第2話 「兄バカ」と初の作品依頼

 そもそもおれが「兄バカ」になったのには訳がある。


 両親は、おれたち双子が幼い頃から長期の海外赴任をしていて、いわゆる「放任主義」だった。そのため、家にいるのは大抵じいちゃんだけ。

 ちなみにおれが『書道家になりたい』という夢を持ったのは、書道大好き人間だったじいちゃんの影響だ。


 親からの連絡は月に一度あるかないかで、定期的に送金されてくることで元気にやっているんだな、と確認できる。おれはそれが親の愛だと思うことにした。


 しかし、弟は対人コミュニケーションにやや難があり……というか、両親と口を利けば「興味がない」という本心をむき出しに、すぐ見下した口調で話を切ろうとするために、基本はおれが親代わりとなって口下手な弟の面倒を見ていたのだ。

 つまり、双子とはいえおれからすると、半分は弟の親の気分だ。


 祖父が優しい人だったので大して寂しいとは思わなかったし、自分が不幸だとも思わない。多少苦労はしたものの、むしろ幸せだと思っている。


 ただ、完全なおじいちゃんっ子として育ったおれにとって、じいちゃんの死は実の親の死のように感じられた。


 あの時は幻弥の励ましによって支えられ、何とか立ち直ることが出来た。

 回らなくなりかけた家事を手探りで身に着け、弟と二人で何とか立ち直った矢先。


 今度は両親が事故で亡くなった。

 高校二年の冬のことだ。海外で亡くなったから、その後の遺体の引き取りなど、何かと大変だった。お金も入用で様々な対応に追われ、しばらくは悲しむ暇さえなかったというのが正直なところで。



 その頃のことだ。


 じいちゃんが死んだ時、涙ひとつ見せずにおれを慰めた弟が、両親の墓の前で一人立ち尽くしている後ろ姿を見た。


 灰色の墓が続く中、あたり一面に白い雪が被って、まるで薄墨で描いた墨絵みたいだと、そんな場違いなことを思った。

 弟は手を合わせるのでもなく、ただただ立ち尽くしていた。

 この時の光景は、おれの脳裏に鮮烈に刻まれた。



 この光景を見たときにおれは、残された家族が弟たった一人であるということを、なぜか強烈に自覚した。



 生まれたのが少し早かっただけとはいえ、自分を兄と呼んでくれる優秀な弟が困らないように、せめて進学先くらいは遠慮しなくていいように……支えなくてはいけないと、自然と思った。




 それからというもの、おれは昼間は高校、夜はバイトに明け暮れて、幻弥とゆっくり話す時間もあまり取れなかった。

 自分が弟に何か悪い事をしたか、と思い返すと……弟へのフォローが不十分だったかもしれない。何か言われる度に、「おまえが心配することはないよ」と言ってきた。ちゃんと話を聞いてこなかったのかも。


――いや、でも。それだけであんな顔するか?





 受験を終えた弟が、念願の医学部に合格したというその日。

「おめでとう、幻弥! K大医学部なんて、おまえは本当にすごいよ。自慢の弟だ」

 おれは本当に、自分のことのように嬉しかったのだ。弟が誇らしかった。


 しかし、弟がおれに向けた目は……あれはなんと言うのだろう。

 とても冷たい、嫌悪すら込められたものだった。

 それでもあんなことを言われるとは思ってもいなかった。


「……本当に、兄さんは馬鹿だ。正直……迷惑なんだよ。もう、僕は兄さんと関わる気はないから」


「……ん?」

 聞き間違いだろうか? 


