第3話 転移魔法陣

「ごめん、哲。D大の書道科、一緒に行こうって言ったけど……やっぱりおれ、行くのやめるよ」


 あれは、大学入学時期の直前のこと。おれは哲留てつるに打ち明けた。

 哲留はおれが書道家になりたがっていたことを知っていた友人で、同じ大学の書道科に、一緒に進もうと話していた同級生だ。

 彼とは高校書道部でも共に切磋琢磨した仲、いわば親友だ。


「本当に良いのか? 伊墨、よく考えろ。ご両親のことは……本当に気の毒だけど、でも、奨学金を使えば何とか行けるんじゃないのか? ずっと憧れだった大学の書道科で学べるって、あんなに喜んでたじゃないか。書道部の中でも断トツの練習量だったろ。

 お前の頭ならもっと上の大学だって狙えたのに、書道のためにあの大学、選んだんだろ? それなのに……」


 そこで哲留は、おれの表情を見て言葉を止めた。

「……お前は本当に、弟想いだな」


 苦笑しながら、哲留は言った。そうして真剣な目をした。

「わかったよ。いきなり書家じゃ、食べていけないもんな……。でも、約束だ。就職しても、絶対書き続けろよ。お前が書家になるの、待ってるからな? 

 俺はお前の字が好きなんだ。大学に入ってバイトしたら、お前に一番に作品を依頼する。約束だぞ。お前のプロとしての最初の作品は、俺が依頼するからな。値段、考えとけ」

 ビシッと人差し指を突き出して、そう言った親友。


 その約束を、今果たしてくれている。

 気持ちは嬉しいが実現しないだろうと思っていたのに、まさか本当に依頼してくれるとは。




 哲留がおれに「作品を依頼したい」と言ってきたのは、一か月ほど前の事だった。


「お前からお金を取るわけにはいかないよ。それにまだまだ修行中だし」と首を振ったが、「お前はとっくに師範で、実力だって十分だ。約束したろ? 一番に俺が依頼するって。うちの和室に合うような、半切の軸を頼むよ。これで足りるか」


「こんなに……」

「はは。多くはないけど、表装代と紙代、墨代を払っても、多少は残るだろ? このためにバイトすると思ったら、バイトがけっこう楽しかったんだぜ?」

「……多少どころか……」

 思わず目が潤んでしまう。真っ直ぐに哲留を見つめた。

「わかった。時間はかかるかもしれないけど……全力で揮毫きごうします」



 それから、仕事の合間を縫うようにして書いていった。バイト先の先輩からの遊びの誘いを断って書の練習に充てた。一枚書いてそれを納品する、と思われる節もあるが、実際、そういう書家は一部だろう。百枚以上書くのもよくあることだ。


 『花鳥風月』はよく書かれる言葉で、これまでも幾度か書いたことがあった。今回は象形文字風にという依頼だったので、書の古典と辞書を参考にしながらすでに二百枚以上を書いていた。


 伊墨が気に入っている和紙は山梨県の手漉き和紙で、作品に使うとなるとこれ、と決めているものがある。半切サイズの和紙、『富士河』は五十枚で約九千円。もっと高いものもあるが、伊墨が好きな紙はこれだ。

 書道を本格的にやろうと思うと、紙代、墨代だけでも学校の書道とは比べ物にならない金額が飛んでいく。安い紙を使えばいいのだが、書き味も大きく異なる上に、クオリティを落とすことは仮にもお金をもらう身として考えられない。


 それでも、どうしても完全に納得のいくものができなくて。もどかしいけれど、必ず納得の行くものだけを渡すのだと決めていた。

 

――「哲、待ってろよ。もうすぐ、できそうなんだ……」

 墨を擦っていた手が止まったと思うと、ぼんやりと独り言を言っていた言葉が止まる。そして、そのままパタン、と机に突っ伏したように、倒れるように眠ってしまったのだった。



      ◇  ◇  ◇



 翌朝、寒くて目を覚ます。机でそのまま眠ってしまったのだ。


「……ん? ……うわ、遅刻だ!」

 血の気が引く。目覚ましをかけそびれてしまった。

 今日は弟を訪ねなくてはならないのに、スタートから出遅れてしまうとは……。



 現場監督の雷が落ちる。

「ったく、少しは見込みがあると思ったが、二時間も遅刻するとはいい度胸だ」

「すみませんでした!」

 頭を下げる。日ごろお世話になっている先輩が庇ってくれた。

「まあまあ、こいつは弟の学費のためにバイトを掛け持ちするような、今時珍しい奴なんですから。大目に見てやってくださいよ、監督」

「事情は分かるが、仕事は仕事だ。他で働いていようが、うちで給料をもらう以上は、相応の働きをしてくれ」

「はい」

 監督の言う事はもっともだ。夜の練習も、これからはもう少し考えなくては……。


「しかし、こいつはいつも人並み以上に頑張ってますよ」

「いえ、すみません。気が緩んでました」もう一度頭を下げた。

「今後は気をつけなさい」

「はい! 失礼しました」

 去って行く現場監督の背中に、先輩が「フン、上から指示ばかりしやがって。伊墨くらいに使える真面目な奴、なかなかいねえってのに」と呟いた。

「その言葉だけで救われます。ありがとうございます」

 正直にそう言うと、先輩は頭を掻いて「ま、当然さ」と照れ隠しをした。「取り掛かるぞ。そっち持ってくれ」


 いつもと同じような現場だったのだ。

 その日、何も起こらなければ。



「危ない!」

 突然声が響いたと思えば、激しい音がした。見れば、複数の鉄骨が建築中のビルから落ちてくるではないか。……そんな馬鹿な。

 ガラガラ……! 激しい音に目を瞑り、もう一度目を開いたとき、現場監督の片足がその下敷きになっていた。間一髪で足以外は無事なようだが、そこから抜け出せずにいる。監督の上の複数の鉄骨は、今にも崩れそうだ。このままでは。


