第3話


「アデライード、準備出来たかな?」

 こんこん、と扉を叩いてから、開く。

「やあ! よく似合ってる。かわいいね」

「おかしいところはありませんか?」

「どこもないよ。可愛らしい狩りの女神様だ」

「ラファエル様もさすが、本当に何でも着こなしてしまいますのね。こんなに若々しく美しいアポロン様なんて、お伽噺の挿絵でも見たことありませんわ。イメージにぴったり」

 仲のいい兄妹はお互いの仮装を誉めて笑い合った。

「こういうお遊びはフランスの宮廷でもやったことあるから、慣れたものさ。あの時は僕はポセイドンに扮した。王宮では好評だったけど、ヴェネトは海の国だ。さすがにポセイドン王というのは配慮に欠けるしね。ジィナイースは?」

「何がいいか迷いましたけれど。丁度、いい仮面を見つけましたの」

 ネーリさま、とアデライードが別の客間を優しく叩いた。

 扉を開いて、そこに佇む姿に、ラファエルは一瞬目を留めた。

 初めて見る仮装なのに、前にも一度、『彼女』に会ったことがあるような気がしたのだ。

 輝く黄金の冠から、一繋ぎに、月を象ったダイヤモンドの飾りが煌めく。

 暗い真夜中に浮かぶ弓月のような、密やかな微笑の仮面。


月の女神セレネ】……。


「ラファエル様?」

 呼ばれてハッとする。すぐに彼は微笑んだ。

「いや。君が美しい人だとは知っていたけど。明日から僕は、君が連れていた二人の美女は誰なんだとヴェネト王宮で質問攻めにされそうだなあ。

 アデライードは僕のとても大切な女性だよなんて、フランス王宮と同じみたいに誰なんだあの女性はと思わせて遊べばいいけど、ジィナイースの方は本当に化けているから、上手くはぐらかさないと。この世に存在しない美女を追い求めなきゃいけない、男たちが可哀想だが、その仮装なら王妃もまさか君だなんて絶対に思わないはずだ」

「仮装ですもの。正体を勘繰る方なんて、無粋ですわ」

「それはそうだ。美しいよ、ジィナイース。君はさすがだ」

 恭しく手を取り、甲に口づける仕草を見せたラファエルに、仮面の下から聞き慣れた、笑う声が聞こえて少し安心した。

「ラファエルもすごく似合ってるよ。覚えてる? ローマでも仮面舞踏会が行われて、一緒に忍び込んだよね」

「まあ、ローマでも仮面舞踏会がありましたの?」

「こういうしっかりした仮面じゃなかったけどね」

 陶器で作られた仮面を手にして、ラファエルが頷く。

「面白そうだってジィナイースと忍び込んだ。ドキドキしたよ。普段会えない人達が会って、薔薇庭園で人目を忍んでキスしてるのも初めて見た。今はそんなの微笑ましいだけだけど、当時は子供だったから驚いたなあ。キスってそんなにいいものなのかな? って思ってジィナイースと試し合ったけど、あの時はよく分かんなかったよね。おまけにユリウスにキスしてるとこ見られて僕は殺されかけた」