 おめでとうの返事がそれはないだろう、と抗議しようとしたものの、弟はそのまま玄関を出て行き、目の前でバタンと扉は閉じられた。

 呼び止めようと伸ばした右手が宙を彷徨う。


――幻弥のやつ、どうしたんだ? 関わる気がないって……つまり絶縁? え、たった一人の肉親から? ……さすがに、ただの気まぐれだよな。


 まあそのうち機嫌が直るだろう、と思っていた。そんな風に楽観視していたせいなのか……おれの楽観する癖は、そろそろ直した方がいいかもしれない。

 その時の宣言通り。

 幻弥はそれから、律儀におれを無視し続けている。





――そして今に至るというわけで。


 スマホに表示された、幻弥とのメッセージ画面。タップして文字を入力する。

――『あのさ。そろそろ……何に対して怒ってるか、教えてくれないか』


 打ち込んだ文字を、少し迷ったのち、全て削除した。やめだ、やめだ。本当に、何をそんなに悩むんだ。ただの弟じゃないか。

 あいつの事だから、大抵のことは飄々と上手くこなしてしまうし問題ないだろ。まあ、たまに周りが見えなくなるし、試験の前に勉強のし過ぎで倒れてたことも……。


――ああ、仕方ない。こいつはたった一人の肉親で、弟なんだよな。


 部屋の棚に飾られた写真のうちの一枚。これは中学の卒業式だ。

 そこには双子の弟が、おれの肩に手を回し、無邪気に笑っている姿が映っていた。双子というだけあり、当時は普通の兄弟以上に仲が良かったはず……たぶん。


「……よし! 拗れたコミュ障の弟に歩み寄るのも、兄の仕事ってことにしとくか。待ってろよ、幻弥。忙しい医大生に、おいしい飯でも作ってやるからな!」


 メッセージを打って送信する。

――明日の仕事後、お前んとこ行くからな! お前が断っても勝手に行くから、居留守するなよ。わかったな!


 今日は仕事終わりが遅くて無理だが、明日なら何とか弟の寮までたどり着けるだろう。おれはそもそも、長く悩むことに向いてないんだから、しょうがない。


 つまり明日には万事解決だ。



 トーストを焼いている間に、床に散らばった和紙……墨で文字を書きつけた書作品を整理する。昨夜書いたものだ。三枚ほど良さそうなものをピックアップする。

 部屋の壁にピンと渡している洗濯紐のような紐に、クリップでそれらの作品を吊り下げ、横並びに飾った。そして数歩下がって遠目に眺めてみる。

 こうすると、かなり簡易的にだが、作品を縦向きに展示できるのだ。それにより、机や床に向かってただ書いているだけでは判らないことが見えてくる。

……良くも悪くも。


「うーん……」首を傾げる。

 昨日書いていた時は、けっこうマシになってきたと思ったんだが。「これじゃ、まだだめだな」

 この作品はなんといっても、こっそり開業した書道家としては、人生初の作品オーダーなのだから。

 呟いたところ、チン、とトースターが音を立てた。

「さ、今日もがんばるか」

 

◇  ◇  ◇


 伊墨が向かった先は工事現場だ。兄を一年も無視する失礼な弟に会いに行くと決めてからは、気持ちもスッキリした。


 このまま何もなければ、おれは明日の夕方には弟と仲直りしている。そのはずだった。


 笑顔で同僚たちに挨拶すると、重い資材を運ぶ仕事を開始する。二月の寒さの中でも、身体を動かしていれば汗もかく。


 仕事終わり、重そうな段ボール箱を運んでいる同僚の六十代の先輩を見かけて、「俺が持ちます」と引き受けた。

 じいちゃんと住んでいたせいか、ご年配が重いものを持っているところを見るとつい声をかけたくなるのは、もう癖みたいなものだ。


「いつも助かるよ。伊墨くん、偉いな。若いのにこんなキツイ仕事を」

「いえ。働ける場所のなかじゃ、ここが一番稼げるので!」

 先輩は難しい顔をする。

「だが、君くらいの年齢じゃ、いくらでも就職先はあったろ? 聞いた話じゃ、この辺で一番の進学校を出てるって言うじゃねえか。もったいなくねえか?」


「まあ、すぐにお金が入用だったんです。それにおれ、高校の中じゃ成績は大して良くありませんよ。実は、書道をやりたくて通っていただけですし。進学も考えてたんですけど、ちょっと事情があって、高校卒業してすぐ働くことにしたんです。就職先を探し出したのが遅かったので、企業の採用も終わってて」


 そして思わず微笑んで続ける。

「でも、弟はすごいんですよ! 高校も主席で卒業して、今じゃK大医学部に通いながら頑張ってるんです。あいつ、昔から医者になりたがってたから」

 自分のことのように嬉しそうに言うと、先輩は目を丸くする。


「K大か、そりゃすごい。それじゃあ、君が弟さんの学費や生活費を払ってるってのも本当かい?」

「ええ。足しになるって程度ですけど」

「偉いねえ。遊びたい盛りだろうに。そういえば、そのペン……いつも同じものをさしてるね」

 先輩がおれの胸ポケットを指さした。


 「ああ」


 取り出したのは、一本の筆ペンだった。

 軸が蒔絵のようになっている、少しおしゃれな筆ペン。かなり使い古した跡が見える。


「昔、弟がくれたんです。誕生日に。おれ、書道が好きで。筆を持ち歩けない時には筆ペンをいつも持ち歩いていたから」


「書道を? ああ、君の手が時々黒いのは、墨のせいか。それじゃ、書道家さんになろうとは思わないのかい?」

「はは、今も少しだけやってるんですよ。まだまだ駆け出しで、副業って言えるほどでもないけど」

「そりゃあすごい」先輩は頷く。

 そしてふと、工事現場の向かいにある国立博物館を指差す。


「それじゃ、あれも行ったのかい? 今、ちょうど大規模な書道の展示、やってんだろ? おれは詳しくはないが、妻がな。有名な書家の作品が集まる展示だって、喜んで毎日のように通ってるぞ」


