上へと引き戻された。気がつくと、マイクはスタンドに置かれ、仲間達が全員自分の周りに集まっていた。司会者が前で何やら声を発している。全員で客席に向かって軽く頭を下げて挨拶した。客席の拍手が一瞬の間大きくなった。アカリ、タモツ、ヒロシ、皆満足そうに笑っている。五島は天井にかかる照明を眩しそうに見上げていた。アツシも同じ事をした。

 コンテストの結果はすぐに発表された。アツシ達が審査員の満場一致で最優秀賞に選ばれた。

 コンテストの主催者側からインタビューを受けたが、アツシには言うべき言葉が見あたらなかった。あの演奏中に感じた不思議な感覚や疑似体験が彼をとらえて放さず、演奏が終わっても心臓が空中を浮遊しているようで正常な精神状態になかなか戻れなかったのである。とにかく最優秀賞を受賞できたのは、ひとえに五島のギターのおかげだった。アツシにはそれがよく分かっていた。勿論審査員側も。だから主催者側はまず五島にコメントを求めようとしたのだった。だがそれは叶わなかった。何故なら、演奏終了直後に彼は会場から姿を消したからである。

 アツシは、雑事を済ませると、会場から直接五島のアパートへと急いだ。もう既に日が暮れていた。

 アパートに到着すると扉が開いたままだった。アツシは中に入って灯りをつけた。何もかも無くなっていた。もともと道具の少ない部屋だったが、玄関の靴も洗面所のタオルも部屋の隅に積んであった布団類も炊事場のコップひとつさえも無かった。

 ただギターが一本窓際に立てかけてあった。黒塗りのギブソンレスポール。闇夜のような漆黒のギター。数時間前に五島が使っていたギターである。側にはアツシが渡した曲の譜面とテープが置いてある。開けっ放しの窓から覗く夜の闇に黒いギターが溶けこんでいた。弦だけが眩いばかりの光を放っていた。

 五島はアパートを出ていったのである。アツシは不思議と余り驚かなかった。そんな気がもともとしていた。ギターの弦に一通の封筒が挟んであった。手に取って開くと、五線譜と一枚の便箋が入っていた。


「アツシ君、有り難う。君のおかげで俺は言葉を取り戻した。君はいい仲間を持ったね。素敵なバンドになるだろう。本当はもっと一緒にプレイしたいが、俺は行かなければならない。俺は一〇年前に過ちを犯した。同じバンドの子と結婚した話しはしたね。その子がクスリに手を出した。止めれば良かったんだが、バンドが絶好調で天狗になっていたんだろうな。俺もクスリに手を出して毎晩のように二人でラリってた。ある晩、その子が動かなくなってね。中毒死というやつだ。すぐに警察か病院に連絡するべきだったのに、俺は捕まるのが怖くて逃げ出した。その子の変死についてはもちろん翌日報道されたよ。それからは逃亡の日々さ。一〇年間息を潜めて、声を殺して、目立たないように生きてきた。だけどそれは間違いだった。再びギターを弾いて君たちとスタジオで練習していて気がついた。一〇年ぶりに生きている実感を味わった。言葉を取り戻したんだ。本番はきっとうまくいくだろう。君たちなら成功するさ。俺は自首する。もう逃げるのはうんざりだからね。このギターはサブロー君にあげてくれ。その弦は切れるまで張り替えないように。長持ちするがいつかは切れる。替えはないんだ。それから君たちへのお礼に曲を作った。俺が精一杯今の気持ちを込めて書いた曲だ。ぜひ君たちのバンドでプレイしてみてくれ。タイトルはアツシ君に任せる。じゃあさよならだ。本当に有り難う」

アツシは、五線譜を開いた。ギター、ドラム、ベース、キーボード、そしてボーカル。全パートが手書きで繊細かつ的確に書かれていた。譜面を読んでいるだけで、詩情と躍動感が伝わってきて心が震えた。


五島さん、こちらこそ有り難うございました。


アツシは無人の部屋に軽く頭を下げ、漆黒のギターと封筒をケースに入れて片手に下げると部屋を出た。

曲のタイトルは決まっていた。


- 光の糸


アツシはゆっくりとした足取りで歌詞に想いをめぐらせながら薄明かりの夜の街を家路についた。



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光の糸 脇七郎 @wackypiek

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