 ネーリが仮面を外して、顔を見せ、吹き出している。

「そうだった。よく覚えてるね。ラファエル」

「覚えてるよ。君と過ごした日々のことは、何一つ忘れてない」

 優しい声でラファエルが言った。

 美しい月の女神の仮面を外し、ネーリが顔を見せた時、あどけない彼の笑顔を見て、彼は安心したほどだった。

 彼の身体に流れる、王統の血……。

 自分も王の一族ではあるけれど、やはり彼は王族なのだと改めて思う。

 着飾らなくても彼には不思議な品がある。だがこうして着飾れば、月が星を従えて輝きを増すように、一層非凡な容姿が引き立った。

 仮面舞踏会で良かったと心から思う。素顔など見せたら夜会で瞬く間に彼は誰だと噂になって、王妃の耳に入ってしまっただろう。今回はその心配はない。

「ジィナイースは女性パートも踊れるんだよ、アデライード。久しぶりに君と踊れるなんて本当に嬉しいなあ」

「まあ、お兄さま。踊りを申し込むのはまだ早いですわよ」

 すでにネーリの手を取って、踊りかけているラファエルを、妹が優しく窘める。

「ほんとうだ」

 浮かれてる自分に、笑ってしまった。

「でもこの仮装なら王宮の誰も君とは分からないね。性別からして違うんだもの。アデライードはとてもいい仮装を思いついてくれた」

 アデライードがその場を離れると、ラファエルはネーリに耳打ちする。

「王妃には君をアデライードの侍女だと話しておくよ。僕の友人なら、彼女は決して無礼な真似はしないし、君はただ、ゆっくり夜会を楽しんでくれればいい。そうだ、話しておくけど今日の夜会にはフェルディナント・アークも来る。夜会を楽しむためではなく、ある貴族を調べてるそうだ」

「そうなの?」

 ネーリの顔に仮面を取り付けてやりながら、ラファエルは安心させるように背を撫でた。

「彼はヴェネトの社交界に僕ほど詳しくないからね。教えてやると約束してる。さすがに彼も守護職だから、大貴族のことを知らなすぎるのは良くないと思ったんだろう。ただ、別に向こうは長居をする気はないからすぐ帰るから心配しないでいい。

 彼に貴族を紹介する間は、アデライードに君の側にいるよう頼んであるから。

 何があっても彼女が切り抜けてくれる」

「うん。分かった」

「……ジィナイース」

「?」

「ごめんね。……君は……きっと【シビュラの塔】を見に行きたいんだろうな」

 ドキ、とした。

 ネーリは途中ではぐれたことにして、塔を見に行くつもりだった。後で真相は勿論ラファエルには話す。しかし、どうしても自分の目で見に行きたいのだ。

 ラファエルが王妃と友好的な関係を結べたことは……好ましいことだ。

 彼はフランスの命運を背負っている。しかしそのことが、【シビュラの塔】というものに固執することで、悪い方に転がるかもしれない。

 だが、ネーリは成り行きをゆっくり見守ってはいられなかった。一刻も早く【シビュラの塔】の現状を把握し、少なくとも扉が開いてるのか、閉じているのかは解明しなくてはいけない。

 そして、フェルディナントにそれを話す。

 全てを、話して、許しを乞う。

 許されるかは分からないけど、そうしないと、これ以上彼との関係をどうしても進んで行けない。

「でも、お願いだ。君を危険な目には遭わせたくない。もう少しだけの僕に時間をくれ。

 僕が【シビュラの塔】の状況は必ず見て来て、君に全てを教えるから」

 ラファエルの美しい青い瞳を見上げた。ふと、いつもなら頷いてくれるネーリが頷かなかったことにラファエルは気づいた。

 ネーリは背伸びして、ラファエルの体を抱きしめる。


「ありがとう……。ラファエル。大好きだよ。

 君がいなければ、今日王宮に行くことも出来なかった。

 ……感謝してる」


 彼が別のことを言った。

「ラファエル様、ネーリ様、馬車が参りました。出かけられるでしょうか?」

「うん、大丈夫だよ」

 女の子の歩き方しなきゃね、とネーリが笑いながら階段を降りて行く。

 アデライードはその様子にくすくすと笑いながら、部屋の中に佇むラファエルを振り返った。

「ラファエル様?」

「……アデライード」

「はい……?」

 ラファエルがやって来る。

「ネーリを見ておいてやってくれ。勿論僕も、彼に危険がないように注意深く見守っているつもりだけど、僕が側を離れなきゃいけない時がある。その時に、彼を見失わないで」

 アデライードはすぐに、狩りの女神アルテミスの仮面の下で笑みを消した。

 そのラファエルの言葉で、この夜会において自分が兄から与えられた使命を、聡明な彼女はすぐさま理解したのだった。

「分かりました。必ずネーリ様のお側におります」

 たちまち返った言葉に、ラファエルは一瞬ハッとしてから、微笑んだ。妹を優しく抱きしめる。

「ありがとう。頼りにしてるよ」

 仮面を取り付けると、そのまま妹の手を取り、エスコートするように彼は歩き出した。

 ネーリが、自分を信頼してくれていることを強く感じる。

 彼は自分には、嘘をつかないだろう。

 ――だから答えなかったのだ。

 ラファエルは出掛けに、置いて行くはずだった自分の剣を手に取り、腰に下げた。

 芸術の神アポロンを模した優雅な衣装にも、ラファエルの保有する美しいレイピアは不思議と馴染む。

 馬車には先にネーリが乗り込んでいる。

 すでに仮面に覆われた、見通せない、女神の微笑。

 その横顔にラファエルは一瞬立ち竦んだ。

 急に、彼を遠くに感じた。

(彼は……美しい芸術の才を持ち)