 この現場に来てからずっと気になっていた話題に、思わず目を輝かせる。

「そうなんですよ……! 『書の秘宝』展。日本の古典に加えて、海の向こうから王義之おうぎし顔真卿がんしんけい欧陽詢おうようじゅん九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい虞世南ぐせいなん孔子廟堂之碑こうしびょうどうひなんかも、めちゃくちゃ有名なお宝ばかりが集まって! ああ、早く観に行きたいな。臨書が捗りそうです」

「勘弁してくれ、そりゃ呪文か? 行きゃいいじゃねえか、目の前なんだから。もうすぐ上がりだろ?」


 それが出来たらいいのだが。思わず苦笑する。


「それが……次の仕事があるので。あ、そろそろ失礼します」

「おいおい、これからかい? あまり無理するんじゃねえぞ! 身体壊すぞ」



 正直、名筆を鑑賞して自分のものにしようと思うのならば何度でも足を運びたい。それこそ毎日でも。本物はスマホ画面で写真を見るのとは訳が違うのだ。


 しかし、さすがにチケットも一枚二千円ほどする大規模展示だ。毎日なんて贅沢はとてもできない。一日だけ……今週末、朝一で出かけてゆっくり、開館時間いっぱいに鑑賞するつもりだ。そして一つでも多く学び取りたい。その前に代表的な書をもう一度臨書しておきたいな。


 そんなことを考えながら、家で握ったおにぎりを食べつつ移動して、宅配の大型倉庫でのアルバイトに向かう。


 アパートに帰ればすでに十二時を回っていた。体の至る所が軋むように疲れを訴える。「疲れた……。けど、やっと書ける」


 亡くなった両親たちと住んでいたアパートは、家賃が高いので引っ越した。今は安いボロアパートに一人暮らしで、狭いので本当に大切なものだけを持ってきた。

 しかし、昔撮った、幸せそうに笑う家族の写真を見ても、まだ少し胸が痛む。


 思わず見つめてしまった家族写真から意識を引きはがすように顔を上げ、早く書道をするのだと、伊墨はアパートの一室、床に置かれた小さなローテーブルの前に正座する。


 硯、下敷き、文鎮、水差し、筆置き……そして筆。


 手入れされた美しい道具の前に座り、深く呼吸する。それだけで心が整っていく。

「よし……っ! 書くぞ~」

 待ちに待った一日のご褒美タイムに、思わず顔がにやけてしまう。


 祖父にもらった端渓たんけいの硯に水滴を垂らし、固形墨を磨る。しかし、墨を掴んだ右手は、かすかに震えて墨を取り落としてしまった。


「あ……手の力、入んないや。……今日の握力、バイトで使い果たしちゃったかな」


 一人で暮らしていると、独り言が多くなるものだ。返事がないのが寂しいが、一方的に絶縁された兄なんてそんなもんだ。たぶん。


 もう一度墨を握って、ゆっくりと磨っていく。

 かすかにお香の混ざった、独特の良い香りが鼻腔を刺激して心地よい。

 狭い部屋に満ちてゆくこの香りが好きだ。すべての疲れを癒してくれるみたいだ。


 墨はあまり力強く磨っても、粒子が荒くなって書き心地が悪くなるので、このくらい、力が入らないくらいでもちょうどいいのだ……ということにしよう。筆はちゃんと持てるだろうか。今日もいつもと同じ、基本線の練習から始めよう。

 疲れているが、基本は欠かしちゃいけない。



 何より、明日。


 明日は絶対に、弟に会うのだ。ほぼ一年ぶりに。そういう楽しみがあれば頑張れる。

 弟の反応はもちろん、芳しくないだろうが……それでも楽しみに思うのはおれが重度の「兄バカ」なせいか。一方的に絶縁されていても、口を利くことくらいはしてくれると願おう。


 そうしたら。


――今度は弟の話をちゃんと聞こう。ゆっくり、ちゃんと。



 机の左側には、花鳥風月、と書いた半切サイズの和紙が何重にも垂れている。見れば、部屋中いっぱいに、同じ字が書かれた書が床に散らばっていた。

 この反古紙ほごしの山。

 それは、おれが初めてもらった、書道の依頼のためだった。

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