第5話
十年が経ち、俺は二十歳になった。あの人に買ってもらったマンガや玩具は全て売り払ったため、何かを見て思い出すということも減った。小学校の図書室からこっそり盗んできた『本格的ドルチェの作り方』以外は。
あのときどうして狂ったようにティラミスばかり作っていたのか、自分でもわからなかった。母さんが喜んでくれるから、なんて思ってはいたが、それなら別のデザートでもよかったはずだ。
おそらく俺は、ティラミスを幸せの象徴のように捉えていたのだと、今になって思う。幸せを作って食べる、つまり、壊して自分の栄養にするということに意義を見出そうとしていたのではないか、とも。
「ここは……、久しぶりだ」と力なく笑う顔には、しわが増えている。
「もう長くないってさ」
「そう、らしいな。さっき医者に言われたよ」
母さんの体は、いつの間にかがんに蝕まれていた。中でもたちの悪い膵臓がんで、発見したのが遅かった。もう摘出手術は無理だと言われ化学療法を試みている最中だが、死はまもなくやってくるだろう。
父さんだった人――生物学的には『父』であるとわかってはいるが――は、その突然の来訪に驚く俺に、申し訳無さそうな顔をしていた。ひとまず家に上げたが、今はただリビングでじっと座っている。背中が丸まり、十年前より小さく見える。俺が成長したからだろうか。
「飯、どうする?」
「あまり食べる気には……」
声も以前よりしわがれているように思える。俺は「何か食っとけよ」と言ってスマートフォンと財布を持った。
「買い物行ってくるから」
「あ、ああ」
靴を履いて外に出る。梅雨の空気は十年前より気温も湿度も高くなっている気がする。ガタガタと音を立て、アパートの扉が閉まった。
「治療費だの入院費だの、悪かったな。ありがとう」
「……いや」
彼はリビングに座ったままだ。そのうち居眠りでもしてしまいそうなくらい動かず、下を向いている。俺はその間にもキッチンで手を動かす。
「ほら、できたから。麦茶しかないけど」と飲み物のグラスを置くと、彼ははっと我に返ったように頭を上げた。
「……悪いな」
「デザートもあるから。食えよ」
そう言うと、スプーンでオムライスの卵を崩す。そんな俺に倣い、彼もスプーンを持った。
「料理、上手なんだな」
「やってみるとけっこう楽しいよ」
「そうか」
ふっと笑うと、十年前が蘇る。この人を格好いいと思っていたあの頃が。
オムライスを食べ終えたところで、冷蔵庫に入れておいたティラミスを切り分ける。一人分を半分にした小さいものだ。
「これ、誠司が作ったのか」
「ああ」
「うまいな、うまい」
夢中でスプーンを動かして食べる様に、毒でも入っていたらどうするつもりだったのだろう、などと嘲笑が浮かぶ。
「あのさ、殺されるとか思わなかったわけ?」
「殺される、って、おまえにか? 思わなかったが……」
「は、そりゃめでてえ」
一旦立ち上がって下げた皿をシンクに置き、俺は続けた。
「俺があのときどんだけショックだったか、わかってんのか」
「……わかって、るよ。本当に申し訳ないことをしていたと……」
「へぇ」
「ただ、ここに俺の幸せが、あったんだ」
「それが偽物でも、か。……悪いが、もう帰っ……」
「偽物なんかじゃない」
「……は?」
「俺にとっては、本物だった。母さんもおまえも、愛していたんだ。ここに来ると幸せを感じていた」
きっぱりとそう告げる表情が、俺を苛立たせた。どんな事情があれ、俺と母さんは本物の家族として認められていなかったのだ。
「わかった、わかったよ。もう出ていってくれないか。これ以上一緒にいたら殺してしまいそうだから」
「……ああ……、すまなかった」
のろのろと立ち上がり、彼は鞄を手に取って玄関へ向かう。俺はそちらを見もせず、古いオーディオセットを眺めていた。これの処分料をもらっておけばよかったと思いながら。
ガタガタと扉が閉まる音が消えていくのを確認し、俺は後片付けを始めた。それから翌日の仕事や病院へ行くことなどを考え、シャワーを浴びる。
脱衣所を出ると、茶色い紙袋がシューズボックスの上にあることに気付いた。そんなものを置いた覚えはない。紙袋を手に取り中を確かめると、そこには、なくしたと思っていた青い折り畳み傘と、あの日買ったマンガの次の巻が入っていた。
「……んだってんだよ! 今更!」
馬鹿じゃねぇの、大馬鹿だろ、と思い切り声に出して罵ったところで、本人に聞こえるはずもない。傘とマンガを掴んだ右手を思い切り頭上に振り上げる。しかし、床に叩きつけることはできなかった。
俺は震える両手で傘とマンガを胸に当て、抱きしめた。
まるであのときの自分を慈しむかのように、そっと。
偽物の家 祐里 @yukie_miumiu
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