 芸術の女神に愛されたような才を持ち――、


(そして蛮勇ユリウスの血を、一族の誰よりも色濃く継ぐ者)


 彼が本気で動こうとした時、自分などにそれを止められるのだろうか、とラファエルは心密かに恐れを抱いた。彼は幼い頃会ったユリウスをよく覚えている。あの覇気を。数多の多国籍の勇士達を、彼はいとも容易く率いていた。ラファエルは成長した今も、ユリウスがここにもしいたとしたら、王としての覇気に自分は圧倒されるだろうとよく理解している。

 彼は唯一無二の王だったのだ。そしてただ一人彼にこの地上で似ているのが、ジィナイース・テラだった。雰囲気は違くとも彼らには同じものを感じる。太陽のような、圧倒的な鮮やかさを。

 まだユリウスの謎も、セルピナ・ビューレイの謎も、王妃とジィナイースの間に、どんな遣り取りがあったかも、自分は全てを把握出来てるわけじゃない。

 そういえば、ネーリは神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークとも親しくしていたが、彼にも全てを語っているというわけでは全くなかったようだ。

(この人は、動く時は全て自分一人でする)

 十歳にも満たない子供がある日城から放り出され、全ての庇護を失った時、彼は自分を一人にした者を憎まなかった。王妃セルピナに服従しなかった。

 どんなに生活が孤独で苦しくなろうとも、自由に絵を描ける人生を選んだ。

 教会を手伝いながら、たった一つの場所に留まり、その負担になることを避け、ヴェネト王国を歩き続けた。


 王宮から出て、海軍を持たないヴェネト王国を守る為に、船の上の玉座で在り続けたユリウス・ガンディノ。


(あの偉大な王のように、決して何があっても砕かれない、太陽の魂を持っている)


 ネーリが本気で動こうとしたら、自分は止められない。せめて置いて行かれないようにと、この十年剣や知識は磨いて来たが、それでもついていくのがやっとなのだ。

 それでも、ラファエルは貴方を守るから信じて欲しい、と自分自身で口にした。

 これは、真実の言葉だろうか?

 ラファエルは社交界では他愛ない嘘は他人に付くが、ジィナイース・テラにだけは嘘を決してつかないと、生涯の誓いを立てている。

 だから守ると言えば、彼を守り抜かねばならないのだ。

 それがたった一つ、ラファエルが戦えない騎士として心に立てた宣誓だった。

それは神聖なものなのである。

 僕が【シビュラの塔】を見て来るから、君はそこで待っていてくれなど。

 力の無い言葉を言ったつもりもなかったが、信じられるかどうかはネーリが決める。

 軽率な言葉だったかもしれない、月の女神を見上げる。

 冷たい横顔を。

 ネーリは口にしていないだけで、あの王妃ならば幼い日のネーリに、刃を突き付けて自分に逆らうなら殺す、とはっきり告げたかもしれないのだ。

 王宮に、彼を連れて行くのは、あまりに危険なことなのではないか?

「お兄さま?」

 立ち止まっている兄にアデライードが声を掛けたが、竦んだ足は動かなかった。その時、月の女神の冷たい横顔を見せていた彼がこちらを振り返り、手を差し出して来る。


「ラファエル」


 仮面の下で、優しく黄柱石ヘリオドールの瞳が微笑ってくれたのが分かった。

 胸にあった不安が全て、たちまち煙のように消え去り、ラファエルは差し出された手を取って、馬車に乗った。続けて妹に手を差し出し、四人掛けの馬車の対面に、彼女を導く。

 程なく馬車は走り出した。


 俺を信じて。


 ラファエルは馬車の中で、隣に座るネーリの手を握り締めたまま、そう心で語り掛けていた。





【終】


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