 いけない。


 気付けばいつの間にか、僕は監督の足を潰している鉄骨に手を伸ばしていた。渾身の力で片側を持ち上げる。


 手を大切にすべき仕事を志す身として、間違っている。そう理性が叫ぶ。


 でも仕方ないじゃないか……じいちゃんと育ったせいで、お年寄りには弱いのだ。まあ、監督はまだ五十代だが。


「監督……出られますか」

「おい、やめろ! 危険だ、救助を待て、伊墨!」

 先輩の叫ぶ声がする。

「危険だ、離れろ!」下敷きになった現場監督も言うが、その表情は恐怖に満ちている。鉄骨を持ち上げても上手く動けずにいるようだ。そろそろ腕が……。


「待ってたら……間に合いませんよ」

 上の資材が傾いてきているのだ。このままでは監督が押しつぶされて死んでしまう。「つかまってください」と、鉄骨を肩に載せ、その間に何とか監督を鉄骨の下から助け出す。


「す、すまない……伊墨く……」

 監督の言葉が終わらないうちに。


 先輩の「あぶねえ!」という声が響き、金属のぶつかる轟音がして。身体の至る所に衝撃を覚える。


――ああ……幻弥に会いに行くって言ったのに。約束を……約束?

 何か大切な約束を、おれは忘れているような気がした。





 気を失っていたらしい。

 目を開けた時、そこに見えたのはおれを覗き込む現場監督と先輩、そして救急隊員の切迫した顔だった。

「意識を取り戻しました。しかし、右腕の損傷が激しく……」

「危険な出血量です。このままでは間に合いません。右腕は諦めましょう」


――諦める? 右腕って……なに。


 ぼやけた視界で、かろうじて目を動かすと、その先に見えたのは。


 鉄骨が右腕を潰している。

 頭が真っ白になる。

 自分でもどうなっているか判らない。

 そして……身体中痛むのに、右腕は不思議と痛みを感じない。なぜだろう。服がびしょ濡れだ……これは……おれの血。血の海だ。


「気が付いたのか! 伊墨、待ってろ、きっと助けてやる……」

 先輩の声を聞きながら、意識が遠くなる。あまりのショックに、すでに酷く痛む頭がチカチカする。


――ああ、けど。なんとなくわかる。この血の量はちょっと、危ない。


 それに……右腕を『諦める』なら……死んだ方がマシだ。



 この右腕にはこれまで十五年積み上げて来た練習が全て詰まっている。じいちゃんと一緒に積み上げた宝だ。

 右腕を失うということはずっと叶えたかった夢、書道家になるという夢、その道が目前にして絶たれたということなのだ。



――これはなんだろう。弟に向き合ってこなかった罰だろうか。


 おれなりに、向き合おうとしたつもりだったのだが。

 幻弥に、謝らないと。今日、行けなくなったって……。


 その時、声がした。

 

「……さん、兄さん! 兄さん……!」


 ……そんな風にバカみたいにただ連呼するなんて、お前らしくない。どうしたんだ。


 視界がぼやけてよく見えない。しかし、弟が……こちらに走って来ようとして、警備に止められているらしいことはわかった。

「……幻弥」


 あんなに必死な顔をして。一応、まだ生きているのだけれど。

 それも時間の問題だ。


――……弟の目の前で、死ぬのは、ちょっとなあ……。


 できればしたくない。

 そんな呪いを残すような死に方は。


 兄として、弟にはただ幸せになってほしいじゃないか。


 そういえば、あいつは電話に出たのか。僕が何度連絡しても無視していたくせに。たった一人の家族だ、そりゃ連絡が行くだろう。監督か誰かがかければすぐに出るとは、本当にかわいくない弟だな……。今回も無視してくれれば、こんな所を見せずに済んだのに。


 でも……一年近くも無視しておいて、こんな時だけ現れるなんて。酷いじゃないか。



 弟の叫ぶような声が聞こえる。近くで資材の軋む音がする。

 

 たった一人の肉親、双子の弟に、兄らしいことは何もしてやれなかった。最後の最後に、あんな顔をさせるとは、情けない。

 弟はおれが関わらない方が幸せに生きられるのかもしれない。兄バカ失格だな。



――もしやり直せるとしたら。


 今度は弟の望み通り、迷惑をかけずに、関わらないようにしよう。


 そうして……そうだな、今度は書道家になる夢も叶えたいな。親友の作品依頼くらい、ちゃんと納品できるくらいになりたい。


 そして……ただ書きたい。

 ただただ書きたい。

 それができる道が、あるといい。


 ……弟が、何か叫んでいる。

 聞こえない。

 

 あれ、なにやってるんだ、あいつ。警備を振り切ってこっちに来る……。

 待て、危ない。

 こっちに来ちゃいけない……幻弥。「……来るな」


 その時。

 不自然なことが起こった。

 急に地面が明るく……光り出したのだ。


――光ってる……死ぬときって、こんなことが起こるのか? そんなの、聞いたことがないけど……。

 かすかに顔を動かして地面を見ると……。

 そこには巨大な文様が浮かび上がっている。


――象形文字……? なんだろう、この模様。

 まるで漫画で見る、魔法陣みたいだな。


 地面から湧き上がる強い光の中で。弟の手が、僕の左腕を掴んだのが見えた。

 来るなと言ったのに……なにしてるんだ、この弟は。

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